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〈間合い〉とは何か――二人称的身体論

「間合い」という現象をどう捉えたいか?〈諏訪正樹〉

渋谷のスクランブル交差点

 外国人が東京にきて驚くことの一つは、渋谷駅前のスクランブル交差点だそうです。大量の人が一斉に渡り出し、誰もぶつかることなく、実にスムーズに渡り終えます。各人が歩きたい方向や速度を頑として譲らないのなら、そうはならないでしょう。皆が、向かってくる人たち、同じ方向に歩く人たちの動きを(意識するともなく)予測し、自分の歩く方向と速度を微妙に調節しているはずです。

「間合い」とはどういうものごとなのかを、生活に根ざした多彩な事例を持ち出して論じることが、本連載の目的です。「間合い」は、剣道、柔道、野球などの対戦競技で話題になることが多いのですが、実は、私たちの生活の至るところに登場します。渋谷のスクランブル交差点で皆が何気なくこなしている所業は、まさに「間合いを形成する」行為に他なりません。間合いは生活に溢れていることを示すこと、そして、身体は、間合いを形成するために何を為し遂げているかを考察してみることを念頭に置き、「間合いにまつわる身体論」を書き進めます。

駅の雑踏を歩く

 私は電車を乗り換える時、いち早く目的地に到着しようと、しばしば早足になります。日中でも混雑する新宿や渋谷のコンコースを、人よりも速い速度で歩き抜けるとき、時々ゲームをしているような心持ちになってしまいます。人にぶつからないで、しかも早足が他者にプレッシャーをかけることなく、如何にスムーズに歩き切るかにチャレンジするのです。

 同じ方向に歩く人たち、逆方向から向かってくる人たちが、思い思いの方向、角度、速度で入り乱れて歩く様子が、眼前に繰り広げられます。横からもふいに現れます。階段を降りる群れが横から襲ってきたり、階段にダッシュする人が目の前を横切ったりします。昨今は、取っ手が長く延びるスーツケースを後手に引く人が多いのですが、その低い位置は視界に入りにくく、雑踏では脅威だったりします。

 いつしか私は、そんな光景の中をすいすいと泳ぎきるコツを見つけていました。どこにも焦点を当てず空間全体をぼわんと眺めて歩くと、不思議なことに、前方も横も含めた全体の流れがつかめ、人とぶつかりそうになることもありません。ふいに横から入ってくる動きにも事前に対処できます。逆に、特定の人の動きに焦点を当て、その動きに対処しようとすると、不意に思いもよらない方向に相手が進んできてぶつかりそうになったり、急に横から現れる人に対処できなかったりします。

 注視しているのに、そんなことになってしまうのはなぜでしょうか? 逆に、どこにも焦点を当てずぼわんと全体を眺めていると、臨機応変に対応しやすいのはなぜでしょうか? 人間の視覚システムは中心視と周辺視から成り立っていて、後者の方が微細な速い動きに敏感であるから、周辺視をうまく使うと全体性を捉えやすいという知見があります。この知見は、確かに、横から飛び出てくる人への柔軟な対処を説明できます。

 特定の人に注視している場合、注視できているのは実は身体の主要部分(例えば体幹)だけであり、手足などの周辺部分は、実は網膜の中心領域からは外れているのかもしれません。したがって、中心視領域だけを注視していると、手足などの微細な動きが目に入らず、不意な動きの兆候(それは手足などに最初に現れる)に気付けないのかもしれません。ぼわんと全体を眺めるということは、注視する特定部分をなくし、すべてを周辺視的に捉えるということなのでしょう。

エネルギーのようなもの

 しかし、微細な速い動きに敏感になるという上記の説明だけでは、私は少し物足りなく感じます。眼前、横方向も含めたすべての視野を周辺視的に捉えた時、私の身体が何を感じ取っているのかを感得し(注1)そこから立てた仮説を紹介しましょう。身体は、眼前に繰り広げられる、思い思いの動きの兆候のすべてを並列的に知覚し、それを個々に感じ取るのではなく全体的に眺めた結果、「エネルギーのようなもの」の疎密場を、そしてその移り変わりを感じ取っているのではないかと、私は思うのです。

「エネルギーのようなもの」とは、何を意味するのか? まずは直感的にお伝えします。身体の大きな人や、大きな物体があなたに向かって猛然と進んできたら、あなたは圧力を感じるでしょう。大きな建物が眼前にそびえ立っていると、自己の存在がちっぽけに感じ、圧迫感を抱くかもしれません。あなたに比べてかなりゆっくり歩く集団が前にいたら、あなたの勢いは動かない壁に堰き止められ、滞る感覚を抱くでしょう。

「圧力」、「圧迫感」、「勢い」、「流れ」と、比喩的に表現したことに相当するものを、物理学の世界に求めるならば、「エネルギー」という物理量が妥当なのではないかと考えています。物理学では、エネルギーとは「「仕事」をすることのできる能力」を指します。「仕事」とは何か? ある物体に力Fがかかり、力の方向に距離dだけ動いた時、その力は物体にF × d の「仕事をした」と言います。力F = 質量m × 加速度a という公式を高校の物理の授業で習ったことを思い出した読者の方もいることでしょう。

 これらの知識をもとにすると、「エネルギー」という物理量は、力×距離、より細かな要素に分割すると、質量×加速度×距離ということになります。圧力や圧迫感という言葉には、「力」や「迫る」という文字が含まれます。「迫る」には、だんだん速くなりながら(つまり急に)近づいてくるというニュアンスがあります。すごい加速度で遠くの方から近づいてくると、近い距離から近づいてくるよりも、より強い圧力を感じます。「勢い」にも加速度のニュアンスは含まれます。

 大きな建物がそびえ立っていると、あなたよりも遥かに高い位置に大きな物体が存在することになります。物理には「位置エネルギー」という言葉があり、質量m × 重力加速度g × 高さhという公式で計算できます。重力加速度は地球上ではどこも一定なので、物体の質量が重ければ重いほど(大きければ大きいほど)、位置が高ければ高いほど、位置エネルギーは大きくなります。眼前に大きな建物がある場合、頭よりも遥かに高い位置に大きな物体があるわけなので、あなたは、その位置エネルギーを感じて、(「もし崩れ落ちてきたら、凄いエネルギーがあなたに降りかかる!」と)圧迫感を感じるのです。

「圧力」、「圧迫感」、「勢い」という言葉で表現したかった働きは、物理量「エネルギー」が有する各要素を内包していることを考えれば、雑踏の事例で「エネルギーのようなもの」に言及することも概ね妥当でしょう。

「エネルギーのようなもの」が放たれるのは、対象となる人や物が動いている時ばかりではありません。もし大きな物体があなたの行く手を遮っていたら、同様に圧迫感を感じます。その理由は、あなたが当の物体に注意を注ぎ、あたかも自分に襲いかかってくるかのように想像するからでしょう。つまり、「エネルギーのようなもの」は、物理量「エネルギー」で表現できるリアルな事象を背景に、その事象を想像することも含めた認知的な主観であるということです。その物体と自分のあいだに、「襲いかかってくるかもしれない」という関係を見出したからこそ、エネルギーのようなものが放たれていると認知するのです。

エネルギー場の感得と間合い

 間合いを形成するとは、場が内包する「エネルギーのようなもの」を敏感に感じ取って、自己の動きを臨機応変に調整するということであると、本連載では考えます。場に応じて身体が動きを微妙に調整するということは、あなたの身体も場に対して「エネルギーのようなもの」を発しており、エネルギー場を構成する一要素になっています。

 自分も含め、場に存在する多様な人や物体がエネルギーを有しているので、私たちは、場にはエネルギーが満ち溢れていると感じます。先に述べたように、動いている人や物体には運動エネルギーを感じるのですが、実はそれだけではありません。その人や物体が何かにぶつかって止まったとすると、それまでの運動エネルギーは、ぶつかった衝撃(というエネルギー)に変換されて場に放出されます。私たちはそういうエネルギーの放出をも、少し未来の事象ですが、想像してしまうのです。

 動いている人や物体の少し前方に、もしぶつかったとしたら放出される潜在的なエネルギーを想像した結果として、私たちの認知は、エネルギーが集中する場所とそうでない場所を感じることになります。先に、「エネルギーの疎密場」と表現したのは、そういう意味です。複数の人が同じスポットに向かって勢いよく進んだら、まさにそのスポットがエネルギーが密な場所になります。反対に、どこからもエネルギーが放たれない疎の領域もできるでしょう。

 どこにも焦点を合わさずに全体をぼわんと眺めていると、そういったエネルギーの疎密場の様子を身体が感じることになるのでしょう。特定の人や物に注視していると、全体への意識が欠落するので、エネルギー場を感じることはできません。

 雑踏における臨機応変な調整とは、基本的に、「エネルギーが疎な領域に自分のエネルギーを向かわせる」ということではないかと、私は考えています。もし密な領域に向かうと、人や物体にぶつかって衝撃を受けることになります。ぶつかる手前で回避したとしても、密な領域に向かっている瞬間には、加速度的に増す圧力を感じることになります。そういう事態はなるべく避けて、何事もなく平穏にその場をしのぐためには、エネルギーの集中を避けて、目下「疎な領域(もしくは少し未来に疎になりそうな領域)」に自分のエネルギーを向かわせるのがよいのです。つまり、雑踏で私たちは、エネルギーの疎密場を平滑化する方向に動こうと「調整」するわけです。

「調整」の主語はもちろん本人の身体ですが、当の本人は、「あっちの人はこっちにエネルギーを発していて、そっちの人はこっち向きで〇〇くらいの速さだから、私はこの向きにこの速度で歩こう」などと、意識的に制御しているわけではなさそうです。空間内のエネルギーの疎密の様子を感得した結果、意識せずとも、いつの間にか、足がそっちに向いているということではないか? 少なくとも私の経験からすれば、そういう現象であるように思います。

 ある瞬間に足がそちらに向かえば、即座に位置と向きが変わり、自分の身体が場に放つエネルギーも変わります。場に存在しているすべての人や物が、刻々、エネルギーの量と放つ向きを変えるため、身体は常に、現在進行形で変わっていくエネルギーの疎密場をウォッチして、それに応じて自らの動きを臨機応変に変化させます。その連続が、スイスイと泳ぎきる行為を生みだします。もし途中で何かに意識を奪われたならば、その途端、連続は途切れるでしょう。

 渋谷のスクランブル交差点で生じているのは、多数の人が同時並行的に、スイスイと泳いでいる結果、総体として滑らかな流れができているということです。あちらこちらで、エネルギーの疎密場の変化を感得して臨機応変に足が向く方向を決めるという、局所的な間合いが図られています。

主観的な経験

 空間のエネルギー場の感得は、感得者が誰であっても同じように感じる、客観的な事象ではありません。何か特定の人や物体に焦点を当てると、焦点を当てた近傍の「場」しか感得できません。ぼわんと全体を眺める方法も個人ごとに微妙に異なるとすると、同じ空間にいても感得できるエネルギーは人によって異なるでしょう。つまり、エネルギー場の感得は主観的な経験といえます。

 間合いが「エネルギー場」の感得に基づくものだと仮定すると、普遍性や客観性を重要視する従来の科学的方法では探究ができないということになります。誰もが生活者として「間合い」を経験しているにもかかわらず、これまで研究のメスがほとんど入らなかった理由は、まさに間合いという現象と科学的方法の相性の悪さに尽きます。例えば、実験心理学という学問分野は、人の心理を扱う学問であるにもかかわらず、「科学的」であらんとして客観性を重視しすぎるがゆえに、客観的に観察できないデータ(人の主観)を扱いません。

 しかし、人が「生きる」上で重要なのは、客観的に扱える行動や発言だけではないはずです。なぜそういう行動をしたか、なぜそう発言したかの根底には、それまでの様々な体験を踏まえた、何らかの問題意識があります。「問題意識」とは、何か釈然としない違和感を感得すること、特定の対象や側面に着目してそれについて疑問を呈すること、うまくいかない源として問題点を見出すこと、問題点を解決する方策を思い付くことなどを含む、必ずしも顕在化されない(客観的に観察できない)主観的プロセスです。哲学者の中村雄二郎(1992)は、客観的に観察できないものごとを研究の対象外にしていると、人が「生きる」経験の重要な側面が漏れ落ちてしまうという、ジレンマを論じました。「間合い」も、生活に偏在するそういう類の現象です。本連載では、これまでの科学的方法論に縛られることなく(客観的分析だけに偏ることなく)、主観的な事象にもしかと向き合い、間合い探究の糸口を得ようとした研究事例を紹介します。

客観的に観察可能なものごと vs. それを支える裏

 思い入れがあることについて熱弁をふるう人を想像してみましょう。それを聴いていて客観的に観察できるのは、表情、言葉をしゃべる速度やイントネーションや強弱、そしてその変化です。しかし、表面に顕在化するものごとの裏に、私たちは「熱意」を感じます。熱意は客観的に観察可能なものごとではなく、聴いている側の主観に基づく解釈です。発言内容の意味も、基本的には聴いている側の主観的な解釈で(多くの人がそう解釈するであろう要素も含むけれど)あり、「熱意」の感得に大いに作用するでしょう。「熱意」は、本連載で扱うエネルギー的なものの典型例です。客観的に観察可能なものごとの裏に感得できる、主観的な事象です。

 発言内容は個々の言葉からなります。言葉の意味とは何かについて、考えてみましょう。ある言葉を思い浮かべると、私たちは同時に、それにまつわる過去の経験を想起します。日本酒が好きな人は、「日本酒」と聞くと、それを口に含んだ時の触感、身体全体にほっこりと芽生える体感、食事の味とマッチした時の嬉しさ、蔵元や銘柄が異なると全く味わいが変わることへの驚き、少し酔いが回って夜の街を歩く楽しさ、飲みすぎた翌朝の辛さなど、お酒を飲むことにまつわる生活上の様々な感覚やシーンを想起します。つまり、「日本酒」という言葉の意味は、そういったものごとの総体としての、体感や感情から構成されます。人工知能の専門用語である「グラウンディング(grounding)」を使って表現すると、「日本酒」の意味は過去の体験の総体に根ざしている(grounded)ということになります。言葉という記号の裏には、それを支える体験の総体が存在します。ここではそれを二重構造と呼びます。

 次回では、野球の打撃スキルの間合いを取りあげますが、その事例でも、身体動作の裏には体感が張り付いているという二重構造があります。ピッチャーから投じられる球は、打者の身体の近いところや遠いところ、様々なコースにやってくるので、打者はバットという長物を駆使して、あらゆるコースの球をうまくバットの芯(芯の位置は固定)で捉えるスキルを求められます。バットスイングの基本の一つは、球をとらえるインパクトまでは、両肘を身体から離さず、身体に巻きつくようにバットを振ることです。両肘を身体から離さずに振るという動作は、誰の目にも明白で、客観的に観察することができます。

 両肘がそう動いている時、実は同時に、選手の体内にはある種の体感がうごめいています。多くの場合(個人固有性によって若干の差異があるとはいえ)、その体感は、粘り気があるけれども滑らかで、インパクトを迎える(速い球を打ち返す)だけのパワーを十全に溜め込んでいるという、まさに充実感溢れる身体感覚です。大きなものが高い位置にある時に位置エネルギーを貯め込んでいるように、打者のそういった体感も、エネルギー的なものといってよいでしょう。

 コーチから初めてそう振るように指示された直後は、選手は、「両肘を離さぬように」と、表面的な動作そのものに意識を当てて実践するでしょう。しかし、その動きをマスターしてしまうと、言葉で意識するというよりは、むしろ、その充実感溢れる体感が生じているか否かに意識を当てながら、望みの体感に近づくように微調整を施し、バットを振ります。

 三つの事例で登場した、熱意、体感、感情は、客観的に外部から観察することは難しい、本人だけの内的表象です。「間合い」とは、客観的に顕在化していることと、それを裏で支える内的表象の、二重構造の上に成り立つものだと本連載は考えます。

二人称的な(共感的な)関わり

 熱意は内的表象ですが、熱弁をふるっている人から他者に「熱意」が伝わるのはなぜでしょうか? 認知心理学者の佐伯胖氏が中心となって提唱している「二人称的関わり」(2017)という考え方がありますが、これはまさにこの問題を鋭く射抜いています。

 発達心理学も心理学の他の領域と同じく、これまでは、客観的な観察を原則としてきました。客観性を担保するために、研究者は、対象を自己と分離して見ることを要請されます。別の言葉で言うと、三人称的に対象に関わるということです。一方、お母さんが自分の赤ちゃん/乳幼児(以後、乳幼児)に接するときには、客観的研究者のような見方はせず、母親としての立ち位置で乳幼児の「訴え」を聴こうとします。発達心理学者ヴァスデヴィ・レディ(2008)は、実際に母親になって初めてそういう境地に至ったと論じています。

 佐伯氏が報告した次の事例は、「二人称的」とはどういう関わり方なのかを雄弁に語っています。あるお母さんが、夕食の準備をしなければならないので、幼い息子にさくらんぼを与えて、「食べててね」といって一人にしたところ、息子は好きなはずのさくらんぼを半分かじってペッと吐き出したのだそうです。「食べたいっていうから、高価だけど買ったのに、どうしてそういうことをするの」と最初は叱ったのですが、よくよく考えてみると、「『おいしいねえ』と言いながら、私と一緒に食べたかったのかな」と反省したというお話です。

 前者の叱りが三人称的な関わり方で、後者が二人称的な関わり方であると、佐伯氏は主張します。「吐き出す」という行為は、表面的に解釈すると「食べたくない。それが嫌いである」となりますが、お母さんは、その行動の奥にある幼児の〈訴え〉を聴き入ることをしてあげればよかった、と反省したわけです。

 私たちは、意識次第では、表面的には見えない「奥に潜在する訴え」を聴き入ることもできます。唾を飛ばして、堰を切ってほとばしり出るようにしゃべる人の奥に、熱意を感じます。腰が落ちて、両肘が身体から離れないようにバットを振っている打者を見ると、インパクトで強烈に球をとらえるのに十分なエネルギーが彼の体内に蓄えられていることを感じます。二人称的関わりとは、表面的な動作や表情に着目して三人称的な立ち位置で対象を見ることを超えて、対象の奥に潜む「訴え」や「体感」に聴き入ること、この章の前半で書いてきた言葉で言えば、奥に潜むエネルギー的なものを感得することと言えるでしょう。

自分の間合いを形成するということ

 間合いは、いつの間にか、できあがっているとは限りません。次回に論じる事例ですが、打者が相対するピッチャーの投球にタイミングを合わせる行為は、ある種の工夫を伴う「作業」です。タイミングが比較的簡単に合うピッチャーもいれば、なかなか合わせづらいピッチャーもいます。「間合いを形成する」とは、遭遇するものや人が放つ「エネルギー的なもの(奥に潜む訴え)」を感得するだけではなく、自分の身体が放つエネルギーや奥に秘める体感をも感得し、両者をうまく融合するように、場に身体を入れ込む作業ではないかと、本連載では考えます。

 つまり、他者やものが放つエネルギーを感得するだけでは足りないということです。自分の身体についても、その各部位の動きを客観的に分析するだけではなく、動きに伴って体内で生じている体感にも目を向けていることが必要です。バランスが悪い。どこかに力が入っていてぎこちない。しっくりこなくて、落ち着かない。自身が有する100%のパワーが効率的に発揮されていない。しっくりとして、地面から足が生えているかのようだ。足指だけではなく身体全体で地面を噛んでいる……。こんなふうに、客観的に観察できる表面的な事象を超えて、体感レベルのものごとにまで意識を降ろすことができて初めて、周りのエネルギー場に自らの身体を入れ込み、気持ち良く生きるための素地が整います。

 雑踏の事例では、他者や物が作り出すエネルギー場を感得し、エネルギーの谷間(エネルギーがどこからも向かってきていない、疎の領域)に自分の身体が放つエネルギーを向かわせることができれば、うまく「融合」します。どこにも焦点を合わさずに全体をぼわんと眺めていると、自然に、どこに疎の領域が存在するかを感じとり、そこに足が向き、結果的に軋轢を感じることなく、スイスイと気持ち良く泳ぎきることになるわけです。

 特定のものや人への注視は、その近傍のエネルギー場を感じることにとどまり、自らの身体と関わるであろう周辺の場に一切目を向けない、「思い込みの強い状態」と言っても過言ではないでしょう。あるものへの意識の志向性が強すぎて、場の変化に、そして自らの体感にさえも、臨機応変に追随できない。「間合いが形成できない」のです。

 本連載には、柔術を例に間合いを論じる回もあります。柔術のような対戦競技では、自分だけが「自分の間合い」を形成し、相手には「自分の間合い」は形成させないという競い合いが生じます。柔術では身体が互いに接しているので、相手の各部位の動きが直接こちらの身体に伝わります。それを介して、相手の奥に潜む意図や、エネルギーが溜まりそうな気配を感得します。それに応じて、自らの身体の各部位が放つエネルギーを相手の身体の鍵となるポイントに当てることによって、相手には自由にエネルギーを発せられなくさせる、もしくはエネルギー自体を溜め込めなくさせる。相手をそう追い込めば、こちらは「自分だけの間合い」を形成できる。互いがそれを虎視眈々と狙う勝負です。

 自分の間合いが形成できている時は、とても心地よいものです。環境のあり方と自分のあり方がうまく溶け合い、一体となった全体像が感じられます。先に論じたように、「一体となる」とは、エネルギーの疎密場が平滑化に向かうということです。自分の動くべき方向も自然にわかり、自然に動けて、その結果生じる状態も「心地よい混じり合い」が生まれます。そして、時間の流れの中で心地よく生きることができます。

 一方、自分の間合いが形成できていない時は、本来協調を目指す場なのに間合いが形成できていないケースであれ、相手に間合いを形成されてしまって自分は何もできないという競合的なケースであれ、どこかギクシャクした状態になります。エネルギー場の疎密度合いが激しく、また不安定に乱れ、自らのエネルギーがうまく融合できない。エネルギー場を感得することすらできず、自分の存在が周囲から切り離されている。自分が放つエネルギーや奥に潜む体感にさえ気づけていない。そんなときは、心地よく「生きられない」ものなのです。

本連載の構成

 本連載にはさまざまなジャンル、視点から4人の研究者が「間合い」を論じます。次回には、野球の試合で、ピッチャーが投じる球に打者がタイミングを合わせるという行為を、本章で提示した概念(エネルギー的なものの感得、二人称的関わり)で説明します(諏訪)。

 第3回では、日常会話を取り上げます。日常会話は、声や身体が作り出す、協調的な間合いが形成される場面の典型です。喋り出すタイミング(相手に被せて話し出すか、少し間をあけるか)、声の強さやトーン、内容(質)の強さや勢い、視線、身振り、身体配置(互いにどういう姿勢で、どのような位置関係か)など、会話を構成する様々な要素が、エネルギー的なものを放出する/染み出させることにどう寄与するかを考察してみます(坂井田)。

 第4回では、フィールドスポーツの代表であるサッカーを取り上げます。敵味方あわせて22人が、相手ゴールに球を運ぶために、競合的もしくは協調的なインタラクションを繰り広げます。あちらこちらで競合的な間合いの形成が達成されたり、消失したりします。鍵となる概念は、「(ボールへの)到達時間の予測」です。到達時間を予測せんがために、敵味方が互いに相手の意図、動作範囲や速度を推測し、結果として、二人称的関わりができあがり、間合いが形成されることを解き明かします(高梨)。

 第5回では、野沢温泉道祖神祭りを研究対象にしてきた研究者が、長年に亘り、祭りの準備を指揮する社殿棟梁たちに溶け込んできた様(文化人類学でいうところの「ラポールを築く」こと)を、間合いという観点から解き明かします。ラポールを築くとは、互いに仲間であると認め、ある程度心を開く関係になることを言います。ラポールは一朝一夕では築けません。完全にコミュニティの内側の存在でもないが、完全に外部の存在でもない、一種の二人称的関わりが形成されていく様を論じます(伝)。

 第6回では、日常生活でふと感じる「居心地」を、建築空間における間合いと捉え、その成り立ちを「エネルギー的なものの感得」、「二人称的関わり」の概念で説明してみます(諏訪)。

 第7回では、歯科医院における診療場面を事例として、医療者と患者のあいだに出現する「間合い」を詳細に解き明かします。さまざまな医療場面で、患者は、「医療者と会話する(身体の状態を説明する)」ことと、「じっとして医療者に診療される」ことを両立しなければなりません。特に歯科医院では、診療されるために口を開けると喋ることができないという、強い制約があるため、患者は「会話するか診療されるか」を選択しなければならないのです。その臨機応変な調整に見え隠れする、両者の間合いを分析します(坂井田)。

 第8回では、競合的な間合いの事例として、ブラジリアン柔術を取り上げます。柔術では、相手の身体に対して、(計算された)エネルギーを意識的に染み出させることによって、相手の身体を掌握し、相手がやりたいことをできなくさせます。まさに、「自分だけの間合い」の形成の典型例です。パスガードという技や絞め技を例に、写真をふんだんに利用して、自分だけに優位な間合いがどう形成されるかを紹介します(伝)。

 さて、間合いに形成の鍵である、「二人称的関わり」のモードに自己を入れ込むためには、どうすればよいのでしょうか? まとめとなる第9回では、自己が外部世界と関わる様を一人称視点で感得することの重要性を説きます。「一人称」と聞くと、自分の殻に閉じこもるという悪い印象を抱きがちですが、「良い一人称視点」はむしろ、身体から外へという志向性をもち、自己と他者のあいだに二人称的関わりを築くことに貢献することを論じます(諏訪・高梨)。

 間合いの研究を行う者は、その現象に三人称的に関わっているだけでは(例えば、従来の科学的方法論)、その本質は見えてこないでしょう。「一人称視点」や「二人称的関わり」という概念は、従来の意味での「研究」と相性が悪いのは事実です。しかし、それは、「研究」という営み自体が、まだ、人が「生きる」ということにしかと向き合う道具立てを持てていないことを意味するのではないでしょうか。研究は生きることに資するためにあるのだとすると、研究者は、研究方法論そのものから刷新していかねばなりません。間合いを研究対象に据えることによって、実は、その現象自体が、生きることにしかと向き合う方法論/科学哲学の開拓を私たちに要求してきているということかもしれません。最後にそのことを論じ、本連載を締めくくります。

 

(注1)自身の身体が何を感じているのかは、いわゆる暗黙知で、なかなか言葉では表現できません。かといって、暗黙知を暗黙知のまま放っておくと、一向に、自分の身体が成し遂げている素晴らしいことの実態がつかめないということにもなります。身体が環境の何かに気づいて何を感じているのか、どう動いているのか、そして、その時にどんな体感を得ているのかを、できるだけ意識に上らせて言葉で表現してみることを、私は「からだメタ認知」(諏訪,2016)と呼んでいます。そうすることの効用は後続の章で論じます。

 

参考文献

中村雄二郎. 『臨床の知とは何か』. 岩波書店. (1992)

佐伯胖(編著). 『「子どもがケアする世界」をケアする――保育における「二人称的アプローチ」入門』. ミネルヴァ書房. (2017)

Reddy, V. How infants know minds. Cambridge: Harvard University Press (佐伯胖(訳)『驚くべき乳幼児の心の世界――「二人称的アプローチ」から見えてくること』. ミネルヴァ書房. (2015))

諏訪正樹. 『「こつ」と「スランプ」の研究――身体知の認知科学』. 講談社. (2016)

 

 

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著者略歴

  1. 諏訪正樹

    慶應義塾大学環境情報学部教授。工学博士。生活における様々な学びを「身体知」と捉え、その獲得プロセスを探究する。自ら野球選手としてスキル獲得を行う実践から、学びの手法「からだメタ認知」と、研究方法論「一人称研究」を提唱してきた。単著に『「こつ」と「スランプ」の研究――身体知の認知科学』(講談社)、『身体が生み出すクリエイティブ』(筑摩書房)、共著に『知のデザイン――自分ごととして考えよう』、『一人称研究のすすめ――知能研究の新しい潮流』(ともに近代科学社)。

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