拡散と求心――ディスコとヘヴィー・メタル
――俺がバイクで走っていくのを見かけたら、止めようなんて考えちゃいけねえ。だって俺はバイク野郎だから。
(サクソン「モーターサイクル・マン」1980)
踊らにゃ損損……なのか?
さて、前回の最後に「この時期、SF風、特に『スター・ウォーズ』風の楽観的な宇宙観のイメージを引き受けていたのは、ヘヴィー・メタルのようなロックではなく、ディスコ・ミュージックだった」と書いた。そこで、今回はまず少し寄り道をして、本連載の主役であるヘヴィー・メタルと同時代の音楽の代表としてディスコを取り上げて、ヘヴィー・メタルと対置させてみたい。
1970年代末の欧米の大衆音楽シーン。ヘヴィー・メタルはもちろん、パンク、フュージョン等、様々な商業音楽が乱立していたが、その中でもディスコは群を抜いて人気があった。
ディスコが単なる音楽ジャンルの一つに留まらない影響力をもっていたことは、たとえば萩原健一/BOROの「大阪で生まれた女」(1979)のような曲を聴けば明らかである。冒頭「踊り疲れたディスコの帰り」と歌われるが、曲そのものは全くディスコ・ミュージックではない。
これがもし歌詞に「ヘヴィー・メタル」と歌い込まれる音楽だったとしたら、それはほぼ100%ヘヴィー・メタルだと言い切れるはずだ。「ブルース」や「ロックンロール」でも事情は同じだろう。三拍子ではないウルフルズ「ワルツ」(1999)や、狭義の「ロック」風ではないあいみょん「君はロックを聴かない」(2017)のような例外も探せばあるが……
これまでに何度も登場しているアイアン・メイデンにもディスコが出てくる曲がある。「ランニング・フリー」(1980)は、ディスコで女性をひっかける、(おそらく)アメリカのやさぐれ者の歌だが、当然音楽スタイルはヘヴィー・メタルであって、ディスコではない。
ディスコは他ジャンルが描写の対象とするほどの「現象」だった。
「現象」という意味では、ディスコをメインストリームの文化にしたジョン・バダム監督の映画『サタデー・ナイト・フィーバー』(1977)からしてそうである。この映画は主人公トニーがブルックリンでのディスコ三昧の日々を「卒業」して、マンハッタンで新たな人生を目指すというのが大まかな筋である。だが観客はそんなストーリーよりも、魅力的なディスコシーンが画面に投影される「現象」に熱狂した。
ディスコから足を洗う映画を見て、ディスコに走ったのだ。
ちなみに、シルヴェスター・スタローン監督による続編『ステイン・アライブ』(1983)でトニーは前作の決意通りマンハッタンでダンス教師などをしつつブロードウェイを目指している。ディスコのシーンも登場するが、トニーはそこでウェイターのアルバイトをしているだけで、フロアで踊りはしない(むしろ踊っている客にいらついているように描かれる)。オープニングのフランク・スタローン「ファー・フロム・オーヴァー」をはじめとして、用いられている音楽やトニーのファッションもロック風が基調で、後にボン・ジョヴィのギタリストとして有名になるリッチー・サンボラも一瞬出演しているが、残念ながら前作がディスコを描写した際の「現象」を生み出すには至らず、かといって同時代の『フラッシュダンス』(1983)や『フットルース』(1984)のようなダンス映画ブームにもうまく乗ることができず――どころか「最低映画」に贈られるラジー賞に複数ノミネートされた。
さて、そのようなディスコに対する反応はポジティヴなものだけではない。
恋人はディスコが好きだが、自分は昔ながらの民俗的な音楽が好きで……というタイプの楽曲は各国に見れらる。たとえばユーゴスラヴィアのレパ・ブレナ「ミレはディスコが好き(Mile voli disko)」(1982)では、ディスコ好きの彼氏とセルビアのコロという民俗舞踊が好きな私が対比される[1]。また、インドネシアのビル&ブロド「キャッサバとチーズ(Singkong dan keju)」(1986)では、ディスコ好きの彼女とジャイポンガンという民俗音楽をベースとした大衆音楽に馴染みのある自分、という曲である。これらはディスコを批判しているというわけではないが、旧来の文化と対置されるディスコの新しさと、それに対する馴染めなさを表していると言えるだろう。
ロック対ディスコ
ディスコに対する反応で、もっともネガティヴな感情が噴出したのが、1979年にアメリカで起こった悪名高い「ディスコ・デモリション・ナイト」である。
ディスコの台頭に伴ってラジオ局を解雇されたシカゴのロックDJ、スティーヴ・ダールは、「ディスコは最低(Disco Sucks)」をキャッチフレーズに、反ディスコキャンペーンを張り、テレビなどでディスコ・ミュージックのレコードを割るパフォーマンスをしていた。これに目をつけた球団シカゴ・ホワイトソックスのオーナーが試合の余興として、球場にディスコ・ミュージックのレコードを集めて燃やすイベントを企画する。ディスコ・ミュージックのレコードをもってきた観客は98セントで入場できた。これが「ディスコ・デモリション・ナイト」、1979年7月12日のことである。
このイベントが始まるや観客は熱狂し、後に球場に乱入、暴徒化する。ホワイトソックスの試合は延期ということになった。この日を境に人々はディスコから距離を置くようになったとされる。
この出来事については様々な文献で語られ、近年でも2023年にドキュメンタリー映画『The War on Disco』が作られている。このドキュメンタリー映画では、ディスコが元々ラテン系、アフリカ系、あるいは同性愛者といったマイノリティー文化として生まれたことから、保守的なロックファンから蔑視されたのだと指摘している。その後もディスコが一定の人気を保っていたヨーロッパその他の地域とは異なり、アメリカでこのディスコ嫌悪が極端に高かったのもここに起因する。
この差別意識の根深さの一方で、ダールが折につけて批判したのがロッド・ステュアートやビー・ジーズといった白人の異性愛者のレコードだったこと、また『サタデー・ナイト・フィーバー』でも描かれているディスコ文化内での人種差別・同性愛差別(原作では主人公の言葉としてはっきり「イタリア系はイタリア系。ラテン系はグリースボール〔ヒスパニック系を揶揄する卑語〕で、ユダヤ系はとにかく他とは違うし、黒人は生まれながらの負け犬だ。混ざり合うことはない」[2]と書かれている)を考えると、ディスコへの反感の要因はより複雑である[3]。
では、ダールや彼の賛同者が支持した「ロック」とは何だったのか。
このことについてダールがはっきり、このバンド/ミュージシャンこそがロックだと具体的に宣言しているわけではないが、ヘヴィー・メタルは当然というべきか「ロック」側である。
ダールは、標的にしていたロッド・ステュアートのディスコ・ソング「アイム・セクシー」(1978)のパロディ・ソング「Do You Think I’m Disco」(1979)を発売。アメリカのチャートで58位にまでなった曲で、この中では『サタデー・ナイト・フィーバー』に憧れる主人公がディスコに入れ込むものの思ったように女性にもてず(「僕は現実的な価値観をもってない」「僕は上っ面だけ」という、ダールがディスコを批判した言葉が主人公の人格の評価として登場する)、ディスコ風のアクセサリーを溶かしてレッド・ツェッペリンのバックルにする。
また、この曲をプロデュースしたデイヴィッド・ウェッブはジューダス・プリーストをアメリカでレコード・デビューさせた人物である。やはりヘヴィー・メタルは彼らの擁護するロックの一部を占めている。興味深いのは、当のジューダス・プリーストのヴォーカリスト、ロブ・ハルフォード(1998年に同性愛者であることをカミングアウト)は、当時の反ディスコのもつ反同性愛的な雰囲気に不快感を覚えていたと後に語っていることで[4]、後に述べるミート・ローフの反応と同様、ミュージシャン本人とロック・ファンとの乖離がうかがわれる。
この反ディスコに関しては、より素朴な理由もあった。70年代から活躍するベーシスト、ビリー・シーンは「スラップ」と呼ばれる弦を叩いてパーカッシヴな音を出すベースのテクニックについてこう語っている。「スラップの音を聴くとディスコを思い出すんだ。私は、どのクラブもステージを取っ払ってダンスフロアにして、ミラーボールを付けてDJを置いて、ライヴがなくなり、ロックバンドがみんな戸惑っていた時代に育ったんだ。だから私たちはディスコが嫌いだった」[5]という。
しかし、音楽的にはディスコとロックは必ずしも対立するものではない。そもそも当時はダールが執拗に攻撃したロッド・ステュアートはもちろんのこと、何人ものロック・ミュージシャンがディスコを取り入れようと試みていた。有名なものではザ・ローリング・ストーンズ「ミス・ユー」(1978)はディスコ・ビートを用いた大ヒット曲であるし、本連載の主役たるヘヴィー・メタルに近いところでは、キッス「アイ・ワズ・メイド・フォー・ラヴィン・ユー」(1979)やナザレス「エクスペクト・ノー・マーシー」(1977)がディスコの要素を積極的に取り入れた例である。
また、「ディスコ・デモリション・ナイト」の約1ヶ月後の1979年8月13日にダールは、ハード・ロック歌手のミート・ローフとテレビ『トゥモロー・ショウ』に出演していて、そこでミート・ローフに「サタデー・ナイト・フィーバー」やヴィレッジ・ピープル「Y.M.C.A」のレコードを渡して割るように勧めるが、ミート・ローフ自身はディスコへの反感には理解を示しつつも「俺は『ステイン・アライヴ』が好きなんだ」「ヴィレッジ・ピープルは俺の友達なんだよ」などと言って断っている。ダールとは違ってミュージシャンであるミート・ローフの態度は「ディスコ対ロック」という構図が、一面的には捉えられないことをよく示している。
SF的表現の目指すもの
このようにディスコに対する態度は多層的なものだ。だが、多層的であるということは曖昧だという訳ではない。耽溺するほどに好意的なものであれ、攻撃的なまでに批判的なものであれ、極端な反応を生み出す明確なベクトルをもっている。そしてそのベクトルの向きは同時期のヘヴィー・メタルとは対照的である。
その対照が分かりやすい形であらわれたのが、ディスコにおけるSF趣味である。
前回、1970年代におけるSFとファンタジーの微妙な関係について述べ、ヘヴィー・メタルがファンタジーを重視した一方で、1977年の映画『スター・ウォーズ』の大ヒットによるSFブームにはそれほど影響されなかったと書いた。もちろん、SF的なイメージがヘヴィー・メタルになかったわけではなく、特に1980年代以降はサイバーパンクやディストピア的な世界観は定番になっていく。だが、種々の異星人が入り乱れるスペース・オペラ的な楽観的なイメージは希薄である。
対して、ディスコは流行の初期から強くSFとつながっていた。まず『サタデー・ナイト・フィーバー』や前述の原作に登場するディスコの名前からして「2001 Odyssey(2001年宇宙の旅)」である。また、同作のDVDに収録されているインタヴューでは出演者の一人ドナ・ペスコウがトラヴォルタのダンスについて「重力を無視してる!」と表現している。実際、同作でのディスコシーンは上下左右様々なカメラアングルからダンスを捉え、あたかもそこが無重力空間であるような効果を生み出している。
そもそもディスコのルーツの一つであるブラック・ミュージックが、1990年代以降「アフロ・フューチャリズム」と呼ばれることになるSF志向をもっていたことは知られている[6]。このアフロ・フューチャリズムは文学や美術など多分野に見られる動きで、音楽では、1940年代から既に「土星に上陸した」と主張し、1950年代になってその世界観を推し進めていったサン・ラを祖とする。その後、60年代末から活動するファンク・バンドのパーラメント/ファンカデリック、そしてディスコで人気を博すことになるアース・ウィンド&ファイヤーという流れで、このSF志向は「世俗化」し、定着していく。
アフロ・フューチャリズムは、コンセプトとしては異星人/地球人、現代人/未来人といったSFの設定を、現代社会において黒人のおかれた苦境の比喩として用いるものではある。しかし実際には、黒人だけで完結する文化ではなかった。
ファンカデリックは「黒人のためのピンク・フロイド」というコンセプトで始まったバンドであるし、アース・ウィンド&ファイヤーのアルバムジャケットを通じてSF的なヴィジュアルを引き受けていたのは日本人イラストレーターの長岡秀星である。
この混合性は、ディスコに至ってさらに強まる。「アイム・セクシー」はブラジルのジョルジ・ベン「タージ・マハル」(1972)の盗作(後に和解)、ドイツのボニー・Mの「ラスプーチン」(1978)は日本では「ウスクダラ」として知られるトルコ/バルカンの民謡を改作したものである。同じくドイツのジンギスカンは世界各地をテーマにしたキッチュな楽曲を次々にヒットさせる。ディスコは疑似ワールド・ミュージックとして無節操に拡大していくジャンルであった。この拡大する「ワールド」の行きつく先は宇宙である。
ディスコのSF志向をよく示す記事がある。イギリスの『ステージ』紙に載った、1979年のディスコ用機材の博覧会「ディスコテック’79」についての記事である。
記事は「レーザー、スポットライト、ストロボ、ミラーボール、マイク、ターンテーブル、Tシャツ、アンプ、ステッカー、ジングル用カセット、エコー・ユニット、サイレン、特殊効果用プロジェクター」と、展示されている商品を列挙して始まる。
「最近は、技術の発達によって、相当洗練された音と光が連動する装置でも、ディスコ・ファンを満足させることはできなくなっている。『スター・ウォーズ』や『未知との遭遇』、新しいものでは『エイリアン』のようなSF映画のおかげで、エンターテインメントに対する意識の高いディスコ・ファンは、全く新しいものを期待するようになった」[7]とあり、しかしたとえば最新のレーザーの動きのパターンを自由に設定できる「レーザー・ライター」という機材は5000~6000ポンドほどで、この博覧会を企画している「イギリスディスコ機材製造協会(British Association of Discotheque Equipment Manufacturers)の責任者は「正直に言うと、仕事を完全に離れると、この大騒ぎは何なのかと思いますね。私自身はBBCラジオ3〔クラシック音楽中心のチャンネル〕と生のお芝居のファンなんですよ」と述べて、軽いオチがついている。
ディスコがいかにSF、特にSF映画を意識していたかが分かる記事である。このようにディスコは同時代の流行を積極的に取り入れた総合産業として成立する。
音楽ライター・編集者の野田努はディスコについて「ディスコ・ブームの本質はこのまったく生産性のない快楽主義にある。それは思想ではない。ただひたすら快楽を貪るという行為そのものだ」[8]と述べている。際限のない宇宙を目指し、様々な異星人の入り乱れるSFは、そのディスコの拡散し続ける貪欲さと共振したのだった。
バイカー文化とヘヴィー・メタル
拡散を目指す同時代のディスコに対して、ヘヴィー・メタルは求心的な性質をもつ。
ヘヴィー・メタルの求心性は、このジャンルに付けられる形容詞を見れば明らかである。1982年にデビューしたアメリカのバンド、マノウォーは「Death to False Metal(偽メタルに死を)」というキャッチフレーズを掲げていた(る)し、2003年から行われているドイツのメタル・フェス「Keep It True」や、2009年から大阪で開催されている「True Thrash Fest」など、TrueかFalseかが非常に重要視される。保守的だと言っても良い。外見だけヘヴィー・メタル風にするようなにわかファンは、ポーズだけとる奴(Poser)と揶揄される。これはたとえばディスコにTrue DiscoとかFalse Discoといったものがあり得るかを想像すれば、いかに両者の価値観が異なっているかが理解できるだろう。
この保守性は別の観点からも見ることができる。ファンタジーに加えて、ヘヴィー・メタルというジャンルがしばしば参照するバイカー文化である。
第二次世界大戦で使用された大量のバイクによって戦後生まれたバイカー文化は、男性中心的な集団形成や、レザー、ワッペンを多用するファッション、グループに対する忠誠心など、多くの点で軍隊文化を引き継いでいる。そもそもバイクの操縦技術からして、軍隊経験に由来するものだ。
『ハマータウンの野郎ども』(1977/邦訳1985)で有名な社会学者ポール・ウィリスは、同書出版以前にイギリスのバイカー・グループのフィールドワークを行っている[9]。
ウィリスは、中産階級が主な担い手であったヒッピーと、労働者階級が中心となるバイカーを対比させ、バイカーの価値体系を明らかにしようとする。ヒッピーがしばしばドラッグや瞑想を用いて未知の意識の拡張を目論んだのに対し、バイカーは自分たちの意識や価値観が強固に不変であることに高い価値を置く。保守的な「男らしさ」の重視もその一環である。さらには一見無軌道に見えるバイクの運転も、単にむちゃくちゃなのではなく、むしろバイクという大きなエネルギーをもつものを自分自身の力によって「制御している」ところに価値が置かれることをウィリスは指摘している。
音楽については、バイカーらはエルヴィス・プレスリーやバディ・ホリーといった1950年代後半の初期ロックンロールを愛好する。ウィリスはこのことについて、初期のロックのもつ(あるいは後にそう見なされるようになった)「真正性(authenticity)」「安定性(security)」「男らしさ(masculinity)」といった価値観をバイカー文化と共有しているのだという。
同じ大音量の音楽でも、無軌道なパンクとは異なり、楽器や歌唱を高度なテクニックで制御し、その音楽や態度が「本物」かどうかにこだわるヘヴィー・メタルが、このバイカー文化と共鳴するところは多い。
もちろん「真正性」を厳密に重視するという意味では、今なお初期ロックンロールにこだわるバイカーも少なくない。より新しいロックでは、レーナード・スキナードやオールマン・ブラザーズ・バンドといったサザン・ロックもバイカー文化と強く結びついている。だから、バイカー文化と音楽との関係は決してヘヴィー・メタルだけに特化したものではない。しかし70年代末一部のヘヴィー・メタル・バンドがこの文化を取り込むことに成功し、その後のこのジャンルのイメージ形成に大きな役割を果たしたことは事実である。それはたとえばヘヴィー・メタル・ファンがレザージャケットやベスト、そこに縫い付けられるワッペンなど、バイカーに着想を得たファッションをある種の制服としていることからもうかがわれる。
モーターヘッドはデビュー時からバイカーのイメージを前面に打ち出していたし、NWOBHMの代表的なバンド、サクソンは当初からジャケットや歌詞などでバイカー文化を扱っている。たとえば、1980年にスコットランドのアバディーンのラジオ主催でベスト・バイカーを決めるという企画があった際の景品は、ベスト・バイカーを決める基準を提案した人にサクソンのサード・アルバム、推薦者にはミュージック・センターのバイカーズ・バッジ、そしてベスト・バイカーにはサクソンのサイン入りヘルメット、というものであった[10]。この二者ほど有名ではないが、ダンピーズ・ラスティー・ナッツというバンドもヘヴィー・メタル文化とバイカー文化とをまたぐ重要なバンドである。
このように両文化は隣接している一方で、その距離の取り方はそれぞれである。
1980年、若者文化を解説する記事の中に、ロンドン郊外にあるトルワースという街のヘヴィー・メタル・ファンでバイカーの若者たちが紹介されている。記事は「彼らは革を身に着けた、名高いヘルズ・エンジェルズ〔有名なバイカー・グループ〕の遠い親戚で、ロッカーの弟分で、平和を愛している。皆バイカーだが、共通点はそれだけだ」[11]と始まる。続いて、実はコンピューター・サイエンスを学ぶ学生であったり、見習い電気工であったりと、社会の中に溶け込みつつ、バイクに乗る若者が紹介される。そして彼らはヘヴィー・メタルを愛好していて、そのジャケットにはディープ・パープルやモーターヘッドの名が刻まれている。
そのうちの一人が言う。「僕らがフル装備にしたら〔ヘルズ・エンジェルズのようなバイカー・グループとの〕違いが分からない人もいるだろうと思う。でも、僕らはチェーンは着けないし、いつもグリースまみれになってるわけじゃない。それに喧嘩に繰り出すなんてこともしないよ」[12]。これはよりカジュアルなバイカー文化受容だろう。ヘヴィー・メタルが、一方ではハードコアなバイカーのようなマッチョな文化と関連付けられつつ、もう一方では前回扱ったようなファンタジー文学やロール・プレイング・ゲームなどの、日本風に言えば文科系の文化にも根差しているという両極端なイメージの間をつなぐような例と言えるかもしれない。
ポピュラー音楽の二つのベクトル
このようにヘヴィー・メタルは、同時代に誕生・流行したディスコのような足し算の連続で拡散していく動きとは違って、求心的で保守的である。そしてディスコの性格はSF的な想像力として、ヘヴィー・メタルのそれはファンタジーやバイカー文化を参照するかたちで、対照的にあらわれている。
このヘヴィー・メタルの保守性は、ウィリスがバイカー文化を論じる際にも扱ったことでもあるが、人種差別のような排他的な性質を帯びることも少なくない[13]。実際、今日どれだけヘヴィー・メタルが世界各地で演奏されるようになっているとはいえ、世界の他の様々な分野と同程度に白人男性中心のシーンであることは否定できない。
ヘヴィー・メタルが好んだファンタジーは歴史や神話を題材にして、より「ヨーロッパらしい」世界観を追求する側面の強いジャンルである。音楽面でも、ヘヴィー・メタルに見られる即興演奏の廃止やクラシックからの影響、コード観の喪失といった特徴は、それまでロックがブルースやジャズといった黒人音楽から受け継いできた要素を(少なくとも表面的には)減退させることになった。
これをつき進めて、より積極的に差別的な態度を表に出すようなバンドも存在する。この問題はまた別の回で扱いたい。
映画『イージー・ライダー』(1969)で使用されて有名になったステッペン・ウルフ「ボーン・トゥ・ビー・ワイルド」(1968)は「ヘヴィー・メタル」という言葉が歌詞に登場する最初期の例である。この曲の中では「宇宙へ向かって爆発だ!」と歌われるが、それから10年を経たヘヴィー・メタルの世界では、バイクの行き先は宇宙ではなかったのである。
(第五回:終)
***
[1] 上畑史『セルビアのポピュラー音楽「ターボフォーク」における民族的アイデンティティの表出とその文化的実践』(大阪大学大学院博士論文、2020)
[2] Nick Cohn, April 2008, ‘Tribal Rites of the New Saturday Night’, New York Magazine(初出:1976年6月7日)。なお、この記事はルポルタージュとして発表されたが、後年創作であることが明らかになっている。
[3] ディスコ批判を行ったのは白人のロックファンだけではなかった。マイノリティーの内側からディスコを超克しようという動きについては野田努『ブラック・マシン・ミュージック――ディスコ、ハウス、デトロイト・テクノ』(河出書房新社、2001)。
[4] Martin Kielty ‘Rob Halford Recalls ‘Xenophobic’ Disco Demolition Night Stunt’ Ultimate Classic Rock, June 15, 2020.
[6] 中村隆之『ブラック・カルチャー――大西洋を旅する声と音』(岩波書店、2025)。
[7] The Stage , 20 September 1979.
[8] 前掲書、p. 21。
[9] Paul Willis, Profane Culture, Routledge & Kegan Paul, 1978. なお、この内容についての議論は小西二郎「Paul Willisの文化研究における社会集団論」『北海道大學教育學部紀要』65: pp. 219-232。
[10] Evening Press, 19 November 1980.
[11] Daily Mirror, 10 April, 1980.
[12] 同上。
[13] ウィリスによれば、バイカー文化では善悪より真偽が重視されるため、正直な差別の方が実感のない寛容よりも優先されると分析している。
鋼鉄の音楽室(今回登場したミュージシャン/バンドとその音楽 ※登場順)
① アイアン・メイデン Iron Maiden:第三回を参照。
♪Iron Maiden「Running Free」
② フランク・スタローン Frank Stallone:1950年生まれのアメリカのミュージシャン/俳優。1977年にバンドValentineでデビュー。シルヴェスター・スタローンの弟である。
♪Frank Stallone「Far from Over」
③ レパ・ブレナ Lepa Brena:1960年生まれの旧ユーゴスラヴィアの歌手。1980年頃から活動を始め国民的人気を誇った。詳しくは奥彩子2023「麗し(レーパ)ブレナのはるかな旅:ユーゴスラヴィアの歌姫」(伊東信宏編著『東欧演歌の地政学:ポップフォークが〈国民〉を創る』アルテスパブリッシング所収)を参照
♪Lepa Brena「Mile voli disko」
③ ビル&ブロド Bill & Brod:インドネシアのポップ/ロックバンド。1985年にアルバム・デビューし、インドネシアとマレーシアで人気を得る。本稿で扱った「キャッサバとチーズ」は曲そのものは欧米風のポップスだが、イントロに歌詞の内容に合わせてジャイポンガン風のフレーズが使われている。
♪Bill & Brod「Sinkong dan keju」
④ ロッド・ステュアート Rod Stewart:1945年生まれのイギリスのシンガー。ショットガン・エクスプレス、ジェフ・ベック・グループ等で頭角をあらわし、1970年にフェイセズで高い評価を得て、ソロとしてもキャリアを築く。
♪Rod Stewart「Da Ta Think I’m Sexy?」
⑤ ビー・ジーズ Bee Gees:マン島出身のギブ三兄弟によるバンド。1963年にレコード・デビュー。当初は「メロディ・フェア」(1969)に代表されるようなソフトなヴォーカルグループだったが、低迷期等を経て1970年代中頃よりディスコ・ミュージックを演奏するようになり人気が再燃する(音楽性の変化に批判もあったが)。
♪Bee Gees「Stayin’ Alive」
⑥ レッド・ツェッペリン Led Zeppelin:第一回を参照。
⑦ ジューダス・プリースト Judas Priest:第二回を参照。
⑧ ザ・ローリング・ストーンズ The Rolling Stones:1962年結成のイギリスのバンド。キャリアの長さの割にはジャンル的な幅の広がりはそれほど広くはない(それはメンバーのソロ・プロジェクトで発揮される)が、「ミス・ユー」ではディスコ・ミュージックを取り入れ、ディスコ用のリミックス盤も作られた。
♪The Rolling Stones「Miss You」
⑨ キッス Kiss:1973年結成のアメリカのバンド。奇抜なメイクや衣装、派手なステージ演出で知られる。ポップなハード・ロックで、多くのファンにとってこのジャンルの入り口となる。メンバーのポール・スタンレーはソウル・ミュージック・ファンとして知られ、近年ではソウルを歌うプロジェクトも行っており、ディスコへの接近はその一環ともとれる。
♪Kiss「I was Made for Lovin’ You」
⑩ ナザレス Nazareth:1971年アルバム・デビューのスコットランドのハード・ロック・バンド。疾走感のある演奏とダン・マッカファーティーの個性的なハイ・トーン・ヴォーカルで知られる。特にマッカファーティーはガンズ・アンド・ローゼズのアクセル・ローズに影響を与えたと言われ、下の世代のファンからも遡って注目されることになった。
♪Nazareth「Expect No Mercy」
⑪ ミート・ローフ Meat Loaf:1947年生まれのアメリカの歌手。1977年発表の『地獄のロック・ライダー』は累計4000万枚以上を売り上げ、世界で最も売れたアルバムの一つに数えられる。他にも舞台・映画で俳優としても活動。
♪Meat Loaf「Bat Out of Hell」
⑫ サン・ラ Sun Ra:1917年生まれのアメリカのジャズ・ミュージシャン。1940年代からシカゴのジャズ・シーンで活動していたが、次第に宇宙とのつながりを主張し始め、1950年代半ばより「アーケストラ」を率いてそのコンセプトをより強く打ち出すようになる。本人は1993年に死去したがアーケストラは現在も活動中。
♪Sun Ra & His Arkestra「Plutonian Nights」
⑬ パーラメント/ファンカデリック Parliament/Funkadelic:いずれもジョージ・クリントンによるバンドで、P-ファンクと総称される。1967年にデビューしたザ・パーラメンツが権利上の問題でファンカデリックと改名後、ザ・パーラメンツをパーラメントと改名して再始動させ並行して活動を行った。
♪Parliament「P-Funk (Wants To Get Funked Up)」
⑭ アース・ウィンド&ファイヤー Earth, Wind & Fire:1971年デビューのアメリカのバンド。1972年に一旦解散し再編成。ソウル・ミュージックの市場で人気を博しつつ、1979年『黙示録』ではディスコに特化して大ヒット作となった。
♪Earth, Wind & Fire「In the Stone」
⑮ ジョルジ・ベン(ジョルジ・ベンジョール) Jorge Ben Jor:1945年生まれのブラジルのミュージシャン。ロックとサンバを融合したサンバ・ホッキと呼ばれるジャンルの創始者の一人とされる。「タージ・マハル」はインドのタージ・マハルの由来を歌う一曲で、サビのスキャットの部分がロッド・ステュアートの作品に盗用され、後にステュアートが印税をユニセフに寄付することで和解した。
♪Jorge Ben Jor「Taj Mahal」
⑯ ボニー・M Bonnie M:1974年から活動するドイツのディスコ・バンド。ドイツの音楽プロデューサーであるフランク・ロイターによってドイツ国外から集められたメンバーによって活動を行った。中心メンバーのボビー・ファレルは2010年の12月30日にサンクト・ペテルブルグで死去しているが、これはラスプーチンが死去したのと同じ日、同じ街である。
♪Bonnie M「Rasputin」
⑰ ジンギスカン Dschinghis Khan:上記のボニー・Mに影響を受けて作られた楽曲「ジンギスカン」を1979年のユーロヴィジョン・ソング・コンテストで歌わせるために結成されたドイツのグループ。「めざせモスクワ」「栄光のローマ」「サムライ」など、ご当地ソング的な楽曲を次々とヒットさせた。
♪Dschinghis Khan「Samurai」
⑱ マノウォー Manowar:第二回を参照。
⑲サクソン Saxon:1979年デビューのイギリスのバンド。NWOBHMを代表するバンドの一つ。本文にもあるようにバイカーのイメージで売り出し、歌詞もバイクをテーマにしたものが多い。
♪Saxon「Motorcycle Man」