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14歳のための時間論

14歳のための時間論|春秋社

佐治晴夫『14歳のための時間論』

 

最終回 (土曜日)/「これから」が「これまで」を決める

★“宇宙”は“舞台、“私たち”は“観客”

 今日は、土曜日。
 このお話をはじめてから、7日目の最終日です。

 みなさんは、この一週間の中で、いろいろな出来事や、人たちとの出会いがあったでしょう。
 そう、「人生とは何か」と聞かれたとき、その答えのひとつは、日々、新しいことや、人との出会いや別れだといってもいいでしょう。

 そして、それらは、すべて現在、つまり「いまという瞬間」との出会いであり、別れだということですね。
 私たちが、過去や未来に想いを馳せているといっても、それを想っているのは、「いま、このとき」であり、私たちにとって、本当の過去や未来というものはありません。

 いま、頭の中で思い描いている過去から未来に向けて、いやおうなしに進んでいる時間という波の上にのって、押し流されているのが、人生の姿だともいえるでしょう。
 少しだけ、詩的な表現をすれば、季節の移り変わりとは、その季節を代表する“花”という踊り子たちが、“舞台の袖”という影の部分から明るく光り輝く舞台に踊り出て、やがて、舞台の影に消えていく状況だと、たとえることもできるでしょう。

 その場合の観客こそが、私たち自身であって、私たちは、いまという瞬間に映し出される“舞台”を見ていることしかできない、ということになります。
 そこでは、舞台を創る演出家や舞台監督、伴奏音楽を奏でる楽士たち、そして、シナリオの作家など、その舞台に関わるすべての人たちは、私たちにはコントロールできないという意味で、まるで縁のない、別の世界の人たちです。

 私たち“観客”は、舞台の上で演じられる瞬間、瞬間の情景と、ただ向き合う以外、何もできない存在です。
 そのような“舞台”と“観客”の関係が、めまぐるしく変転する宇宙と私たちとの関係なのです。

 さて、先ほど、人生とは「出会いと別れ」の連続であるとお話ししました。
 とりわけ、親しいお友だちとの別れは名残惜しいものです。

 たとえば、駅から列車で旅立つお友だちを見送る場合、駅のプラットホームから見送る側は、走り出した列車の進行方向にむかって追いかけようとします。それは少しでも、長くお友だちの顔を見ていたいからでしょう。
 つまり、送る側が、送られる側を追いかけるということで、二人の間の「見かけ上の速さ」を小さくして、少しでも、たがいが離れるまでの時間を長くしたいということですね。
 あるいは、列車の中の送られる側が、列車の進行方向と逆向きに歩けば、同じようにお別れの時間をのばすことができます。
 さらに、一歩すすめて、その列車と平行して一緒に走る列車にのりこめば、いつまでも顔を見ていられますし、その列車が、お友だちが乗っている列車を追い越すくらいのスピードで走れば、次の駅で、もう一度、お友だちに会うことだってできます。

 これは、私たちの日常生活の中での経験からえられる真理です。

★「光」の性質とは

 しかし……しかしね……。
 もし、追いかける相手が「光」だったらどうなるでしょう。
 事情は、一変します。

 光の速さは、止まっている世界から見ても、走っている世界からみても、足しても引いても変わらないのです。
 いつも、毎秒30万キロメートルの速さで走っています。正確にいえば、毎秒299,792,458キロメートルです。

 そこで、光の速さで、光を追いかけることができたとしても、光に追いつくことはできなくて、そんな場合でも光は、秒速30万キロメートルの速さで逃げていきます。
 つまり、光の速さを「c」であらわすことにすれば、光の速さで走っているロケットの速度は「c」ですが、そこから眺める光のスピードも「c」なのですから、その関係は、

c+c=c

だということになります。
 あるいは、光の速さで飛ぶロケットから、進行方向と反対向きに光を送り出したとしても、そこから見える光の速度は「c」なのですから、

c-c=c

になってしまいます。さあ、困ってしまいました。

 実は、この光の不思議な性質が発見されるきっかけになったのは、宇宙空間の中を走っている地球の速度を測ろうという、おおがかりな実験でした。
 それに挑戦したのは、マイケルソンとモーリーという二人のイギリスの物理学者で1887年のことでした。
 二人は、宇宙空間をものすごいスピードで走り抜けている地球のスピードを測定するために、やさしく言えば、地球の進行方向と、それと直角になるような方向へ光を送り出す装置をつくりました。そして、見かけ上の光の速度の違いから、地球の速度を調べようとしたのです。有名なマイケルソン・モーリーの実験です。

 しかし、その結果は、光の速度は、どのように動いている世界から見ても一定である、という驚くべき事実だったのです。
 もちろん、水の中を走る光の速さなどは変わりますが、ここで言っている「光の速度が一定」というのは、真空中での光の速さのことだと、いうことを覚えておきましょう。

★あなたはいま、列車の中にいて

 さて、話を戻します。
 この信じがたい実験結果に対して、明快な説明を与えたのが、1905年に発表されたアインシュタインの「(特殊)相対性理論」でした。
 くわしい説明はひかえますが、ここで、「特殊」とつけられているのは、大きな宇宙規模の問題を取り扱うには、「重力」を考えにいれます(重力とは、地球が地球の中心に向かって重さのある物体を引きつけようとする力のことです)。
 その重力を考えた理論である「一般相対性理論」と区別するためです。ここでは、気にする必要はまったくありません。

 ここで、相対性理論と時間との関係が浮かび上がってきます。

 その例として、一両だけの列車が一定速度で、たとえばあなたから見て「左から右の方へ」走っているとしましょう。
 その車両の中央に電球をおいて、ある瞬間に点灯したとします。
 このとき、車両の両端はこうなっています。つまり、進行方向の端、あなたからみて右側は運転席側であり、あなたからみていちばん左側にあたるのは後方、つまり車掌室側になります。そこで、車両の中央から両側に向かって走っていく光について考えてみましょう。

 まず、この情景を、動いている車両の中にいる人から見れば、光は同じ速さで両方向に走り、運転席と車掌室には同時に着いたように見えるでしょう。
 それは、光を発する電球は、車両の中央にあって、そこから運転室と車掌室までの距離は同じだからです。

 ところが、この情景を、地上の人が見たらどうでしょう。
 相対性理論によれば、地上から見ても、光の速さは同じです。
 ということは、走っている列車の運転席側は、光から逃れるように前に進んでいます。
 その一方では、車掌室側は、光に向かって接近するように近づいていきますから、地上から見れば、光はまず車掌室に届き、その後、少しおくれて、運転席に届くようにみえるはずです。

★車内の時間と、地上の時間

 ここで、驚くべき結論が出てきます。
 列車にのっている人がみる「同時」は、地上の人にとっては、「同時ではない」ということです。

 つまり、時間は絶対的なものではなくて、その人がおかれている世界によって、別々の時間が流れている、ということなのです。
 あなたと私が、どういうところに、どういう状態でいるかによって、違った時間を刻んでいるのです。

 あなたが、教室で授業を受けているとしましょう。
 お友だちは、2列前の机に座っているとします。その距離は3メートル。
 すると、同じ黒板の字を同時に見たと思ってみても、実際は、あなたが見る瞬間というのは、お友だちよりも、光が3メートル進むのに必要な時間、すなわち1億分の1秒だけ、おくれて見ているのです。
 あなたとお友だちの時間は、同じではないということですね。
 あなたには、あなたの時間が、お友だちにはお友だちの時間が流れているのです。

 あまりの不可思議さに疲れてしまいましたか?

 では、少し休んでから、ついでに、もうひとつの実験に挑戦してみましょう。
 実験といっても実際の薬をまぜたり、電気を流したりするのでなくて、頭の中で想像しながらの実験です。これを理論物理学者たちは、「思考実験」などと呼んでいます。

 ではふたたび、先ほどの例と同じように走っている列車を想像してください。
 今度は、列車の床の上に電球をおいて、天井に鏡をつけましょう。
 そうして、電球からでた光が天井の鏡で反射されて、もとの電球のところまで戻ってくる時間を測るという実験をします。

 まず、列車の中にいる人にとっては、電球からでた光は真っ直ぐ天井に向かって進み、そこの鏡で反射されてもとの電球のところに戻ってくるように見えます。
 その場合、光が往復する道のりは、電球がある床から天井までの高さの2倍です。  

 ここまでは、よろしいですね。

★相対性理論のほんとうの意味

 それでは、この実験を、列車の外にいる人が見たらどのように見えるでしょうか?

 列車は走っているのですから、電球を出たあと、鏡に到着するまでの光は、列車の進行方向に向かって斜め右上がりに進むようにみえるでしょう。

 ゆっくり考えてみてくださいね。

 だって、光が電球を出てから、天井の鏡に着くまでには、列車は左から右の方に動いているでしょう?
 そして今度は、鏡で反射された光が、もとの電球のところに戻ってくる間にも、列車は動いていますから、その場合の光の道すじは、斜め右下がりに動いているように見えるはずです。

 ここで、相対性理論の登場です。
 この理論では、「どのような世界から見ても、いつも光の速度は一定で変らない」ということでした。今回の実験でいえば、動いている列車内で見ても、止まっている地上から見ても、光の速度は変らないというものでした。

 ところで、速度とは、ある距離を、どれだけの時間をかけて動くのか、ということですから、みなさんも、よくご存知のように、以下のような式で表わすことができます。

速度 = 距離 ÷ 時間      【式1】

 さて、ここからがいちばん、大事な話です。
 電球を出てから天井で反射して、もとのところに戻ってくるまでの光の道すじを考えましょう。
 走っている列車の中では、床と天井との間の距離の2倍です。
 しかし、……よく、考えてくださいね。
 この実験を地上から見ていたとすると、電球を出た光は右上がり斜めに進んで、天井の鏡で反射され、今度は右下がり斜めに進んで、もとの電球のところに戻ってきます。

 つまり、列車の中で見る光の経路の長さと、地上から見る光の経路は違っています。
 どちらが長いですか?
 そう、地上から見た時の方が長いですね。

 ところが相対性理論では、どこでも、どこから見ても、光の速度は同じだというのです。

速度 = 距離 ÷ 時間      【式1】

を、もう一度見てください。
 左辺は、「光の速度」で、それは同じなのだから、変らないということですね。
 でも、右辺の「距離」は、地上から見たときの方が大きくなっています。
 となると、【式1】がきちんと成り立つためには、その分、「時間」も大きくならなければなりません。そうでないと、左辺の値は変わってしまいます。

 いよいよ……結論です。
 同じ実験であっても、地上で見ていたほうが、時間が余分にかかっているように見えてしまう、ということなのです。
 言いかえれば、地上での時間は、速く進んでいるということですね。
 裏返して考えれば、止まっている世界から動いている世界を見たときには、動いている世界の方が、時間はゆっくり流れているように見えるということです!

 この「事実」を認めると、そこから、走っているときの重さ(正確にいえば「質量」です)は、止まっているときよりも重くなり、走っているときの運動方向の長さは、縮んで見えたり、さらには、質量とエネルギーは、たがいに姿をかえることができる、という、あの有名な式などが導き出されます(Eは、エネルギー、mは、質量、cは、光の速度)。

E = mc2              【式2】

しかし、ここでは深く立ち入らずに、時間の話に戻ることにしましょう。

★「時計遺伝子」がもたらす周期

 ここで、これまでの話をまとめてみましょう。

 真空中を走る光の速さは、それを見ている人の状態とは関係なく変わらないということが実験で確かめられているということでしたね。
 となると、自分がおかれている状況や世界には、「それぞれの時間」が流れていて、世界に「共通の時間」はない、ということになります。
 ただ、私たちが生活している世界の動きは、光の速さに比べてずっとおそいので、問題は起こらない、というだけのことなのですね。

 考えてみれば、私たちのからだの中にも時間を測っているところがあります。
 「体内時計」といいます。夜がくれば眠くなり、時間が経てばおなかがへるというのも、体内時計があるからです。
 この時計を動かしているのが「時計遺伝子」とよばれている遺伝子です。
 これは、地球の自転によって、私たちの世界は、24時間周期で変化していますが、そのことを体内にとりこんでいるのです。
 その上で、「時計遺伝子」は、太陽の光や熱がつくり出す環境をあらかじめ予想して、そろそろ朝だから起きなさい、とか、ご飯をたべてお仕事にいくためには、血圧を上げて、脳の働きを活発にしましょう、というような、私たちの行動をコントロールする役目を、になっています。また、その前提として、「代謝[たいしゃ]」と呼ばれる、体内のエネルギーの止まることのない変換をもたらしているのです。

 こうした、生物の活動のおおもとの周期を、「概日[がいじつ]リズム」とか、「サーカディアンリズム」などと呼んでいます。
 これらのリズムは、細胞の中で、数えられています。
 ひとことで言ってしまえば、「時計遺伝子」は、細胞の中にタンパク質をしみ出させるはたらき(これを「分泌[ぶんぴ]」といいます)をするのに、およそ12時間かけています。
 そして、そのタンパク質をへらすのにも、およそ12時間かかるようにコントロールしています。どこか、砂時計に似ていますね。

 では、なぜ、からだの中で、そのようなリズムをつくり出しているのでしょうか?

 それは、生きるためです。
 もともとは、心や意思のようなものなどもっていない「モノ」からできている生き物が生きていくために必要なエネルギーを生み出しながら、地球という環境の中でうまく生き延びることができるための智恵なのです。

★「水」と「いのち」について

 ここで、物質からどのようにして「いのち」が生まれるのか、簡単にお話ししておきましょう。
 まず、「いのち」をもっているものは、それが心をもっているかどうかは別にして、ある目的のために行動します。アリだって、チョウだって、食べものを求めていきるために行動します。
 そして、できることならば、長く生きたいと思っているようにも見受けられます。それは、虫をつかまえようとしても、例外なく逃げるでしょう。
 たぶん、いのち、をうばわれたくないのでしょうね。
 でも、その虫たちも物質でできています。でも、生きています。
 この違いはどこからくるのでしょうか?

 とても難しい問題ですが、こんなふうに考えてみてはどうでしょう。

 空気は、小さな分子からできています。窒素[ちっそ]や酸素の分子たちです。
 勢いよく動いています。その動きは不規則で、デタラメです。
 ですから空気自身は、これから先、生きていくためには、どのような行動をとるべきかは、おそらく考えていないでしょう。となると空気は、生き物ではなさそうですね。

 では、ダイヤモンドはどうでしょう。 
 これは、炭素原子が、実に見事な結晶構造をつくっているからこそ、とても硬く、しかも、光をきちんと反射するので、美しく輝きます。
 ダイヤモンドも、これから先、より美しく輝いて生きていこう、などとは思ってないでしょう。どうやら、ダイヤモンドも生き物ではなさそうですね。

 それでは、水はどうでしょう。
 入れ物に入れれば、うまく入るように形を自由に変えるという意味では、空気と似ていますし、すぐに水素と酸素に分解しないという意味では、ダイヤモンドにも似ています。
 ここで、水は、水素原子二つと酸素原子一つが、三角形になってくっついている化合物だということを思いだしてくださいね。水素をHであらわし、酸素を0であらわせば、みなさんもご存知のように、水の分子をあらわす分子式は「H0」です。

 ここに、水が「いのち」をつくるのに、とても重要だということの秘密があります。

 つまり、水の分子は、ダイヤモンドのようにカチッとしているのではなく、それぞれの原子がずれた形でくっついているために、水の近くにやってくるいろいろの原子たちと、手を結ぶことが得意なのです。
 たくさんの物質を溶かし込んでくれる寛容な物質だといってもいいですね。

 そこで、話を一足飛びにしてしまえば、たとえば、リン脂質というような物質がやってくると、それらとうまく手をつないで、中に水を閉じ込めたまま膜[まく]をつくってしまいます。細胞膜です。
 これが細胞の誕生です。
 これらの細胞たちは、それぞれが集まって、その形を保てるように、動いてみたり、別の物質と手をつなごうとしたりします。
 そこには、空気のようなデタラメでもなく、ダイヤモンドのようなカチッとしたものでもありません。半分、デタラメで優柔不断、しかし、何か、形をつくろうとする性質も半分もっています。

 半分、デタラメで半分、規則的……。
 「予想できないこと」と「予想できること」が半分ずつ……どこかで聞いたことがありましたね。
 そうです。昨日(金曜日)、お話しした「ゆらぎ」に似ていますね。
 その「ゆらぎ」の中で、エネルギー的にも有利な条件を探しながら、存在し続けようとする目的をもつ新しい物質のかたまり、つまり、生命の芽のようなものをつくっていきます。
 物質から生命が誕生するプロセスには、このように「ゆらぎ」が関わっているようです。

 このように、「生命の素」は、水がなければできなかったのですね。
 私たちのからだは、およそ60兆個の細胞からできているといわれていますが、その細胞は水で満たされています。それが、複雑な生命体である人間のからだの70%以上が水だということの理由です。

★ほんとうに正確な時計とは

 

 さて、時間の本来の話に戻りましょう

 私たちのからだの中で、地球の自転に合わせた時間を刻んでいる源[みなもと]は、細胞だということをお話ししました。
 その細胞がきちんと、はたらいているということは、その細胞でつくられている物質のかたまりも、地球環境の変化に合わせて、自分を存続させるという方向をめざしているということです。ですから「細胞」は、物質というより、すでに生物のはじまりだといったほうがいいでしょう。
 生物とは、生きて、「いのち」をもっているモノです。

 ここで、「生きていること=時間」という構図が見えてきませんか。
 つまり、細胞が刻んでいる時間が基本になって、心臓や脳を動かしているからです。
 地球の上で、うまく存在し続けられるように細胞が周期的活動をしているのならば、それは時間をつくり出していることだといってもいいですね。
 生きているということは、時間をつくり出しているという営みなのです。

 私たちは、地球の自転や、太陽の周りの公転といったような宇宙規模のくり返し現象をもとにして、「時計」というものをつくりだしてきました。
 しかし、月曜日にお話ししたように、より正確な周期的運動をするものが発見されるにしたがって、地球や太陽も動きにも、乱れがあることがわかってきました。

 いま、正確な時を刻むとされている原子時計であっても、将来、さらに正確な時計が発見されたとしたら、いまの原子時計も、正確な時を刻んでいるとはいえなくなります。
 結論をいってしまえば、私たちは、ほんとうに正確な時計をもつことなどできないのです。
 したがって、「時間がどういうものなのかを、測る正確な技術をもっていない」ということになります。

 それに加えて、正確な時計が発明されたとしても、先ほど、お話しした相対性理論によれば、世界共通の時間を共有することはできない、ということになります。
 もちろん、先ほども言いましたが、私たちが生活の中で動いている速さは、光の速さに比べて、ずっとおそいので、それぞれの人が感じる時間の差は、問題にはなりませんが、理屈の上では、あなたは、あなたの時間を生きているとしか、言いようがありません。  

 木曜日にお話しした、音楽のテンポのようなものです。あなたには、その時々の状況によってあなたのテンポがあります。
 それが、生きていることの証[あかし]です。「固有テンポ」です。  

★もう一度、相対性理論で考えてみる

 

 実は、「重力」の問題もふくんだ「一般相対性理論」によれば、重力を受けることによって、時間の流れがおそくなることがわかっています。
 それは実際に、遠い星からやってくる光を調べることによって確かめられています。そこで流れている時間は、「固有時」などと呼ばれています。
 そして、先ほどお話しした「特殊相対性理論」によれば、自分が住んでいる世界の運動状態によって、時間は伸びたり縮んだりします。
 この宇宙には、「絶対時間」というものは存在しないようです。

 しかし、私たちはいつも、時間を感じながら生きています。
 素敵な時間、悲しい時間、せつない時間、苦しい時間、そして幸せな時間……それらの時間の長さは、物質でつくられた機械時計で、誰にでもわかるような数値で計ることができます。
 でも、その数値と、あなたが感じている時間の長さがぴったり一致することはないでしょう。

 前にもお話ししましたが、過去のことを思い起こしているのは「いま」であり、これから先のことを考えているのも「いま」です。過去も未来も、ここにはありません。過去の時間を使うこともできませんし、未来の時間も、いま、使うことはできません。
 いま、使える時間は「いま」だけです。
 というより、使える時間は「いま」しかないと言ったほうがいいかもしれません。

 宇宙のはじまりは、まさに「はじまり」なのであって、それまで、くりかえし現象があったわけではありません。
 ですから、宇宙のはじまりとともに、時間も始まったのでしょう。
 私たちの人生も、同じです。
 生まれる前のことは、わかりません。
 終焉[しゅうえん]を迎えた後のことも、わかりません。

 さらに言えば、生まれる瞬間のことも、終焉を迎える瞬間のことも、残念ながら霧の中です。
 とすれば、私たちの人生は、いつ始まり、いつ終わるのでしょうか?。

 機械時計で生存期間を示すことはできても、その本人にはわかりません。
 わかっているのは、「いま」、「この瞬間」、「ただいま」しかありません。
 そして、生きている限り、今、いま、イマ……の連続です。

 しかも、人生の始まりも終わりの瞬間もわからないのであれば、その人にとっては人生の長さを測ることができないのですから、極端な言い方をしてしまえば、「すべての人にとっての人生の長さは同じだ」といってもいいのかもしれません。
 そして、細胞という物質が、時を刻む、ということが生きていることの証なのですから、「生きること=時間」だということになります。  

★「新しい来週」のために

 ようやく結論が見えてきたようです。。

 私たち「いのち」をもっている生き物が感じている「時間」と、物理学でいう「時間」は、別のものです。
 科学の世界で使う時間は、くり返し現象を物差しにして、空間の変化を刻みこみながら記録するための手段です。
 一方、私たちが感じている時間は、文字通り、私たち自身が生きている、という事実を通して、つくりあげているものです。

 そういった意味からすれば、「時間というはっきりしたモノ」が存在するわけではありません。
 となると、生きているものだけが感じることができる「美しい幻想」、あるいは「夢」だといってもいいのかもしれません。
 その“幻想の暦[こよみ]”を一枚一枚つくり上げ、めくっていくことが、生きているということなのでしょう。「人生=美しく幻想的な暦」、とでも言いましょうか。

  重ねて言いますが、時間は、あなた自身にしかない、あなた自身のものです。
  それは、「いま」しか使えない、あなたのかけがえのない持ち物です。
  そして、「生きることが時間だ」といい、「時間は幻想だ」ということになると……現実と夢の境が、ぼんやりしてきますね。。

  何か、古代中国の思想家、荘子の著作にある「胡蝶[こちょう]の夢」という話が現実味を帯びてきます。
 そのおおまかなストーリーは、こうでしたね。。

  「一人の男が、夢の中で蝶になってひらひら心地よく飛んでいる夢を見た。
 ふと目を覚ますと、目の前にホンモノの蝶がいるではないか。  いま、ここで、蝶を見ている自分は、現実ではなくて、あの目の前を飛んでいる蝶の夢の中にいるのかもしれない……」。

  でも、心配しないでくださいね。
  いま、こうして私の話を読んでいるあなたは、現実の存在です。
 それは、あなたがこれから何をするか、どう生きようと思っているかによって、これからの人生はどのようにでもなるからです。
 つまり、これからの時間は、すべて、あなた自身のものなのですから。
 「これから」が「これまで」を決めるということでしょうね。

 ふたたび、夜が更けてきました。

 明日は、何かほっとするような日曜日。
  一週間のお話も、今夜でおしまいです。
 明日のお話は、ありません。
 明日はゆっくり休んで、「新しい来週」にそなえてください。

 どうか、あなたにとって、明日がいい日になりますように。
 そして、いい時間の暦がつくれますように。
 また、どこかでお目にかかれますように……。

 どこからか、夢の中で、ブラームスの「間奏曲、作品117の1、変ホ長調」の調べが聴こえてきそうな、静かな夜更けです。

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著者略歴

  1. 佐治晴夫

    1935年東京生まれ。理学博士(理論物理学)。日本文藝家協会会員。東京大学物性研究所、玉川大学、県立宮城大学教授、鈴鹿短期大学学長を経て、同短期大学名誉学長。大阪音楽大学大学院客員教授。丘のまち美宙(MISORA)天文台台長。無からの宇宙創生に関わる「ゆらぎ」研究の第一人者。NASAのボイジャー計画、“E.T.(地球外生命体)”探査にも関与。また、宇宙研究の成果を平和教育のひとつとして位置づけるリベラル・アーツ教育の実践を行い、その一環として、ピアノ、パイプオルガンを自ら弾いて、全国の学校で特別授業を行っている。主な著書に『宇宙の不思議』(PHP研究所)、『おそらにはてはあるの?』『夢みる科学』(以上、玉川大学出版部)、『二十世紀の忘れもの』(松岡正剛との共著/雲母書房)、『「わかる」ことは「かわる」こと』(養老孟司との共著/河出書房新社)、『からだは星からできている』『女性を宇宙は最初につくった』『14歳のための物理学』『14歳のための時間論』『14歳のための宇宙授業』(以上、春秋社)、『THE ANSWERS―すべての答えは宇宙にある!』(マガジンハウス)、『量子は不確定原理のゆりかごで宇宙の夢をみる』(トランスビュー)など多数。

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