家族のゆくえは金しだい?
信田さよ子『家族のゆくえは金しだい』
最終回 母が重い息子 その2
実家に帰らないと決心したアキラさんだったが、最低限の交流まで絶つことはためらわれた。正月には必ず顔を出したし、折に触れて安否確認的な電話は欠かさなかった。それは母親を思ってのことではなく、そうしないとどんな方法を使ってくるのかわからないという恐怖があったからだ。
勤務先が映画関連の会社であることがいつのまにか母に知れていたことは前回述べた。私立探偵でも使ったのかと思ったが、その謎はフリースクールの同窓会の席で解けた。当時かなり親しかった友人宅に、突然母から電話があり「アキラのことで相談がある。このことはお願いだからアキラには伝えないでほしい」と思いつめた調子で訴えられたのだという。何が起きたのか驚いて会った友人に、母は高価なメロンを手土産に渡し、涙ながらに「何も話してくれない息子」への不満と不安を延々と語った。そして最後に、これもアキラのことを思えばこそであり、だから知っていることを全部教えてほしいと頼みこんだのである。子を思う母の心に打たれた友人は、当然のようにアキラさんについてのすべての近況を母に伝えた。
「あんな息子思いのお母さんを苦しめちゃだめじゃないか。うらやましいくらいだよ」と苦笑しながら語る友人に、アキラさんは事情を説明する気力を失っていた。
出会い
小さな会社だったが仕事に不満はなかった。そのうちに同業である別会社に勤めるエミコさんと親しくなった。それまでも学生時代から何人かの女性と交際した経験はあったが、友人たちのように気軽に自分の親に紹介することはできなかった。母親がどのように反応するか、先回りにしてどこまで詮索してくるかが目に見えるような気がしたからだ。
どこかのんびりした感じのするエミコさんといっしょにいると、これまで味わったことのない解放感とゆったりした感覚に包まれる気がした。映画関連の仕事に就いている女性は、エキセントリックで自分の感受性に踏み込まれるのを拒否するような印象が強かったが、エミコさんは例外だった。親しくなるのにそれほど時間はかからなかった。
九州出身である彼女は、東京の大学を卒業してから小さな劇団に所属していくつかのアルバイトを掛け持ちした経歴があった。アキラさんと似たような経歴を持っていることも親しさに輪を掛けたが、大きく異なる点がひとつあった。それは、のちに二人の関係に大きな影を落とすことになる親との関係だった。
お互いの住まいを行き来するうちに半同棲状態になったので、けじめをつけようと思ったアキラさんは、夏休みを使ってエミコさんの実家を挨拶をかねて訪れることにした。
緊張感とは無縁の家族
八代海にほど近いエミコさんの実家では、実直そうな教師の父と公務員の母、そして大学のサッカー部員である日に焼けた弟がアキラさんを歓迎してくれた。
その家の雰囲気は、玄関に一歩足を踏み入れた瞬間に、空気感で伝わってくるものだ。それまでも数人の友人の家を訪れたことはあったが、エミコさんの実家に入った瞬間、これまでに感じたことのない空気に包まれる気がした。お世辞にも整然と片づけられたとは言い難い室内は、張りつめたものがなく、すべてがゆるかった。初対面なのにその地方独特の言い回しで話しかけられ、前日は緊張のあまりよく眠れなかったアキラさんは、一気に固まったものがほぐれる気がした。
前もってエミコさんから聞いていたとおり、何を言っても自分の思い通りにしてしまう長女のことを両親は「あきらめている」と繰り返したが、言葉とは裏腹にそんな娘のことを信頼していることが二人から伝わってきた。そして、ときおり意見が食い違うとふだんと同じように軽い言い争いを始めるのだった。ひやひやしていると、いつのまにか笑いとともに争点はどこかに飛んで行ってしまう。
アキラさんは、母親と父親のあいだに常に漂っていた緊張感のことを思い出した。何かの拍子に意見が対立すると父親は青筋を立てて怒鳴り、母は歯を食いしばって悔しさに耐えていた。二人っきりになると、母親は仕事ひとすじで何もやさしいことをしてくれないという父親への愚痴を延々と聞かせた。かわいそうな母親のためには父親と対立しなければならないと、四六時中身構えていた幼い自分の姿がふっと目に浮かんだ。
あまりにも違う夫婦の姿と居間に漂うゆったりとした空気感に包まれて、アキラさんは米焼酎の酔いも加わって、いつのまにか眠くなってしまった。
東京に戻ってから、アキラさんは考え込むようになった。気を遣って両親に紹介してほしいと言わないエミコさんの気持ちが痛いほどわかるからこそ、母親がどう出るか、父と母がどう反応するかを考えれば体がすくむ思いだった。首都圏出身の母にとっては異文化そのものである九州の出身であることをどう思うだろう、すでにエミコさんの実家に遊びに行っていることは絶対に秘密にしなければならない、母からしつこく嫌味を言われるに決まっている、などと考え出すと頭の中で堂々巡りが始まり、いっそのことエミコさんと別れてしまったほうがいいのではという結論に至り、そんな自分に愕然とするのだった。
完成していた青写真
夏の終わりの金曜の夜、いつも通り同僚たちと居酒屋で飲んで機嫌よく帰宅すると、エミコさんが真剣な面持ちでアキラさんの前に座った。
すこし間をおいてこう言った。
「私、妊娠したみたい」
少し痩せた面持ちのエミコさんの目を見つめたまま、アキラさんは数秒のあいだ言葉を発することができなかった。頭の中では取るべき行動が映像で浮かんだ。「バンザイ!」と叫んでエミコさんを抱きしめればいいのだ。「そっか! 結婚しよう」と満面の笑みを浮かべ、大きくうなずけばいいのだ……と。
しかし、自分の表情を食い入るように見つめているエミコさんのまなざしをそらさないでいるだけで、アキラさんは精いっぱいだった。その数秒間は永遠にも思えるほどの長さだった。
そして、深く空気を吸い込んでからゆっくり言った。
「うれしいよ……ちゃんと結婚しよう」
そこからすべての歯車がきしみ始めた。
実家の居間で両親にエミコさんを紹介し、おなかに新しい生命が宿っていることと出産予定日を告げた。その瞬間の母親の顔をアキラさんは忘れることはできない。
うっすらとした笑みを浮かべながら、ギラギラと力がみなぎった瞳は、さあこれで大丈夫、お母さんにすべてまかせておきなさい、アキラ、やっとここまで戻ってきたわね、と語りかけているようだった。全身から溢れるエネルギーは妖気となって、あっという間にアキラさんを包んでしまった。抗おうとしながら、アキラさんは突然思い出した。不登校になったときも、同じような表情で見つめられていたのだった。
傍らの父親が驚き、その事実を受け止められないような顔つきを見せたのと好対照に、母親はてらてらと額に汗を浮かべて満足げに、身を乗り出して二人の顔を見比べた。
事前に打ち合わせたように、わずかながら二人の貯金があるので、妊娠月数が落ち着いたころにもう少し広いマンションに引っ越す予定であること、結婚式は親族だけでこじんまりと行いたいことなどを告げた。
ところが母親は、待ってましたとばかりに即座に言った。
「エミコさんは大切な時期なんだから負担はかけられないわ、男にはわからないことがあるのよ、ねえエミコさん」
当初のよそよそしく値踏みするような目つきから、すっかり女同士の馴れ馴れしい視線へと変わったのにも驚いたが、その後の言葉にはもっと驚かされた。
「生まれてくる子は我が家の跡継ぎなんだから、この姓を継いでもらわなきゃならないんだから、ねえ、パパ」
今から思えば、そのときすでに母親の頭の中には青写真ができていたのだ。すぐに物件を探し、子どもが二人生まれても十分なマンションを購入すること。できれば同じマンションに自分たちの老後の住まいも求めること。23区内にあるこの住まいを売却し、夫の退職金と自分の親からの相続を充てれば、わずかのローンで十分ではないかという素早い計算が頭の中で働いていたのだ。それが母親の妖気と、あの満足げな表情の正体だったのである。
自分の家族なのだろうか
帰宅したエミコさんは、母親からの突然の提案を素直に受け止めていた。自分たちの収入が少ないことは痛いほどわかっているからこそ、あのような援助を申し出てくださったのだ、こんなありがたいことはない、そんな感謝の言葉を聞かされたアキラさんは、どうにかして自分の考えていることを理解してほしかった。しかしその後交わされた会話は最悪の道筋をたどった。
「あんな態度ひどくないの? 何も言わずに子どものために住まいの心配までしてくださっているお母様に、悪いんじゃないの?」
「これまでいろいろあったことはわかるけど、いいかげんにお母様の気持ちもわかってあげるべきだわ。冷たすぎるんじゃないの」
「君にいったい何がわかるんだ! あんな仲のいい家族で育った君には、僕のことなんかわからないんだよ、あの人にだまされちゃだめなんだ!」
声を荒げて怒鳴ったアキラさんに、エミコさんは驚き、そして怯えたような表情を見せた。
「ごめん、ほんとうにごめん、大声なんか出して、僕が悪かったよ」
ひたすらあやまり続けたアキラさんだったが、その時から二人のあいだに少しずつ溝ができ始めた気がした。
1年後、アキラさんたちは千葉県にある新築マンションに入居することになった。産前産後の手伝いで滞在していた九州の実母が帰った後は、アキラさんの母親が泊まり込んでめんどうを見た。そして引っ越しの手配や手伝いなど、生後3か月の長男を抱え、てんてこまいのエミコさんは、全面的に母親に頼っていた。
アキラさんが帰宅すると、母親が「お帰りなさい」と玄関に出迎えるのだ。日に日に成長するわが子を心よりかわいいと思うアキラさんに、「『子を持って知る親の恩』よね~」と得意気に語る母親の言葉が冷水を浴びせる。
土日だけ父親のもとに帰る母親は、日中は家事と育児の手伝いをしながら、ますます元気になり、水を得た魚のように若返っていった。
マンションへの帰り道、アキラさんは自分たちの生活がいつのまにか母親の敷いたレールに乗せられていることを確信した。しかしエミコさんにそのことを話すわけにはいかない。3歳になった息子はすっかりバーバに懐いている。
両親は3階上のフロアに小さ目の部屋を購入して住んでいる。父親は定年後嘱託で働きながら、アキラさんと顔を合わせるたびに、もっと収入のいい仕事に就けと転職を勧める。母親は毎日のように訪れて、エミコさんと「もうひとりほしいわね、こんどは女の子がいいかしら」などと話している。
他人が見たら申し分のない生活を送りながら、どうしていつまでも母親にこだわってしまうのか、ひょっとしたら、エミコさんの言うように自分は冷たく執念深い性格なのかもしれない。実家を出て貧しくても自分で生きているという実感のあった数年間のことが、まるで黄金のような輝きをもって思い出された。
マンションに到着すると、身体の芯から突き上げるような深い疲労感が自分を襲うのを感じた。これから帰っていく先は、果たして自分の家族なんだろうか、そう思いながらアキラさんは部屋番号を押した。