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坐禅の割り稽古 試論 藤田一照

割り稽古に入る前の予備的ワーク

 これまでの4回の連載は、坐禅そのものとは別個に「坐禅のできる身心」をいろいろな角度から育てることをねらった「割り稽古」の道理についてのいわば総論であった。坐禅という一つの簡素極まりない営みを、稽古のために方便として敢えて「割る」とすれば、どのような割り方があり得るのかということを主題として考察した。

 もちろん、坐禅そのものは、「打坐(たざ)」とか「兀坐(ごつざ)」という端的直截な表現がそのことを示しているように、一つのまとまった不可分の全体であって、本来割ることなどできないものであり、したがって割ってはいけないものであることは論をまたない。どんな複雑な現象でも単純な要素に還元し、そうして得られた諸要素の総和から元の現象を復元できれば、その現象が理解されたと考える、いわゆる要素還元主義的な発想に立って坐禅を割ることは厳に慎まなければならない。前にも述べたように、実際の調身は調息や調心と無関係ではありえないのであるから、坐禅=調身+調息+調心という加算的な捉え方は坐禅の実態にそぐわないのである。あえて数式で表すとすれば、坐禅=調身×調息×調心になるだろうか? あるいはもっと複雑な数式になるかもしれない。

 だから、「割る」ということに関して、もっと別様のイメージを用意しておく必要がある。くれぐれも、西洋的な解剖学のように、人体を相互に無関係なバラバラの部分に切り分けて、個々別々に解ろうとしてはいけないのである。それはあくまでも死体の解剖学であって、生きた身体を「割る」ことにはなっておらず、精妙なまとまりをもって生きている人体を、生きているという相のもとに捉えることはできない。高度に進んだ現代医学から見れば、大昔のただのお話のように見えるかもしれないが、たとえば、われわれの身体を地(固さ)・水(湿り気)・火(熱)・風(動き)という四つの性質に割って理解する「四大説」、あるいは色(物質)・受(印象・感覚)・想(知覚・表象)・行(意志などの心作用)・識(心)という、身心を五つの働きによって割る「五蘊(ごうん)説」などの割り方の方がわれわれにとっては参考になるのではないのだろうか。

 

 坐禅を割るということに関して、私が現在抱いているイメージは、解剖学のイメージではなく、プリズムによって白色光(太陽光)が「分光」される現象である。プリズムは、プリズム内の波長による屈折率の差を利用して光を分光する。つまり、波長が短くなるに従い屈折率が大きくなり、光が曲がる角度(屈折角)が大きくなる。この屈折角の差により、分光が起こる。

光の分光

 分光とは、「光を分ける」ことで、われわれが見る「虹」も分光現象の一つだ。「白い光」は実は赤や青、緑、黄色、紫など、無数の色の光が混じり合って「白」が形成されている。これは光の三原色(赤・緑・青)の中心部分が白いことからも分かる。

光の三原色

 このように太陽光の「白」は、様々な色の光が混ざっているのだ。そのため太陽光を「分光」すると、虹のような無数の色が現れる。太陽光や白色光は「さまざまな色を含んでいる光」であるが、これは「さまざまな波長を含んでいる光」であるということで、分光とは「光を波長ごとに分けること」を指しており、分光とはけっきょく「複数の波長を含んだ白色光」を「波長」ごとに分けていることなのだ。

 この分光のイメージを当てはめて言うなら、坐禅の割り稽古の「割り」は「複数の同時進行的諸行為を含んだ打坐」をそれが具体的に現れる身体・呼吸・心という三つの領域ごとに「分光」して、「調身・調息・調心」として取り出し、そのそれぞれの調を、さらに「release(手放す)/receive(受け取る)/enjoy(享受する)」という三つの異なる位相を持つ行為に分光し、最終的に九つの「波長」に分けていると言えるだろう。ここで、繰り返しになるが、再確認の意味で、前回の論考でたどりついた3×3の分割表(分光表)をあげておく。

 

 

 Release

(手放す)

 Receive

(受け取る)

 Enjoy

(享受する)

 調身 正身端坐

 大地とのつながり

接地性

体重を大地に全託する

垂直性

大地の支えによって坐る

大地との一体感を味わう

 調息 鼻息微通

 大気とのつながり

出息を余すところなく捧げる

入る息と休息を贈り物としてフルに受け取る

呼吸の快感を味わう

 調心 非思量

 感覚刺激とのつながり

感覚器官をくつろがせ、開く

やってくる感覚刺激をそのまま迎え入れる

刻々の生をその新鮮さにおいて味わう

 

 上記の表のようにとりあえず、坐禅にふさわしいやり方で坐禅を割る(分光する)ことができた(と思われる)ので、今回からはいよいよ、九つの「波長」の波のそれぞれについて、具体的な稽古に取り組むことに歩を進める予定であった。しかし、いざ原稿を書く段になってみると、その前に、料理の前の下ごしらえにあたるような予備的ワークをやっておく必要があるのではないかと思えてきたのだ。そもそも、坐禅の割り稽古が必要だと考えるようになったのは、現代を生きているわれわれの身心が、坐禅をする上ではあまりにもひ弱で鈍感になっているという認識があったからだった。われわれの身心は、坐禅をするにはさまざまなハンデを背負っていることをまず素直に認めるところから、私の「坐禅の割り稽古」論は出発している。

 

 私は、坐禅は止まるという運動をしていることだと理解している。じっと静止して坐ることもれっきとした運動だと考えているのだ。しかも、動くという運動よりもじっと止まるという運動の方がずっと高度な運動であり、じっとしているという意味では同じ運動であっても、坐ることは、立つことよりももっと難しい運動だと理解している。つまり、われわれにとって坐禅は最もチャレンジングな運動だということだ。このチャレンジングな運動に全身心を上げて真摯に取り組み、どこまでも工夫参究するからこそ、それを通して何か貴重なことが培われていくのである。だから、ちゃんと動くことができ、ちゃんと立つことができる能力があってはじめて、ちゃんと坐ることができるという順番になると考えている。

 拙著『現代坐禅講義 只管打坐への道』佼成出版社角川ソフィア文庫の中で、私と対談しているヨーガ指導者の塩澤賢一先生は「ヨーガのアーサナというのは、坐ることに直結したからだの状態とこころの状態を、坐ることだけで練習するよりもいろんなかたちをやって、それを坐ることにもってきた方が早いと見てるんでしょうね。そのためには柔軟性と支持力の二つが必要です。」と言っている。つまり、ヨーガでは、まず動きを通して身心の精妙なコントロール力を磨いてから、そのしっかりした土台の上で坐る瞑想をするという流れになっているのだ。ヨーガの伝統では、修行者はまず動きを通して身心の鍛錬を行い、その結果としてしっかり立つことができるようになるという一定のレベルに達して、はじめて坐る瞑想に取り掛かる準備ができたとされるということを別なヨーガ指導者からもうかがったことがある。

 こう考えてくると、ただでさえ坐禅をする上でさまざまなハンデを背負った現代人のわれわれが、そのことに何の配慮もせず、「とにかくひたすら頑張って、一生懸命時間をかけて練習する」だけでは、センスのある少数の人たちはともかく、私を含めた大多数の人々は虚しい空転を続けるだけになる可能性が大であろう。たとえば、調身における release の稽古として、自分の体重を大地に全託する諸々のワークに取り組むとき、そもそもそのワークをきちんと受けとめて遂行できる力量をわれわれは持っているのだろうか。そのワークがいきなりうまくできるかどうかということではなく、そもそもそのワークに取り組むためのレディネス(学習のために必要な準備状態)ができているのかどうかという、取り組み以前に関わる問題である。確かに、ここでやろうとしているのは坐禅ができるようになるための割り稽古なのだが、さらにその一歩前にある割り稽古のための「基礎学力」の有無という問題も考えておいた方がいいのではないかと思うようになった。下手をすると、その基礎学力のための「基礎・基礎学力」、、、というように無限遡及してキリのない話になってしまいそうだが、少なくとも割り稽古に入る一歩手前のところでの稽古ということは考えておく必要があるように思う。

 自分の体重を大地に全託するといっても、多くの人にとってはそんなに簡単にできるものではないだろう。そもそも、自分の体重をどれほど実感できているのか? 体のあちこちを収縮させたり緊張させたりして、重力に逆らってそこを上に引き上げていることにどれほど気づけているのだろうか? その事実に気づかなければ緊張や収縮を手放すということを実現することは難しいのではないか? 自分の中にある緊張や収縮に気づいても、それを手放すことへの恐怖や抵抗があるとき、どのように対応すればいいのか? release せよと言われても、いったい何をどうすればいいのかまったく理解できず、雲を掴むような思いに陥る人が多いのではないか?

 もちろん、割り稽古そのものの中でそういう諸々の困難と向き合い、そのつどそれを乗り越える創造的な工夫を模索することが稽古の内実となることは確かだが、個々の割り稽古に本行 main practice として取り組む以前に身につけておくべき、「本番の旅に出る前の、旅の準備」のようなことが必要で、前行 pre-practice としてそれに取り組んでおいた方が、後々の歩みが間違いの少ない確かなものになるではないかということに思い至ったのである。スポーツで言えば、ウォーミングアップ、準備体操、コンディショニングのようなことである。これはけっこう大事な心がけではないだろうか。

 

 こういうことを考えていたとき、ふと思い出したことがある。それは、アメリカ東部のボストンで南方仏教系の瞑想を指導している友人(春秋社から邦訳が刊行されている井上ウィマラ訳『呼吸による癒し』や藤田一照訳『〈目覚め〉への3つのステップ』の著者であるラリー・ローゼンバーグさん)と話していたとき、彼が言った次のようなことだ。「うちのセンター(ハーバード大学やM I Tがそばにあるアメリカでも有数の文教地区の中にある)にやってくるような教育水準がとても高い人たちのなかには、『ありのままの呼吸を感じてください』というインストラクション(指示・教示)をすると、『先生の言う“感じる”というのはどうすることなんですか? よくわからないので、どうしたらいいのか説明していただきたいのですが……』と聞いてくる人がいたり、呼吸を“感じている”つもりで実際には呼吸について“考えている”人がいて、最もベーシックな呼吸についての瞑想ですらつまずく人が多いんですよ。瞑想の伝統的なインストラクションを通りいっぺんにするだけでは彼らにうまく伝わらないことが多いので、そういう人たちにはいろいろと細かな配慮をする必要があることを痛感しています。」個々の割り稽古へと進む一歩手前のところで、予備的にやっておくことがどうもあるような気がしてきたのは、彼とのこういう過去のやりとりが脳裏のどこかで連想されたのかもしれない。

 

 そういうわけで、9つに「分光」された坐禅の割り稽古をしていくのに先立って、どの割り稽古においてもそれをやるときに前提として要求されるような最もベーシックな能力に関わるワークをいくつか紹介しておきたい。また今後、割り稽古の実践を始めた後であっても、そういうベーシックなところに立ちかえる必要を感じたときには、この種のワークに適宜触れていきたいと思っている。

 今回のワークを組み立てるにあたっては、現在、私が実験的坐禅会を開催している葉山の観音堂で毎月2回独自の「結◯響(ゆいゆら)会」を指導してもらっている森理恵子さんに多大の協力をしていただいた。「結◯響」というのは森さんが長年研鑽を積んでいるヨーガ、ピラティス、その他のボディワークなどをベースにした、坐禅を坐りやすい身体の作り方と身体の使い方の稽古法に彼女自身がつけたネーミングである。ちなみに、ヨーガとピラティスのことを、彼女は次のように表現している。「ヨーガ:アイアンガーヨガをベースに解剖学の観点から、より安全に効果的にアーサナを行います。プロップス(道具)を使うことにより、アーサナをサポートして、深く、身体に負担のかからない方法でアーサナを練習することで、身体の流れを整え、心身を強くしていきます。ピラティス:筋肉をコントロールしながら使うので、年齢に関わらず、運動が苦手な方でも無理なく安全に行えます。ピラティスでは、同じエクササイズを繰り返し行うことで、無意識のうちについてしまった体の癖をなおしていき、体を自分でコントロールできるようになると、ケガをしにくくなり、安定し、姿勢やボディラインも整います。」私の坐禅会の常連参加者でもある森さんは、坐禅に対する私のアプローチに共鳴してくれていて、彼女の「結◯響メソッド」もそれをサポートしてくれる訓練法として考案されている。

 今回の原稿を書くにあたって、私の坐禅の割り稽古の考え方と割り方の概略を彼女に説明し、それらに取り組むにあたっての「基礎学力」に当たるものは何かということを二人で話し合った。そこで出てきたのは以下の二つであった。

① 自分の身体を概念的にではなく、感覚を通して直接に正しく知る力

② 身体的な感覚を繊細にとらえられる力

 そして、この二つの力を育てるような具体的ワークのアイデアを出し合い、実際に試しながら組み立てていった。以下はその成果である。今回は紙幅の都合で①の三分の一ほどの内容を紹介し、残りは次回に回すことにする。

 

① 自分の身体を概念的にではなく、感覚を通して直接に正しく知る力を育てるワーク

 アメリカに住んでいるとき、ボニー・ベインブリッジ・コーエン(Bonnie Bainbridge Cohen, 1941~)さんが創始した Body-Mind Centering というソマティック・ワークを学んだ。

 夏期に開かれたその学校の最初の授業は、各自が用意するように指定された The Anatomy Coloring Book というテキストを使い、身体中の一つ一つの骨の名前、位置、形、大きさ、別の骨とのつながり方などを、色鉛筆を使って塗り絵をしながら覚えていくことから始まった。

ボニーさんと葉山の観音堂で

"塗り絵で学ぶ解剖学の本"

 先生は適宜、等身大の骨格模型を見せながら、個々の骨のことを講義してくれた。こうしてまず視覚的に骨の勉強をした後は、自分自身やパートナーの腕に手で触れて、皮膚の向こうにある骨膜、緻密質、骨髄の存在を確認しながら、骨膜に触れる、緻密質に触れる、骨髄に触れるという三種類の骨への触れ方を学ぶ時間になった。最初は全く区別がつかなかったが、やっているうちになんとなく、「あ、これは骨膜じゃなくて緻密質に触られているな」ということがわかるようになってきた。みんながそういう触れ方をいちおう身につけた段階で、今度は自分自身の骨やパートナーの骨にそのような三種類の触れ方で手で実際に触れながら、視覚的に学んだことを触覚的に確認していくという授業になった。初日のクラスは下半身の骨に関してこのような学びをして終わったのだった。驚いたことに、その晩、寝床について目を閉じると、自分の下半身の骨たちが暗闇の中で蛍光灯のように光っているような感じがしたのである。まるで、それらの骨が目覚めて、自分達の存在を光って主張しているかのようだった。なるほど、先生が言っていた「自分の骨を知る」というのはこういうことだったのかと腑に落ちた気がした。Body-Mind Centering ではこういう身体の学び方を embodied anatomy (体得された解剖学)と呼んでいた(あるいは somatic anatomy とも言う)。

 坐禅が自分の生きた身体でする営みである以上、ある程度、自分の身体の実際をこのような仕方で親しく知っている必要があるはずだ。それも、第三人称的で間接的知り方ではなく、第一人称的で直接的な知り方でなければ大して役には立たないだろう。たとえば、森さんによれば、自分の肺の本当の大きさを知っている人は案外少ないのだという。多くの人は自分の肺を実際よりもかなり小さいものだと思い込んでいるのだそうだ。そうだとすれば、すでに充分大きな肺をせっかく持っているにもかかわらず、あたかもその半分くらいのサイズの肺しかイメージできていない人は、そのままだと深く大きな肺いっぱいの呼吸をしてくださいというインストラクションを聞いても、その小さくイメージされた肺のサイズでその努力をすることになるだろう。これでは、インストラクションの趣旨がうまくその人に届かない結果になる。肺を実際より小さくイメージしていると、無意識のうちに呼吸が浅くなるだろう。実際には肺は首の近くの鎖骨のあたりから肋骨の下の方まであり、多くの人が想像しているよりだいぶ大きな臓器なのだ。この事実を知るだけでも、余計な緊張が減少し、自然と呼吸が深くなってくると言われている。

 そこでまず、この肺の実際の大きさを知るということをワークとして取り組んでみることにしよう。

 

⦅肺の実際の大きさを知るワーク⦆

1.

今している普通の呼吸の様子を確認する。

普通の呼吸を数回行い、呼吸の量や息のしやすさなど呼吸のさまざまなクオリティを感じてみる。

2.

解剖学の本などで肺の図を見て肺の位置や形、大きさなどを再確認する。

特に、肺尖部(肺の上部にあって円錐状の頂をつくり、鎖骨を越えて突出している)は鎖骨の上方2〜3cmまで達していて、肺が鎖骨より上の首の方まで伸びていること、

肺の下方は肋骨の下端あたりまであること、

肺は肋骨の側面、背面にも大きく広がっていて、肋骨の内側全体が肺であることを確認する。

肺が3次元的な立体であることを再認識する。

  前から

  後ろから

  横から

3.

写真のように、自分の両手で左右の肺の腹側の上部(鎖骨のあたり)と下部(肋骨の下端あたり)、肺の前側と後側、背中側の肺の上部と下部に触れて、

肺の上下の長さ、前後の厚みの実際を自分の体で確認する。

自分の肺が3次元的な広がりを持っていることを実感する。

パートナーがいるなら、そこに触れてもらってこのワークをするとよいだろう。

  肺の長さ

  肺の幅

4.

肺の上部、下部、側面、背部のさまざまなところに手を当てて、呼吸に伴う肺の微細な膨張-収縮運動を感じる。

それぞれの場所で異なる運動が生じていることを感じ取る。

感じにくい場合は、そこに当てている手に向かって息を吸い込むようにしてみると肺の動きがクリアに感じられるようになるかもしれない。

もしパートナーがいるなら、そこに触れてもらって、このワークをするとよいだろう。

  肺の上部

  肺の下部

  肺の側面

5. 

手を離し、最初と同じように普通の呼吸を数回行い様子を観察する。

ワーク前と後で、呼吸の量や息のしやすさなどクオリティに変化があっただろうか?

 

 肺の実際の大きさを知るだけで呼吸の状態に変化が起きたことを実感することができただろうか? このことからも、骨盤、坐骨、股関節、肩甲骨など、坐禅において特に重要な働きをする身体の部位に関しても、肺に関するものと同じような無知や誤解を持っているとするなら、正しい事実を知り、誤った思い込みを修正しておく必要があることがわかるだろう。自分の身体について無知や誤解を持ち続けていたのでは、深いレベルで割り稽古をすることは難しいからだ。

 骨盤は上半身と下半身をつなぐ重要な部位で、坐禅においては上半身の重みを床に伝え、床からの支えの力を上半身に伝えるという要(かなめ)の働きをする場所だ。直立二足歩行を獲得した人類はそれを可能にする特に発達した骨盤を持っているが、森さんによれば、「骨盤を後傾(あるいは前傾)してください」と言っても、どうしたらそこを動かせるのか途方に暮れてしまい、骨盤をうまく使えない人がかなりいるそうだ。坐禅の時、骨盤の傾き具合はその上に立っている脊椎の形状を規定する重要な条件になるから、ここを動かせないと非常に困ったことになる。

 坐禅では、坐骨の丸みをうまく使って骨盤を前や後にゆっくり転がし、上の図の後過ぎ(ポイント1)でもなく、前過ぎ(ポイント3)でもない、ちょうどいい坐骨のポイント2に向かって鉛直線に沿ってまっすぐ体重が落ちるような骨盤の傾きをていねいに探す。

 

骨盤のポイント

 

 後方のポイント1の位置に体重が落ちるときは骨盤が後ろに傾きすぎて、自然に腰や背中が丸まり、肋骨が下がり、下腹が圧迫されあごが胸の方に近づいてくる(「へたれ腰」)。逆に前方のポイント3の位置に体重が落ちるときは骨盤が前に傾きすぎて、自然に腰や背中が反り、肋骨が引き上げられ、下腹が前に突き出てあごがあがる(「反り腰」)。

 このような、骨盤の傾きに連動して出てくる自然な上半身の形の変化を束縛しないように、からだを深いところからほぐれた状態にしておくことが大切になる。背中や腰が丸まってしまうポイント1とその逆に反ってしまうポイント3のあいだのどこかにある、腰や背中が無理なく上下にまっすぐ伸びるポイント2を、身体の内部感覚を繊細にかつトータルに感じることで発見するのである。ポイント2では堅牢で丈夫な骨格によってからだの重さがバランスよく支えられ安定するから、不安定な姿勢を保つための筋肉の余計な緊張が必要なくなり、無理をしていない「ニュートラル」な感じがして、重さがなくなったような気さえしてくることがある。頑張って「背中を伸ばす」とか「腰を入れる」とかの余計なことをする必要はない。このポイント2の位置に体重がまっすぐ落ちるように坐ると、体軸に沿って床から上に向かってからだを支えてくれる力(体重の反作用力)の流れが感じられる。このような骨盤の細やかな調整が可能になるためには、骨盤を自分で微細に前傾あるいは後傾させることができる必要がある。しかし、森さんが骨盤の前傾・後傾を実際にやって見本を示しても、自分の骨盤でそれを実際に動かすことができない人がかなりいるのだという。それは自分の骨盤を動かすための感覚のルートが開通していないことが主な原因なのだから、稽古して開通させる必要がある。

 そのことを念頭に置いて、自分の骨盤に触れてその形状やサイズを知るワークと骨盤をゆっくり前傾・後傾させるワークに取り組んでみよう。

 

⦅自分の骨盤に触れてその形状やサイズを知るワーク⦆

1.

解剖学の本などで骨盤の形状やサイズを視覚的に理解する。

前、後ろ、側面の三方向から見た骨盤の形状を視覚的に知る。

  前から

  後ろから

   横から

 2.

外側から触れることのできる自分の骨盤の代表的部位を手で触って、形や位置を知る。

 

  骨盤の細部の名称

 

● 腸骨稜(ちょうこつりょう): 腸骨という骨の上縁部。ウエストの横に手をあてたときさわれる山型の部分。骨盤のいちばん上はここから始まっている。

● 上前腸骨棘(じょうぜんちょうこつきょく): 腸骨稜をたどってお腹側に下ろしたとき、もっとも前に張り出している部分。股関節を曲げると、動いているのを感じられる。

● 上後腸骨棘(じょうごちょうこつきょく): 仙骨の上部横にあり、手でさわるとグリグリ出っ張りを感じる場所。骨盤の後ろに手をおいていちばん出ているポイントを探す。

● 坐骨(ざこつ): 骨盤のいちばん下にある骨で、お尻の下に手をあてると触れることができる。骨盤を立てて座るときはここを真っすぐ立てる。

● 仙骨(せんこつ): 腰の中央、背骨の一番下に在る三角形の形をした骨。

● 恥骨(ちこつ): 骨盤の前下部に位置する左右1対の骨で、正中部で恥骨結合により連絡している。

● 尾骨(びこつ): 仙骨の下端の部分。お尻の割れ目を上部から少しずつ下がって触れていき、硬い骨の感触が触れる最後のとがったようになっている部分が尾骨の先端に当たる。

3.

上記の諸部位を確認したら、それらをつなぐように触れていき、

骨盤全体の形状とサイズを触覚を手がかりにして3次元的に体認する。

 

⦅仰向けで骨盤を前傾・後傾させるワーク⦆

1.

床に仰向けになり、余計な力を抜いてリラックスする。

骨盤全体を感じる。

2.

骨盤が床にふれている箇所の感覚に注意を向ける。

腰椎部のアーチの具合を感じてみる。

3.

息をゆっくり吸いながら、骨盤そのものをじょじょに前傾させていく。

腰椎部のアーチが大きくなり床との間に空間ができていく。

  骨盤の前傾

4.

吸い終わったら、しばらくその位置に止まって、骨盤と腰椎部周辺の感覚を味わう。

吐く息が始まったら、今度はゆっくりと息を吐きながら骨盤そのものをじょじょに後傾させてもとの位置へもどし、さらに続けて後傾させていく。

腰椎部のアーチが小さくなり床との空間がなくなっていく。 

  骨盤の後傾

5.

吐き終わったら、しばらくその位置に止まって、骨盤と腰椎部周辺の感覚を味わう。

吸う息が始まったら、ゆっくりと息を吸いながら元のニュートラルな骨盤の位置へ戻り、そこへ落ち着き、息を吐いて終了する。

前傾でもなく後傾でもない骨盤のあり方を感覚を通して味わう。

  ニュートラルな位置

6.

1〜5の手順を、なるべくゆっくり、なるべく少ない力で骨盤を動かせるように工夫しながら数回繰り返す。

刻々に変化する身体全体の感覚をきめ細かく味わうように心がける。

このワークの前を後で骨盤の感覚に変化があっただろうか?

 

 繊細な身体感覚が重要な意味を持つこうしたワークを、対面ではなく、こういう誌面で文字によって解説するということには大きな困難が伴うことを痛感している。なるべく写真やイラストを使ってそれを補おうと思っているが、どれほどお伝えできるか心もとない気がしている。読者諸賢に於かれては、想像力を最大限発揮して、筆者の意を汲んで、実際にワークに取り組んでいただけたら幸いである。

 

 

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著者略歴

  1. 藤田一照

    禅僧。1954年愛媛県生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程を中退し、曹洞宗僧侶となる。1987年、米国マサチューセッツ州西部にある禅堂に住持として渡米、近隣の大学や仏教瞑想センターでも禅の講義や坐禅指導を行う。2005年に帰国。曹洞宗国際センター前所長。Facebook上に松籟学舎一照塾を開設中。

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