web春秋 はるとあき

春秋社のwebマガジン

MENU

単行本になりました

生きのびた「日本」――僕が出会った〈引き揚げの時代〉

〈日本國〉から来た日本人|春秋社

西牟田靖『〈日本國〉から来た日本人』

 

最終回

 二度の密航

 8月も終わりになると、進駐してきた米軍のジープが釜山の街を走りまわるようになった。そのころまだ古賀家の人々は日本本土へ引き揚げられずにいた。応召し朝鮮北部に出征した二科十朗[にしなじゅうろう]がいまだ復員していなかったからである。父親のいない家庭の主婦は授産所にいき、なにがしかの作業をして幾ばくかの収入を得ていた。しかしその施設が閉鎖となり、ほかの方法で稼がねば生活することができなくなった。 
 母親は一計を講じた。サツマ芋を加工して、即席の和菓子を作って売ろうというのである。芋をふかし、皮をむき、つぶして丸めたりして即席の団子を作る。それに父親の仕事に使う染料で可愛く、そしておいしそうに見えるように塗った。 
 行くべき学校がなくなり、暇をもてあましていた古賀は国民学校6年生の妹と2人で、歩いて小1時間のところに位置する釜山港に売りに行った。港は大勢の人々でごった返していた。朝鮮南部各地から引き揚げようとする日本人が公共施設に寝泊まりして出航の順番を待っていたのである。 
「これ、砂糖が入っていますか」
「ほんの少しだけ入っていますよ」 
 芋のほんのりとした甘さが和菓子の甘さに似ていたが、砂糖そのものは入っていない。それでも毎回完売となった。お腹を減らしていたりして、甘い物をずっと食べていない人たちが、喜んで買ったからだ。おかげで古賀家は父がいない中、生活を維持することができたのである。

 父の二科が元山の基地からまもなく復員し、家に戻ってきた。戦わないまま武装解除にいたった。軍隊での食事が充実していたのか、粗食でやせてしまった家族とは対照的に二科はでっぷりと肥えていた。 
 一家は家を離れる。歩いて1時間ほどのところにある釜山港の近くにある空き地でほかの引き揚げ者と同じように野宿して、乗船の順番を待った。2日後の夜、船に乗ることになる。担ぐのも一苦労といったぐらいに大きくて重たい父手製のリュックを背負って桟橋につながる階段を歩いていたとき、古賀の腰は突如痛さに悲鳴をあげた。それでもなんとか、関釜連絡船に乗り込むと、あてがわれた窓のない部屋に一家で腰を据えた。

 釜山を出港した連絡船はよく揺れた。隣の家族とお互いの引き揚げ話を披露しあったりして過ごした。そして朝、船は山口県の仙崎港に到着する。日本海に面し萩と下関の間にある仙崎は、見事に田舎であった。内地をしっかりと見るのは古賀にとって初めての経験である。緑に覆われた陸地が迫ってくる。朝鮮では緑の少ない岩山にくらべ、祖国はなんと緑豊かなのだろう。古賀は心が慰められる思いがした。 
 鉄道で下関へ出て、関門海峡を渡し船で越えた。そこからは別の列車に乗り、鹿児島本線で熊本方面へと向かった。久留米と大牟田の間にある瀬高の駅についたのは午前2時か3時という深夜であった。そこから15キロ離れた柳川へと向かった。二科の育ての親である伯父の家をたずねるつもりだったからである。話をつけてあったとはいえ二科にとってそこは戻りにくい場所であった。伯父と意見があわず、反発して家を飛び出していたからである。古賀一家にほかに頼る場所はなく、背に腹はかえられなかった。
 父の伯父の家に到着し、旅装を解く。リュックの中には竹篭が入っていて、その中には陶器がぎっしりつめられていた。重いはずである。
 コレクションをなるべく沢山持って帰りたいが、一人では限界がある。だったら息子にも持ち帰ってもらおう。古賀に重いリュックを担がせた二科の真意はそんなところにあるのだろう。しかし、それらの陶器が高価で、売ればかなりのお金になる可能性があったことも事実である。古賀はこのとき気がつかなかったが、もしかするとこれらの陶器がしばらく古賀家の生活費の足しになっていたのかもしれない。

 古賀家の人々は建物の2階12畳をあてがわれた。伯父とその子と孫という3世代にわたる大世帯であった。戦後の極端に食料が乏しい最中である。大所帯に割りこんでの生活なので肩身が狭かった。満足いくまで食べることなど夢また夢といった様子であったが、住まわせてくれる以上、「もっと食べさせてください」などとは口が裂けても言えなかった。この家の孫たちといっしょに家の手伝いをしたり、遊んだりと大世帯での生活を古賀はそれなりに楽しんでいた。気がかりだったのはいつ復学できるかということであった。

 そのころ、二科は毎日のように福岡方面へ出かけていた。染色の仕事を再開させるべく関係者と会っていたのだ。さまざまな人と出会ううち、二科は朝鮮人が祖国引き揚げに利用する日本の軍艦の艦長と知り会う。12月のころだ。
「この軍艦に紛れ込んで、子どもなら乗っていける」という知恵を二科は授けられ、さっそく古賀に提案する。
「釜山に行って、家に残っている荷物を少しでも運んでくれないか。あの家にはまだ義弟が残っているから、なんとかなるはずだ」
 話を受け、古賀は考えを巡らせる。
「日本人であることがばれたら、拘留されて何年も働かされるのかな。さもなくば、即刻帰国させられるのだろうか。艦長はすべてを知っているから、乗組員である日本人水兵たちのことは気にしなくてもいい。問題は船を下りてからだ。街を歩くときにうまく人の目を盗まねばならないだろう」

 結局、古賀は無鉄砲にも渡航を決めた。
 生まれ育った家に久々に帰り、置いてきてしまった懐かしい物を持ってくるということは父だけでなく、古賀にとっても嬉しいことであった。
 密航という冒険に心を躍らせ、気分が高揚していた。何を持ってくればいいのか一家でしっかり話し合い、項目を作ったりといった準備はしなかった。
 軍艦の出航日、ほとんど空の父が作ったリュックを背負い、父の知人の家に行き、水兵に連れられて博多湾の港に向かった。乗り込む船は機雷に触れても大丈夫な掃海艇だったようだ。
 数十人の朝鮮人とともに乗り込む。日本での生活が長く、祖国の言葉がわからない者に配慮してのことなのか、リーダー格の若い朝鮮人があえて日本語で指示を出した。
「日本の軍艦が帰国業務を引き受けてくれているのだから、船室内を汚さないよう、規律を持って行動しよう」
 その場で古賀に対し、「なぜ日本人が乗っているんだ」と問いただしたりする者はおらず、まずは一安心である。
 出港した後、母親に作ってもらい持たされた大きな麦飯のおにぎりを夕食に食べた。密航しているという事実に古賀は緊張し、次第に吐き気に襲われるようになった。
 漆黒の闇の中、船は進んでいく。ついに吐き気は押さえられなくなり、古賀は甲板に出た。海へ吐いてしまおうとしたのだが、間に合わなかった。吐瀉物を甲板に「げーっ」とぶちまけてしまう。船内はきれいに掃除してあり、清潔な状態が保たれていた。このままでは吐いたものが目立ってしまう。とはいえ綺麗にする、いい手段が見つからない。困ったあげく、「そのうち波しぶきや風が洗い流してくれるだろう」と思うようにし、そのまま放置した。
 翌朝リーダー格の青年が、皆を集め、この汚物を問題にする。
「誰が汚したんですか。掃除しなきゃ駄目だな」
 悪いと思いながらも、古賀は名乗り出ることができなかった。申告すれば日本人だということがばれてしまうかもしれないからだ。
「おにいさん、ごめんなさい」
 古賀は心の中でそう念じつつも、沈黙するしかなかった。

 釜山港に到着する。港から住んでいた家までは1時間ほど。市電に乗れば早く家にたどり着ける。乗っているのは朝鮮人ばかりである。乗り込んで何かの折りに日本人であることがばれてしまうかもしれない。古賀は市電に乗るのをやめて、徒歩で家まで行くことにした。勝手知ったる釜山の街中である。古賀は北西方向にある自分の家へと歩いていった。家には父の義弟つまり叔父がいて、驚きながらも喜んで迎えてくれた。彼は朝鮮人の恋人と一緒に住んでいた。彼女を日本に連れて行くかどうか決めきれず引き揚げが遅れていたのだ。
 家は引き揚げたときのままになっていた。朝、夕と食卓には醤油ビンが置かれた。何年も使われ、一カ所が欠けていた。一家全員にとっての思い出の品である醤油ビンを持ちかえれば、誰もが懐かしがるに違いない。そのように思い、リュックに放りこんだ。そのほかにも、古賀が選んだのは思い出の品が中心で、父親が集めた工芸品にはぜんぜん目がいかなかった。

 数日すごした後、古賀は連絡船に乗り込んだ。父や母、そして兄弟たちの喜ぶ顔が目に浮かぶようだった。古賀自身、達成感を覚えながらの帰国であった。
「何でこんな物を持って帰ったのか。もっと大事な物があったでしょう」
 出迎えた家族から不満が噴出した。父は落胆する。自分の求めていた工芸品がぜんぜん入っていなかったからである。そのかわり出てくるのは役に立ちそうにないがらくたばかりなのだ。
「もう一回行ってこい!」
 二科さんは古賀に命令した。

 数週間後、再び船に乗った。問題を避けるためには韓国人と違う部屋の方がいい。そう判断し水兵のベッドの一つを使わせてもらった。蚕棚のような狭い個室である。
 今度はさすがにうまく行った。朝、下船するとき水兵にさよならを言ってから、家にかけつけた。叔父はまだいたが、ときすでに遅し。古賀家の荷物には差しおさえを示す封印の紙が貼られ、ヒモがくくりつけてある。価値のありそうな荷物は韓国政府が没収するのであろう。手を出せない状態であった。
 そこで金目の物以外で、持って帰れる物を探すことにした。板状の蝋板(約30センチ四方、厚さ約5センチ)が接収されず、放置されたままになっている。一見無価値なもののように見えるが、染料の作業には大量に必要な代物であった。できる限り持って帰ろうと、古賀はかき集めてみた。リュックは重かったが、古賀は頑張って持って帰ることにした。

 昭和21年2月、古賀は松尾に1年遅れで中学校に編入する。彼にとっての戦後は、編入してから始まったといえるのだろう。2度も密航が成功したのは敗戦直後の混乱の時期であったからこそできたことであった。

38度線を越える

 野崎の家には、国民学校に駐留していた日本軍の将校が戦後、毎日のようにやってきた。野崎の姉が教師であったよしみで、4人ほどが酒や牛缶を手土産に連れだってたずねてきた。風呂を借り、野崎の父、知城さんといっしょに飲むのである。
 明るい酒ではなかった。
「末はシベリア行きか~」
 酔って、ぼやくのが常であった。実際、この後、ソ連占領地(朝鮮北部、満州、樺太)に残っていた日本人将兵はすべてシベリアへ連行される。総数は約60万人。そのうち現地で亡くなったのは、約6万人にのぼった。

 8月15日以後、朝鮮半島は分断される。北緯38度線を境にして、北はソ連軍、南はアメリカ軍の支配下にはいるようになった。野崎の住んでいる興南は北側にあったので、進駐してきたのはソ連軍であった。ヨーロッパ方面には質のいい兵士を配備したが、シベリアよりも東のアジア方面には囚人をそのまま兵隊として組織し派遣したため、程度の悪い兵隊がそろっていた。
 野崎がソ連兵を町で見かけるようになったのは8月下旬になってからのことである。つばのない戦闘帽、油でテカテカしたぼろぼろの制服で、日本兵よりもみすぼらしい格好をしている。なのに肩から下げている自動小銃がやけに立派だった。
 戦争に負けても平穏な生活はなんとか保てていた。しかし、ソ連兵の進駐によって生活は破壊される。路上で日本人から腕時計や万年筆を奪いとる追いはぎを手初めに、民家に入っての略奪、女性がいれば強姦を試みた。日本人は震えあがり町中から避難する。女性は強姦されないよう、髪を切り、坊主頭となり男装して身を守ろうとした。
 8月の末、野崎の家の近所にもソ連兵の強盗が一人でやってきた。家族は裏の家に避難していた。野崎は持ち前の好奇心から忍び寄り、扉の隙間から兵士たちの行動を覗こうとした。すると途端に扉があいてしまい、野崎は肝をつぶした。
「しまった。おとなしくしていればよかった」と激しく後悔した。
 驚いたのはソ連兵も同じである。かじっていたリンゴを投げ捨てて、銃を構えた。兵士と野崎の間は2メートルほど。ソ連兵の銃口は野崎をねらっている。背中を向けて逃げても、これだけの至近距離ならば、撃たれたらおそらく死ぬ。熊にあったときの対処のしかたと同じように、野崎はじりじりと後ずさりする。5メートルほど離れると兵士は銃をおろした。すぐに撃たれないことを確認すると野崎は背を向けて歩いて逃げた。命の危険が去ると、野崎の足は途端に震え出した。

 日本人の中には射殺された人も出てきた。それを受け、日本人世話会は「露助(ソ連軍兵士)に手を出さないように」、という通達を出した。なので、野崎たち日本人はソ連兵が襲ってきても逃げるしかない。被害が出ても我慢するしかない。そうしたひどい状況がしばらく続いた。ソ連兵は好きなように強奪をくり返した。
 腕時計をじゃらじゃらといくつもはめて喜び、動かなくなるとネジを巻く前に壊れたと思い込む無知な兵隊たちであった。
 そのころ朝鮮北部を統治していた朝鮮共産党(朝鮮労働党の前身)政権は日本人の支配構造を壊そうとしていた。日本人は工場の立ち入りを禁止され、一般従業員もリンチされるなどの迫害を受けた。9月のはじめには武器やラジオ、自転車やカメラの供出があった。「日本人の所有物は朝鮮人から帝国主義的搾取によって得たものだから、我々が所有する権利がある」という理屈であった。

 仕事や学校はなく、貯金の払い戻しは停止されていた。日本人は家財道具を売り払い、生計を立てようとしたが、共産党政権は「経済撹乱」を理由に禁止する。野崎家では、早い段階に、カメラや李朝の磁器や掛軸などリヤカー1台分を売り払ったが、買い手の朝鮮人が「保安隊に没収されたから金を返せ」といってきた。うそとわかっていても返さざる得なかった。

 9月半ばから月末までの間、3回に分けて、工場社宅から日本人が追放された。その際、家具などの持ち出しは禁止された。後から社宅に入居する朝鮮人のために、政府は家具を用意しておきたかったのである。

 長男をのぞく9人からなる野崎一家は2回目の20日に移動させられている。家具は持ち出せなかったが、牛車2台に布団、衣類、生活具、便所に使う古新聞まで積んでいくことができた。これは父の友人である朝鮮人の親切により実現したことであった。
 共産党政権から移動先の指定がなかったため、友人に教えてもらった状態のいい空き家に移動した。そのとき、率先して動いたのは大黒柱の知城さんではなく、師範学校に通っていた次女であった。野崎は女の強さをこのとき思い知った。野崎家はなんとか持ち出した衣類(特に防寒具)を売って飢えをしのいでいくことになる。

 10月ごろ、収穫の時期を迎えた農村で、野崎は仕事を手伝った。豊作の大根を作業中に「一本ぐらい食っても良かろう」と皮をむくと、「これは売り物だ。日本人が食うものではない」といわれ、おいしくないハクサイの芯を渡された。そんなとき野崎は前年、勤労動員で出かけた農村で朝鮮料理を振る舞われたときのことを思い出した。
 しかしそれでも仕事があっただけまだましだった。冬の寒さが襲ってくるころ、仕事も食料もなく、ただただ寒さと飢えに耐える日々をおくることになる。燃料は確保できず、寒さが募ると絶望だけが広がる。そんな中、彼らを支えたのは日本への引き揚げという希望だけとなる。
 母は帯の芯地から家族全員のリュックをつくり、荷物を整理して、いつでも引き揚げられるように身仕度をした。
「内地の山河は緑に覆われていて、そりゃあきれいだった」
「ふるさとで食べたぼた餅やすき焼きはとってもおいしかった」
 多くの日本人は内地の素晴らしさを語って希望を捨てないようにした。内地で暮らした思い出のない野崎は無論ぴんとこない。知城さんは、第一次大戦後に辛酸をなめたドイツの例を出して説明した。
「戦争に負けた日本は、賠償をとられ20年は立ち上がれないだろう。内地での生活は厳しいものになるにちがいない」
 それでも日本人は内地に帰りたい。それだけが飢餓と屈辱にまみれた今の境遇から抜け出す唯一の手段だからだ。

 冬になると、最高気温が零下という厳寒の日がつづくことになる。粉雪なので雪が積もることはないが、地面はかちかちに凍る。戦後まもなく、興南には避難民が集まるようになった。ソ連軍の攻撃を逃れるため、満州国境から着のみ着のままの夏服でやってきた者たちが流れてきた。食料が不足し栄養失調となっていたところに、寒さが募る。すると彼らの多くが年を越せずに亡くなっていった。近郊の元陸軍の兵舎に収容された避難民約3300人のうち1500人が死亡した。
 野崎たち興南に住んでいる居留民は住むところがあり、地の利があっただけ彼らよりはましであったが、日を追って境遇は悪化していく。興南にある共同浴場から日本人は締め出されたりして入浴自体が禁止された。その結果、日本人社会の間で衛生状態が悪化し、肺炎や発疹チフスが流行したのである。発疹チフスはしらみが媒介する病気で、高熱と頭痛の後、赤い発疹ができる。重症者は脳がやられ高熱に耐えられずに死亡する。風呂に入り、熱消毒した衣服を着ていれば予防できる。しかし、野崎たち日本人はそうした状況になかった。
 持ってきていた衣服によって寒さはしのげたし、品物を売れば食べるものを買うこともできた。家族の誰かが衰弱して亡くなる、という事態は避けられた。だが、年を越すころには居留民にも亡くなる人が出てきて、4月までに1500人ほどが命を落とした。
 戦後間もなくの時期は火葬にしていたが、費用がかかる上に、死者が多すぎて処理ができない。そこで共産党政権は町から北東5キロに位置する通称三角山を日本人用の墓地と指定した。棺桶を買って収めることのできる裕福な人はごく一部で、たいていは亡骸をムシロに巻き、縄で縛ってつり下げ、2人掛かりで担いで墓穴に収めた。そのような作業を零下10度以下になる興南の冬場に行うことは不可能である。そこで冬が本格的に訪れる前に幅2メートル、長さ1キロに及ぶ壕を掘ることになった。一冬の間にそれだけの日本人が死ぬことを予想していたのである。
 しかし、その予想をうわまわった。毎日30~40人が命を落とした。1月のうちに壕は死者でいっぱいとなった。焚き火で凍土を溶かし穴を掘ったり、壕ではない場所に死体を置き少しの土をかけたり、はてはそこらあたりに捨てたりした。3万人のうち3000人が冬を越す間に命を落とした。

 いついつ引き揚げ船が出る、という噂がなんども流れたが、すべてうそであった。年が開けても引き揚げの希望は見えず、かといって元気を保つために腹八分目食べていれば、食料が尽きてしまう。引き揚げるまでの間、こうりゃん粥を少しずつ食べて、食い延ばすしかない。
 栄養不足のため体がだるく、顔を洗う気すら起こらない。ごろごろと寝転がって古雑誌を読んで時間をつぶすしかなかった。そんな様子だから、正月になっても餅はない。すりきり茶碗一杯の白米を炊いて正月を祝った。
 そんななか母は、明るい調子でおかしなことをいった。
「(内地に住む)おばあちゃんが餅を持ってきている。駅に今着いたと電話がありました。誰か迎えにいって頂戴」
 先の見えない日々の中、一時、錯乱状態になった。家族は慌てて母を寝かしつけた。

 春になると凍土は溶け、日本人墓地となっている三角山には死臭があたり一面に漂った。埋め方がちゃんとしていなかったため、むき出しの遺体も少なくなかった。そのため、野犬に食いあらされ、骨があたりに散乱していた。なかには無残にも首だけが転がっている遺体もあったという(そのため共産党政権が埋め直しの命令を出した)。

 野崎たちが興南を離れたのは4月23日のことであった。野崎一家の住む竜興地区では地区の日本人世話会が引き揚げ団を組織し、南にある元山までは徒歩、そこからは鉄道で38度線を超える計画を立てた。春になったので野宿しても大丈夫だろうと考えたのだ。共産党政権はそれまでは日本人の移動を禁じていたが、朝鮮人の食料が不足してきたため、黙認するようになった。そうした条件がそろったので世話会は出発を決意した。
 途中、共産党政権の保安隊には「建国資金」の名目であらかじめ、カネを握らせていた。100人からなる目的を同じくする集団に野崎一家は参加した。父親の知城さんはソ連軍から移動を禁じられ、残らされた。医師として働かされたのである。
 ソ連軍票を日本銀行や朝鮮銀行の円に交換し、肌着などに縫い隠した。炒った米・大豆を3合ずつ、各自非常食として携帯した。
「博は我慢のできない子どもだから、この炒り米・大豆をすぐに食べてしまいたくなるでしょう。だけどいくらお腹が減っても食べてはいけない。これがあればいざというとき1ヶ月は生きのびられるから」
 母はそう言って前科のある野崎を注意した。引き揚げ船がくるとデマが流布されたとき、野崎は炒り米を食べてしまったのである。
 朝の8時に世話会事務所の前から出発する。残っていた衣類や布団は売り払ったので、捕まって戻されると死ぬしかない。決死の覚悟による引き揚げであった。幼児や女性、老人を含む飢えて衰弱した集団だけに歩みは遅い。初日はたったの13キロほどしかすすまなかった。道路脇に野営する。食事は野営地で炊いたこうりゃん粥ばかりである。テントや寝ぶくろはないので、固まってごろ寝する。4月の朝鮮は、着の身着のままで野営するには寒すぎたが、野崎はなんとか眠ることができた。母が野崎にかけた風呂敷が毛布のように暖かかったからである。
 5歳の弟は疲れるとぐずり、次姉のリュックの上に乗る。重くて進まないから歩かせてはのせた。大きなリュックがじゃまだった。道路には避難民が負担になって捨てたリュックが、道しるべのように点々とつづいていた。
 保安隊にはカネを渡してあるので戻される可能性はない。しかし更なる金品が要求された。
「前に通過した日本人が井戸に毒を入れたので死者が出た。よって荷物の検査をする」
 井戸に毒というのは、関東大震災のとき、朝鮮人虐殺の口実となった流言であった。検査のたびに金品を奪われたのである。丘陵地帯の畑や山の中をひたすら歩いた。徴用されて左手をなくしたと思しき若い男に怒鳴られた。「36年の恨みをはらす」と言う朝鮮人の若者に取り囲まれたこともある。ぐずれば置いていかれることを本能的に察したのか、5歳の弟はだまってついてきた。気の触れた男や「なにか頂戴」とねだってまわる未亡人が一団に混じっていたが彼らは途中で落伍したようだ。
 6日目の28日午後に目的地の元山に到着した。一同は東本願寺に泊まった。庫裏のある大きな寺だからか朝鮮北部や満州から逃げてきた難民でごったがえしていた。

 野崎は町をほっつき歩くことを忘れなかった。興南の町を占領した不潔で教育水準の低いソ連兵とは違って、清潔なセーラー姿のソ連の水兵をみた。背が高く気品あふれる将校をつけていくと、昭和初期の文化住宅風の邸宅に入った。窓から覗いたら和服の女性がいて、興南ではみることのなかった白パンがテーブルに置かれているのが目に入った。女はソ連兵専用の娼婦(ロシアン・マダム)となったからこそ、家を接収されなかったのだろうか。詳しい事情はわからなかったが、とにかくその家の中だけは別世界的に平和であった。

 情勢の変化により、全員が鉄道に乗ることはできないと世話人代表は言う。そこで、野崎家の8人は母、妹2人(国民学校2年生と4年生)、5歳の弟を列車に乗せ、野崎、姉2人、弟(国民学校6年生)という元気な4人は徒歩組として、二手にわかれることにした。
 2泊した後の5月1日、グループを組み直した100人で出発し、午後には女性や子どもを含まない30人が分離し、野崎たちはそちらのグループと行動した。川をわたり、険しい山をよじのぼった。
 4日目に危機がせまった。昼すぎにトラックに乗っているソ連兵3人と遭遇したのである。クモの子を散らすように田んぼの中を四方八方に散らばって逃げた。命がけである。 「ここまでやってきたのに捕まるもんか。逆送されてたまるか」
 幸い、ソ連兵は田んぼの中までは追ってこなかったし、発砲することもなかった。

 危機はのりこえた。しかし、このままではいつ捕まるかわからない。リーダーは強行軍で南下していくことをグループの者たちに指示した。睡眠もそこそこに夜通し歩いて、山や丘を超えた。
 翌5日早朝、出発を前にリーダーは説明した。
「野営したこの山の下に平地がある。その向こうに見える連峰が38度線地帯だ。これから山を降り、連峰に向かう。道は狭いから露助のトラックは通れないが平地が続くので注意するように」
 リーダーは朝鮮東部、金剛山のあたりの山を指さしていた。

 その後、一向は黙々と歩いた。あと一歩で連峰に入るというところで、保安隊に捕まった。例の所持品検査である。南朝鮮との国境が近いため検査は入念に行われた。列の左右に立った2人の隊員が日本人を1人ずつ調べた。長女は隠し持っていた傷薬を米袋の下にとっさに隠した。それを見ていた村人たちから、刺すように鋭い声がとんだ。隊員がかけより、傷薬をとりあげると「パン」と長女にビンタをはった。まずい、ここで逆送を食らうのか。野崎はひやっとした。
「出ていってよろしい」
 一同が保安署から出て、数十メートル歩く。するとパーンと後ろから銃声がした。ドキッとして一斉に振り向くと、三八式歩兵銃を構えている隊員が野崎たちの様子を見て、ニヤリとした。

 その日は夜までひとやすみした後、月明かりの中10時に出発した。山間の地を歩くと夜中1時ごろ、幅2メートルほどの小さな川にさしかかった。それが38度線であった。野崎たちは膝までつかり川を越えた。興南から約220キロの道のりを歩きとおし、南朝鮮に抜けた瞬間であった。38度線から少しでも離れたくて、一同は一斉に、へたり込むまで走った。
 朝になって山を降りる。すると京城へと続く自動車道路にさしかかった。これで共産党の保安隊やソ連軍に捕まり戻されることはない。一同は安堵しのんびりと歩いた。途中、やってきたトラックに乗せてもらい、京城に入ることができた。街の入り口にある国民学校が防疫所となっていて、そこで米兵にDDTを噴霧された。米兵は20台前半と若かった。難民である野崎たちを1人の人間として親切にやさしく扱った。
 鬼畜米英というプロパガンダを鵜呑みにして英豪軍の捕虜に罵声を浴びせたり、終戦直後は敗戦を信じようとせず皇軍の巻き返しを期待したりした野崎だったが、米兵に初めて会い親切にされたことで、敗戦は事実だと認めざるを得なくなった。
 その日は東本願寺に泊まり、翌朝、貨車に乗り釜山へと出発した。そして釜山からはぼろい小型貨物船で玄海灘を越えた。
 博多についたのは5月12日。コレラ予防のため船内で1週間足留めを食らったが、船内の雰囲気は明るく希望にみちていた。朝鮮生まれの野崎にとって日本は外国のような存在であった。故郷に帰ってきたという感慨はない。これからどうなるんだろうという不安と期待、そして内地に着いたという安堵が渦巻いていた。
 船内に流れるラジオで「リンゴの唄」を初めて聞いた。戦後の内地での生活がまもなく始まろうとしていた。

内戦に巻き込まれる

 玉音放送の後、溝上たちは8月15日の昼をもって避難民警護の任務を解除される。武装解除となれば難民となり、食うや食わずの生活に転落することが憲兵たちには見えていたのであろう。憲兵隊、つまり軍の計らいによって、生徒たちは豚肉がたくさん入った味噌汁というごちそうを昼に食べたのだった。
 関東軍の大部隊が駐留している綏化[すいか]の町には大きな飛行場がある。北満各地から集まってきた3万から3万5千人といわれた避難民のうち、鶴崗やチャムスなどからやってきた約5000人は飛行場の格納庫や兵舎に避難した。そのうち鶴崗からの難民は700人ほどであった。
 溝上は支給されていた三八式歩兵銃を置いて、難民収容所へ向かった。憲兵隊からあらかじめ調べてもらっていたこともあって、家族とはすぐに再会することができた。母のほかにはフィリピン生まれの妹が2人、鎮海生まれの弟、満州生まれの妹がいた。父は沖縄戦で生死不明、特務機関に所属していた溝上のすぐ上の兄も生死不明であった。
 溝上が中学に入学して以来の4ヶ月ぶり、しかもこの動乱の最中である。母と子の6人はお互いの無事をひととき喜んだことであろう。しかし、これから先の見えない難民生活が続くのである。そう喜んでばかりはいられなかった。

 格納庫の中はひどく混雑していた。約700人が1つの格納庫にすし詰めになっていた。わずかな通路を除いて、一人一人が足を伸ばす余裕がないほどにつめ込まれていた。床面はコンクリートでそこに「アンペラ」と呼ばれるござは敷いてあるが、固くて冷たくおまけに湿気が多く、生活環境は劣悪だった。
 トイレは穴を掘り、周りに棒を立てござで囲っただけのもの。洪水の影響なのか水は汚染されていた。綏化駅に到着したとき、牛肉大和煮の缶詰が1人1個ずつ支給されていたが、とっくに食べてしまっていた。風呂は入れないし、服は着たきりスズメ、全身はアカだらけ。大量のシラミがたかっている。そのような不衛生な状態なので疥癬(伝染性皮膚病の一種)は流行する。ほとんどの者が下痢になった。溝上は結膜炎にも悩まされる。
 日々の食べものはさらに乏しくなっていく。1日3回のお粥が2回となり、米の粥がこうりゃんの粥となり、中に入れるものがなくなるとほとんど重湯でしかないお粥をすすったりした。難民たちは空腹で体が衰弱していく。栄養失調になると肋骨が浮き、目玉の回りがくぼむ。頬はこけ、肌がかさかさしてくる。子どもの場合、頭がやたらと大きく見え、餓鬼のようにお腹が膨れてくる。
 伝染病が蔓延したので被害は拡大する。1時間ごとに米のとぎ汁のような液便をくり返すコレラ、発疹チフス、疫痢(幼児に多い急性の感染症)に、はしかや肺炎が発生する。病気にかかった者が隔離されることはなく、消毒液もない。しかもすし詰めである。感染は猛烈に拡大した。
 在郷軍に臨時応召され、そのままシベリアに送られた者が多かったため、避難生活者に成人男子の割合は少なかった。そこで溝上ら少年たちも死体片付けの作業にかり出された。作業の報酬におにぎりをひとつもらえたので、作業をしていない者たちにくらべると、衰弱の度合はまだましな方だったのであろう。とはいえ、埋めた遺体はコレラで亡くなったかもしれず、少年たちが伝染病にかかる可能性は絶えずあった。数日前、一緒に作業した者が、急死することも珍しくなかった。

 朝、起きると溝上はロウソクの火を決まって数えるようになった。電灯が点っていないまっ暗な格納庫の中に点々とロウソクの火が見える。その明かりこそが、夜の間に亡くなった人の数であり、つまりその日埋める死体の数でもある。
 いつ病気で亡くなってもおかしくはなかったが、溝上はその点、体が頑丈にできていた。フィリピンのミンダナオで生まれ、小さいころサルと一緒に木に上る生活を送ったこともあって、すでに免疫が備わっていたのかもしれない。

 9月17日以後、避難民は順次、綏化から南の大都市へ移動していく。戦後明らかにされたところによれば、そのころ満州を押さえていた国民党(国府軍)とアメリカの話し合いにけりがつき、日本人の移動が許可されたのだった。
 溝上たちの移動は玉音放送から40数日が経過した9月20日ごろである。そのころには幼児や老人、病弱者はほぼ死に絶えていて、格納庫の中で、溝上は足を伸ばして楽々と寝ることができるようになっていた。
 移動はぎゅうぎゅう詰めの無蓋車ではあったが乗り込んだときはさすがにほっとしたであろう。しかし長時間身動きもできず、立ったまま乗り続けるのはつらいことであった。衰弱している上にさらに飲まず食わずの状態が続く。回りには伝染病にかかっている者がいるにちがいない。
 目的地の新京までは、平和なときであれば乗り継ぎも含めて12時間あれば到着する。しかし、時は非常時である。時刻表どおりに貨物車が進むことはなかった。

 動き始めてほどなく列車は駅でもないところに停車した。襲撃されないか、難民たちは不安になる。進行方向線路の左側には大洪水で突然発生した湖が見え、風にあおられて波が列車にうち寄せた。もとはこうりゃん畑だったところに舟が浮かんでいた。列車は動く気配もなく、そのまま夜になった。日本の冬よりも寒い北満の夜。溝上はそのとき、夏のシャツに半ズボン。その上から洗濯していない垢まみれの、しかも湿気ているシャツとズボンをまとっていた。栄養失調状態の上に、もともと寒さに弱い溝上である。湖の向こうから吹きつけてくる冷たい風が骨の髄までこたえ、肌は針を刺されるようだった。
 列車がとまるたび、人々は用を足すために車両の裏などに散った。女性は羞恥心から草むらや物かげに隠れたり、列車から離れたりすると、そのままはぐれてしまう。
 ギャーと悲鳴が聞こえてくる。下手に動くと殺されたりするかもしれないので、誰も助けにいかない。待ち構えていた満州人の人さらいが売春婦として使うために捕まえたのか、それとも強姦しそのまま捨てたのか、列車に戻ってこない女性が珍しくなかった。

 なんとか40数日間を生きのびた難民たちだったが、車内のひどい環境状態により、衰弱死する者が続出する。亡骸とともに乗り続けているわけにはいかないので、投棄することになる。ときおり川にさしかかると、慟哭する家族に代わって他の人が無蓋車の上から投げ捨てた。最初こそはうまくタイミングがはかれず、亡骸を土手にぶつけてしまったが、あまりに死ぬ人が多いのでだんだんと放り投げるのが上手になり、川の手前にさしかかる直前に投棄し、うまく川に流すことができるようになった。
 何度も何度も列車は止められる。このとき列車を動かしていたのは中国側で、駅や鉄橋の警備を担当しているソ連兵が、列車を止めては難民たちに金品などの袖の下を要求したのである。なかでも、ハルピンの手前で止められたときはひときわ大変であった。
「金品と女を出せ。さもなくば通さないぞ」
 溝上は中腰のまま、列者が動き出すのをひたすら待った。随分と長い間、鉄橋のところで停車したままだった。女たちはお互い不信感の塊となった。
「水商売の女か、淫売をやったことがある女が、誰か出ればいいのに」
 ある女性がつぶやいた。
 自分が名乗り出たりはせず、身勝手なことを考えているのだ。車内は緊迫した異様な雰囲気に包まれた。溝上は人間がいかに醜い存在なのかということを思い知った。
 結局は鉄橋を越えることができたのだから、水商売の女性の何人かが人身御供となったのだろう。彼女たちはその後どうなっただろうか。

 4日目に新京についた。満州国の首都にふさわしく駅舎は立派であった。ホワイトハウスを横に引き伸ばしたような形をした建物である。そうした壮麗な駅舎と、這々の体で列車から降りた溝上たちの衰弱ぶりは一見不釣り合いであった。しかしそのとき駅舎は似たような難民たちでごった返していたため、溝上たちだけが目立つことはなかった。
 混乱していたためか、どこに収容されるのかまだ決まっていなかった。そのため新京初日は駅で1晩泊められることになった。

 翌日、新京駅から歩いて1キロあまり、ロータリーの脇にある児玉公園へと連れていかれた。満州一の規模をほこる、公園はその名の通り、児玉源太郎にちなんでつけられている。馬上から敬礼している児玉の銅像が溝上の目に入る(次に街に出たとき、溝上は児玉の首が切り取られているという噂を聞く。公園で確かめてみると、そのとおりだった)。
 翌日正午に公園を出発、食事もとらせてもらえない状態で歩かされた。駅からまっすぐ6キロにわたって続く、幅50メートルの舗装道路を一家は南へと進んでいく。右には関東軍司令部、憲兵隊司令部、中央銀行、左に康徳会館、東拓ビルなど煉瓦やコンクリートの建築物が立ち並んでいる。
 国力を示威した立派な建物のわきを、飢えて衰弱した難民たちがぞろぞろと歩いている。いくら建物が立派でそのことがいくら誇りに思えても、食べなければ死んでしまう。溝上家の人々はその事実をどのように受けとめて歩いていたのだろうか。
 公園から7キロほど歩いたところにある南嶺動物園、その入り口にある建物に収容された。ほっとしたのか、衰弱の限界を迎えたのか、鶴崗で生まれた一番下の妹が、着いてすぐに息を引きとった。よほど環境が過酷だったのか、冬を越えられず、ほとんどの人が命を落としたのだという。
 新京に住む当時の日本人人口は約10万人で、そのうち5万人がすでに避難していた。北満からは約15万人ほどの日本人が流れ込んだ。冬場でもあるため、食糧の確保は困難で、そのため命を落とす者がここでも続出した。引き揚げが開始される1946年夏までの間に2、3万人が死んだと言われている。

 溝上一家は新京に住んでいる親戚の家に身を寄せた。父の秀雄が子ども時代をすごしたブラゴベシチェンスク(通称:ブラゴエ)の親戚夫婦はシベリアから引き揚げて、軍人相手の商売をしていた。ダンスホールを兼ねた食堂である。建物は幸いにも広い。溝上一家はここで新京の冬を越すことになる。なお、特務機関にいた兄とはこのころ合流している。
 南嶺に駐留するソ連の自動車部隊によって使役(強制労働)に狩り出される日々が続いた。寒くて過酷な仕事である。食事をろくにとらない状態で体を動かすのがきつくて彼はたばこを吸うようになった。その習慣はその後も続いた。辛くてたまらないのでときどき逃げて帰った。
 目がクリクリとして大きく、肌がひときわ黒い溝上は、少年たちの中では目立つ顔立ちであった。そのためソ連兵に顔を覚えられ目をつけられていた。ある日、溝上の脱走が見つかってしまう。
 ソ連兵の1人に、こっちにこい、といった意味の言葉を言われる。相手は銃を持っているので逃げるわけにはいかない。見せしめに引っ張り出されてしまう。
 溝上は自分に向けて銃を構えているソ連兵の銃口を見て、頭の中が真っ白になった。恐怖に打ち震えている溝上の心を読みとったのか。銃口を向けた兵士は途端に余裕を見せた。
「マリンキ、マリンキ××○○~」
 マリンキとはロシア語で小さいという意味である。溝上には正確なところはわからなかったが、相手はおそらく「こいつはまだ子どもだからそこまですることはない」といったことを言ったのだろう。結局、見せしめ射殺は中止となった。
 殺されそうになった経験は溝上のトラウマとなった。大人になった今でも、そのときのことをときどき夢で見ることになる。脂汗をかいてガバッと目を覚ましてしまうのだという。

 ソ連兵は鬼畜であった。少女であろうが老女であろうか相手構わず(溝上の同級生の女の子もいた)を強姦しまくった。病院には淋病・梅毒の治療のため兵隊の列がつらなった。順番待ちで暇をもてあました兵士は窓から中国人を撃った。手癖の悪い泥棒を、面白がって撃ち殺すのである。
 人が死ぬ現場を溝上は日常的に見ていたわけだが、強姦に関しては目撃する機会がなかった。身を寄せた親戚はブラゴエでの生活が長く、ロシア語が話せた。事が起こると素早く察知し、万事うまく処理することができた。
 ジーマという参謀がダンスホールの常連だった。彼はみよちゃんという女性を囲っていて、溝上の親戚宅に住まわせていた。マダム・ダワイと呼ばれるソ連軍人相手の娼婦として彼女は生きていたのである。
 ソ連人はとにかく文字が書けなかった。
「マリンキ(小さな)おまえは学校何年行った」
「幼稚園含めて7年だ」といったらジーマはたまげていた。
「ロシアで7年も行ったらカピタン(隊長)になるぞ」
 ジーマは大佐で読み書きはできたが、そのほかほとんどのロシア兵は読める人はたまにいても書ける人は皆無に近かった。

 4月14日、ソ連軍は新京から完全撤退した。それを受け米軍は国民党政府に日本人の引き揚げを指示した。米軍はその年の初めから、日本人の引き揚げに際して国民党と連携、協力していたのである。
 ところが、ことはうまく運ばなかった。ソ連は八路軍(共産党軍)が新京を占領できるよう裏で画策していたため、ソ連軍撤退とともに八路軍が街を包囲し攻撃を始めたのである。八路軍が入ってくるのを防ぐため、国府軍が応戦した。国共内戦である。
 お互いの部隊には関東軍の残存部隊が参加していたので、中国人同士だけではなく、日本人同士による殺し合いという側面もあった。八路軍は溝上の住む家に上がり込み、国府軍を狙ったりした。
 新京中心部の戦闘は南嶺よりも激しかった。銃撃戦があちこちで起こったり、中央銀行に立てこもった国府軍を八路軍が火攻めにしたりした。後者の攻撃で国府軍の兵士が大勢死んだ。熱くて我慢ができず飛び降りる兵士があいついだのだ。
 内戦によって溝上は家族を失っている。4月14日の朝、溝上の目の前で兄が撃ち殺されてしまったのだ。新京市街にくらべ、それほど戦闘が激しくなかった南嶺で、兄が命を落としてしまったのには、事情がある。
 溝上は知らなかったのだが、兄は連合軍の指名手配リスト40人の1人に入っていた。八路軍のあぶりだしなどをまかされていた溝上の兄を、銃撃戦のどさくさでひそかに射殺する「処刑」があらかじめ決まっていた。八路軍侵攻の際狙われたというわけだ。ブラゴエで食堂を経営していたロシア語の話せる親戚は、そうした情報をうすうす聞き出していたようだ。

 そのあと、街はふたたび内戦に巻き込まれ今度は国府軍が街を奪還する。日本人の引き揚げが始まったのはそれがきっかけであった。
 新京で国民党政府から引き揚げの通告が日本人会に出されたのは7月5日である。通告を受け、溝上一家は7月に新京を出た。ソ連軍が撤退していたこともあって、今度は列車を止められることはなかった。中国本土まで約120キロのところに位置する葫蘆島[ころとう]から船は出る。満州の港といえばほかに大連、旅順、営口が主であるがこれらの港は国府軍が日本人の引き揚げに使わせなかった。
 葫蘆島近くの錦州でまた足留めとなる。原因はコレラである。旧兵営で40日ほど隔離された。そこでもまた何人かが死に、溝上はまた死体を片付けた。
 博多湾についたのは9月の終わりだった。船の中でコレラが発生した。博多の灯が見えるというのに、船は接岸せず、1週間以上停泊した。船の中で検査を受ける。ガラス棒がなかったため、角を削っていない割り箸を肛門からぶすっと突っ込まれた。尻の穴の内側に棘が刺さった。
 もうすぐ上陸できる、もう大丈夫だろう、と期待と安堵で渦巻いていた者ほど落胆が大きかったということなのか。気が狂い、飛び込み自殺する者がかなり出た。普通、人は海面に浮くものだが、やせすぎていたため、沈んだっきり浮きあがってこない。誰も救出にいかない。ここまで生きのびて、なんで自殺するのだろう。溝上は思った。保菌者がいないことが確認されたのち、博多について1週間以上たってから上陸した。
 日本に帰ってきたら食べ物にありつける。期待して引き揚げてきたというのに、帰ってみると何もない。
 延々と10年ほど、そうした食うや食わずのひもじい生活が続いた。「生きることは空腹と戦うことだ」を人生訓として、彼は戦後を生きのびていく。
(最終回・了)

※本稿の時代背景を説明するため、地名・呼び名など、当時の表現のまま記述した箇所があります。

タグ

バックナンバー

キーワードから探す

ランキング

お知らせ

  1. 春秋社ホームページ
  2. web連載から単行本になりました
閉じる