生きるための「文=体」入門
尹雄大『やわらかな言葉と体のレッスン』
最終回 謎と問いかけ
2年近くにわたって連載してきた「生きるための『文=体』入門」も今回が最後となりました。長らくのお付き合いありがとうございました。
これまで異なる表現でくり返し書いてきたのは「言葉は刻々と生きている体とともにある」ということでした。誰もが日常的に行っている「言葉を用いて考える」ということも、脳だけを使っているわけではなく、「感じる」という体の働きがあってこそ可能になるものです。
「考える」ことを頭だけに任せ、ともかく答えを知ることに重きが置かれている時代です。誰もがそのようなやり方のみが「考えることだ」と思うのであれば、そこで出された答えは似たり寄ったりになってしまうでしょう。実際、多くの人は頭では「多様性が大事だ」とわかっていても、いったん事が起きると、すぐに賛成か反対かと意見を割り切りたがる傾向があるようにも思います。
こうしたムードの背景になるのは何かといえば、未だ知らざる事柄をいかに既知に置き換えるか、ということで、考えるとはそういうものだと思い、それに向けて自分の持てるエネルギーを投資した結果、それらが醸し出されたのだと思います。
このような時代だからこそ、わからないことを割り切ったり、別の考えに置き換えるのではなく、わからないことがあったのならば、まず現場に足を運ぶ。そこでしか感じられないものに触れてみる。鼻を近づけて嗅いでみて、総身で感じてみる。
そうすることで初めて膝を打つような納得があったり、その上で考えていくことができるのではないか、こうした体験は情報や知識、概念を知るに留まらない体全体の感覚を伴うだけに、何かを感じ取れたときの「わかった」という頷きは深いところで訪れるはずだ、と思っています。
締めくくりにあたって取り上げるのは「謎と問いかけ」についてです。
これまで暮らしの中で目にしたありふれた光景や何気なく行っているしぐさ、言動について「はて、あれはどういうことなんだろう?」と謎を見出してきました。そして、そこから人の体の持つ可能性や知性とは何か?について述べてきました。
今回はこれまでの連載の根底にあったテーマについて今一度掘り下げて考えてみたいと思います。
さて僕の場合、謎とそれへの問いかけは、あれやこれやと考えてひねり出したわけではなく、ふと訪れるものでした。予期せぬ瞬間にふらりとやって来るものが謎でした。そして、不意に訪れた謎については、なぜか解き明かして答えを出してやろうという気にあまりならなかったのです。どちらかというと、その謎と会話していこうという気持ちの方が大きかったからでしょう。
たとえば旅の途中、電車で乗り合わせた隣人に「今日はよい陽気ですね」と話しかけられたらなんと答えるでしょうか。「なぜあなたは私に話しかけるのですか。どういう意図でしょうか?」とはあまり言わないでしょう。「ええ、そうですね。結構な日和で……」と返事をし、それに対して隣人が「どちらまでおいでですか?」と問いかけるといった世間話をするのではないかと思います。謎の訪れと問いかけとは、ちょうどそうした会話みたいなものです。
謎の解明ではなく、謎そのものと言葉を交わしてみる。問いかけてみる。そのこと自体が新たな発見をもたらし、思考の芽生えにつながっていくのではないかと思っています。
そうした待ちの姿勢が取れるようになると、だんだんと謎のほうがこちらをノックしてくるようになります。客の訪問をいまかいまかと待ったり、「まだ来ないのか」と催促の電話をするのではなく、コーヒーでも飲みながらゆったりと寛いでいる感じです。これは暗がりにサーチライトをあてて探っていくような「問題発見能力」とは少し違います。
誰しも見落とされている謎を見つけると「これは重大な発見だ!」と感じられるので、なんだか謎それ自体にずっしりとした重々しさ、価値があるように思います。でも、一方で多くの人がそれを発見するまでは見過していたくらいなのですから、「重大な発見」とは「ありふれたこと」でしかなかったわけです。
つまり、どちらかと言えば謎は重々しいどころか、ほとんど取るに足らないと感じられるような、吹けば飛ぶような軽さに本質があるのではないでしょうか。
たとえば息をすることは、普段ほとんど意識していません。それどころかそこに謎など何もないように思えます。しかし、呼吸できなくなった瞬間、大変なことになります。呼吸ができなくなって初めて「これほど大事なことだったのか」と改めて認識するでしょう。だからといって、呼吸について重々しく取り扱い、「では、これからは慎重に呼吸しよう」と身構えるかというと、そんなことはないはずです。普通に呼吸できる状況になれば、あっさりと軽々息をするようになる。もちろんそれで良いのです。
重要なことは、あまりに当たり前なことは、その存在を疑いもしない、ということです。
なぜなら、そこにはさりげなさしか感じられないし、特別な意味が何もないように思えてしまうからです。
本当に重要なことというのは、重々しい見かけをしていないものです。
ですから、厳かさや深遠さをわざわざ見つけようと、どれほど探索してみても探検者にとって真に切実な謎とは出会えないのではないでしょうか。謎は賑やかな格好はしておらず、ごく軽やかなそよ風として存在しています。そのような謎と出会うにはうっかり見過してしまうくらいのさりげなさに注目してみる必要があるのではないかと思うのです。
■腰は「あるけど、ない」 職場や家庭で「そんなこと当たり前でしょ?」「そんなことも知らないの?」「そんなの常識でしょ」と誰かに言ったり、あるいは他人から指摘されることがあると思います。余りに当たり前だし、常識的過ぎることをあなたはどうして知らないのだ、というわけです。
けれども「そんなこと」と言ってしまえるところに謎の弱い風が吹いていると僕には感じられます。
「そんなこと」と人が口にするとき、相手に対して呆れているニュアンスが込められているので、そのように言われると、つい「……知らないからいけないのだ」と恥じ入る感情が湧いてくることになります。その部分にのみ注視してしまうと、「余り」「過ぎる」「常識」という表現が示している、謎の在り処の手がかりを見失ってしまいます。
もちろん、たんに物事を知らないというだけの場合もあるでしょう。けれども、ひょっとしたら呆れ顔でそう言うとき、人は「余りに」当然さや常識を疑わなさ「過ぎている」ということだって大いにありえます。風を感じない鈍さが、その人にとって当然かつ常識になっているかもしれないのです。
とりあえず事態を「知っているから正しい、偉い」「知らないから悪い、劣っている」といったように、優勝劣敗、善悪といった二分法的な価値判断によって受け取るのを止めてみる。すると「余り」「過ぎる」という逸脱を示す言葉遣いを安易に使うのは、謎への問いかけを止めているためではないか?という疑いも浮かぶようになると思います。
つい最近、そのことを思い知らされた出来事がありました。
僕は武術を学んでおり、先日稽古の合間に師事している先生に「腰はどこにあるかわかりますか? 手を当ててみてください」と尋ねられました。それこそ「そんなの常識じゃないか!」とばかりに手を置いたところ、「そこはウエストであって腰じゃないですよ」と指摘されました。
「え?」と思わず周囲を見渡すと、僕と同様の驚いた表情を浮かべる人が大半でした。実に居合わせたほとんどの人が手を添えていたのはパンツの横のあたり、腸骨の出っ張ったところだったのです。「そこじゃない」と言われたこともあり改めて探ったものの「あれ、腰ってどこだっけ……?」とわからなくなってしまいました。
そうした指摘を受けたことで、これまで西洋の「概念」を通じて自身の体を捉えることを疑いもしなかったことがわかり、そのことにとても驚きました。それが悪いわけではありませんが、僕のやっている武術は東洋のものですし、それに概念ではない腰がわからないままならば、この先ずっと教えられている内容を取り違えることになります。
先生の説明によると伝統的に腰は「袴を履いたときに背板が当たる辺り」になるということでした。「ははぁ、なるほど……」と頭では思ったものの、よくよく考えてみれば僕は袴を履いたことがありません。あくまでその場所をイメージできただけで、本当のところは感覚としてつかめませんでした。
後日、骨格標本図に照らして腰を探してみました。図解によると腰は背骨の下から骨盤を含んだ部位ということになっています。それは解剖学的には「正解」なのでしょう。けれども、その正解を得たところで「なるほど。ここが腰か」という納得は得られませんでした。
そもそも腰について僕らはどのくらいのことを知っているのでしょうか。解剖学的なものではなく、「生きた腰」についてです。
野球やゴルフをしている人なら、スイングの際にコーチから「しっかり腰を入れて」とアドバイスを受けたことがあると思います。また、子どもの頃、なかなか行動を起こさないでグズグズしていると親に「腰が重いよ」と言われたこともあるでしょう。
これらの慣用句が言うのは、「生きた腰」でしょう。でも、僕のようにウエストだと誤解している人が多いならば、「腰を入れて!」と注意されたから腰を入れてみたものの、それはひねる動きにしかなっていなかったかもしれません。「腰が重いよ」と言われたところで、「ウエストが重いってどういうことだ?」と体感的に理解できず、親が何を言おうとしているのか本当はわかっていないということもあるかもしれません。
驚いたときに「腰を抜かす」と言いますが、腰が何かわからないということは、現代人は抜かすべき腰がそもそもないということなのかもしれません。腰があるつもりで体を動かしてみても、それは概念化されたもの、動きでしかないわけです。
しかし「いままで腰だと思っていたところは腰ではなかったのだ」と気づいたとき、腰の位置を正しく把握しようとは思いませんでした。なぜかといえば、腰というのは具体的な部位ではなく、感覚のことではないか?と、概念と「生きた腰」のずれを通じて気づいたからです。
腰という言葉はあります。感覚的にもあります。けれども、それが指し示すモノは体にはない。だからといって腰がないわけではなく、ちゃんとあるから立ったり座ったりできる。
ないけれどある。
この矛盾が僕に訪れた謎だったのです。
腰がない? そんなバカなと思うかもしれませんね。
「ひょっとしたら腰はあるけれど、ないんじゃないか?」
おかしなことを言っているなと思われるやもしれません。順に話していきましょう。
◆よく見ていくと、消えてしまう――再びリアリティとリアルの問題
では、他に例をあげてみましょう。スマートフォンを操作する際、誰しも指先を動かしています。では、指先だけを動かすことはできるでしょうか。また、指先はどこにあるか?と問われたらどうでしょう。厳密かつ具体的に「ここだ」と指し示した上で、そこだけを動かすことはできないのではありませんか。よくよく見ていくと、指の末端でありつつも指ではないところの空間を含んで「先」と感覚される。そのような感覚の範囲を「指先」と呼んでいるのではありませんか。
言葉はあるけれど、それが指し示すモノを具体的に見ていくと消えてしまう。腰も指先と同じく、漠然と広がる空間を含んでおり、そこを指す言葉はあっても、絶えず半ば空ろなものとして感覚されています。言葉はあっても、言葉が言わんとする対象が実体的にはない。
興味深い謎だと思うのです。
言葉が足りていないから実際を表現できていないのか。言葉が過剰だから実際が見えなくなるのか。たぶんどちらも同じことでしょう。「これが現実だ」(「これが腰だ」「これが指先だ」でもかまいせん)と自分たちを取り巻く世界に「実感」を抱くとき、生々しい感覚を味わっています。ありありとした実感を抱き、この上なくリアルに感じることができても、残念ながらそれは言葉越しの感覚、認識されたものでしかありません。「実際」を見ているわけではないのです。
「腰はどこにあるか?」という問いかけから「腰はあるが、ないかもしれない」という謎の出現によってわかってきたのは、常識に過ぎる余り、リアリティをリアルだと勘違いしていたということです。
前回も述べましたが、リアリティとは「よくできたリアル」「本物っぽさ」でしかありません。といって、それならばリアルが本物でリアリティは偽物かというと、そう単純な話でもありません。
言葉はあっても、言葉が言わんとする対象が実体的にはない。この謎への問いは「あれかこれか」といった真偽の二極化のあいだの往復にはないのだと思います。どちらが真であり正しいのか?といった次元の問いかけは、必ず事態の解決に向かわせようとします。
そんなの当たり前だろう?と思うでしょうか。しかし解決というのは割り切りであって、それは謎を捨て去る行為でしかない。そこで忘れられてしまうのは、これまでにも述べてきた体ごと謎に迫る、総身で感じるという人の知性の源に控える行為です。
「言葉はあっても、言葉が言わんとする対象が実体的にはない」。
これへの答えではなく、ただ純粋にその謎に迫るにはどうすればよいか。そこで手がかりにしたのは、先述した「腰も指先も漠然と広がる空間を含んでおり、そこを指す言葉はあっても絶えず半ばうつろなものとして感覚されている」です。
腰や指先も自分の体という極めて具体的なものにもかかわらず、その実を詰めていくと「うつろ」さとして感覚されます。この体の中の行くあてのない穴の空いた感覚は、心寂しさ、うつろさとしても感じられます。心と体は分けられないものなので、体に浮かんだうつろで寂しい感覚は心にも同じように浮かびます。
そういった隙間が自分の中に見つかると、つい言葉で埋めたくなりませんか。ひょっとしたら人が言葉を語り始めたのも、空虚さを饒舌さで満たしたいという衝動ゆえかもしれません。
指先や腰という自分のもっとも身近な体ですらはっきりとはわからないのです。つまりは、自分が自分として存在しているにもかかわらず、自分について確かに言うことができない。いや、感覚的にはわかっているのです。しかし、それだけでは安心感は得られない。だから言葉にしようとするのだけれど、言葉で表そうとすると足りなさ、欠落をいつも感じてしまう。
僕は、これはいつか克服されるべき問題ではないかとつい最近まで考えていました。言葉と体、リアリティとリアルの離れ具合に心寂しさを感じるならば、自分の心を問題として取り上げ、メカニズムを解決すれば、空虚さや欠落感は消えると考えていたのです。
しかし、この心に差す寂しさを消してしまうことは問いかけの訪れの拒否、謎の封殺に近いのではないかと思うようになりました。
■未知という不安から、未来という希望へ 空しさうつろさもまた実体として存在はせず、心に影をさしかけます。空虚さそのものが心にあるのではなく、それが地にのべた影のようなものであるならば、光を遮っているものは何なのでしょうか。
それを考える上で重要なのは、空しさや虚ろさが影を落とすときに不安を感じるということです。不安を感じると人によっては食い気に走ってそれを覆い隠したり、あるいは趣味に没頭して気を紛らわせようとするでしょう。食べることも趣味もそれ自体には問題はなくとも、きっかけが不安から生まれていれば、いくらそれに耽ってもどこかで不全感が残るはずです。
お腹がいっぱいになっても満足いかない。趣味に逃げている感じがなんとなくしてしまう。すっきりしない感覚が残る。「心ここにあらず」の状態です。
ぽっかりと空いた感覚が教えてくれるのは、「自分がここにいない」ことです。「ここにいない」ことをそうまでして自分に知らせようとするのは、ここにないものへの怯えが背景にあるからではないでしょうか。
光を遮り不安を生じさせるものの正体は恐らくは、まだここにはない「未来」であり「未知」でしょう。
そのわからなさのさしかける影が体の空いた感じ、心寂しさや虚ろさなのではないかと思うのです。未来や未知は大きな謎です。それらに迫るにしても、相手は「未だ来ず」「未だ知らず」です。来ていないものを知ることもできない。あまりにも広大で虚ろな空間に感じられ、それを前に対峙する個人としてはただひたすら不安を覚えるしかありません。
ですが、一方でこうも思うのです。虚しくもうつろであるとは、知り得ないほどの空間の広がりを示しており、どのように振る舞ってもよいだけの自由が広がっているのではないか、と。
これは僕なりの不安に対する強がった態度です。そうでも言わないとやっていられないということもあります。誰しも経験があるでしょう。見慣れた日常が実は何も確定したことが言えない闇の広がりであり、それこそが現実なのだと気づく瞬間が。現実を垣間見たら不安を覚えます。僕はそういうとき震えて立ちすくむばかりになりがちなので、あえて強弁が必要なのです。
強がりの中でわかったこともあります。人が物事に不安を感じる。その様子を仔細に眺めていくと、実はそこに希望の芽生え、可能性を感じてもいるのではないでしょうか。影ばかりを気にしては光を見失ってしまいます。光とは可能性であり、生きているという事実ではないかと思うのです。
不安を感じると、どきどきと動悸が激しくなります。この体の変化を「わからなさゆえの不安」と理解するとき、見落としていることがあります。「どきどき」は不安を感じたときだけではなく、ときめいたときにも訪れます。わからないことに恐怖するのは嘘ではない。けれど、わからないことに不安を感じつつも歓びを覚えるというのも本当です。動悸が激しくなるのは何が起きるかわからない、そのことへのよくわからない胸の高まりを覚えるからです。
不安は生きている限りつきまとうかもしれません。解決はできないかもしれません。生きていることそのものが謎なのですから、影は常に寂しさ、空虚さとして心にその姿を現し、そして人間はそのことについて相変わらず言葉で語りたがるでしょう。
けれども寂しさ、むなしさは僕らが謎とともに生きている、というより、自らが謎であり謎を生きている可能性に満ちた存在なのだということを絶えず知らせてくれてもいるのではないでしょうか。生きていることに答えがないのは、僕ら自身が謎だからです。
こうして、日々生きるとは謎を生きる、謎として生きるということ。街を歩く。誰かと挨拶をする。犬の吠え声を聞く。萌える緑に感じ入りふと心が動く。この一挙手一投足の中で感じることすべては、生命という謎に対する問いかけなのだと思います。
言葉は足りないし、欠落を感じるし、言葉と体、言葉と現実はずっとずれ続けているかもしれない。そのずれは既知の安心と未知への不安のはざまに生きる人間が形作っているのでしょう。だとしたら、ずれのもたらす傾きが、次の一歩を促すこともあるのかもしれません。謎の解決ではなく、謎を生きること。それが未知や未来への問いかけという形で僕らの人生を彩っているのではないでしょうか。