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〈間合い〉とは何か――二人称的身体論

間合い ーー 人と人、人と技術の接点の研究〈諏訪正樹〉

状況依存性とフレーム問題

 閑話休題。ここで少し人工知能研究の歴史を語ってみます。現在、人工知能が第三次ブームを迎え、AI時代で生活も人の在り方も劇的に変わると世間は騒いでいます。一昔前の第二次ブームは1980年代でしたが、それが終焉を迎えた最大の理由は、研究者が「状況依存性」という概念に遭遇し、1970年代から指摘されてきた「フレーム問題」の壁に改めて直面したからだと考えられています。この2つの概念を簡単に説明します。

 第二次ブームを支えたのは、専門家が有している知識をできるだけたくさん抽出しコンピュータの中に表現すれば、コンピュータは専門家と同じように問題解決ができるようになるという思想でした。エキスパートの専門知識を実装した人工知能システムを「エキスパートシステム」と称しました。例えば、医療診断の「マイシン」システムは、身体の不調を訴える患者に見られる兆候を入力すると病気の原因(病名)が特定できることを目指して制作されました。「マイシン」は、様々な病気について、各々どういった兆候が現れるかに関する知識をルールとして蓄えているので、そのルール群を駆使して、兆候から病名を割り出すというメカニズムで動いていました。

 しかし、エキスパートシステムの研究はすぐ困難に直面しました。専門家(医療診断であれば医師)が、自身が有する専門知識の全てを語れなかったのです。一般的に言うならば、人間の知的なパフォーマンスは多分に暗黙知[ポランニー2003]から成り立っていて、パフォーマンスを支える知識を完全には語れないというわけです。すぐれた医師は、明確な根拠があるわけではないのだけれど、何かしらの違和感を覚えたことに端を発して、様々な別の可能性も念頭に入れてみます。専門家が知識を全て語れないのだとすると、エキスパートシステムは到底専門家に肩を並べることはできません。

「何かしらの違和感」の正体は何でしょうか? それを感得できるのはどうしてでしょうか? 違和感は、普段なら気を留めない何らかの側面(変数)に意識を向けはじめたことの現れかもしれません。緑の多い公園を散歩していて、雰囲気がいつもと違うなあと感じる。そういえば、今日は子ども連れの人がほとんどいない、なんてことにふと気付いたりします。耳にどんな音が届いているか。視界の端にどういったものの、どういった動きが映っているか。身体には、外界からほぼ無限に近い信号が降りかかっているのだけれど、信号のほとんどに、普段は気に留めることすらしません。しかし、今日は、音や視界の端の動きに気を留めた。それが「何かしらの違和感」の始まりかもしれません。そして、「子ども連れが少ない」と気づくことができた。

「状況依存性」とは、予めルールとして規定された知識を持っていなくても、人が場の状況に臨機応変に反応して対処する知性を持っていることを説いた概念です。どんな時にどういう信号を感得するかを予め規定することはできず、場に身を置いて初めて、その日のその人の心身状態と場の状況とのインタラクションに応じて、感得できることが変わります。AIシステムを制作する立場からすると、これはとても困ります。予め知識として列挙してコンピュータに実装することができないのですから。

 AIについてある程度知識を持っている人は、「過去の様々な事例のデータ(ビッグデータ)を持っていれば、そこからある種のパタンを抽出したり、現在の状況と似たデータを判別できたりするので、状況依存的な推論ができるはず」と反論するかもしれません。しかしながら、その反論は的を外しています。

 そもそも「データ」とは何かということを考えなければなりません。現実世界、イコール、データではないのです。現実世界を切り取ったものがデータです。切り取るためには、研究者が予め、「関係がある(relevant)」とか「重要である」と認定した変数(日常用語でいえば、側面)群を規定しなければなりません。そうやって現実世界を切り取ったものが、データです。ある日の快適さ/不快さを推定するためには、温度、湿度、風量、日射量、日射角度を考慮すればよいと予め決めることで、その日の天候という現実がデータとして切り取られます。つまり、ビッグデータと言われるものは、研究者が予め規定した側面や変数で切り取られています。

 このことを踏まえれば、ビッグデータの解析に基づいて推定することだけでは、臨機応変な対処が可能ではないことは明らかです。データの切り取り方が予め決まっている、別の言葉で言うと、データを予め「決められた認識枠」で規定しているのですから。この「認識枠」のことを「フレーム」といいます。

 認識枠は現場に即して初めて決まる(予め決められない)ということを「フレーム問題」といいます。「フレーム問題」は、人工知能には解くことのできない大問題であるとして、1970年代に哲学者が指摘しました。「状況依存性」と「フレーム問題」は、おなじコインの表と裏のようなものです。ちなみに第三次ブームを迎えている最新の人工知能技術も、フレーム問題は解決できていないし、想定外に対処するような状況依存な振る舞いを示す能力は持ち合わせていません。

間合いと一人称研究

 第三次AIブームに沸き立つ一方で、私は、状況依存的な振る舞いとはどういう知なのかという問いの探究も着々と進める必要があると思います。間合いという現象は、まさに状況依存的な振る舞いの典型事例です。

・その場の内側の存在になって初めて見えてくる変数とは一体どんなものか?

・私たち人間は物理的な身体を有しているが、身体の存在が変数への着眼にどう寄与しているのか?(これを「身体性の研究」と呼びます)

・そういった着眼が如何にして臨機応変な振る舞いを生むのか?

 探究すべき問いは尽きません。一人称研究はそういう問いに答えて、有益な仮説を生み出せる可能性があると、私は感じています。

「場の内側の視点に立って初めて見えてくる変数」とはどのようなものかを解明するためには、研究者が、具体的な研究事例で、一人称視点から見える「個別具体的なものごと」を(性急な一般化をすることなく)克明に記述することが、まずは必要でしょう。その場に存在するどの変数が「関係ある(relevant)」のかについての予見を一切排し、「個別具体的なものごと」の中に潜む何が、臨機応変なパフォーマンスの基盤になりえたのかについて仮説を立ててみることが肝要です。

 一人称視点は、他者や外界のものごとへの二人称的(共感的)関わりを生み出すという仮説を先に提示しました。ということは、一人称研究は、一人称視点、二人称視点の両面から、身体が遭遇している場にしかと向き合う研究であるということもできます。三人称研究(客観的な立ち位置からの観察に基づく研究)にはアクセスできない個別具体的な側面に着眼して、状況依存的な知的振る舞いのメカニズムについての仮説を生み出すための研究方法です。

科学の方法

 研究対象のものごとを客観的に観察し、そこに成立するメカニズムを抽出することが、いわゆる「科学」の方法です。そして、そのメカニズムが、どこででも誰にでも成立する普遍性を有していれば、それを科学的な知見であると認めます。私たちは、小学生の頃から、例えば理科の実験で、そういった科学的態度を教育されてきました。したがって、研究といえば、すなわち科学的態度で臨むべきものと、半ば無自覚に信じ込んでしまいます。

 しかし、人の知能や社会のありさまを研究対象とする場合、客観性や普遍性のみを正しいとする態度だけでは、本質的な何かを捉え損ねてしまいます。先に述べたように、「状況依存的に臨機応変な振る舞いを生む」知能とは何かを捉えるためには、本人の一人称視点に立って初めて見える個別具体的なものごとを研究データにする必要があります。一人称視点は基本的に主観であり、科学の客観性原則に反します。そこから生まれた仮説は、万人に成り立つ普遍性は有していないかもしれません。しかし、客観性や普遍性の原則に反するからといって、そういった知性のありさまを顕在化させることに益はないと断言することはできません。

 間合いといった、状況依存的で臨機応変な知のありさまの探究は、まさに、科学的態度とは何かと研究方法論そのものを問いながら、個別具体的な研究事例に向き合うことを求められます。人の知能や社会のありさまを探究する時には、従来型のいわゆる科学的態度だけでは、研究知見から本質的な何かが漏れ落ちてしまうという警鐘を鳴らしてきた哲学者の一人、中村雄二郎氏の説を次に紹介しましょう。

中村雄二郎の警鐘

 中村氏は、『臨床の知とは何か』(1992)の中で、近代科学の三大原則である、普遍性、論理性、客観性を以下のように説明しています。

<普遍性>とは、理論の適用範囲がこの上なく広いことである。例外なしにいつ、どこにでも妥当するということである。だから、そのような性格をもった理論に対しては、例外を持ち出して反論することはできない。(中略)…次に<論理性>とは、主張するところがきわめて明快に首尾一貫していることである。理論の構築に関しても用語の上でも、多義的な曖昧さを少しも含んでいないということである。(中略)…最後に<客観性>であるが、これは、或ることが誰でも認めざるをえない明白な事実としてそこに存在しているということである。個々人の感情や想いから独立して存在しているということである。だから、そのような性格をもった理論にとっては、物事の存在は主観によっては少しも左右されないということになる。(中村1992, p.6-7)

 中村氏は、近代科学は、この三大原則が厳密で世界を見る視点を強く制限するがゆえに、現実世界の重要な側面を捉え損ねていることを、以下のように指摘しています。

 しかしながら、<現実>とは、このように近代科学によって捉えられたものだけに限られるのだろうか。というより、このような原理をそなえた理論によって具体的な現実は捉えられているだろうか。否であろう。むしろ、近代科学によって捉えられた現実とは、基本的には機械論的、力学的に選び取られ、整えられたものに過ぎないのではなかろうか。もしそうだとすれば、近代科学の<普遍性>と<論理性>と<客観性>という三つの原理はそれぞれ、何を軽視し、無視しているのだろうか。それらは何を排除することによって成立しえたのだろうか?(p.7)

 中村氏は、近代科学が現実を捉え損ねている典型的な事例を、この書の序文で二つ挙げています。

 近代科学の自然観が、自然をもっぱら人間のために役立たせる技術的開発の対象としてきたこと、したがって生態系つまりは地球環境の破壊をもたらすに至ったことはいまや明白であろう。また、高度に自然科学化し、技術化した近代医学が、たとえば集中治療室などに象徴されるように、医療の現場において、人間らしい患者の扱いからいよいよ遠ざかることになり、関係者だけでなく社会全体に深刻な反省を迫ってきていることも周知のとおりである。(p.4)

 中村氏は、環境破壊や医療問題といった、社会的に耳目を集める典型的な大問題を挙げ、近代科学の方法論が、生態系や人を「互いにやりとりを交わし、生きている」存在として捉え損ねていることを鋭く批判しています。それに比べて、本連載の話題の「間合い」のように、「状況依存的に臨機応変な振る舞いを生む」知の姿を顕在化せんとする研究は、社会的・産業的な大問題に立ち向かっていないではないか! と疑義を抱く読者も多いかもしれません。しかし、両者は、「生きている人の生きる様」を扱おうとする態度が、共通しています。中村氏が論じているように、人類は、自然を人間社会のために役立てる対象として捉え、自然をうまく制御する技術開発にいそしんできました。制御技術の典型例の一つは、たとえば、自然資源からエネルギー取り出すことでしょう。

 そのような社会的・産業的な益を追求することも重要ですが、これまでの研究に圧倒的に欠けているのは、人が生きる様にしかと向き合おうとする研究だと思うのです。研究という営為は自然科学分野で培われてきた「科学的」態度で臨むべしという、半ば公式めいた、したがって、いつの間にか無自覚化した慣習が災いして、人が生きる様に研究のメスを入れようとする研究者が圧倒的に少なかったのかもしれません。

 本連載の著者たちは、皆、人が生きる様に着眼するという基本的態度のなかで、間合いという現象に研究の光を当てようとしているのです。

「エネルギーのようなもの」は、客観的には感得不可能

 この連載で度々登場した「エネルギーのようなもの」は、明らかに従来の科学の方法(三人称研究)の範疇をはみ出しています。しかし、「一人称視点」や「二人称的(共感的)関わり」を、重要な研究態度とするからこそ、私たちは「エネルギーのようなもの」を、間合いの説明に用いてきたのです。

 日々生きていく者として、自身の身体や他者の身体が何を感得しているかを省みるならば、「エネルギーのようなもの」は、(中村雄二郎の言葉を借りると)生きている人の「現実世界」です。研究者も一人一人生活者です。生活者としては日々「生きている感覚」をまざまざと感得しているのに、研究者として人の知を扱うときには、そういったものを研究対象から外すという研究態度に、本連載の著者たちは大いなる疑義を感じるのです。中村雄二郎の書の真意もそこにあるはずです。

情報・コンピュータ技術と人の接点

 知の状況依存性やフレーム問題は、現在のAIも未だ解決できていないわけですが、私たち人間の身体は、その難問をどのようにクリアしているのでしょうか? 実は、それもまだよくわかっていません。私たち人間が、(完全には解決できないにしても)如何にしてその難問を巧妙に避けているかを探究せずして、ビッグデータや機械学習という、生身の人とは異なるパラダイムでAI研究を進めることに私は大いなる違和感を覚えます。人とコンピュータ(AI)の接点のところに、必ずや弊害が生じるであろうと思うからです。

 間合いは、まさに、生きている者どうしの、もしくは、人とものの接点で生じる現象です。実に状況依存的な現象であり、臨機応変な振る舞いです。現在のAIにとっては、フレーム問題だらけで手に負えない現象です。この2、3年の間に、AIを搭載した自動運転車が引き起こした事故が、アメリカを中心に何件か報告されています。ある事故は「人の運転する車との道の譲り合いに失敗」という報道がなされ、私は「やはり、そうなるよね」とうなずいたことを思い出します。現在のAIは、間合いを図ることはできません。AI運転車は主観を持たず、したがって一人称視点なるものもなく、ただ、客観的にセンサーから感知できるものごとだけに準拠して、挙動を決めます。運転者として技量の高い人は、相手が人であろうと自動運転車であろうと、間合いを図りながら運転するので、このような事故は起こさないと思われます。しかし、技量が高くない人、そして自動運転車は、まさにそういった臨機応変な察知に長けていないがゆえに、譲り合いに失敗するのです。

情報コンピュータ技術と人の接点はまさに間合いの問題

 情報コンピュータ技術と人の接点の問題は、古くから指摘されてきました。非常に卑近な事例の一つは、ワープロの出現で日本人が漢字を書けなくなったことでしょう。本来、書き順や線の構成は身体が憶えており、漢字も身体知なのです。自身の指で書く習慣が薄れた結果、身体が文字を忘れかけている人は多いことでしょう。「なんだかなあ、情けないな~」という気持ちがあるものの、文字をコンピュータで書く習慣がここまで一般化すると、もう後戻りできません。「私たちの身体はある能力を失ったけれども、身体+コンピュータの合わせ技で能力が減じていなければ、それでよい」という議論もあります。

 ここに、見過ごしてはならないことが少なくとも一つあります。それは、情報コンピュータ技術は人の能力を奪う、もしくは人が学習する機会を奪う可能性が大いにあるということです。技術者はそれを自覚するのがよいと思います。ワープロの場合は、人が漢字を書く能力を失った分だけ、コンピュータがきちんと補填できているので、大きな問題にはなりません。ただ、情けない気持ちが沸き起こるだけです。

 例えば、自動運転技術の普及は人から何を奪う可能性があるかを考えてみましょう。自動運転には、人がどこまで何を担うかによって様々なレベルがあるとされています。現在実現しているのは、「システムが前後・左右両方の車両制御に係る運転操作の一部を行う」というレベル2(部分運転自動化)です。衝突の危険を察知して自動ブレーキが掛かったり、車線変更を自動で行うことはこれに合致します。そして、「システムが限定された条件の下で、全ての運転タスクを実施するが、緊急時などシステムからの要請があれば運転者が操作を行う必要がある」というレベル3(条件付き運転自動化)が近未来のうちに普及するとされています。

 私自身は、レベル3に危惧を禁じえません。レベル3では、運転者は運転操作には関わらなくてもよいのですが、緊急時に備えて運転席に座っていなければならないのです。「運転操作をしなくてよい」のであれば、確実に、人は主体性をなくします。安全性のチェックも含めて、周辺状況に気をくばるという主体的意識がなくなるのです。助手席に座っているのとほぼ同じ状態です。

 しかし、運転席には座っていなければならない。これはどんな心理状態をもたらすでしょうか? 主体性がすでにないのだから、「自分が運転している」感はないだろうし、安全性への気配りもなくなるという心身状態に多くの人が陥るでしょう。

 そして、もし緊急事態になった時(インターネット環境の混乱や、正面からの直射日光など、様々なトラブル状況がありえますが)、急に、「はい、ここからは運転を任せます! この時のために運転席に座ってもらっていたのです」と言われて、果たして、人は急に舵を取ることができるでしょうか? 運転主体としての意識が欠落している人が、すぐに運転を引き受けられるでしょうか? 自動運転車がブレーキを掛けるだけの時間的余裕があって、一旦停車した後に、人が運転を引き受けることができれば、まだ状況はマシでしょうが。

 そのような緊急事態はそう度々は発生しないでしょう。であるとすると、困ったことに、主体性なく運転席に座っているだけのユーザーは、徐々に、運転の能力を失うはずです。操作の技量、状況判断力、周辺状況への気配り、危険察知の能力など、すべての能力が、いつの間にか奪われてしまうでしょう。ワープロがいつの間にか私たちの漢字能力を奪ったように。能力を失った運転者は、もはや、任されても運転できる身体ではないかもしれません。

 人が能力を喪失した分だけ情報コンピュータ技術がきちんと補充してくれれば、社会的に大きな問題にはなりません。しかし、運転というものごとにおいて時々必要になるであろう、状況依存的で臨機応変な能力をAI技術がすべて補填することは、残念ながら望めません。「状況依存的で臨機応変な振る舞いとはどんな知能なのか」の正体に、私たち研究者はまだ全く触れられていないのですから。

 運転の主体意識がなくなるのなら、そして、運転にまつわる様々な心身能力が失われるのなら、自動運転に任せるのはごめんだと、従来通り、自分で運転し続ける人もたくさんいて、自動運転はそこまで普及しない可能性もあります。

 こういった情報コンピュータ技術と人の接点で生じるものごとは、まさに間合いの問題です。従来の科学の方法だけでは解き明かせない、人が生きているからこそ生じる現象であると捉え、適切な研究方法自体を新しく開拓しながら、探究すべきだと考えます。

間合い:生きていることの根幹

 間合いという現象は、人と人の接点に生じるだけではありません。第6回のカフェの居心地の事例のように、建築空間に対しても、人は一方的だけれど、間合いを感得しようとします。相対するものが、自動運転車のような情報コンピュータ技術であっても同じで、生活者として新しく開発された技術との関わり方を模索することも、間合いでしょう。

 情報コンピュータ技術の進化に伴い、たとえ、どんな世の中になったとしても、人が人として生きている限り、身体で間合いを図り、自分にとって心地よい間合いを模索するというシチュエーションは、生活の至る所に存在します。そう考えると、間合いは、生きている人の生き様の根幹部分に関わる現象であると言えるでしょう。

 間合いを図ることが生き様の根幹を為すのであれば、間合いの研究は、生き様の研究、人がよりよく生きるとはどういうことかを模索する研究であると言えます。本連載の中で、これだけ多岐にわたる事例が紹介されたことは、間合いがよりよく生きることに深く関わっていることの証だと思います。

 今後、更に多岐にわたる事例が見出され、間合いという観点から「生きること」を見つめ直す研究があちらこちらで立ち上がることを、本連載の著者たちは心から望んでいます。

 

参考文献

[中村1992] 中村雄二郎. 『臨床の知とは何か』. 岩波書店. (1992)

[ポランニー2003] マイケル・ポランニー.『暗黙知の次元』(高橋勇夫訳). ちくま学芸文庫. (2003)

 

 

 

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著者略歴

  1. 諏訪正樹

    慶應義塾大学環境情報学部教授。工学博士。生活における様々な学びを「身体知」と捉え、その獲得プロセスを探究する。自ら野球選手としてスキル獲得を行う実践から、学びの手法「からだメタ認知」と、研究方法論「一人称研究」を提唱してきた。単著に『「こつ」と「スランプ」の研究――身体知の認知科学』(講談社)、『身体が生み出すクリエイティブ』(筑摩書房)、共著に『知のデザイン――自分ごととして考えよう』、『一人称研究のすすめ――知能研究の新しい潮流』(ともに近代科学社)。

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