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棄国子女 転がる石という生き方|春秋社

片岡恭子『棄国子女 転がる石という生き方』

 

最終回

旅の空から

 チャベス政権に反発する暴動でもうもうと黒煙が上がる首都カラカスを後に、南米から帰国した。2年4ヵ月ぶりの日本は生きた心地がしなかった。生きている実感がないという意味で。もっとも滞在が長かったベネズエラは、当時治安が急激に悪化していた。しかし、人に恵まれさえすれば、どんなところも住めば都なのだ。過酷な環境に順応しすぎていた。日々生かされていることへの感謝さえ忘れてしまいそうなほどに、なにもかもが安全で安易な母国はぬるま湯のようだった。
 東京でラジオ番組をコーディネートし、旅行雑誌で連載をもらい、帰国後3ヵ月足らずで、今度は日本語講師アシスタントとしてフィリピンへと渡った。小野田寛郎さんが終戦後30年も潜んでいたフィリピンである。帰還兵の小野田さんは、日本になじめず、帰国後わずか半年でブラジル移住を決意するのだが、その気持ちがよくわかる。行き先は選択の余地なく、たまたまだった。フィリピンは旧スペイン植民地でカトリック教国である。他のアジアの国とはずいぶん雰囲気が異なる、言わばラテンアジアだ。結局、日本からもっとも遠い旧スペイン領から戻ってきて、もっとも近い旧スペイン領に出直したのだった。

「あんた、生きてたんや。帰ってきたんや」
 母は涙ながらにそう言って、実家に戻った私を迎え入れた。フィリピンから帰国後、タイミング悪く立て続けに病気にかかって、またしばらく実家に身を寄せることがなければ、もしかしたらこんな結論に達することはなかったのかもしれない。
 フィリピン最後の秘境と呼ばれるパラワン島で先住民を訪ねた直後、かつて経験したことのない奇妙な病気にかかった。まずは海岸の岩場でこしらえた小さな足の傷が化膿し、おまけになんてことのない手足の虫刺されやひっかいた背中の吹出物までが膿み始めた。しまいには足のつけ根のリンパ腺まで痛み出し、連日40度近い高熱に浮かされる羽目になった。町医者は首をひねるばかりで原因がわからないまま、完治するまでに2ヵ月もかかった。
 さらに追い打ちをかけるように不正出血に見舞われた。産婦人科で嫌々診察を受けると、卵巣膿腫、子宮筋腫と内膜症が見つかり、すぐに入院して手術することになった。こと産婦人科というところは大きなおなかを幸せそうに抱えた女の人がたくさんいて、生まれたばかりの赤ちゃんの元気な泣き声が聞こえてくる。私は澄んだ水にしたたり落ちる汚れた水なのだった。
 検査の結果、切除した部分はいずれも良性だった。悪性の可能性があるとは言われていたが、そうでないことはわかっていた。なぜなら私は生命力がとんでもなく強いから。神様の胸ぐらをつかんで私を生かしておく理由を問いつめたい衝動に駆られた。しかし、神様は笑ってこう答えるに違いない。
「まだなにも使命を果たしていないではないか」
 我慢さえしていれば、どんな痛みもやがては治まり、どんなに嫌なこともいつかは終わる。痛みが我が身から完全に消え去るか。不快を感じなくなるほどに自分自身が強くなるか。ただ恐ろしいのは、本当は痛むのにそれを感じなくなること。そして、不快であることが当たり前になってしまうこと。だから、手遅れになる前に実家を出ることにした。
 再び上京した後もこれまでに何度も歩み寄ろうとしたのだが、うまくいかなかった。今を精一杯生きようとしているのに、母はそんな私をわかろうとはしなかった。取り返しのつかない過去を何度も後悔させようとし、まるで先がないかのように未来をただ憂うばかりで、私を常に意気消沈させた。私は取り殺されたくない。もう二度と生きて彼女に会うことはないだろう。

 あれから9年の月日が経ち、さらに16ヵ国を回った。長期滞在がきっかけとなり、『地球の歩き方』フィリピンを手がけ、その後も中米とメキシコを担当することになる。幾多の国々に与えられた洗礼のおかげか、どうにか旅で食っている。ハンドキャリーで企業の急ぎの貨物を運んだり、雑貨を輸入販売したりしつつも、旅先で写真を撮ったり、文章を書いたりしている。以来、自腹で旅費を出したことは一度もない。年に3、4ヵ月は海外にいる。
 ライブハウスでのトークショーや旅カフェでの茶話会なども定期的にやってきた。ペルーのドミトリーで同室だった女性のことがいつも念頭にあった。帰国後、音信不通になる旅人が少なからずいる。彼女のように力尽きて死んでしまう人、あるいはひきこもってしまう人、いわゆる外こもり(短期にお金を稼いではそれを元手に海外に出る)を繰り返す人。日本に居場所を見つけられない旅人の止まり木をつくりたい。旅先の日本人宿でバカ話をしている雰囲気を再現したい。旅をしたことがない人にもそれを味わってほしい。自己満足なのかもしれないがそう思っている。期待はずれのゲストを呼んでしまうこともあれば、見当違いの人が集まってしまうこともある。毎度、ブレーンと一緒に試行錯誤を繰り返している。
 ライターは名乗ったその日から誰もがなれる職業だ。食えてようが食えてまいが、関係ない。結婚している女性や実家暮らしの独身男性、あるいは働く妻を持つ男性、つまり扶養家族かそれに近い立場の人が多い職業であることに驚いた。ライター一本で食えている人は、どんな分野でも選り好みせずに書く、なんのこだわりもない人だ。撮影や編集まで請け負える人が生き残っている。好き勝手に書いたものは、まず金にならない。手っ取り早く金になるのは提灯記事だ。
 活版印刷が普及する前、人々が写本をしていた時代があった。ラテンアメリカにコピー屋が多いのは、本がまだ貴重だからだ。高くて買えなくても、コピーしてまで読みたい本があるのは幸せなことだ。先進国の書店には本がずらっと並んでいる。特に日本は本の値段が比較的安い。しかし、悲しいかな、踏んづけたら罰が当たるような価値のある本は少ない。志の高い本があまり平積みにはなっていない。写真やイラスト満載で想像を喚起しない流動食のような本が目立つ。真剣に考えることは格好悪いことではない。夢物語やきれいごとはもういい。ほしいのはよりよく生きるための知識と知恵だ。私にとって、本は一冊、一冊がアマゾンの森の木なのである。その本には木を切り倒してつくるだけの価値があるのだろうか。森を犠牲にする代わりに誰かを救えるのだろうか。ダイエットも自己啓発も世界一周ももういらない。

 一度、ベネズエラに日本のテレビ番組のロケハンに同行した。環境保護をテーマにしたドキュメンタリーだった。観光客を受け入れるようになって、ギアナ高地のロライマ山に外来植物がはびこり、生態系が崩れているという内容だった。それだけなら、紛れもない真実だったのだが、単調さを避けるためか、サバンナに住む先住民ペモン族にも話は及ぶ。
 ペモン族は登山客のポーターとして働いている。私はそれまでに二度、サバンナにある彼らの村を訪れたことがあった。必要な人数を知らせると、もめごとにならないように彼らのやり方で人選してポーターを集めてくる。村の男はたくさんいるし、ローテーションは頻繁にはめぐってこない。もちろん登山客の来ない雨季には仕事がない。もっと稼ぎたい人、安定した収入がほしい人は、とっくに町に出ているはずだ。昔ながらに狩りをしながら、のんびり暮らしたい人々だけがサバンナに残っている。
 ロライマ山には数日歩いて登ることもできるが、ヘリコプターであっという間に登頂することもできる。番組の最後には、ポーターのペモン族の若者にこう言わせているはずだ。
「いつかヘリコプターのパイロットになるのが僕の夢なんだ」
 サバンナに住むペモン族がそんなことは望んでいないとディレクターにはちゃんと伝えた。パイロットになれるものならなりたいかと問われれば、なりたいと素朴な先住民の若者は答えるだろう。しかし、それはサバンナでの暮らしを犠牲にしてまでなりたいということでも、金持ちになりたいということでも、文化的な生活がしたいということでもない。
 イギリス国営放送のように長期取材ができる余裕は日本の民放にはない。ほんの短い取材でストーリー性のある番組を取り繕わなければならないのだ。放送日に間に合わせるための突貫工事だ。どこまでを演出と呼び、どこまでをやらせと呼ぶのかは知らないが。
 以来、関わった番組は一切見ないことにしている。そのドキュメンタリー番組は最初の提示額が支払えないとかで、それよりも低いギャラが振りこまれた。制作会社の口約束なんて、あってないようなものだ。その前にもバラエティ番組の出演料を踏み倒されていた。テレビ業界はあいかわらずの行き当たりばったりだなと思った。

 6年ぶりにアルゼンチンを再訪した。経済危機から回復したアルゼンチンを見てみたかったのだ。2002年、首都ブエノス・アイレスでは銀行が焼き討ちに遭い、家賃を払えなくなった大勢の人々が路上で生活していた。通貨暴落によりペソ建ての財産は4分の1に、米ドル建ての借金は4倍になったからだ。さらに追い打ちをかけるように、ワールドカップ40年ぶりの一次リーグ敗退を喫した。まさにアルゼンチンにとって受難の年だった。
 ところが、再訪した2008年のブエノス・アイレスもまた一筋縄ではいかなかった。信じられないことに肉屋にもスーパーにもまったく肉がなかった。輸出関税の増税に反対する農家のストライキが肉の供給を止めていた。通常なら毎日9千頭の肉牛が屠られ、国民1人当たりの牛肉の年間消費量が60キロと言われているアルゼンチン。この国では肉は主食のようなもの。肉がなければ食べるものがないのに等しいのだった。
 もうひとつアルゼンチンを訪ねる理由があった。ウシュアイアという町に世界最南端の日本人宿、上野山荘がある。主人の信隆さんが83歳で亡くなられた後、宿は妻の綾子さんが一人で切り盛りしていた。宿に泊まりたいというよりも綾子さんに会ってみたかった。上野山荘で私は綾子さんの茶飲み友達にしてもらった。穏やかな口調で語られる、波瀾に富んだ人生。綾子さんは『麗子像』を描いた岸田劉生の姪にあたる。深窓の令嬢、綾子さんは、長身の兵隊さんだった信隆さんと恋に落ちたばかりに、日本を遠く離れた最果ての地に来ることになってしまった。
 現在、アルゼンチン全土に約3万2千人の日系人が住んでいる。公式にアルゼンチンへの日本人移住が始まったのは1908年のこと。1963年、綾子さんは移民船さんとす丸でブエノス・アイレスにやってきた。夫と二人の子供と最初に入植したのは、イグアスの滝の近くにあるガルアペ移住地だった。「熱帯の毒蛇が真っ赤で、帯留めにちょうどよさそうだったの」と綾子さんは笑った。
 以後、アルゼンチン各地で13回もの引越しを経て、上野夫妻は1982年にウシュアイアに落ち着く。好きな鱒釣りができるウシュアイアへ。最後の引越しは信隆さんが決めた。そのころから、夫妻は自宅に日本人旅行者を泊めるようになった。上野さん宅は南米を旅する若者でいつもいっぱいになり、いつからか上野大学と呼ばれるようになる。
 信隆さんが亡くなるまで、旅人は上野節を聞きたいがために、はるばるアルゼンチン最南端を訪れた。ウシュアイアの名物は、セントージャと呼ばれるタラバガニ。綾子さんが食べさせてくれるカニ料理が、彼らの目当てでもあった。残念ながら生前の信隆さんにお会いすることはかなわなかったが、みなが喜々として彼の教えを賜る、上野大学の様子を想像することは難くない。
 私が大学に7年も在籍したのは、戦争体験世代の教授といろんな話をするのがなによりも楽しかったからだ。「大学」の呼び名にふさわしく、上野邸は旅の途中で人生の先達と語らえる場所だったのである。日本で働いているかぎりは、戦争体験世代と語らう機会は限られている。おそらく上野邸は、旅人が我が身と我が国を振り返る場所だったのだと思う。
 学生運動の盛んな時代、神戸で大学職員として働いていた信隆さんは、学生のデモと警官隊が衝突し、学生が殴られるのを見て、日本に嫌気が差したそうだ。私もボリビアやベネズエラで暴動に発砲する軍人を見て、警察や軍隊というものは、自国民を守るためにあるのではなく、体制に逆らう者を制圧するためにあるのだと初めて気がついた。それを日本で目の当たりにした信隆さんが受けた衝撃はどれほどのものだっただろうか。まして彼には日本のために戦った経験があるのだ。異国で不条理な目に遭うのはしかたがないが、母国でそんなことが起こるのは許せない。
 信隆さんが亡くなった翌年、遺言どおりに綾子さんは娘さんと戦地ガダルカナルで散骨した。土葬のカトリック教国では、荼毘[だび]に付す火葬場を探すだけで一苦労だ。しかも、アルゼンチンからガダルカナルまでは遠い。何日もかけてニュージーランド経由で行ったのだそうだ。ブエノス・アイレスでは再訪の前年にオープンした上野山荘別館に泊まった。別館オーナーである娘さんは綾子さんのことを「世界一かっこいい母」だと胸を張った。
 本館は南極への船を待つ旅人が長逗留するが、別館は飛行機で世界一周する旅人がほんの数日滞在する。線ではなく点をつなぐ旅である。寄り道をしない点の旅人が増え始めたころから、日本人宿での会話の異変に気がついた。一見、談笑しているのだが、よく聞くと会話がキャッチボールになっていないのだ。お互いがお互いに言いたいことを言っていて、相手の言ったことに受け答えしていない。「どこそこに行ってよかった」とか自分が訪れた場所や食べたものなどを口々にほめていることが多い。が、「よかった」と言い切るだけで、どのようによかったかが語られることはまずない。世界中どの日本人宿においても、上野山荘別館においてさえも、かつての上野大学のように旅人たちが夜を徹して侃々諤々[かんかんがくがく]やり合うことはもはやないのかもしれない。

 私が唯一信頼しているラティーノ、ルイス・ギジェルモについては前回書いた。「日本でつらいことがあったら、いつでも戻ってこい」と言ってくれたその彼は思いがけず若くして亡くなった。実は彼の言葉にはまだ続きがある。「いや、もう戻ってくるな。日本で優しい男とよい仕事に恵まれたら、もうどこにも行く必要なんてなくなるだろう? だから、戻ってこないほうがいいんだ」。ギジェルモがいつ、なぜ亡くなったのかはまだ確かめていない。彼の死を認めたくないからだ。
 今年ベネズエラのチャベス大統領も亡くなった。旅行代理店を営むギジェルモをはじめ、周りがみなチャベスに批判的だったため、ベネズエラにいた当時は彼が善い人なのか悪い人なのかよくわからなかった。今、ベネズエラの外から客観的に見て、反米・社会主義路線、貧困層への社会政策は、支持されてしかるべきだと思っている。チャベスの後継者が当選したのも当然の結果である。ギジェルモよりもチャベスよりも先に亡くなると思っていた、フィデル・カストロはいまだキューバで健在だ。
 上野綾子さんは2010年4月にアルゼンチンのウシュアイアで亡くなられた。87歳だった。今頃、綾子さんは愛する信隆さんと一緒に笑っておられることだろう。一世の日本人移住者のほとんどがそうであるように、なんでもないありふれた思いやりの言葉にさえも、相手の心をふるわせるだけの説得力があった。その人が人生で得たことすべてがこもっているからだ。人徳が身につくような、自分の気持ちに正直な生き方をしようと思う。

 海外へ渡航することで自ら呪縛を解き、洗脳から覚めた。もう少しで母親から、日本から取り殺されるところだった。最初はただ逃げただけじゃないかと自分を責めたが、どうもそうではなかった。世界中どこへ行こうとも自分からだけは逃れられない。
 常識というものは、その国でしか通用しない。同じ国の中でも階層や人種によって異なることさえある。その外に身をおき、傍目八目でなければ気づかないことも多い。常識を盲信して頑なに変わらないことも、自分のおかれた立場をひたすら我慢することも、まったく美徳などではない。「日本人は効率と秩序を重んじるあまり、もっと大切なものを忘れている」とギジェルモが言っていたことをよく思い出す。
 日本に定住しているつもりはない。今も旅の途中にいる。これからも行くべきところに行って、会うべき人に会うだろう。国境はいつでも軽々と越えられる。拙いながらも二つの外国語が話せることと、南米で生き抜いたということが、私に力を与えている。自分の意にそぐわないことをしなくても、ちゃんと生きていけることを実証してみせる。日々、私はまた新たな旅に出る。ここではないどこかへ向かって。

(最終回・了)

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著者略歴

  1. 片岡恭子

    1968年生まれ。同志社大学文学部社会学科新聞学専攻卒。同大文学研究科修士課程修了。同大図書館司書として勤めた後、スペインのコンプルテンセ大学に留学。中南米を3年に渡って放浪。ベネズエラで不法労働中、民放テレビ番組をコーディネート。帰国後、NHKラジオ番組にカリスマバックパッカーとして出演。2013年現在、46ヶ国を歴訪。
    東京・新宿ネイキッドロフトで旅イベント「旅人の夜」を主催する。
    共著に、『新・格安航空券選び術』(2005、双葉社)、『中国世界遺産自由旅ガイド』(2006、双葉社)、『東京ゲストハウスLife』(2007、山と渓谷社)、『最新版バックパッカーズ読本』(2010、双葉社)、『決定版女ひとり旅読本』(2011、双葉社)がある。

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