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疫病論 西谷修

治癒神イエス

死すべき神

当時当地の言い方に倣うなら、ヒポクラテスから百回を超えるオリンピア紀を経て(およそ四百年後ということだ)、地中海東岸地域ガリラヤ地方にもう一人の「死すべき神」が現れる。その「人」はわずか二年足らずの短い間だが各地を巡行し、貧しく小さく世に見棄てられた人びとの病苦を癒してまわり、この世の災いからの救いの約束への新たな〈信〉を呼び醒まして、そのために旧来の律法秩序とローマの支配とを揺るがす者として告発され、神の名を語る不敬・不遜な偽預言者として磔の刑に処された。

その〈人〉は自分では一度も「神の子」だと公言したことはなかったが、弟子たちに「私は誰か」と尋ねて、「あなたは救い主だ」と答えた弟子に口止めしたうえで、「おまえは信ずる者たちの礎である、今日から巌(ペトロ)と名乗れ」と告げる(マタイ伝、マルコ伝)。この弟子はゴルゴダの丘に引かれる前のイエスを三度否認するが、やがてローマに教団を作って殉教し、西方カトリック教会の主柱となる。。

刑死したはずのこの〈人〉は、3日目に墓から復活して、みずから神(死を超えた存在)であることを証した。地上にいた時から「信ずる者は救われる」と教えたこの神は、弟子たちによって「みずから罪なく、万人の罪をその身に負って十字架に架かり、その無限の愛のために復活して、救済の約束を果たす」とみなされ、弟子たちはさらにこの「よき知らせ(福音)」を広めるべく、迫害を逃れながら各地に散っていった。

「貧しき者たち」を分け隔てなくその苦しみから救う道を示すというこの新しい教えは、強力なローマ帝国の支配の下に入り、古い共同体を崩されて、至るところで投げ出された寄る辺ない人びとの間に、旧来の因習秩序からは排除の圧力をうけながらも次第に浸透し、部族や出自や身分をむしろ否定して、救い主(キリスト)だけを神とする排他的な結びつきを、新しい信仰共同体=教会として形成してゆく。それは、唯一の神によって結ばれる普遍的(カトリコス)かつ真の〈宗教〉だと主張された。そして〈主〉の復活の後三世紀を経て、その普遍性ゆえについにローマ帝国の公式宗教となるのである。

 

儀礼と信仰

ここで注意してほしいのは、〈宗教〉に関する記述である。キリスト教はまったく新しい〈宗教〉を作りだしたと言っていい。キリスト教徒自身が「キリスト教だけが真の宗教であり、その他は迷信である」と論じていた。イエスがキリスト(ギリシア語で救い主を意味する)だと信じる者たちをキリスト教徒と言うが、そのような〈信仰〉というのはそれ以前には存在しなかったと言っていい。それまでの〈掟〉や〈供犠〉など儀礼の風習は共同体的なものであり、人びとはあらかじめそこに帰属していた。ところがイエスは、ひとり一人が帰属を断ち切った「見棄てられた者」として神に向き合うことを求めた(マタイ伝、マルコ伝)。共同体で崇められる神々への盲従とは違う、「啓示された神に対する信」である。そして実際には、イエスが「救い主」(キリスト)であることへの〈信〉がこの〈宗教〉を支えている。

その点が、イエスを信じる者たちがユダヤ教から離れる要所でもあった。パウロ書簡(『ローマ人への手紙』)にあるように、ユダヤ人は律法に従うのが神への務めだと思っているが、イエスの徒は〈信〉によって「義とされる」。つまり〈信〉そのものが神との結びつきの証なのだ。それが〈信仰(faith)〉と呼ばれる。人は掟に従っているから、共同体の神に供犠を捧げるから結びついているのではなく、そのような慣習や掟に縛られないからこそ、係累なき孤立した人として「真」の神に向き合い、その神の救済の約束を信じる、その〈信〉によって人びとは新たに結びつく、そのような〈信仰〉はキリスト教が発明したものだと言ってよいだろう。

その新しい結びつき(契約)が〈教会=教団〉というキリスト教独自の共同性、古い共同性の解体の上に立って神と契約する新しい共同性を作り出した。だから、みずからの根を断った(失った)者たちの信仰共同体は、それまでの古い共同性から強い反発を受けたが、ローマによる帝国支配の形成は、古い共同性を弱体化させ、むしろそこから零れ落ちた者たちの新しい信仰と共同性の素地を作り出すものでもあった。それでも、キリスト教が初期には帝国の迫害を受けたのは、皇帝がそれぞれの出自に由来する儀礼体系をもっており、キリスト教がそれとは違う唯一神への信に従っていたからである。だが、キリスト教徒たちは弾圧に対して殉教することをも辞さない。つまりその神のために進んで身を捧げさえする者たちである。それは結局、異民族を統合するローマ帝国の支配にとって好都合な、というよりきわめて適合的な「宗教」でもあった。それに気づいたコンスタンチヌスは、自軍の盾にキリストの頭文字をとったXPの印を掲げることで死を恐れぬ「神の軍隊」を得て、その勝利によって皇帝になリ、新しいローマ(コンスタンチノポリス)を開いたのである。それ以来、キリスト教は公認され、やがてローマ帝国の公的・排他的宗教となる。

現在、私たちが用いている宗教関連の用語は、その後千年のキリスト教世界を経て、イスラームの興隆やカトリック教会の分裂の後、〈信仰〉というものが相対化されるプロセスで用語として定着したものである。それにまつわる事象をすべて〈宗教〉という一言で一般化してしまうと、それ以前の諸社会のあり方が理解できなくなってしまう(キリスト教的観念のバイアスがかかってしまう)。だからここでも、儀礼体系、律法(掟)、信仰、信、といった用語は〈宗教〉という雑駁な括りとは別に使い分けねばならないだろう。それはエミール・バンブェニストが「制度語彙」と言ったときの「制度的なもの」として受けとめる必要がある。(cf. バンブェニスト『インド=ヨーロッパ諸制度語彙集』)

 

イエスの奇蹟

さて、医学の話になぜイエスが登場するのか。いや、これは医学史の話ではなく、〈医〉の歴史の再検討だからだ。近代の〈科学〉は宗教を排除することで知のカノン(正典)となった。そして科学を標榜する近代の医学(medical science)も宗教を迷妄として最初から排除する。だが、じつはこれは切っても切れない話なのだ。というのも、すでに示したように〈信〉なくして〈医〉は成り立たないからだ。宗教と科学というカテゴリーとその対立を前提とするとき、〈医〉はすでにして見えなくなる。

〈医〉は何より〈癒し〉を事とする特別の営みだった。〈癒し〉とは生きる人の病苦を制し和らげることであり、言いかえれば、人びとを病苦から救うことだった。アスクレピオスへの〈信〉は、治癒の力をもつとされる神への信が一方にあり、また医師たちの術が功徳をもたらす支えでもあった。病の解釈に鬼神の仕業を迷妄として排したヒポクラテスでさえ、その〈信〉の外にいたわけではない。〈癒し〉の術は、死や苦痛を遠ざける方向に働きはしても、人を死から蘇らせることはできない。それは、医師の能力が足りないからできないのではなく、天地自然の秩序によって禁じられているのであり(あらゆる人は死ぬ)、医師は死の領域に手をださないことを自戒していたのである。それが、アスクレピオスを祖と仰ぐということだった

病苦は災いであり〈悪〉である。西洋の言語では、それらは〈悪〉(the evil/le mal)の一語で言い表せる。その〈悪〉から救い出して人を健やかにする――〈善〉に向かわせる――ことが〈癒し〉になる。その〈癒し〉を身体(ギリシア的なフュシス)ではなくむしろ魂(霊)の側から果たそうとする信仰集団が、ローマの帝国化の時代に登場したのである。それがガリラヤに登場したナザレ人イエスの〈癒し〉を信じる人びとの集団だった。

実際、イエスの教団は〈癒し〉の教団だった。『新約聖書』の共観福音書と言われる三つの物語で、イエスの行状の軸になっているのは説教と〈癒し〉の逸話である。福音書の原型とされるマルコ伝は、ヨハネによるイエスの洗礼から始まるが、伝道を始めたイエスがまず行うのは「穢れた霊」を祓うことであり、ついで弟子の姑の熱病を癒し、夕べには「さまざまな病を患う」多くの者たちを癒し、悪霊たちを追い払いながら宣教を始める。そして「らい病者」を癒し清め、ついで運ばれてきた「中風患者」を立たせて「罪が赦された」ことを示す。そこで律法学者たちに詰問されると、「丈夫な者らに医者はいらない。いるのは患っている者たちだ。私は“義人”どもを呼ぶためではなく、“罪人”たちを呼ぶために来たのだ」とイエスは言う。

そこからイエスの受難への旅が始まるのだが、その途上でも「安息日の癒し」が問題にされ、嵐を鎮める奇蹟を起こしたりしながら、「悪霊に憑かれた人びとの癒し」を繰り返すだけでなく、少女を蘇生させ、12年の長血に苦しむ女を癒す。そして人びとは「彼がいると聞けばどこでも、患っている者たちを担架の上に乗せ、彼のもとに運び始めた。」そして「村であれ、町であれ、里であれ、彼が入っていったところはどこでも、人びとはそこの市場に病弱の者たちを置き彼の着物の縁にでもいいから触らせてくれるように、彼に乞い願うのだった。」(マルコ伝)

この記述を虚心に読めば、イエスは「癒す人」として人びとの間に登場したことは疑えない。自らを「医者」に準えているばかりでなく、人びとは彼を「癒す人」として迎えたのだ。そうはっきり記述されている。少なくとも、イエスの「伝道」は「病気治し」と不可分だったのだ。これはマルコ伝だけではない。マタイ伝もルカ伝も、ドラマツルギーの軸は「癒す人」から「贖う人」へと傾いて十字架への道行きが前面に出されるにしても、イエスの伝道が「病気治し」と不可分だったことを隠してはいない(ギリシア思想、とりわけストア派の影響の濃いヨハネ伝と、パウロ神学の骨格となる書簡は別として)。

ただ、後の正統教義や神学的釈義によって固められた福音書の読み方では、癒しは奇蹟のヴァリエーションであって、本義は魂の救済の伝道であり、イエスの「贖罪」への道行きであり、病気治しは〈癒し〉と〈救済〉の俗的な比喩に過ぎないとみなされる。しかし福音書を字義どおりに読むなら、イエスはなによりまず「癒す人」として人びとの〈信〉を呼び起こし集めている。

 

〈病〉の概念を変える

治癒神イエス――この形象をはっきりと打ち出したのは宗教人類学者の山形孝夫である。山形は聖書の非神話化と実存論的解釈を提起したルドルフ・ブルトマンの観点を推し進めて、当時のパレスチナ地域の宗教人類学的知見からイエス教団の在り方を洗い出し(『レバノンの白い山』)、「治癒神」としてのイエス像を描き出した。

そこから浮かび上がるのは、バール神、エシュムン神等の「癒す神」との葛藤だけでなく、ヘレニズム時代にこの地域に浸透したアスクレピオス教団とイエスの教団との競合である。山形は「異邦の女の機知」の不可解な逸話の背後にそれを読み取っている。

突飛な話ではまったくない。ふつう知られているようなイエス像は、イエスの死後、彼を「神の子」とし、無垢のまま人類の罪を背負って磔になった「救世主=キリスト」であるとする、教会(弟子たちの教団)の神学が作り出したものだと言ってもよい。その神学的構築が、実際のイエスの在り方を覆い隠している。何より、「十字架のイエス」を凝集点とする「原罪」と「改悛」と救済の論理が、「癒す人」イエスを過剰解釈することになっている。

では、イエスの「奇蹟」はじっさいに起こっていたのか。おそらく起こっていたのだろう。悪霊を祓い、盲目の者を見えるようにし、脚なえを立って歩かせ、らい病者を癒す。絶望する者や錯乱する者を〈信〉の威力で癒し、目の見えない者には心の窓を開き、脚の立たない者には生きる力を呼び起こして歩かせ、らい病者には差別され遺棄されずに生きる仲間を与える…。それはひとつの〈癒し〉であり、技術的ではない〈医術〉である。

言いかえれば、イエスは〈病〉の概念を変えたのである。ヒポクラテスが迷信からピュシスの領域に〈病〉の位置を移して対処したとすれば、イエスはそれを人が生きるという「実存」の領域に広げ、魂(プシケ)からの〈癒し〉を行ったと言ってもいいだろう。

それは「心頭滅却すれば火もまた涼し」と同じ詭弁ではないかと言われるだろうか。そんなことはない。実際、近代の医学は、フロイトの精神分析を生み出さずにはいなかった。器質的には原因にたどり着けない〈病〉を、「無意識」に、言いかえれば掴みがたい魂(プシケー)に、言葉のメスで働きかけることで治療することが20世紀にも成り立ったのである。精神分析はその後、方法化され、新たな機械論に回収されるなどして本来のインパクトを失ってしまうが、近代西洋の医的思考の脈絡はたしかにそれを生み出す事情があった。中井久夫の『西洋精神医学背景史』という瞠目すべき本がある。三行に見開き分の推論が折りたたまれているような凝縮された知見が埋まっているが、中井もこの脈絡を無視してはいないように思われる。

 

背教者ユリアヌス

2世紀以来、「正統と異端」との厳しい排除と純化の作業によって作られた教会の教義の拘束力は強固で、それはやがてローマ帝国の統治規範にまで埋め込まれ、その後の世界の語り方の枠組みを決定して、やがてそれが自明のこととなって世界化の現在まで続いている。それを端的に示すのはコンスタンチヌスの二代後の皇帝ユリアヌスの例である。コンスタンチヌスのキリスト教公認の後、帝国の懐に食い込んだキリスト教会は、皇帝を動かすその地位を絶対に手放そうとはしなかった。

その時の立役者は、初めてのキリスト教的世界史『教会史』と『年代記』を書いたカエサレアのエウセビオスである。彼はコンスタンチヌス帝のもとでニカイア公会議を仕切り、コンスタンチヌスに最後の秘跡を行ったとされる。そのコンスタンチヌスを継いだのはその子コンスタンチウスだった。だが、後のトルコのスルタンの例のように、皇帝になったものはあらゆる競争者を抹殺する。弟一族もそうして抹殺されたが、奇しくも難を逃れて生き残ったユリアヌスは、有為転変を経てコンスタンチウスの後を継いで皇帝となる。コンスタンチヌスの息子は父帝に倣ってキリスト教を厚遇した。しかし一族滅亡を使嗾したのが教会(エウセビオス)だったことを知っており、流謫の日々にギリシアの風土や文化に馴染んでいたユリアヌスは、彼には陰湿で排他的に思えたキリスト教の浸透を避けて、ヘレニズムの気風を好んだ。そして皇帝の権威を背景に教会が接収したギリシア神殿(アスクレピオス神殿!)を元に復そうとしたこともある。ユリアヌスはキリスト教を弾圧したのではないが、ただその専横を制そうとしただけである。

だがユリアヌスの治世は長く続かず、わずか2年で彼はメソポタミア遠征の途上で倒れる。その後をコンスタンチウスの係累が継ぎ、再び教会は帝国の中枢に食いいって離れず、ほどなくテオドシウス帝はキリスト教をローマの国教と宣する。というより、異教禁止令であり、以後、キリスト教が帝国の公的宗教となり、それ以外の神儀礼(供犠・祭祀等)は帝国から排除されることになった。その後、帝国は東西に分裂し、ローマを擁した西の帝国は半世紀ももたずに滅亡するが、その跡地でローマ教会は地上の権力という支え失っても、まさに霊的・精神的なキリスト教世界(クリスチャニティ)として存続し、そこから後の西洋(オクシデント)世界を生み出すことになる。(東には皇帝が統べるオリエントの帝国が「第二のローマ」を拠点としてその後も千年間存続した。)

 たしかに、コンスタンチヌス以後の皇帝はみな教会を厚遇したが、その当初にわずか二年の間、キリスト教の食い込みを嫌ったユリアヌスは、その後教会によって未来永劫「背教者」の汚名を負わせられることになった。そしてそれはいつしか西洋世界で彼の代名詞になってしまったのである。それは帝国からの排除を恐れた当時のキリスト教会の「呪い」の刻印とも言うべきものだが、それがいつしか不問の形容になってしまっている。このことが、キリスト教的規範の拘束力というものを端的に示している。

 

エピダウロスの破壊

イエスが「医者」として、「病気治しの神」として新たな〈信〉を生み出したという山形の考えに説得力をもたせるのは、初期教会のアスクレピオス信仰敵視の痕跡である。これも山形が報告していることだが、1883年にギリシアの考古学者カヴァディウスが「エピダウロスの碑文」を発見した。そこには、この地のアスクレピオス神殿がコンスタンチヌスの治世に徹底的に破壊されたことが記されている。当時、オリエントに広がっていたアスクレピオス神殿も各地で破壊されている。その建物の石材は、帝国の庇護の下で各地に建立されるようになったキリスト教会に使われたという。かつてローマ帝国にとって文明の由来の地だった(神話もギリシアに倣って作り変えられる)ギリシアは、キリスト教化とともに異教の地として顧みられなくなる。あるいはヘレニズム文化は異教の風土として壊され埋められてゆくのである。

われわれが現代に何の疑問も抱かず用いている「ギリシア」という呼称がある。しかしこの地はかつて土地の人びとによってヘラスと呼ばれていた。だからその地の文化の拡大は「ヘレニズム」の名で呼ばれたのだ。では「ギリシア」という呼称はどこから生じたのか。古代、ローマはヘラスの地を「グラエキア」と呼んでいた。その呼称が帝国の拡張によってヘラスという自称の上に重なり、ローマ以後のオクシデント世界はそのローマを継承して作られている。だから現代のヨーロッパ言語ではその地は当然のように「ギリシア」と呼ばれる(ただ、19世紀半ばにできた近代ギリシアの国名は「エレニキ」である)。つまり、ローマの普遍化が現代まで世界基準として通用しているということだ。そのローマの普遍化は、初めは武力によって地中海世界で、ついでキリスト教によって世界的に果たされたのである。近代以降のヨーロッパはそのローマの礎石の上に成り立っている。だからその地を今でもラテン語でしか呼ばないのだ。

キリスト教自体もそうだろう。ローマ・カトリック(普遍教)は、初期の「ナザレ人の教え」の墓標のようにして建立された。イエスの癒しと救いはその下に埋もれているのである。ただ、その〈治癒神〉としてのあり方は、霊的信仰として教義化され比喩化されても、規範の根本に刻まれることになった。それは、キリスト教の発明した〈信仰〉だけが、あらゆる〈罪・悪〉の症状に治癒を、癒しと救いをもたらす奇蹟の妙薬であるということだ。そしてそれ以外は「邪教」であり「悪魔の誘惑」として退けられる。〈信仰〉だけが万能の「癒し」であり、苦痛さえ神に選ばれた者の印であって、だから病者は労わられる。そうしてキリスト教は、異教の教え(医学)を厳しく排しながら、その後千年にわたって医者のいらない世界を作ってゆくのである。

 

 

*参考文献

新約聖書(マルコ伝・マタイ伝・ルカ伝)

山形孝夫『レバノンの白い山――古代地中海の神々』未来社、1976年

山形孝夫『聖書の起源』講談社現代新書、1976年、筑摩学芸文庫、2010年

山形孝夫『治癒神イエスの誕生』小学館創造選書、1981年、筑摩学芸文庫、2010年

中井久夫『西欧精神医学背景史』(新装版)、みすず書房、2015年

ポール・ヴェーヌ『「私たちの世界」がキリスト教になったとき――コンスタンティヌスという男』西永良成・渡名喜庸哲訳、岩波書店、2010年

『エウセビオス「教会史」』上下、秦剛平訳、講談社、2010年

辻邦夫『背教者ユリアヌス』(一)~(四)、中央公論新社、2017-2018年

 モーリス・サショ「キリスト教はいかにして宗教となったか」、Maurice Sachot, Comment le christianisme est-il devenu religio ? in Revue des sciences religieuses, Année 1985, 59-2, pp. 95-118

 

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著者略歴

  1. 西谷修

    1950年、生まれ。東京大学法学部、東京都立大学大学院、パリ第8大学などで学ぶ。フランス思想、とくにバタイユ、ブランショ、レヴィナス、ルジャンドルらを研究。明治学院大学教授、東京外国語大学大学院教授、立教大学大学院特任教授等を歴任。著書に『不死のワンダーランド』(増補新版、青土社)、『夜の鼓動に触れる 戦争論講義』(ちくま学芸文庫)、『戦争論』(講談社学術新書)など、訳書にブランショ『明かしえぬ共同体』、レヴィナス『実存から実存者へ』(共にちくま学芸文庫)など多数。

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