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疫病論 西谷修

人工知能と鮫の皮

Covid-19

2020年に中国の武漢から始まり、東アジア、そしてヨーロッパ、アフリカ、南北アメリカへと感染が広まったCovid-19は、6月下旬には確認されただけで世界で900万人の罹患者を出し、うち47万人が死亡している(WHO発表)。WHOは1月末に「公衆衛生上の緊急事態」を宣言し、3月にはこれを「パンデミック相当」と認めた。

それをもとに、各国で対応が行なわれるが、その対応は医療分野に止まるものではない。今回の新たな疫病の「パンデミック化」は、あきらかに近年のグローバルな人の移動を条件としている。グローバル化した経済活動、とりわけ消費拡大のために近年広く開発された観光業、それによる厖大で頻繁な人の移動が、そのまま感染拡大の経路となった。そして現代では、多くの人びとの生活がこの経済システムに全面的に依存している。だから、パンデミックへの介入は、現代社会の運行そのものへの介入にならざるをえない。

端的にいえば、感染拡大を抑えて人びとの健康と命を守るには、その人びとの社会的生存を支えている経済活動を停止しなければならないのだ。つまり、人びとに酸素(現代社会ではお金だ)を送る血流を一時的にも断たなければならない。それが行政(統治)の役割になる。このことが世界に、各国にパニックを引き起こした。各国政府がそれぞれの仕方で「緊急事態」を布告したのはその表れである。現代の統治行政は「命か経済か」の選択を迫られることになったのだ。

 

緊急事態 

現代の行政は、ふだんは国の経営管理に専念している。軍事は別に国際的な「安全保障」の論理に従って、そこにかかるコストは「例外」として外部化しつつ包摂し、経済運営を行っている。あるいは、経済を軸として国家を経営していると言ってもよい。「会社のように経営する」、それがグローバル経済化以降の国家統治の構えになっている(日本ではその統治がボロボロになっていることはここでは措くとして)。そのように経営できるのが「平時」である。ところが、その経済という計量的規範でなされていた統治が、新種の疫病によって破綻する。効率のために不可視化されていた「生きた身体」が、じつは経済を支えていたのだということが露呈するのだ。病気になるのは経済主体としての「法人」(企業)ではない。その「法的人格」が捨象する血肉をもつ「リアル・パーソン」、言いかえれば生きた身体的存在である。それが冒されて活動できなくなる。あるいはその移動や接触を止めなければならない。すると経済運営はパンクする。だからそれが統治にとっての「緊急事態」になる。

その緊急事態下で、平時には見えない統治の構造が露呈する。いまでは政府(行政権力)か、医療の専門家集団に諮問し、そこで介入政策を決定する。つまり、健康問題に関しては医師団が専門家だ。その専門家に諮問して、社会の健康維持という面から疫病対策を考える。ふだんなら行政府は「国民の命を国の経済にどう役立てるか」という方向で対応するだろう。それは、都市を中心とした経済社会が成立し、労働力の安定的な再生産が行政府の基本的な関心事になり、公衆衛生や社会医療政策が「平時」の大きな業務になったころ(一九世紀半ば)からの行政の在り方である(このことについては後に扱うが、日本では、台湾・朝鮮統治、関東大震災後の東京都市計画、更生行政などに「功績」のあった後藤新平の仕事が参照される)。

厚生省はその役割を担う省庁で、医療関係者と協働して保健行政にあたっていたが、それが経済原理のもとでは労働者管理と重なるため、現在ではこれが厚生労働省として統合されている。今回のコロナ禍に遭遇して対応は政府案件となり、専門家会議が設置され、専門家の立場から医療的対応が提言されるが、政府は不都合な部分を削除しながらそれを使い、政策決定が必要なところでは専門家の助言に従うとして責任を丸投げするだけで、みずからの行政責任を担わない。それが「緊急事態宣言」が解除されたあたりで露呈した日本の政策対応混乱の現状である。

 

デジタル進化論

そうした政治社会的現状の一方では、医療のテクノ・サイエンス化が経済原理のもとで進んでいる。というより、医療が人間の病気や怪我に対処する営みだったとすれば、そんな営みそのものを不要にするような究極の「解決」への流れがじつはこの半世紀来、しだいに現実化しているのだ。基本的にはそれは、身体を機能的オブジェクトとみなし、生命を物理化学的現象に還元し、その現象を共通の認識地平に立って把握し、対象をすべてデジタル情報化してデータ処理で管理・制御してゆくという方向だ。ひとことで言えばフィジカル(身体的)なもののヴァーチャル化だ。言ってみれば、病気などというものはない。それは不完全で不出来な自然の(生の)メカニズムの欠陥によるもの、あるいは故障や欠損による機能不全であって、その欠陥はより完備したもので代替する、あるいは補完・完成してゆけばよいとみなされる。さらには、身体がなにかそのような障害の元になるならば、それなしにわれわれは存在しえないのかと問い、人間は世界を変えるというその能力によって、人間自身をも「時代遅れのもの」として超克してゆくという。テクノロジーは人間のたんなる道具ではなく、存在そのものに組み込まれており、いまやそれが人間に人間を超出させる契機になっているというのだ。メタ生物学である進化論は、その論理のうちに人間自身をも巻き込んでいる。その必然にしたがって、いまや人間は「ポストヒューマン」の段階に入ろうとしているのだ、といった考えさえある。

このような考えは、SF小説の想像力のなかにあるだけではない。行為を機能に還元するサイバネティクス以降、それはテクノ・サイエンスの主導的方向に埋め込まれ、短期的視野(実用志向で資金集めに結びつく研究は「未来」を標榜しても短期的でしかありえない)の研究開発を促しているだけでなく、むしろ時間を加速して未来がここに出来しているようにして、遠い時間など抹消しながら日々「未来」を現実化している。それはAI(人工知能)を「知性」にコンバートする錯誤にもとづいているが、その錯誤も内在化させたこの考え方はラジカルである。

 

ソリューショニズム

現在、コロナウイルスに対しては、一方でワクチンが「解決」になるとみなされ、各国で競って開発が進められる一方で(そこにもナショナルな権益幻想が絡んでいる)、予想されるこれからの疫病にも対応できるような「新しい生活様式」が提唱されている。フィジカルなコンタクトが忌避され、テレワーク、ウェブ会議などがウイルス出現によって更新された環境への新たな順応として勧められている。また、感染拡大へのアラートとして人びとの日常生活への監視ソフトの導入が提案され、決済のウェブ化、経済活動全般のヴァーチャル化が、この種のパニックからの「出口」として進められている。ついでに言うなら、IT技術やそれを活用した事業セクター(MS、アマゾン、関連投資開発会社)は、このパニックの時期にも大きく成長している。そしてこのセクターの成長は、いかなる政治的問題にも関わることなく、あるいは行政の無能さをも超えて(日本では政府の腐敗・権限流用のため、まともなソフトの調達もできないが、それこそは偶発事にすぎない)、すでにビッグ・データと重層化するアルゴリズムによるその処理が、拡大するアドミニストレーションの領域をあらかじめ覆ってゆこうとしている。つまりこの方向は、人びとが具体的に生きる社会の構造的条件やそこに生じる諸問題の次元を離脱して、勝手に課題設定し、それにもあっさりと「解決」を呈示し、呈示するだけでなくそのことですでにわれわれの世界を方向づけてゆこうとしているのだ。

ちょうど地球がコロナ禍に苦しむころ、イーロン・マスクはそんな地球からの脱出や、夢のある果てしない観光を提案するかのようにして、NASAから宇宙ステーションにロケットを飛ばした。いまやアメリカ国家は、人類の夢の基地だったNASAを維持できず(する気がなく)、それすら私人たるIT富豪の手に委ねている。「公共」はこうして「私人」たちの手に委ねられ、ダボス会議に集まる富豪=私人たちは、時代遅れの俗世の騒ぎを尻目に、「第四次産業革命」の垂れ幕を世界に掲げている。それが人類進化の必然であり、翻って人類にとっての万能の「解決」への扉なのだと。

 

鮫の皮

そんな時代に悠長に「疫病」について、「医」について考えるなどということに何の意味があるのか。もちろん、意味もなければ実効性もない。しかしその「ない」としか言いようのないことをやってきたのが、じつは人間の思考の営みだったのではないか。

ライプニッツは普遍言語を構想しただけでなく、人間の思考が数値計算に置き換えられることを示した。微積分学とは何か。分割の無限が全体に一致することを示した、あるいは一と無限とが合致することを示したのである。神と無数の存在(過去から未来までのすべてのモナド)、それが今日では多様な情報の集積として日々進化するAIで処理できるようになった。しかしその普遍言語、一と全(無限)との調和の次元を支える普遍言語には還元されない認識もある。もちろんライプニッツは還元した、あるいは調和させたつもりだったが、その調和になじまず、不協和音を立てる、あるいはノイズになる、そして普遍気流のなかでワサビおろしの鮫皮のように抵抗する思考もある。アルファベットの表音記号に頼らない表意文字をもちいた思考のうちにもそれがあるし、文字が使われ物が書かれ始めた初期のギリシアにもそれがあった。そして哲学という知の営みは、じつは世界を覆い尽くそうとする普遍気流になるべく生まれたのではなく、むしろその気流のうちにざわめきを立てる鮫皮のようにして生じたのである。

たとえば、ピュシスという表現がある。ロゴスという表現がある。ピュシスは「森羅万象」と言い換えていいだろう。それは「自然」とも言われる。やがて後には「物質」とか「身体」とか「物理」とかに分岐し置き換えられてゆく。ロゴスはといえば、「理」と言い換えられるだろうか。のちにはそれは「摂理」とか「論理」とか「言葉」とかに分解されるようになる。しかしそれは一語だ。一語として言語的思考とその論理を支える。それは近代的な概念によって洗練されるべき古い概念とみなすべきではなく、分析的思考の対象たるべき概念というよりは、むしろ思考にとっての最初の積石であるような、あらゆる人間的思考がそれをベースに作られるような、そんな言葉、世界と人間との出会いと融合のなかに浮かんだ「鮫皮」のようなものである。ワサビをおろす(砕いて味見する)ためにはこれを使うのが何よりよい。

 

ピュシスとロゴス

与太話だと思わないでほしい。現代のもっとも優れた生命概念、19世紀半ば以来世界観に決定的な影響を与えている物理法則、エントロピー増大の原理(熱力学の第二法則)の確立以来、それを考慮して生命の個別性と連続性との分節も守りながら、もっとも説得力のある「動的平衡」という概念を練り上げてきた生物学者福岡伸一の、次のような文章を導入するためである。

 

生命はピュシスの中にある。人間以外の生物はみな、約束も契約もせず、自由に、気まぐれに、ただ一回のまったき生を生き、ときが来れば去る。ピュシスとしての生命をロゴスで決定することはできない。人間の生命も同じはずである。

それを悟ったホモ・サピエンスの脳はどうしたか。計画や規則によって、つまりアルゴリズム的なロゴスによって制御できないものを恐れた。制御できないもの。それは、ピュシスの本体、つまり、生と死、性、生殖、病、老い、狂気……。これらを見て見ぬふりをした。あるいは隠蔽いんぺいし、タブーに押し込めた。しかし、どんなに精巧で、稠密ちゅうみつなロゴスのおりに閉じ込めたとしても、ピュシスは必ずその網目を通り抜けて漏れ出してくる。あふれ出したピュシスは視界の向こうから襲ってくるのではない。私たちの内部にその姿を現す。(『朝日新聞』、2020年6月17日)

 

ピュシス、ロゴスの概念を生かした「生命」に関するこの記述を、ここでの〈医〉に関する考察の基本的な参照項としておきたい。

 

鏡像

そしてもうひとつ、方法論的註を。「人間は時代遅れ」、これは、核技術によって開かれた時代の方向を根底から批判しようとしたギュンター・アンダースの表現である。彼の旧師ハイデガーは、「不気味なもの」の到来のなかで、形而上学がサイバネティクスにとって代られると嘆いたが、そのサイバネティクスは、世界戦争の坩堝のなかからもはや「人間」にこだわらないテクノロジー規範の視野を開き、世界戦争後の、そう言ってよければ「アポカリプス後」の、あるいは「ポスト歴史」の時代の知の方向を指し示した。それをアンダース(このペンネーム自体、誰でもない人を意味する)は、「人間は時代遅れ」と表現したのだ。この流れには逆らえないと言われる。じじつ、このような考え自体ももはや「時代遅れ」として扱われることだろう。

とすると、「解決」を提起して、じつはすべてを呑み込むAI的なものの氾濫の中から「脱出」しなければならないのは「人間」の方である。あるいは、「人間」に止まり続けることによって「洪水」に制動をかける……。

「考える」、反省する、省察する、振り返る、それを西洋語では"リフレクション"と言う。鏡の、あるいは水面の反射だ。みずからの姿を鏡に映してみる。と同時に、鏡に映ったイメージが自分自身の姿だと知る。これがわたしだ。その同一化が人間を人間たらしめる発端だとすれば、それが思考の出発点でもある。人は鏡(水面、滑らかな表面)に映ったイメージをとおして自分を知る。そのとき鏡面が、あるいは水面が「これがおまえだ」と告げてくれるのだ。その確認をすることで「理性」が成り立つ。つまり「正気」が。それなしには自己と世界との関係が成り立たないからだ。それをナルシスの「狂気」と言う。鏡に映ったイメージを見て、「これがわたしか」という確認のもとに主体が成立し、プラクティカルな意思疎通ではない反映的思考(反省)が始まる。

鏡の中の世界は人を魅了する。文句なく。それは見る者にすべてを見せてくれる。というより、鏡像が視野のすべてを「見えるもののすべて」として呈示し、見る者をも呑み込むのだ。この鏡を支える手、わたしのからだとしての手、となりでそれをとろうとするサルの手、あるいはそれを真似て作った木のアーム、それがみな一様に鏡に映っている。これらの手はみな同じ仕事を、作用をする。そしてその動きは情報のフィードバックに還元される。人間の特異性はない。そうか、世界は精妙に組織され自動運動する情報の多彩な流れの錯綜なのだ。言ってみれば、その鏡像の世界こそがサイバー空間なのである。

だが、人は鏡の中に生きているのではない。鏡をのぞき込んでいるのが生きた人間なのだ。そして鏡には万物を貫く「生命(life)」が映っており、宇宙そのものがその生命のごく希薄な流れ、言いかえれば拡散する情報だと見えるとしても、生きる「いのち(life)」は鏡のこちら側にしかない。そして鏡を掲げている。思考とはその「いのち」、ひとつひとつ消えては継承される単独の存在の「いのち」の、相次ぐ営みの継起である。だからそれは錯綜し揺れて変化し、多様な変奏を奏でてゆく。

 

〈医〉について

先回は、疫病の〈疫〉のタームを確認することから始めたが、ここでは〈医〉というタームを確認しておきたい。というのは、通常自明とみなされている用語にそのまま依存して論を立てるのではなく、何が問われているのかをできるだけ明確にして問いを立ててゆきたいからだ。この『疫病論』では、医療についての考え方の来し方をたどってみたいと考えている。ところで、現代の疫病対策の在り方について簡潔に見たように、医療とはそれだけで完結する単純な営みではなく総合的な営みである。それは大もとから言えば、人びとの健康維持管理に携わるのだが、「病気」というよりむしろ「病者」の扱いを任務として、専門知識と技術、そしてそれを支える社会態勢のすべてにつながっている。とりわけ現代医療は、その実践が医学的・技術的にも高度化し、広範な社会的関係のなかに組み込まれている。医師をはじめとする医療従事者は、国家認定を受け、医療施設は社会政策や、それと結びついてより開かれた産業経済システムのうちにある。「健康」についての考え方も、その社会で多かれ少なかれ規範化され、人びとの生活も医療化されて、それが保険制度や市場システムに包摂されている。

それはわれわれの時代の条件である。けれども時代を超えて医療に対する人間社会の要請があったのはたしかである。それは歴史の初めからあるからだ。その要請のうちに、「病苦」をどう受けとめるか、どんな「治療」がよしとされるか、「生きる」ことが各人に、また共同的にどう引き受けられるのか、そこに介入する「技術」をどう考えるか、といった課題が含まれてくる。

その現代医療のあり方は、近代西洋の考え方・方法・その社会的現実化が、ここ二世紀ばかりの間に世界に広められた結果として形成されている。そのために現状を理解するためには、その由来をたどることは避けがたい。もちろん、世界に一般化した西洋的なものが、そのまま依然として西洋的なものであり続けているわけではないが、それが基軸になり、つねに支配的なものであったのはたしかである。医療を問い直すときにも、まずその西洋の原点に立ち戻らねばならない。だから、ここでの探索もヒポクラテスから始まる。

 

医術

これは洋の東西を通じて変わらないが、人間の、みずからも含めた世界への介入は〈知〉というかたちで行われる。〈知る〉ことがまず自然への応対であり、その〈知〉をもって自然に反応し、かつ介入することになる。人間の生存はそのようにして展開されてきたと言ってよいだろう。ギリシアではだから〈知〉はむしろ〈技〉とともにあり実践的な〈術〉でもあった。

ヒポクラテスの代表的な論文が「古い医術について」と訳されているのもそのためである。 « ιατρική » だから « medicine » つまりは「医学」でもいいはずだが、しばしばそれは« medical art ; art médical »と解されてきた。「学」をわれわれは科学(science)に引きつけて理解するが、「イアトリケー」は科学(science)ではなく、むしろハイデガーの指摘したように古い「知」のかたち「テクネー(τέχνη)」なのだ。この語はラテン語では « ars » と訳される。だから「学」というよりはむしろ「術」に対応する。「術」は近代語では「芸術」でもあり「技術」でもある、そんな「技」なのである。それに対して「医学」というのは、学問になった〈医〉に関する知、サイエンスという語が常用になった近代以降の観念だということができる。そんな意味で、「イアトリケー」は「医術」と訳されるのが適切なのだ。

そのため、〈医〉という観念が浮かび上がってくる。医学でも医術でもなく、またとうぜんながら医療でもなく、〈医〉という観念だ。それはもちろん漢字にも共通している。〈医〉という漢字が目立ったかたちで登場するのは「医師」としてである。この語は『周礼』に周の官職として記されている。つまり周の時代(3000年ほど前)に医師は官職として存在したのだ。その〈医〉という字(旧字は醫または毉)は、酒に入った没薬で邪気を払う矢を納めたかたち、つまりは「厄」(西洋的にいえば「悪」)を祓う、苦痛や疾病を癒すことを表している。ここには〈医〉が呪術であった時代の痕跡も刻まれている。人が「厄」に遭って苦しむ。それを手当するのが〈医〉という営みなのだ。手段としては主に薬草があるが、酒もある。それが苦痛を和らげれば、あとは「厄」を祓うばかりである。「師」というのは人を指導する立場を指すが、それが官職だったということは、すでに統治の一角に組み込まれていたということである。

 

 

医師

これはギリシアでも基本的には変わらない。ヒポクラテスは「イアトロス」だった。つまり同じく苦痛や疾病を癒す特別の役務を担う「医師」だったのだ。そのもつ技がギリシア語では「イアトリケー」であり、それは始祖伝来の職知だった。

イアトロスは、同じくすでに専門職だった。だが、彼のような「師」は当時のポリス(都市国家)には属さない独立の医師団をなしていた。その医師団をポリスからも独立させていたのは、その「宗教性」である。宗教性というとぞんざいな言い方になるから言いかえれば、医師はそれとして信頼される権威の正統性を保持していた。

〈医〉が宗教性に結びつくのは、古くは人びとが知識の代わりに信仰に頼っていたからというのでは説明にならない。それでは「宗教」というものを初めから前提にして、その「宗教」理解の圏内でものごとを説明しているだけである。だが、じつは「宗教」という概念はむしろ近代に、キリスト教圏でキリスト教をモデルにしてできあがってきた概念である。元は「ルリジョン(religion)」で、「宗教」はもちろん明治初頭にできた日本の翻訳語だ。これについては詳述が必要だが、ここでは措いておこう。ただ、「宗教」などという括りが存在しなかった時代について、その観念の枠組みで考えようとしても、便宜的な説明はできるが、実情を理解したことにはならないだろう。

〈医〉という営みは、もともと「汚れ」や「死」に関わってきた。その領域はふつうの人は立ち入れないし、避けられる。いわば禁忌があり、そこにあえて立ち入るのはすでにして「異人」である(もちろん助産もそうである)。だからそこにある危険に立ち会う「威力」が想定されるし、禁忌から身を守る資格もいる。そのため、そこに立ち入る者は特別の人ということになる。それがある共同体のなかで医師に特別な役割を振り当てることになる。はじめは呪術師のようなものだっただろう。その権威は共同体自体の共同性によって支えられる。だが、ギリシアのようなポリス的世界では、その地位はポリス横断的な神話によって支えられていた。だからヒポクラテスは医神アスクレピオスを祖と仰ぐアスクレピオス神殿医師団の長だったのである。つまり、ヒポクラテスの医師としての地位と威力は、アスクレピオスという神(人神)によって正統化されていたということだ。

ついでに言えば、現代の日本では医師になるためには国家試験を受ける。この資格は医者の資格とは言わない。医師の国家試験であり、合格して得られるのは医師の資格である。医業に携わるには公的資格が必要とされ、その資格付与の役割をいまでは国家が担っている。これはたんに法制度の問題というのではなく、〈医〉がそのような禁忌と威力を帯びた、それゆえに正統性の保護を必要とするという、古くからの関係の現代的な形なのである。

今でこそすべては医療サービスということになっているが、医師の職業に含まれているのは、ふつうの人がやればほぼ犯罪を構成するような行為である。今では資格なく医業をすること自体が犯罪を構成する。それは単なるルール違反ということではなく、もともと医業あるいは〈医〉という営みが、「法外」の営みだからである。医業をすることが違法であるどころか、人びとにとって不可欠な業務とされ、それが資格に伴う権限として法で認められるというのは、かつての医師のあり方の現代社会ヴァージョンなのである。

そのような観点から、まずはヒポクラテスの医業を医神アスクレピオスとの関係で見ていきたい。

 

*文中「」と〈〉が混在するが、前者は基本的に引用(またはそう言われていること)、後者は基本タームであることを表示する。

*参考文献

・ルチャーノ・ステルペローネ『医学の歴史』小川煕訳、原書房、2009年

・マルティン・ハイデッガー『技術への問い』関口浩訳、平凡社ライブラリー、2013年

・中村桂子『生命科学』講談社学術文庫、1996年

・福岡伸一『動的平衡、生命はなぜそこに宿るのか』木楽舎、2009年

・ジェレミー・リフキン『バイテク・センチュリー』鈴木主税訳、集英社、1999年

・イブ・ヘロルド『超人類の時代へ』佐藤やえ訳、ディスカヴァー21、2017年

・ヒポクラテス『古い医術について』小川政恭訳、岩波文庫、1963年

・常石敬一『ヒポクラテスの西洋医学序説』小学館・地球人ライブラリー、1996年

・白川静『字通』平凡社、1996年

・ピエール・ルジャンドル『テクストとしての社会』本邦未訳 La Société comme Texte,Linéament d’une Anthropologie dogmatique, Paris, Fayllard, 2001.

・エフゲニー・モロゾフ「シリコンバレーのソリーショニズム」 10+1website, 2018, ,http://10plus1.jp/monthly/2018/02/issue-02.php

 

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著者略歴

  1. 西谷修

    1950年、生まれ。東京大学法学部、東京都立大学大学院、パリ第8大学などで学ぶ。フランス思想、とくにバタイユ、ブランショ、レヴィナス、ルジャンドルらを研究。明治学院大学教授、東京外国語大学大学院教授、立教大学大学院特任教授等を歴任。著書に『不死のワンダーランド』(増補新版、青土社)、『夜の鼓動に触れる 戦争論講義』(ちくま学芸文庫)、『戦争論』(講談社学術新書)など、訳書にブランショ『明かしえぬ共同体』、レヴィナス『実存から実存者へ』(共にちくま学芸文庫)など多数。

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