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疫病論 西谷修

中国における医の伝承

 信仰と癒しの千年

医師の要らない千年と言った。誇張だろうか。そんなことはない。ギリシア系の〈医〉は邪教の風習であり、真の〈癒し〉は神への信仰(「真の宗教」)によってしかもたらされない。なぜなら、あらゆる病苦は〈罪〉に由来するのだから。それがこの「万人の救い」の宗教の教義であり、正統と異端の峻別に厳しかった初期教会の姿勢だった。信仰こそが癒しであり、治癒は奇蹟なのである。そのため、キリスト教が浸透してゆくにつれ、ヒポクラテス文書の類いはとりわけオクシデント(西)のカトリック世界には場をもてなくなった。それは東の果てへと押し出され、わずかにガレノスの技術的知とローマの「遺風」がキリスト教的救済の周辺に残る。

そこでしだいに際立ってくるのは、ライ病者等の避難所となった修道院だが、この特別な場所については別に考察を必要とする。そんな時代がざっと千年余り続き、「終りの日が訪れる」と皆が信じていたミレニアムが不発に終わった頃、イスラーム世界に接する地域にヒポクラテスが帰ってくることはすでにふれたとおりである。そのとき、ホスピスとしてホスピタリティを提供していた修道院付き施設が、逆説的なことにホスピタル(施療院・病院)の原型となり、そこに付設された医学校を拠点として、やがて医学は神学・法学とともに大学の軸となり、後のオクシデントの医学が羽を広げるように発展してゆくことになる。そして成長する近代医学は、今度は逆に、宗教を迷妄として排することをドグマとするようになるのである。

 

中国の〈医〉

その時代、他所ではどうだったのだろう。日本と関係の深い中国を見ておこう。というより、われわれの用いている「医」の文字=語の由来する中国ではどうだったのか。

中国にも古くから〈医〉の伝統があった。医師という語はすでに周(前11世紀~前7世紀)の官制を記した『周礼』に官職として記載されている。「医師は医の政令を掌り、毒薬を聚めて以って医事に供す」とし、四種の専門医が区分されていた。食医、疾医、瘍医、獣医である。現代風にいえば、食餌療法師、内科医、外科医、獣医ということになるだろう。周(西周)の末期、春秋戦国時代に入る頃、ギリシアではオリンピアの祭典が始まって、そのため食餌養生や家畜飼育も発展し、下ってヘレニズム期のアレキサンドリアには食医と疾医の区別もあったようだが、中国では周の時代にすでに分化があっただけでなく、それが官職になっていた。ということは今で言う行政の一環に組み込まれていたわけだ。古くから言うように、民を養い生かすのが政治(というより統治)の重要な役割だったとすれば、〈医〉は神権であれ何であれ、初期から世を治めるという統治の一画だったのである。思い合わされるのは「治水」である。古代中国では、荒ぶる大河を「治め」民を安らがせる者が「帝」となる習わしがあった(『史記』「五帝本紀」などから読み取れる)。生き身の厄禍を「治す・癒す」のも「治める」ことに繋がっている。ついでに述べておけば、ギリシアでも中国でも、〈医〉は人間だけでなく周囲の生き物も視野に入れていた。そして薬草のことも考えれば、人と生き物と草木は、相繋がって捉えられていたと言える。生きとし生けるもの、土と水と木と火と金、森羅万象(フュシスや四元が思い合わされる)、そこに天の〈命〉が貫き、人の〈命〉はそれに支えられていたわけだ。

 

「医」の文字は何を表わすのか

ところで、この「医」の文字は何を表していたのか。イアトリケー(ギリシア)とかメディキナ(ローマ)といった概念(イデア)ではなく、中国では文字がまず依り代であり、理念はそこから生じる。この文字を「記号」とはいうまい、記号といったとたんに、それはある働きをする、あるいは機能を担う、たんなる道具(手段)となり、思考の対象ではなくなってしまう。ある理念があってそれを刻み表すのが文字なのではない。アルファベット表音文字が規範である西洋では、文字は一般的に「記号」ないし「刻印」として扱われる。だが、文字は初めから「印・刻印・グラフィー」なのではない。刻むことそのものから、刻まれたものから、人間の思念に立ち昇るようにして、共同の体験のなかから意味は生じてくるのだ。科学という超越論的ドグマに憑依する近代西洋の知は、このことを理解しない(私のような考えを、西洋言語学者たちはチャイナ文字の神秘主義だねと頭から笑うが、じつはこれはジョルジュ・バタイユが偏執したヘーゲル的弁証法の根幹でもある)。

もちろん、現在に伝わる漢字は時代や使用を通して整序されており、何かを示すものとして働く(それを画したのが、今でも典拠になっている漢代の『説文解字』である)。その『解字』にしたがえば、医は略字、その旧字は「醫」または「毉」で、上の左は矢立、右は射る人の姿勢を示し、その下に酒の容れ物がある。これは薬草を酒に煎じたもので、それをもって邪(病)を制するのが「醫」だということになる。異字として、没薬の代わりに巫を使う、つまり呪術がある。薬草や呪術をもって邪をうつということだ。それが中国の〈医〉なのである。

ついでに見ておけば、「疾病(シッペイ)」はもと「疾、病なり」と使った。「疾」が重篤だ(病)ということだ。「疾」は「疒」が床に伏せって苦しむ人を象っており、「矢」は人の脇の下に矢が刺さる形。だから疾病は「疾」つまり傷病が元になっており、そこから「醫」の上部ができているとみなすことができる。

 

「始原」の説話

中国には最初期の帝(王)に関して「三皇五帝」の伝承がある。典拠によって異説はあるが、最も流布している説では、「三皇」には伏羲ふくぎ女媧じょか神農しんのうがあげられ、これらは人を超えた半人半獣の姿で想定されている。それに続く「五帝」は、草創期の人の世の王であり、司馬遷の『史記』では、黄帝こうてい顓頊せんぎょくこくぎょうしゅんがあげられている。孔子が理想とした「堯舜の世」だ。『史記』は、巻頭に「五帝本紀」置き、黄帝に関しては伝説に幾ばくかの真実があるとしてこれから記述を始めている。堯・舜に至ると話はかなり具体的で、彼らは治水の才覚と人望によって帝となり、帝位は世襲ではなく「禅譲」(王が適格者を選んで位を譲る)によって継承される。孔子が「徳治」の理想とした「先王の世」である。だが、舜の後継と目されたに至ってそれが機能せず、結局、血筋が衆人を従わせ納得させる継承の原理となって、ついに夏王朝が開かれることになる。

この経緯の物語は、黄河のもたらす災厄がまた恵みの元でもあるこの地域(後の中華、「夏」は「華」に通じる)で、荒ぶる自然の力を制することが権威・権力(支配し治める威力)の起源にもなり、その継承が正統化の論理を生み出して制度化されてゆく次第をよく語っていて、まったく根拠のない伝承とは思われない。事実、考古学的発掘の時代ともいえる20世紀後半には、夏の遺跡(二里頭)まで発見されるに及んで「夏本紀」の史実性の度合いは高まっている。

そこで興味深いのは、地上の時間を過去に遡って、記録というその足場が宙に浮き上がる先に、辿れない「起源」を代補するものとして「三皇」が置かれているのだが(漢の司馬遷の記さなかった「原初」を、唐代の司馬貞が補って「三皇本紀」を書き加えた)、その発端の伏羲と女媧は、『史記』に先立つ『韓非子』では、先行の氏族(有巣氏ゆうそうし燧人氏すいじんし――住処をもち、火を使う、ということだろうか)に代わった氏族として扱われている。ところが、書かれた知的伝承ではない民間の想像力の受けとめるところによれば、つまり、各地に出土したその絵図によれば、伏羲と女媧は一対の人頭蛇神の怪神で、いつも絡み合った姿で描かれているのだ。『韓非子』は人の世の「始原」をいくらか合理的に、神獣人の推移を示唆する氏族の系譜として語り出しているが、民間の伝承は、八卦を編み出し教えたとする伏羲を発端にしながら、それを初めから女媧と組み合わせ、人の世の形成が〈一〉から始まるのではなく、〈対〉つまり〈二〉から生まれるように形象している。それに、それは「原初」でさえない。というのも、伏羲と女媧は洪水の生き残りで、そこから地上の民草が由来する(黄河におけるノアの一族のようでもある)。

このことは中国に古来からある事象解釈における陰陽の原理にも符合している。陰陽(女男/雌雄/陰と陽…)の組合せが〈一〉をなし、万物はそこから生じる。ギリシアあるいはキリスト教と違って、始原・原理(アルケー)は〈一〉ではないのだ。伏羲の編み出し教えた八卦は、天・地・人の気を占うとされる。それがいわば天地(世界)の「理」の解読法だとすれば、その「理」は二元を軸としながら天・地・人を貫いている。西洋の現代まで続くいてる霊肉二元論とはまったく別の原理だ。

ついでにふれておけば、二つの線分の並びを四つ重ねたこの八卦が、17世紀西洋のライプニッツに二進法(デジタル化の原理)を思いつかせたという説もある。この二進法の発案が現代にまでつながる西洋の科学的知性をどう変質させたかについては、別に本格的な検討が必要だろう。

 

黄帝に始まる

伏羲・女媧に続く神農は炎帝とも呼ばれ(五行の火に擬せられる)、頭に牛の角を生やし全身をつる草で覆った異貌である。木の農具をつくり、土地を耕して五穀の種をまき、農耕を人々に教えたとされる。また百草を鞭で叩いて取り、片っ端から食べて毒と薬とを食べ分けて民に教えた。そのため1日70回も下痢し、腹部は透き通っていて、毒や薬の作用が外から見えたという。中国最古の薬草書はその名を冠して『神農本草経しんのうほんぞうきょう』という(成立は後漢から三国の頃)。昼には市場を開いて人びとを集め、交易を盛んならしめたともいわれ、市の主でもある(日本では香具師の神)。

神農の末裔たち(神農氏)はやがて黄帝のもとに糾合される。黄帝は土徳があるとされて「黄」だが、もとは「皇」帝であり、後の帝たちの祖とされ、その子孫が後代の漢族とみなされている。つまり実質的に「中華」の「帝」の祖型とされているのだが、その黄帝は〈医〉そのものの祖でもあった。そのため、最古の医学書は彼の名を冠して『黄帝内経こうていだいけい』(その一部が『素問そもん』、『霊枢れいすう』等となる)と呼ばれている。

この始原説話を多少細かくたどったのは、ここに〈医〉のみならず、権威・権力ないし〈治〉(元は水をおさめる儀礼)についての中国的な考え方の原型が見てとれると思うからである。〈医〉は人びとを養い癒し、生かす業だったのだが、他でもないそれが〈統治〉する権力・権威の根源でもあったということだ。皇帝という人の世の権威・権力の発祥は、生きる理を教え、人びとを助けよく生かす務めと業から、すなわち〈医〉から生じているとさえいえる。人びとを教化し、養い、生かす、それが〈帝〉を帝たらしめる、そのことを、伏羲に始まり神農、黄帝と続く始原の三皇説話は示している。『史記』巻頭の「五帝本紀」の最後を飾る堯・舜は、「養う」ことの要だった治水の才覚によって〈帝〉となる。それも権力の世襲によってではなく、資格ある者を探して跡とする禅譲によって。それが禹以降うまくゆかず、別の根拠の言説「天命」によって世襲の夏王朝が立つのである。付け加えるなら、その夏が滅びて商(殷)が立つとき、とう王を扶けて補佐する「有徳の人」伊尹いいんが、もとは調理人だったという説話も意味深い。つまり食餌が新たな世を帝権の登場を支えるのだ。もちろん、中国古代の皇帝がつねに〈徳〉の人だったということではない。むしろそうでなかったことは「夏本紀」の掉尾を飾る帝桀の治世や、商(殷)の没落や、亡国の因とされる帝紂の逸話にも明らかである。ただ、その商を襲った周が幾世代を経て群雄割拠の混迷に陥ったとき、秩序と平安のすべを説く「思想」が登場し、その代表となった孔子がまさに理想としたのが「先帝」の時代だったのである。つまり〈医〉と〈治〉が〈帝〉をなす、人びとの生活と養生への配慮が権力・権威、〈統治〉の力となることが、中華の地の理想を生み出していたのである。

 

医と政、養う力

そのため、〈医〉は〈政〉と、つまり統治と、民を安らがせること(経世済民けいせいさいみん)と切り離せない。『黄帝内経』の流れをくむ『小品方』(伝5世紀)にはこうある。「上医は国を医(治療)し、中医は民を医し、下医は病を治す」。また「上工は未病を治し、已病を治さず」。ここでは、統治と医とがひとつの論理で語られている。叛乱(病)が起こってからでは遅い、というのだ。

とはいえ、権威・権力の根源に〈医〉が重ねられていたとしても、後の医師たちがみな権力に就いていたわけではない。むしろ逆で、「済民」をないがしろに覇権を争う武王たちを嫌って、民の間を遍歴する医師が民間では名高い。『史記』「扁鵲倉公伝」に伝わる春秋戦国時代の医師扁鵲へんじゃくは、数百年にわたって跡を残しているため、一人の名ではなく、その名で伝えられる遊行の医師団なのではないかと見られている(アスクレピオス医師団にも似た)。また、『三国志』にその名の見える医師華侘かだは、曹操の典医となったがその威圧に従わなかったため非業の死を遂げることになった(麻酔による切開手術も施し、養生術にも通暁して、体操による健康術もあみだし、民衆から「神医」と崇められたという華佗は、いまもその肖像が多くの中医病院に飾られている)。

また、『神農本草経』には、上薬・中薬・下薬の区別があり、これも〈政事〉の位格に準えられている。上薬は君主の役目をし、長期服用して毒がなく、命を養い元気を増すと。中薬は臣下の役目、体力を養い、病気を予防し、虚弱を支えるが、服用には注意がいる。そして下薬は佐使(さし)の役目、これはあくまで補助的な治病薬で、毒が表立ち、長期の服用はできない。一時的に、悪寒の邪気を除き、しこりを取るなどの効能をもつ。そしてこの下品の薬に頼るのは最後の手段だとされている。

西洋薬学の処方の考え方とはまったく逆だといっていいだろう。〈医〉の基本はまずよい食を持し体力を養う。そして病気になりそうになったら予防に努める。罹った病気を治すのは下品だとされる。「上医は問診を行い、中医は望診(眺める)、下医は脈診を行うものだ」(『千金方』、唐代7世紀の成立、人命は千金より重いの意を込める)。

これは、未開だから、合理的知識がなかったから、手段がなかったからというわけではない。〈医〉についての考えそのものが、つまり〈理〉が違う。〈医〉はまず人の生きる力を養うもので、それで足りないときに技術や毒を使わなければならない、という考えだ。もちろんそれは〈病〉を念頭に置いているが、あくまで生きる〈人〉を助けるためである。かといって、神仏をあてにしているわけではない。〈医〉の異字に〈巫〉があり、俗信として神頼みが広まっていたとしても、扁鵲はすでに「巫を信じて医を信じない者」は治し難いと断じている。ヒポクラテス同様、〈巫〉は〈医〉から切り離されているのである。

(付言すれば、中国の権力の元に〈医〉があり、国がまず治水によってまとまったとすれば、近代西洋における国家の原型は征服王朝である(ポール・ヴィリリオ)。ゲルマン諸族が西ローマの跡地に侵入し、領土支配して国家を作った。その権力は端的に〈暴力〉を基盤にしている。そしてその地のキリスト教化によって、教会の権威(オソリタス)と世俗の権力(ポテスタス)とが両立し、その体制に従って今日の政治宗教用語ができている。だから、その用語で中国であれどこであれ古代のことを語るのは一筋縄ではいかないのだ。前々章でふれたように、古代地中海世界でのピラゴラス教団の医業に関して、カール・ケレーニーは「医の公共性」の発露を見出していたが、近代西洋では〈医〉と〈公共〉(ないしは国家の施政)とが結びつくのは19世紀以後である。産業社会になると、国家は人口の維持管理を主要な務めとするようになる。そこで導入されたのが「公共衛生」の観念であり、政策であり、医師が専門職として行政に携わるようになる。ドイツ(プロイセン)のウィルヒョウはその経緯を体現する人物だが、〈医〉はそこで統治の一角に組み込まれ、やがて現代の「医療管理社会」にまで発展することになる。そのことについては後述しよう。)

 

陰陽五行

扁鵲の頃の技(術)については、「病気が体表にあるときは湯液や膏薬が、血脈に進んだときは針が効く。腸胃に進行したときは薬酒が効く。しかし骨髄にまで進行したときは、もはや神でも施す手がない」とされていた。

医書『黄帝内経』はすべてが残っているわけではなく、『素問』(主として生理・衛生・病理などの理論)や『霊枢』(主として診断・治療・鍼灸術などの臨床)として伝えられ、8世紀には日本にも持ち込まれている。

診断治療の理論的枠組みは、解読格子として陰陽と五行(木・土・火・金・水)を組み合わせたもので、その五行に五臓六腑や喜・怒・思・憂・恐の感情、酸・苦・甘・辛・鹹の味覚、それに感覚器(眼・舌・唇・鼻・耳)を当てはめて、それで生理(フィジオノミーの訳としての近代語ではなく、文字どおりの「生の理」)を測った。その生理がバランスよく機能している状態が健康だということだ。

伏羲が八卦の祖とされ、神農、黄帝が〈医〉の祖だとすれば、陰陽五行によって生理を測り、食餌と養生を主とするのは日本では漢方と呼ばれる中医の変わらぬ伝統だといえよう。3世紀初頭に『傷寒論しょうかんろん』『金匵要略きんきようりゃく』を著した張仲景ちょうちゅうけいは、あまり五行説にこだわらず、腸チフス様の傷寒(急性熱性病)を研究し、今日に伝わる湯液療法の原点を作ったと言われるが(最初の「疫病論」?)、陰陽五行による解釈が〈医〉の軸になることはその後も変わらなかった。その精緻化はかえって病理の理解の混乱や錯誤を深めることにもなったが、それを正す規準はいつも古式(アルケー)で、そのため、中医の歴史には劇的な転換や「進歩」がなかったのである。

 

中医の伝統

その伝統も、度重なる戦乱や王朝の交代でときに途絶える。それを補ったのは中華の周辺国だった。『黄帝内経』の『素問』や『霊枢』は中国では早くに散逸してしまったが、朝鮮から戻った写本によって11世紀に出版されている。また日本にも遣隋使・遣唐使を通じて渡来していた医籍が10世紀末に『医心方』として編纂され、明治になるまで朝廷の秘書として保存されてきた。そこには中国では失われた多くの知見も含まれているという。

明治の後半、とくに日清戦争以後、革命派をはじめ多くの留学生が清から日本にやってきた。「脱亜入欧」で盛り上がる日本では、医学も西洋医学への全面的転換のために多くの貴重な漢籍が処分され、古書店に二束三文で並んでいたという。それを留学生たちが見つけて勇んで買い込み、そうして多くの医籍が中国に里帰りすることになった。

日本では明治以降、医学・医療はすっかり西洋化・近代化したが、今でも中国には中医がれっきとした部門として医療の一角を担っている。それはただたんに伝統墨守のためでも文化財保護のためでもない。中国では清朝が倒れたあと、近代国家への脱皮が求められたが、域内諸勢力の角逐と西洋列強や日本の介入によって、長く政治的社会的混乱が続いて苦難を強いられ、医療をいわゆる世界水準に合わせて近代化しようにも、とてもそれを地方にまで広げることはできなかった。義和団の乱、辛亥革命、日中戦争、冷戦期の封じ込め下と内部での文化大革命等々と、20世紀後半に至ってもその「近代化の遅れ」は続き、とりわけ地方の人びとはあり合わせの伝統医療に頼らざるを得なかった。というより、カネもかからず社会改造も必要としない伝統医療が、長く人びとの日常的な生活を支えてきたのである。

その一方、20世紀末頃になると、先進諸国では西洋近代医学・医療の限界がさまざまに問われるようになり(いわゆる「先端医療」はどこ吹く風だが)、養生法をもとにした健康観や、解剖学とは違う経絡図にしたがう鍼灸術、そして「下品」たる西洋薬剤に代わる漢方薬が世界的にも注目を集めるようになった。そんな事情もあって、「進歩」の観念や物差しとは違う原理で伝えられ生きてきた中医は、今もその地歩を保っているというより、新たな場を見出しているのである。

 

なぜ西洋医学は普遍とされるのか

著名な文明史家ジャレド・ダイアモンドは、最近のコロナ禍のもとでも、新型コロナウイルス武漢起源説と「中国の責任」を念頭に置いてか、「中国医学を止めなければならない」と公言する(NHKテレビ番組で)。この傲慢はどこから来るのか。

ルネサンス以降、西洋社会を根本から作り変え、そのやり方を世界に普及させて、現代の「医療管理社会」を作ってきた西洋医学、われわれはそれをもはや西洋のものとは考えず、それが普遍的な医学だと思い込み、その規範に従ってあらゆる医療事象を判断するようになっている。だから、たとえばいま簡単にふれてきた近代中国の医療事情を見ても、その「未開」ぶりに当惑する。

だが、不思議なのは、あるいは問わなければならないのは、なぜ「医療のいらない千年」を経て忽然と生れ出てきた近代西洋医学は、これほどまでに世界に普及し、他の伝統を呑み込んで「この道しかない」と思わしめる普遍的規範になったのかということだ。

問うまでもないことだ、あたりまえだ、もっとも合理的で科学的な身体観察にもとづいて、有効かつ効果的な治療を編み出し、追及し続けて「病」という苦痛から人間を解放してきたのが近代西洋の医療だったのだと。そして人類を迷妄や錯誤から解放し、いまでは「老い」を克服し、「不死」さえ視野にいれようとしていると。だが、まさにその「あたりまえ」を問うことが、この疫病論の目論見でもある。

 

*参考文献

小川鼎三『医学の歴史』中公新書、1964年

小曽戸洋『漢方の歴史 中国・日本の伝統医学』大修館書店、1999年

傅維康・呉鴻洲編『中国医学の歴史』東洋学術出版社、1997年

白川静『字統』平凡社、2007年

司馬遷『史記・本紀』小竹文夫・小竹武夫訳、ちくま学芸文庫、1995年

渡辺精一『中国古代史、司馬遷「史記」の世界』、角川ソフィア文庫、2019年

宮城谷昌光『天空の舟(上下)』(文春文庫、1993年)、『太公望』(文春文庫、2001年)

ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄(上下)』(草思社文庫、2012年)

  

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著者略歴

  1. 西谷修

    1950年、生まれ。東京大学法学部、東京都立大学大学院、パリ第8大学などで学ぶ。フランス思想、とくにバタイユ、ブランショ、レヴィナス、ルジャンドルらを研究。明治学院大学教授、東京外国語大学大学院教授、立教大学大学院特任教授等を歴任。著書に『不死のワンダーランド』(増補新版、青土社)、『夜の鼓動に触れる 戦争論講義』(ちくま学芸文庫)、『戦争論』(講談社学術新書)など、訳書にブランショ『明かしえぬ共同体』、レヴィナス『実存から実存者へ』(共にちくま学芸文庫)など多数。

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