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〈間合い〉とは何か――二人称的身体論

うまく間合いを図るやり方、その現象を研究するやり方〈諏訪正樹〉

キーコンセプト:「二人称的(共感的)関わり」

 これまでの回で私たちは、間合いという言葉から容易に連想するスポーツだけではなく、日常生活も含めた様々な分野で間合いを論じてきました。そのすべてに共通する考え方の一つが「二人称的(共感的)関わり」でした。自身がやりたいことの達成を目指すわけですが、相手のあることなので、自身の思いだけを通すわけにはいきません。

 間合いを形成するとき、状況が基本的に協調的な事例もあれば、競合的な事例もあります。第7回の歯科診療の事例では歯科医師と患者は協調関係にあります。第8回のブラジリアン柔術は完全に競合的で、自分だけが力を発揮でき相手には力を発揮させないような間合いを、互いに手に入れようとします。第2回で紹介した、野球の打者が投球にタイミングを合わせるという事例は独特でした。対戦型だけれど、打者は、投手の身体で生じているものごとに歩調を合わせるように自身の身体を制御できれば、良い間合いを手に入れることができます。歩調を合わせるのだから、完全なる競合ではなく、協調的な側面もあるのです。しかし投手の方は、打者にそうさせないようにします。

「相手の身体で生じているものごとに歩調を合わせる」という現象をうまく説明出来る概念として、本連載では、「二人称的(共感的)関わり」という概念を持ち出しました。相手の身体で生じているものごとを、赤の他人としてではなく、勝手知ったる他者のように共感することができれば、歩調は自然に合うというわけです。「二人称的(共感的)関わり」という概念の出処は、発達心理学におけるReddy氏[レディ2008]や保育研究における佐伯氏[2017]です。第1回の繰り返しになりますが、「共感」は「同感」とは異なります。双方が全く同じ考え方をするのが「同感」であるとすると、「共感」は「相手の考えていることには必ずしも同意見ではないが、まあ理解できる」です。

 打者の心境もそうです。投手にも様々なタイプが存在するわけですから、そのすべてに「同感」できるような打者はいません。私の野球経験からいえば、自身が投げるときのフォームやタイミングに近い投げ方をする投手には「同感」できますが、異なるフォームの投手を相手にして可能なのは「共感」まででしょう。つまり、野球におけるピッチャーマウンドとバッターボックスの闘いは、共感しようとする者と共感させまいとする者の競合的関係だったと言えます。

 総じて言えば、自身のやりたいことを達成するために、相手に二人称的(共感的)な関わり方で接し、少なくとも自身は力を発揮して、やりたいことを(部分的にでも)実現する間合いを手に入れます。協調的な関係の場合には相手も同じです。競合関係の場合は、こちらがそういう間合いを手に入れたら、相手はそれを手に入れることはできません。

一人称視点

 では、どういう心持ちや態度で事に臨めば、相手に二人称的(共感的)に関わることができるのでしょうか? この問いに深く関係することとして、私は「一人称視点を自覚する」という考え方が重要であると考えています。

 二人称的(共感的)関わりになるためには、幼児と母親の関係で明らかなように、何かしら「特別な関係」に入る必要があります。より日常用語で表現するならば、「しかと向き合う」ということです。そのために必要なことは、まず、自分と相手(もしくは対象となるものごと)とその周辺状況がつくりだす場(フィールド)の「内側の存在」になるということです。

「一人称視点で世界を見る」とは、場の内側の存在になり、場に成り立っていることを内側から感得することです。複雑系科学の分野で登場した「内部観測」[郡司ら1997]という概念は、まさに一人称視点で世界を観察するという考え方です。内部観測に相対する概念は「外部観測」です。それは、後で詳しく論じるように、科学の方法として確立された、客観的な三人称視点です。

 サッカーの試合で、ある選手がゴール前に綺麗なスルーパスを通したとしましょう。スタンドから見て、「ゴール前のスペースに上手にスルーパスを出せたね」と観察するのは、客観的な三人称視点(外部観測)です。スタンドに陣取る解説者の立場です。

 一方、一人称視点(内部観測)とは、パスを出した選手の目線のことです。パスをしようと思った瞬間、ボールを蹴った瞬間にその選手が見ているものごとは、これからある場所にスペースができる可能性です。パスを意図し、ボールを蹴り、それがゴール前で味方選手の足元に到達するには一定の時間がかかります。その間も、フィールドは刻々変化し、後から振り返ると、まさにパスが通った瞬間だけ、そしてパスが到達した瞬間だけ、ゴール前にスペースができているのです。刻々変化するフィールドの中で、それを臨機応変に予見し、これから一瞬生まれるであろうスペースにパスを蹴りだすのです。

「一人称視点から世界を見る」とは、

  • ・自身を取り囲む世界の中の何かに着眼する
  • ・自身の身体が世界にどう接触し、その結果、どう働きかけているかについて、感じたり考えたりする
  • ・自身の身体に生じている体内感覚を感得する
  • ・自身が考えていること、次の瞬間行動しようと思っていることを自覚する
  • ・過去に考えたことや行動したことが、今の考え、行動、世界状況にどう影響を与えているかについて考える

 

ことなどを含みます。つまり、一人称の立場から世界と自身のありさまを見て、その相互作用(インタラクション)を感じたり考えたりすることです。誰もがこれを意識的にできるわけではありませんが、少なくとも、一人称視点を自覚しようと努めることで、次第に自覚できることが増えていきます。

からだメタ認知

 私は、一人称視点を自覚する認知手法である「からだメタ認知」を提唱・開拓してきました。外界と自分のありさまや、両者の相互作用のあれこれを、できるだけことばで表現するという行為です[諏訪2016a]。ことばで表現する内容は、先に述べた通り、思考内容(頭で考えていること)だけではなく、外界のものごとの知覚(外界で着目しているものごと)、自身の身体の動き、それが外界に何をどう働きかけているか、その時の体内感覚、外界はどう変容しているか、など多岐にわたります。

 心理学では、古くから「メタ認知」という概念があります。自分の思考や行動を振り返って(頭の中で考えているだけではなく)言葉として外化することを指していました。「メタ認知」は、言語的な思考内容や観察可能な行動だけを対象としていました。一方、「からだメタ認知」は、身体が何を知覚し、着眼し、感得しているかといった、一見、言語化とは相容れない対象をもことばで記述しようとすることによって、身体性に迫ろうとします。自身の身体のありさまを認知するという意味を込めて、従来のメタ認知と区別して、こう呼んでいます。

からだメタ認知は、体内感覚とことばを紐付ける

 本連載の各回を貫く概念として、「二人称的(共感的)関わり」の他に、もう一つ、「エネルギーのようなもの」の感得という考え方がありました。私たち人間は、相手の身体の動き(客観的な観察です)を見て、その裏に、「エネルギーのようなもの」を感得します。自身の身体を動かすとき、体内に「エネルギーのようなもの」が新しく蠢〔うごめ〕くのを感得します。

「エネルギーのようなもの」は、からだメタ認知によって表現する対象の一つです。身体に生じる生々しいものごとなので、ことばで表現するのは簡単ではありません。オノマトペや比喩を駆使したり、ことばを微細に使い分けたりして、なんとかして、「エネルギーのようなもの」を表現することが肝要です。

「エネルギーのようなもの」を体内感覚という言葉で総称すると、「からだメタ認知」は、体内感覚とことばの紐付けの構造[諏訪2016a]を新たに構築するための行為であると言っても過言ではありません。第6回で紹介したカフェの居心地の事例を再度見てみましょう。

 

 圧倒的な存在感の「大テーブル」と、それを後ろで見守る、太い直方体の柱。「太い柱」は、側面が本日のメニューになっている。この「大テーブル」がこの店の主役であり、その向こうのメニューは引き立て役。 ‥(中略)‥ L字柵の柱の列が、中央空間をハイライト舞台に仕立て上げている。もしこの柱列がなかったら、単にだだっ広い空間となって、中央空間はぼやけてしまうことだろう。L字柵のおかげで、背後に列記[原文ママ](注1)としたカフェスペースを抱えながら、ライトをふんだんに浴びた中央舞台として映えるのだ。一方、L字のカフェスペースは、表通りの方に追いやられ、場末感が満載になる。(2017/11/13の記述から抜粋)。

 

 「圧倒的な存在感」は、このカフェの中央の一番良い場所にデンと鎮座ましましている大テーブルから私の身体が受けている「エネルギーのようなもの」(体内感覚)をなんとか表現したことばです。後ろに控える太い直方体の柱が、この大テーブルを見守るように寄り添っています。柱が「寄り添っている」ことと、「デンと鎮座まします」大テーブルの関係も、その体内感覚をもたらす重要な要因になっています。「圧倒的な存在感」、「鎮座まします」、「寄り添う」という一連のことばの総体で以って、このとき私の身体に生じていた感覚を表現しているのです。

 少し図式的な表現をするならば、体内感覚をこれらのことば群に紐付けているのです。体内感覚を正確に表現することばを見出すことはほぼ不可能ですが、何らかのことば群に紐付けておくことで、体内感覚への留意を保ち、記憶に留めやすくします。体内感覚は、残念なことに、時間とともに薄れ、流れ去ります。そこで、体内感覚が流れ去ることを阻止し、様々な体内感覚への留意を保って、体内感覚の微妙な差をより感得しやすくするために、ことばの助けを借りるのです[諏訪2016b]。体内感覚が微妙に異なれば、それに紐付けられることば群も微妙に異なってきます。ことばには、現象を分節する機能があるからこそ、それが可能になります。分節してしまうからこそ体内感覚を正確にモニターして表現することはできないのだけれど、微妙な差を明確に示すことは得意技であるというわけです。

一人称視点の自覚から二人称的(共感的)関わりへ

 一人称視点というと、とかく、主観的で、独りよがりで、自己の殻に閉じこもるという誤解を与えがちです。「一人称視点」の項目で論じたように、一人称視点とは、「一人称の立場から、世界と自身のありさまと、相互作用(インタラクション)を観察する目線」のことを指します。したがって、からだメタ認知は、実は、外界と自己の関わりのさまを積極的に自覚し、「自身を外に開いていく」行為であると言えます。

 一人称視点を自覚しつつ記述する習慣を持っていると、次第に、相手や、対象となるものごとに対して二人称的(共感的)に関わる境地に達することができるのではないか? この仮説が、今回の連載のハイライトです。

 なぜそうなるのでしょうか? それは、外界は、必ずしも、「優しい」ものごとばかりではないからだと考えています。外界と自己のインタラクションを自覚し、記述しようとする態度を貫くならば、「優しくない」ものごとに心を閉ざすわけにはいきません。優しいものごとも、優しくないものごとも、すべて丸ごと意識下に置き、優しくないものごとには折り合いをつける以外に、道はないのです。「折り合いをつける」こと、すなわち、二人称的(共感的)関わりの誕生です。自己を自覚し、自己と外界の相互作用を強く認識し、自己に優しくないものごとも意識下に置くからこそ、(心を閉ざさないようにする限り)自然に、二人称的(共感的)関わりに移行するのでしょう。

 第2回に解説した野球の話を思い出してください。打者が投手のフォームにタイミングを合わせることは、まさに「折り合いをつける」行為です。対戦相手の投手のフォームが、偶然にも、打者自身が球を投げる時のフォームと似ている場合は、打者はたやすくタイミングを合わせることができます。しかし、そのような「優しい」状況は稀です。投手は別人格であり、筋肉のつき方も身体の使い方も同じではないし、そもそも対戦している相手なので、「優しくない」ことがほとんどです。だからこそ、そういう投球フォームも「まあ理解できる」と折り合いをつけ、タイミングを合わせるのです。打者が良いパフォーマンスを発揮する唯一の道です。二人称的(共感的)関わりの境地に至ることが、自分なりの間合いを形成するために目指すことなのです。

 打者の場合、投球動作の裏に潜む、投手の身体の「エネルギーのようなもの」に目を向けることが、折り合いをつける方略でした。客観的に観察できる身体部位の動きは千差万別で多様なので、それだけに注視していると、多様さに翻弄されてしまいます。いかなる投球フォームであっても打者に向かって身体が近づいてくる瞬間は必ずあり、そのときは必ず、投手の「エネルギーのようなもの」は高まります。その高まりに呼応するようにバックスイングのエネルギーを高めることが、折り合いをつける良い方法でした。

 他者の身体の「エネルギーのようなもの」は、決して直接観察できないのに、その増大や減少を感得できるのはなぜでしょうか? それは、野球選手は、多かれ少なかれ、自身の身体の表と裏の二重(紐付け)構造に留意しているからです。表とは、客観的に観察できる身体部位の動きで、裏とは、体内感覚(「エネルギーのようなもの」)です。身体部位をこう動かすとこんな体内感覚が生じる、という関係性が二重構造です。

 からだメタ認知の目的は、この二重構造への留意を保ち、体内感覚の微妙な差異に気づくことであると先に論じました。自身の身体の表と裏の関係性を常に感得する経験を有しているからこそ、他者の表(投手の身体部位の動き)の総体を見て、その裏に潜む「エネルギーのようなもの」を感得できるのではないでしょうか。一人称視点で自身の動きと体感に目を向ける経験をしているからこそ、(逆説的だけれど)相手の体内感覚に想いを馳せることができ、結果として、折り合いをつけることができるのではないか。私はそう考えています。

 要は、他ならぬ自己を有し、一人称視点で世界にしかと向き合おうとすると、二人称的(共感的)関わりへと、モードが切り替わるのだと思います。一旦、一人称視点を経由することなしには、他者に二人称的(共感的)に関わることは難しいのではないでしょうか。

一人称研究:間合い研究の有力な一手法

 さて、ここからは、間合いという現象を研究するやり方について考察します。間合いの研究には、どういうやり方があるのでしょうか? 間合いを形成せんとする人が至るべき境地が「二人称的(共感的)な関わり方」であるとするならば、間合いの研究は、当の本人が至っている境地、もしくはその境地に至るプロセスを探究することになります。

「一人称視点」を自覚するからこそ二人称的(共感的)な関わりに自然に移行するという仮説に則るならば、間合い研究の一つの方法は、一人称視点が二人称的(共感的)な関わりに移行・発展する様を調べることでしょう。

 一人称視点に依拠して知能や認知のありさまを探究することを「一人称研究」と呼びます。文法概念である人称のなかの「一人称」を研究するという意味ではなく、一人称視点から見える世界と自己の関係を拠り所にして、知能のありさまを探究する研究という意味です。数年前に人工知能・認知科学の世界で、私を中心に数名の研究者で共同提案した新しい研究方法です[諏訪ら2015]。

一人称視点記述を基にした一人称研究

 一人称研究には、一人称視点への自覚がどう寄与するかに応じて、様々なバリエーションがあり得ます。まず第一に、一人称視点から世界と自身の関わり方を自覚して語った記述(以後、「一人称視点記述」と称します)を基に、間合いの形成の様を分析するというやり方です。最新のICT(情報・コンピュータ技術)を擁しても、残念ながら心の中を見通すことはできないので、一人称視点記述を得るためには、当の本人が語る以外に方法はありません。「語る」方法は、書き留めるか、しゃべるかのどちらかです。

 例えば、先に示したカフェの居心地についての文章は、典型的な一人称視点記述です。私は、からだメタ認知という考え方にしたがって、カフェにおける一人称視点からの感じ方をこのように記述しています。からだメタ認知は、一人称視点記述を残す有力な方法です。

 間合いを形成したときの場の状況も含めて、本人が思い出して語った記述があれば、それに依拠して間合いの形成の様を探究できます。先に述べたように、からだメタ認知は、本人にとっては一人称視点を自覚し、二人称的(共感的)関わりに移行するための手段ですが、その一方で、一人称研究の拠り所としての記述を得る手段でもあります。

 第2回で紹介した野球の打者の間合いや、第6回で紹介したカフェの居心地についての知見は、この第一のタイプの一人称研究の成果です。

一人称視点の自覚的経験を拠り所にした一人称研究

 一人称研究は一人称視点記述がないと成立しない、というわけではありません。分析者が「一人称視点の自覚的経験」を有していて、その経験を振り返ることに依拠した一人称研究があり得ます。これを第二のタイプと呼びましょう。間合いのような、二人称的(共感的)関わりが鍵である現象を探究するためには、第二のタイプも強力な手法です。

 例えば、第8回の柔術の話題では、柔術競技の実践者である伝が、自らが競技する姿のビデオを分析しています。ビデオに映るものごとは、客観的に観察可能な身体部位の動きや相手選手との接触の様子ですが、分析者の伝は、それ以上のことを分析に持ち込んでいます。競技中に、自身の身体や相手選手の身体で沸き起こる「エネルギーのようなもの」を一人称視点で感得した伝の経験が、分析の拠り所になっているのです。一人称視点の自覚的な経験があるからこそ、ビデオに映る客観的なものごとの裏に潜む「二重構造」を推し量ることができ、第8回に論述した仮説を立てることができたと言えるでしょう。

 分析対象が他者の柔術競技のビデオであっても同じです。一人称視点の立場から身体部位の動きや接触という客観的事象と、その裏に潜む身体感覚の「二重構造」を経験しているからこそ、ビデオに映る他者の身体の観察を基に「エネルギーのようなもの」をありありと推察でき、ビデオ内の他者と二人称的(共感的)な関わりを結ぶことができます。

 第4回のサッカーの間合いについても同様で、著者の高梨自身が経験者であるがゆえに、ビデオの中に見出せる仮説はとても多いはずです。「軸足の哀しみ」と題した内容について振り返りましょう。地面についている軸足は、もう片方の足が着地するまでは動かせないため、軸足のそばを通過するパスにも対応できないと、高梨は指摘しています。このように、パスを通すプレーヤーの視点から見て重要なのは、パスを通すコースと守備側の選手の物理的距離だけではないのです。どちらの足がどう着地しているか、宙に浮いているか、重心はどこにかかっているかが重要なのです。しかし、実は、プロの選手から見ると、これだけでも不十分かもしれません。そこで高梨は、遠藤選手のインタビューから手がかりを得ているわけです。当事者へのインタビューなども一人称視点に接近するための重要な窓口になりえると考えられます。

 第3回では、坂井田の分析対象は他者の会話であり、その会話内容(結婚式場のアルバイトに関する悩み)と似たシチュエーションを坂井田自身が経験したわけではありません。しかし、会話内容を経験していることが重要なわけではなく、会話に伴う身体行為を経験していることが重要なのです。柔術やサッカーのように、専門的なものごとは、実際にそれを経験していることが研究をする上で必須です。私たちが日常的に会話を行い、私たちの身体が会話相手との相互作用としての行為/振る舞いをしていることを鑑みれば、私たちは皆「会話の専門家」と言えるでしょう。

 会話している時、どのように顔や手を動かすか、どのように視線を投げかけるか、身体の態勢はどうなるか、それぞれの時に、喋るためのエネルギーをどう湧き起こらせているか。必ずしも、からだメタ認知のような手法で明示的に自身の身体を語ることはしなくても、一人称視点から自らが関わる会話に相対する経験は、ビデオに映る身体を見てその裏に潜む「エネルギーのようなもの」を推察するための拠り所になります。したがって、第3回の坂井田の会話分析も、柔術やサッカーと同じように、第二のタイプと言えそうです。

 ただし、身体が為していることを一人称視点で自覚する度合いは、柔術やサッカーのような専門競技と日常会話では、少々異なります。日常的なものごとほど、自覚の度合いは低いでしょう。しかしながら、会話のビデオに映る身体を観察し、その裏に潜む「エネルギーのようなもの」を推察しようと分析することが、自らが会話するときの身体に対する自覚(それが、からだメタ認知です)を促す可能性は大いにあります。分析が、一人称視点の自覚的経験を促し、そういった自覚が分析をより精密なものにするのです。

一人称視点からの撮影を拠り所にした一人称研究

 さて、祭りの棟梁と研究者の間合いの研究(第5回)はどうでしょうか? 伝たちは、祭りを運営する棟梁たちの会話や行動を研究対象にするために、長年にわたってビデオ撮影をしてきました。その体験の中で、撮影者/分析者としての自身と、棟梁たちのあいだの間合いが次第に変容してきたことにはたと気づき、それを論じたのです。つまり、「実は自らが直に関わっていた体験を、ビデオ撮影という行動を介して、一人称視点から自覚する」ということを拠り所にした研究です。第一のタイプのように一人称視点記述は残していませんが、自らが関わる行為の撮影そのものが、(それをしない場合に比べて)一人称的自覚をより濃いものにしていると言えそうです。

 第5回の研究は、一人称視点記述がないということ、そして、一人称視点の自覚的経験に基づいていることから、第二のタイプに分類できるかもしれません。しかし、自らが関わっている状況を「自身で撮影する」行為は、特別視してよいものだと考えます。問題領域によっては、それは絶対に不可能である領域も多々あります。スポーツはその典型でしょう。柔術の競技を行いながら、その本人が状況を刻々と撮影することは原理上無理なのです。伝の研究(第5回)は、長年にわたる人間関係に関するものごとであるからこそ、撮影が可能でした。そして、撮影の主たる対象は、祭りの運営に関わる(棟梁を含む)複数の人たちのコミュニケーションの様であったのに、いつの間にか、伝本人と棟梁たちの間合いという現象が副産物として出現してきました。だからこそ、撮影が可能だったと言えるでしょう。

 したがって、第5回の研究は、第二のタイプでありながら、撮影という行為が一人称視点の自覚をより濃いものにした特別バージョンと言えそうです。

内側の視点を拠り所にした一人称研究

 第7回の歯科診療の研究も研究者自身による撮影行為がありますが、どういうタイプの研究だと解釈すればよいでしょうか? 研究対象は、第5回とは違って、自らの行為ではありません。対象は他者(歯科医師と患者)ですから、その意味では、第3回の会話分析と同じです。しかし、第3回と大いに異なるのは、研究者である坂井田自身が歯科診療のシーンを撮影していることです。研究対象は他者であっても、撮影者としてその場に「共にいる」ことで、(その場にいなかった場合に比べて)その場で生じた会話や微細な行為に対するリッチな解釈が可能になると思うのです。

 柔術やサッカーと同じく、歯科診療もある意味、専門領域ではあります。しかし、第3回の会話分析と同じように、歯科医師や患者の会話や身体が振る舞っていることへの解釈は、自らの日常的な会話行為を一人称視点で自覚した経験を拠り所にするからこそ可能になります。つまり、第7回の研究も第二のタイプです。しかし、同じ場に「共にいる」ことが更に解釈を豊かにするという点で、これも第二のタイプでありながら、その特別バージョンと言えるでしょう。「共にいる」ことは、「一人称視点」の項目で論じた「内側の存在」であり、それによって得られるのは「内部観測」です。

一人称研究の中心思想

 一人称研究の中心思想は、先に言及した内部観測、及び現象学[谷2002]です。人は、活動するフィールド(世界の全体から見れば部分世界)の内側の存在であり、内側からの視点でものごとに接し、ものごとを感得し、対処すべく行動します。後で詳細に論じるように、従来は、客観的な観察こそが研究手法の基本中の基本であるとされてきましたが、内部観測の思想、一人称研究の考え方は、それに対するアンチテーゼでもあります。「内側からの視点でものごとを見て初めて感得できることが沢山ある」というわけです。

 例えば、夫婦喧嘩で何が起こったのか、そもそもなぜ喧嘩が始まったのかを探究するとしましょう。大げさにいうと、夫と妻の関係の長年の蓄積に基づき、互いが互いに対して抱く想いに立脚し、二人を取り巻く情勢・人間関係も関係して、その時の家庭の空気の中で喧嘩が始まるわけです。夫と妻という関係性の内側の視点に立たないと重要なことは何もわかりません。

 もちろん、内側の視点でものごとを見て、感得して、解釈することによって、見失う側面も多々あり得ます。一般に主観は、その場で成立している様々なものごとの中から、何か特定の事象や関係だけに選択的に着目する傾向があります。内側の視点は、すべてのものごとに対して等しい価値を置かないのです。夫婦の間でどれくらい頻繁に言い合いが為され、その言い合いの声量はどれくらいだったのか? そういったデータは、外側からの視点で客観的に観察した方が正確に把握できます。客観的な観察は、「三人称視点による探究(三人称研究)」とも言えます。科学の方法は正確性を重視する意図から客観性(三人称視点)の重要性を訴えてきました。

 一人称研究と三人称研究は、各々、得手不得手があります。知能研究の分野で一人称研究が提唱された理由は、従来の研究があまりに科学の方法論(特に客観性)を無自覚的に信奉してきたため、内側の視点に立って初めて捉えることのできるものごとや解釈を、不用意に捨て去ってきたからです。夫婦喧嘩の最中の発言の、あるトーンが意味することは、夫と妻にしかわからないのです。いつもと同じことばだけれども、微妙なトーンの差に、皮肉、攻撃、もしくは諦めの意味を感じ取り、それが癪に触って相手は感情を逆撫でされ、次第に喧嘩の様相を帯びはじめたりします。そういった側面に知能の面白い姿が現れていたとしても、三人称研究はそれを捉えることはできません。

行為者の理論 vs. 分析者の理論

 サッカーのスルーパスの例を再度議論しましょう。「ゴール前のスペースに上手にスルーパスを出せたね」というスタンドからの観察(三人称研究)は、結果として何が成立していたかを分析、説明、理解するという行為で、客観的な分析者の視点です。しかし、その分析だけでは、当の選手が如何にしてパスコースをみつけられたかという問いの答えは得られません。

 パスを通した選手が、刻々と変わりゆくフィールド状況の中で、瞬間的に何に着眼したのか? 少し先の未来でゴール前にできるであろうスペースをどう予見できたのか? これらの謎に迫るためには、その選手の立ち位置(内部観測の視点)からの探究が必要です。

 一人称研究など、内部観測の思想に基づく探究がもたらすのは「行為者の理論」です。行為者の理論とは、まさに行為せんとしている人が、内側の視点で何を見出し、どんな心持ちでその場に立ち、何を感得したことが行為の生成に結びついたのかについての仮説です。その仮説は、未来の行為者にとっては、自ら行為を繰り出す際のヒントになります。

 一方、フィールドの外側に立ち、客観的に観察する研究が生み出すのは、「分析者の理論」であり、現象の説明や理解は得られても、行為の生成には必ずしも役立ちません。内部観測という概念を提唱した郡司や松野[1997]はそう論じています。「説明すること」と「生成すること」は異なるということなのです。

「分析者の理論」はwhatの視点である(何が成り立っているか)であるのに対し、「行為者の理論」はhowの視点(どう成り立ち得るのか)であるということもできます。間合いの研究は、whatの知見にとどまることなく、howの知見を得んとすることが肝要だと私たちは考えています。

一人称研究が目指すこと

 体内感覚の微妙な差を徐々に感得できるようになるために、体内感覚がことば群に紐付いた二重構造を拡充・更新させることは、すなわち、身体知を学ぶということに他なりません。そう、からだメタ認知は学びを促すのです。それは、研究対象がカフェの居心地であっても、野球の打撃や柔術のスキルであっても、同じです。

 からだメタ認知の習慣が身体知の学びを促すものであるならば、身体は、以前とは全く異なる視点や方法で、外界のものごとや自身の体内感覚を感得するようになるでしょう。そして、ことばで表現できることが進化・変容します。新たなことばの観点でからだメタ認知を継続していると、また身体知の学びが促されます。つまり、ことばの表現と身体の学びは、互いが他を促す形で、共に進化するわけです。

 そういった試行錯誤の後には、非常にリッチなことばのデータが、日々の経過の中で変容する形で残ります。第6回のカフェの居心地を記したことばはほんの一部ですが、あれは1年半にわたる私自身の学びの軌跡が含まれた記述なのです。第一のタイプの一人称研究の目指すことは、この種の記述を基に、これまであまり顕在化されてこなかった「知の姿」について仮説を得ることです。

 カフェの事例で言えば、あのデータの中に、カフェで佇むときに私が価値を見出しているものごとが、仮説として、複数種類、見出されます。あくまでも「私が」価値を置くことであり、普遍的に誰にでも当てはまる「佇み方」ではありません。仮説が誕生するときは、概して一人称的で、いきなり普遍的な知見が得られるわけではないのです。しかしながら、一人称視点から見た世界と自身のありさまの記述を基にし、いきなり普遍的な知見を得ようとしないからこそ、ありふれていない、面白い知の姿が見えてくる可能性があります。

 先に述べたように、研究を進めて面白い知の姿が見え始めると、自らの身体行為に対する一人称視点からの自覚がますます促されます。第二のタイプの一人称研究は、一人称視点記述に基づいてはいませんが、この効果によって、研究がますますリッチになっていきます。

 カフェの研究をやり始めて、当初は簡単にことばで表現できなかった暗黙的な価値観を、私自身がこの1年半で見いだしつつあるという実感があります。一人称性を強く孕んだ新たな仮説をまず見いだした上で、有力そうなものに関しては、他者にも賛同を得られるものかどうかを検証していけばよいのではないでしょうか。それが一人称研究が目指すことです。間合いの研究もそう進めたいものです。

 

 

 (注1)誤記だが、原文のまま抜粋しています。

 

参考文献

[佐伯2017] 佐伯胖(編著). 「子どもがケアする世界」をケアする. ミネルヴァ書房. (2017)

[レディ2008] Reddy, V. How infants know minds. Cambridge: Harvard University Press (佐伯胖(訳)『驚くべき乳幼児の心の世界――「二人称的アプローチ」から見えてくること』, ミネルヴァ書房. (2015))

[郡司ら1997] 郡司ペギオ-幸夫、松野孝一郎、レスラー, オットー・E. 内部観測. 青土社. (1997)

[諏訪2016a] 諏訪正樹. 「こつ」と「スランプ」の研究――身体知の認知科学. 講談社. (2016)

[諏訪2016b] 諏訪正樹.(2016).「身体」が「ことば」の力を借りたら, 早稲田文学2016冬号(通巻1022号)小特集「からだにとって言語はなにか」, pp.158-163.

[諏訪ら2015] 諏訪正樹、堀浩一(編). 一人称研究のすすめ――知能研究の新しい潮流. 近代科学社. (2015)

[谷2002] 谷徹. これが現象学だ. 講談社. (2002)

 

 

 

 

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著者略歴

  1. 諏訪正樹

    慶應義塾大学環境情報学部教授。工学博士。生活における様々な学びを「身体知」と捉え、その獲得プロセスを探究する。自ら野球選手としてスキル獲得を行う実践から、学びの手法「からだメタ認知」と、研究方法論「一人称研究」を提唱してきた。単著に『「こつ」と「スランプ」の研究――身体知の認知科学』(講談社)、『身体が生み出すクリエイティブ』(筑摩書房)、共著に『知のデザイン――自分ごととして考えよう』、『一人称研究のすすめ――知能研究の新しい潮流』(ともに近代科学社)。

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