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〈間合い〉とは何か――二人称的身体論

モノになる――歯科診療の間合い〈坂井田瑠衣〉

きまりが悪い

 第7回では、歯科医院での診療場面を題材に、人が「モノになる」という、ちょっと風変わりな間合いの取り方に注目してみます。

 歯医者さんに行くことが大好きだ、という人はあまりいないと思います。歯を削られる時の痛みやキーンという耳障りな音が苦手、という人もいれば、口の中を診察してもらいながら会話する時の、何だか気まずい雰囲気に耐えられない、という人もいるでしょう。仰々しい機器に取り囲まれた椅子に座らされ、ほとんど身動きが取れない状態で、口の中を診られたり、施術を受けたりする経験には、しばしば「どうしていたらいいのかわからない」という感覚が伴います。歯医者さんに限らず、病院や美容室など、身体に何かを施される場面で、こうした「きまりの悪さ」を感じてしまうのは私だけでしょうか。

 わたしは、幼少の頃からコミュニケーションに苦手意識を抱いてきました。何気ないやりとりでも、相手と上手く視線を合わせたり、表情を和らげて相槌を打ったりすることができないのです。そんなわたしにとって、病院や美容室などでのやりとりは特に厄介で、できる限り避けたいものでした。しかし同時に、そのコミュニケーションこそが、格好の「間合い」の研究対象になりうることに気づきました。わたしたちは、そのような場面でのきまりの悪さに対して、どのような間合いを取り、その状況に対処しているのか、それを知りたくなったのです。

 診療場面などでのきまりの悪さに対処するために、わたしたちは「モノになる」という方法を用いていることが、コミュニケーションの微視的な観察によってわかってきました。あからさまなコミュニケーションの相手ではなく、まるで「モノ」になったつもりで、じっと身体を動かさないようにしたり、アイコンタクトをあえて避けて医師や施術者から視線を外したりしています。このように、行為者としてのかかわりの度合いを弱めようとすることも、相手との間合いを調整するやり方なのです。

「モノになる」という振る舞いについて考えるために、まずは、人々が日常生活における「きまりの悪さ」にどのように対処しているのかを考えることから始めてみたいと思います。

儀礼的無関心

 社会学者のアーヴィング・ゴフマン(1963)によれば、わたしたちは、言葉によるコミュニケーションをやめることはできても、身体によるコミュニケーションをやめることはできません。そこに他者がいる限り、わたしたちは互いに身体的なふるまいを晒すことになります。例えば、仕事の打ち合わせ中に相手が腕時計をちらっと見る様子を見て、相手が時間を気にしているということに気づき、打ち合わせを早々と切り上げようとする、といったことがあると思います。意識するしないにかかわらず、わたしたちの身体的なふるまいは、常にコミュニケーションのきっかけになりうるのです。

 このことは、見知らぬ他人同士が偶然同じ場所に居合わせているような状況でも同じです。広場などで人々が居合わせる様子を見てみると、他人の存在には気づいているものの、目を合わせないようにするなどして、相手と過度にかかわろうとしないように振る舞っていることに気づきます。同じ空間にいて、互いに身体的ふるまいを晒しているがゆえに、ふとしたことから不必要なコミュニケーションが生まれてしまわないようにしているのです。日常会話のように、相手と積極的にコミュニケーションを取ろうと努力するのとは異なり、むしろ、相手とコミュニケーションしないように努力している、とさえ言えるかもしれません。「コミュニケーションしないように努力する」というのも、ある種のコミュニケーションという発想です。

 このような見知らぬ他人同士のコミュニケーションを、ゴフマンは「儀礼的無関心」と呼びました。儀礼的無関心は、見知らぬ他人同士が、必要以上にコミュニケーションを取ることなく同じ空間内に居続けるための「技法」です。電車の中などで、ふと視線を向けた相手と目が合ってしまい、気まずい思いをした、という経験がある人もいると思います。そのような事態を避けるために、わたしたちは無意識のうちに、「見知らぬ他人と過度にはかかわらない」という、距離感の遠い間合いを取っているわけです。

 例えば、満員電車に乗っていて、他人と身体が向き合った状態で接近あるいは密着してしまうような状況を想像してみてください。本連載の第6回で「パーソナルスペース」という概念が登場しましたが、満員電車では、わたしたちのパーソナルスペースは完全に侵害されてしまいます。そこでわたしたちは、「次善の策」として、あえて相手の顔を見ないようにする、といったやり方で、その「きまりの悪さ」を回避しようとします。

 第1回では、「エネルギー」という言葉が、間合いを考える上でのキーワードになることを論じました。わたしたちの身体は各々が「エネルギーのようなもの」を発していて、そのつど、その場に存在する他者や環境が発するエネルギーを読み取り、自らのエネルギーの放出のしかたを決めることで、間合いは形成されるという考え方です。満員電車では、他人との間に物理的な距離を取ることができません。また、互いに身体が向き合ってしまったとしても、全身の向きを変えることも困難です。互いに向き合った状態で距離が近づくがゆえに、そのままでは相手がかかわってくるエネルギーから逃れられないわけです。そこで、視線を外すことで、相手に向かうエネルギーを減少させることができます。身体が向き合っていて視線も合っている状態よりは、身体は向き合っていても視線が外れている状態の方が、互いに相手に向かわせるエネルギーは少なくなります。それによって、過度にかかわるつもりがないという態度を示すことができるのです。

「気にしていない」ふりをする

 見知らぬ他人同士が偶然居合わせる場面だけでなく、人々がより積極的にかかわろうとしている場面においても、儀礼的無関心に似たふるまいを観察することはできます。例えば、内科で医師の診察を受けている場面を想像してみましょう。胸に聴診器を当てられたり、口を開いて喉を診察されたりしている時、わたしたちは、しばしば「あさっての方向」を見て、診察されていることを気にしていないかのようにふるまいます。会話している時は医師の顔を見ていたのに、ひとたび診療が始まると、ぼーっと中空を見ることで、診察されていることに対して無関心を装うのです。

 第3回では、会話の聞き手が話し手に対して、視線を向けたりうなずいたりすることで、「あなたの話を聞いていますよ」というエネルギーを醸し出すことができることを論じました。これと類似して、患者は診療されている時、医師と視線を合わせたり、診療されている患部をじっと見つめたりすると、あからさまに「今まさに私はあなたの診療を受けていますよ」というエネルギーを発することになってしまいます。そこで、診療中は医師と視線を合わせずに中空を見ることで、そのエネルギーを醸し出さないようにし、それによって「診療されていることを気にしていない」ことを医師に示していると言えるでしょう。

 診療場面では、医師と患者の身体が互いにかなり接近することになります。医師は患者の身体に接近あるいは接触して診療を行う必要があるので、満員電車と同じように、互いのパーソナルスペースに入り込まざるをえません。医師は、時に息がかかるほど近くまで接近してくるため、患者はその強烈なエネルギーを感じるはずです。しかしそこで、患者はあさっての方向を見ることで、自らは医師にエネルギーを発しないようにします。

 このようなやりとりによって、患者は「心地よいとは言えないまでも不快ではない」間合いを取ろうとしているようです。物理的には距離がきわめて接近していたとしても、医師と目を合わせたり、診療されている患部をじろじろと見たりはしないことによって、医師との心理的な距離を保とうとしている、と言えるかもしれません。

モノになる

 このような「あさっての方向を見る」という診療場面での患者のふるまいに注目したのが、会話分析研究者のクリスチャン・ヒースでした(Heath 1986, 2006)(注1)。彼は、内科などでの診察室におけるコミュニケーションを観察し、患者があさっての方向を見たりして診療を受ける姿を、「モノ(object)になる」と表現しました。

 第3回で論じたように、日常会話では、わたしたちは「話し手」や「聞き手」としてコミュニケーションに参加しています。ところが、診療の場面では、自覚症状を語る「話し手」や医師の診断を受け入れる「聞き手」として「会話」に参加するだけでなく、医師の診療を受ける「モノ」として「診療」に参加することも求められます。わたしたちの身体は、ある時には話し手や聞き手としてコミュニケーションする主体(subject)となり、またある時には、医療者からの診察や施術を受けるモノ(object)となるのです。

「モノになる」とは、コミュニケーションする主体としてのエネルギーを発しないようにする、ということです。つまり、相手に視線を向けたり、発話に対してうなずいたり、相手の話を聞こうとして身を乗り出したりすることを避け、まるでコミュニケーションに参加していないかように振る舞うことです。わたしたちは、医療場面に特有の「きまりの悪さ」を感じている時、医療者に対して不用意にエネルギーを発してしまっているのではないでしょうか。つまり、「どうしていたらいいかわからない」という心理状態が、視線を泳がせたり、身体をぎこちなく動かしたりすることによって醸し出されてしまうのです。「モノになる」ことは、この「きまりの悪さ」を断ち切る方法です。

 こう考えてみると、先の「モノ(object)として診療に参加する」という、主体と客体が渾然一体となっているかのような言い回しに違和感を覚える人もいるかもしれません。しかし、「モノになる」というふるまいは、「コミュニケーションに関与する主体ではなくなる」という意味ではありません。見知らぬ他人同士が、あえて互いに無関心であるかのように振る舞うのと同じように、患者は、あえて自らがモノになったかのようにすべく、主体的に振る舞うのです。ヒースは、それによって「(患者は)医師が臨床的な事実や知見を作り出す機会を提供し、それが診断や評価の基礎を形成する」とさえ述べています(Heath 2006, 邦訳: p. 259, ()内は著者による補足)。モノになるというふるまいは、単に患者が個人的に感じているきまりの悪さを和らげるだけではなく、医師が診療活動を円滑に進めるために不可欠なのです。

 第3回では、日常会話という活動が話し手と聞き手による共同の産物であることを論じました。診療という活動もまた、医療者と患者の共同の産物です。医師がいくら一方的に診察や治療を進めようとしても、その働きかけに対して患者が適切な形で応じなければ、診療は滞ってしまいます。わたしたち患者は、自ら進んでモノになることで、診療を滞りなく進行させることに貢献しているというわけです。

会話するか診療されるか

 ところが、実際に診療が行われている場面を見ていると、しばしばより複雑で厄介な間合いの調整が行われていることに気づきます。

 例えば、医師が患者の身体に聴診器などの器具を近づけ、診療を始めようとしながら、それでもなお、患者との会話を続けようとしている、という場面を想像してみましょう。医師は、器具を近づけることで、「これから診察しますよ」というエネルギーを、患者に対して発します。自分の持っている道具を相手の身体に対して不意に近づけるというのは、医療場面など、何らかの施術をすることを専門とする人々にのみ許される行為です。この行為によって、医師は患者に対して「診察に応じてください」という、ある種の圧力をかけます。しかし同時に医師は、患者に話しかけ続けることで、「発話に応答してほしい」という意図も伝え続けるのです。このように、医師は「診療したい」というエネルギーと、「発話に応答してほしい」という意図の両方を、同時に醸し出します。このような時、患者は、このまま医師との会話を続ければいいのか、それともモノになって診療を受けた方がいいのか、悩ましい状況に陥ります。「会話するか診療されるか」というジレンマが生じるのです。

 患者は、会話することと診療されることをどのようにやりくりしているのでしょうか。ここからは、歯科医院における実際の診療場面を録画した映像データを使って、患者がそのようなジレンマに、どのような間合いを取ることで対処しているのかを観察してみます(注2)

歯科診療の特徴

 歯科医院での診療場面には、他の多くの診療場面とは異なる、いくつかの特徴があります。

 まず、歯科診療を受けている間、患者は当たり前のことですが、口を開いている間は話すことができません。これは、コミュニケーションという点では致命的な問題です。内科などの診察では、たとえ診療を受けている間でも、医師に話しかけられれば答えることができます。しかし、歯科の場合は、反応や発話が大幅に制限されます。歯医者さんに口の中を診察されながら話しかけられて、モゴモゴと上手く答えられなかった、という経験がある人もいるかもしれません。口に器具を入れられている間は、できるだけ頭を動かさないようにする必要があり、無言で頷くことさえも躊躇してしまいます。

 さらに、歯科診療では、「会話」と「診療」を簡単に切り替えることができます。例えば内科で聴診器による診察を受ける時には、衣服を捲ったり背中を向けたりして、身体を大きく動かすことが求められることも多いです。それに対して歯科診療では、最低限、患者が口を開くだけで「モノになる」ことができます。つまり歯科医師は、たとえ診療中は患者に話しかけないようにするとしても、診療を始める直前まで、患者との会話を続けることができるのです。

 これらの特徴が存在することによって、歯科診療では「会話するか診療されるか」というジレンマがより生じやすく、そのために、より複雑な間合いの調整が必要になると考えられます。

歯科医師の説明を受け入れる

ここで観察するのは、ある歯科医院で撮影された、歯科医師と患者のやりとりです。この日、この患者は、以前同じ歯科医院で診療を受けた際に施されていた、歯の「被せ物」を飲み込んでしまった、と訴えて来院してきました。次のやりとりでは、歯科医師が患者に対して、そのことにどう対処すべきかを説明しています。[ は、その位置から歯科医師の発話と患者のうなずきが重なっていることを示しています。(( ))は、非言語による反応を示しています(注3)

   

 歯科医師は、まず、患者がその被せ物を飲み込んだのは1日半ほど前であり、既に排泄されてしまったであろうということを説明します(1行目)。それに対し、患者は無言でうなずくことで、その説明を理解したことを示します(2行目)。続けて、歯科医師は「まあほかってっていいけどぉ」(3行目)と発話します。「ほかってっていい」とは、「放っておいてよい」という意味の方言です。この発話によって、歯科医師は、患者がその状況にどう対処すべきか、すなわち、特に何もせず放置してよいということを伝えます。これに対し、患者は再び無言でうなずくことで、そのことを理解し、受け入れたことを示します。

 「診療しますよ」と「応答してください」の拮抗

 ここでは、一見すると、何の変哲もない、診療場面によくある会話に見えます。しかし実は、このやりとりの間に、歯科医師は患者の口の中を診察する準備を始めています。次に示すのは、上記のやりとりの後半部分に、歯科医師と患者の身体的ふるまいを追記したものです(注4)。歯科医師の発話の下には、歯科医師の身体的ふるまいが書かれています。さらに、発話のどの位置で身体的ふるまいが始まったかを、┌ と └  の記号で表しています。

 これを見ると、歯科医師は「まあほかってっていいけどぉ」と言いながら、既にミラーを持ち、患者の口の中に入れようと準備していることがわかります。歯科医師は「まあほかっ」と発話したところで、手に持っていたミラーを患者の口に近づけ始めます。

 もしここで、歯科医師が無言で、あるいは「口を開けてください」などと言いながら、患者の口にミラーを近づけたならば、患者は何の問題もなくそれを受け入れ、口を開いて診療を受ける「モノ」になることができるはずです。鋭利な器具を口に向かって近づけるという歯科医師の身体的ふるまいから「診療しますよ」というエネルギーが発せられているのだから、ただそれに応じればよい、というわけです。

 しかし実際には、この時点で歯科医師は「まあほかっ」としか発話しておらず、歯科医師の発話はまだこの後に続くことが明らかです。すなわち、歯科医師は「診療しますよ」というエネルギーを醸し出し始める一方で、「発話に応答してほしい」という意図を伝えることもやめてはいないのです。

 ここで患者は、「会話するか診療されるか」という二者択一的なジレンマに陥ります。自らの口めがけて迫ってくるミラーに対し、口を開かないというわけにはいかないでしょう。かと言って、歯科医師の発話に応答しないというのも望ましくありません。ここでは、患者が飲み込んでしまったという「被せ物」について、歯科医師から重要な説明がなされています。この説明をきちんと理解し、受け入れたことを示すことは、患者にとって必要不可欠な行為だとも言えるでしょう。

複数の身体部位に反応を分散する

 では、この「会話するか診療されるか」というジレンマに対し、患者がどのような振る舞いで応じたのかを見てみましょう。次に示すのは、上記のやりとりの後半部分に、歯科医師と患者の身体的ふるまいをさらに追記したものです

      

 歯科医師が患者の口にミラーを近づけ始めると、患者はすぐに身体的に反応します。ミラーを近づけ始めた直後、まだ歯科医師が「まあほかってっ」までしか発話していない時点で、患者は口を開いて目を閉じます。歯科医師の「診療しますよ」というエネルギーに対して、そうすることで、コミュニケーションへのエネルギーを減退させた「モノ」になります。一方、歯科医師の発話に対しても、患者は反応を怠りません。患者は歯科医師のミラーの接近に応じて口を開いて目を閉じた直後、歯科医師の発話を「まあほかってっていい」まで聞いたところで、無言でうなずきます。口を開いて目を閉じることでモノになりながらも、歯科医師の「発話に応答してほしい」という意図にも応じるのです。

 ここで興味深いのは、患者が歯科医師の発話に反応する時、「はい」などと音声で相槌を打つのではなく、うなずいていることです。先に述べたとおり、歯科診療には「口を開くと話せない」という決定的な問題が付きまといます。そこで、口を開きながらも反応できる方法として、うなずきを使っているのです。

 患者は、歯科医師の「診療しますよ」というエネルギーに対して「口を開く」という身体的ふるまいで、また歯科医師の「発話に応答してほしい」という意図に対して「うなずく」という身体的ふるまいで反応します。口の開閉とうなずきという、同時に使うことのできる2つの身体的ふるまいを使い分け、歯科医師に対しての反応を、「診療を受ける」ことと「発話に応答する」ことに分散させているのです。

 わたしたちは、いくつかの身体部位を巧みに使い分けることで、複数の相手や活動に対するかかわりを分散させることができます。例えば、オフィスでコンピュータに向かって作業している時に、同僚から話しかけられたとします。その時、作業を中断して立ち上がり、同僚の方向に全身を向けて会話をすることもあれば、下半身はコンピュータに向けたまま、上半身だけを同僚の方向にひねって会話をすることもあるでしょう(注5)。前者のやり方に比べて、後者のやり方では、同僚からの働きかけに対する反応が弱いと感じられるはずです。

 複数の身体部位を使い分けて反応を分散させることは、相手からいくつかのメッセージが醸し出されていることに応じるための方法の一つだと言えるでしょう。

 「ここしかない」タイミングでうなずく

 歯科医師が「診療しますよ」というエネルギーと「発話に応答してほしい」という意図を同時に醸し出してきた時、患者にとっては、それぞれに対してどのようなタイミングで反応するべきか、ということも問題になります。第2回の野球の事例でも論じられていたように、相手の働きかけに反応するタイミングを合わせることは適切な間合いを取る上で重要ですが、ここでは歯科医師から2種類のメッセージが発せられているので、問題はより複雑です。ここからは、上記のやりとりにおいて、患者がうなずいて歯科医師に反応するタイミングをどのように調整していたかを見てみます。

 歯科医師と患者の身体的ふるまいを含めた書き起こしを、もう一度見てみましょう。

  患者は、歯科医師が「ほかってっていい」と発話した直後の位置でうなずいて反応しています。歯科医師はその後に「けどぉ」と発話を続けているので、患者がうなずいたのは、歯科医師の発話が完了する前です。その意味では、このうなずきは、少しタイミングが早すぎると感じられるかもしれません。

 しかし、もし歯科医師の発話が終わるのを待っていたならば、患者は上手くうなずくことはできなかったでしょう。その直後、歯科医師は「けどぉ」と言いながら、患者の口の中にミラーを入れてしまうからです。ここで歯科医師は、迷いなくミラーを入れていて、患者の反応を待っているような様子はありません。口にミラーを入れられた状態でうなずくというのは、不可能ではありませんが、それなりに危険です。患者は、自らの口に向けて迫り来るミラーを認識し、歯科医師の発話が完了するのを待たずにうなずいた、という可能性があります。

 そうかと言って、患者にとっては、これより早いタイミングでうなずくことも難しかったのではないかと思われます。うなずいたのは、歯科医師の「ほかってっていい」を聞いた直後でした。ここでは、「被せ物」についてどのように対処すべきかを歯科医師が説明しています。患者は「被せ物」は(既に排泄されてしまったために)「放っておいてよい」のだということを聞くまで、うなずくことはできなかったでしょう。たとえそれより前にうなずいたとしても、歯科医師の説明に対する反応としてはタイミングが早すぎます。歯科医師の説明としては、「(被せ物を)放っておいてよい」ことがポイントであり、患者がそれを聞かずして反応したとしたら、その反応は形式だけのものと捉えられかねません。

 こう考えると、このやりとりの中で、患者がうなずくことができ、かつ、うなずくべきであったタイミングは、まさに実際にうなずいたタイミングでしかありえなかったのです。患者本人がリアルタイムに意識していたか否かはともかく、歯科医師の説明に対してうなずくタイミングをきわめて微細に調整し、歯科医師が発する「診療しますよ」というエネルギーと、「発話に応答してほしい」という意図に対して、巧みに反応していたことがわかります。おそらくこの時、この患者は、「どうしていたらいいかわからない」といった「きまりの悪さ」に駆られることなく、毅然とした心持ちで、歯科医師の働きかけに反応していたのではないかと思われます。 

「二人称的かかわり」としての身体的反応

「患者本人がリアルタイムに意識していたか否かはともかく」と書きました。はたしてこの患者は、リアルタイムに自らの反応すべきタイミングを明確に意識し、それを的確に判断した上で、実際に反応していたのでしょうか。おそらくそれは無理でしょう。ではいったい、何がこの患者に、このような絶妙なタイミングでの身体的な反応を可能にしたのでしょうか。最後に、このことについて少し考察してみたいと思います。

 佐伯(2017)は、「二人称的かかわり」(第1回も参照)を論じる中で、「訴えを聴き入る」ことについて、以下のように述べています。

 聴き入ることは、相手に「まっすぐ向かう」行為であり、相手の“声”(いわゆる「声なき声」を含む)に「細心の注意を払う」行為であり、「何ごとをも受け入れる用意をする」(いかなる「想定外」にも対処できる用意をする)ことであり、「自分の思い込みを捨て去る」行為です。(佐伯 2017, p. 10)

 佐伯が論じたのは、幼い子どもが表出するさまざまなふるまいから、養育者がいかにその背後にある訴えに聴き入ることができるか、ということでした。今回観察してきた歯科医師と患者の間では、両者のふるまいの「背後にある訴えに聴き入る」と言えるほど、深い情感を含んだやりとりが行われたとは言えないかもしれません。しかし、誰もがそう簡単に、絶妙なタイミングで歯科医師のふるまいに反応できるとも思えません。

 この患者は、たとえ明確には意識せずとも、歯科医師の発話や身体的ふるまいが表出するさまざまなエネルギーを、つぶさに感じ取ろうという姿勢を保っていたからこそ、このように(口と頭という)複数の身体部位を駆使し、適切なタイミングでの反応を繰り出すことができたのではないでしょうか。その意味で、この患者は「二人称的かかわり」の態度で診療に参加していた、と考えることができるのかもしれません。

 この患者は壮年の男性ですが、実は、幼少の頃から数十年間、ずっとこの歯科医院に通い続けているのだそうです。私自身、研究者としてこの患者と歯科医師のやりとりを何度か観察する機会がありましたが、彼らがこれまで幾年にもわたってどのような関係性を築き上げてきたのかを知っていたわけではなく、一見してそのような彼らの「歴史」を読み取ることはできませんでした。しかし、彼らが何気なくやり過ごしているやりとりを微細に観察してみると、「阿吽の呼吸」とも言うべきコミュニケーションが、両者の間でいとも簡単に成り立っていることに気づくことができます。そして、彼らがこれまで長年積み上げてきた関係性の上に、「今ここ」での「二人称的かかわり」が実現していることが推察できるのです。

まとめ

 今回の議論の出発点は、診療場面での「きまりの悪さ」に対処するために、「モノになる」という方法が有効だということでした。しかし、歯科医院における実際の診療場面を観察してみると、患者が「モノになる」状態に至るまでに、ずいぶんと複雑な調整が行われていることがわかってきました。

 いくら患者が「モノになろうとしている」時であっても、相手が人間である以上、歯科医師は引き続き何らかの反応を期待してもよいわけです。反応を期待された側には、「会話するか診療されるか」というジレンマが生じ、それに対して瞬時に対応しなければなりません。その場合は、複数の身体部位を駆使してかかわりを分散させ、絶妙なタイミングを見計らうといった、微細な間合いの調整が求められます。

 今回は、歯科医院の診療場面を題材として、「会話するか診療されるか」という、何気ないコミュニケーションの中に潜む間合いの調整のプロセスを見てきました。コミュニケーションと言うと、自分の思いと相手の思いを交換、共有し、互いに対する理解を深め、新たな発想を導く、といったプロセスを想像しがちです。確かにそのようなコミュニケーションは、社会における意思決定やアイデアの創出、協働的な学習といった知的な営みの源泉として、重要な役割を果たしています。しかし、実際に私たちが生活の中で営んでいるコミュニケーションの大部分は、そのような相互理解やアイデアの創出に至るとは限らず、ずっと素朴で何気ないやりとりの積み重ねから形成されているのもまた事実です。

 素朴で何気ないやりとりだからといって、無秩序で投げやりなコミュニケーションが行われているわけではありません。むしろ、素朴で何気ないコミュニケーションを、これまでどおり素朴で何気ないまま続けられるように、わたしたちはいわば「水面下での努力」を惜しまないのです。そのようなさりげない間合いの調整を行うことが、他者との関係を適度に心地よく保つために役立っているのではないでしょうか。

 

(注1)ヒースは、この「あさっての方向を見る」というふるまいを、「中空志向(middle-distance orientation)」と表現しました。

(注2)この分析は、坂井田・諏訪(2016)で展開された分析を「間合い」という観点から捉え直し、大幅に書き換えたものです。

(注3)ここでの発話の書き起こし方法は、ジェファーソン(2004)が開発し、西阪(2008)が日本語のために改変した方法を参考にしたものです。

(注4)ここでの身体的ふるまいの書き起こし方法は、モンダダ(2018)が開発した方法を参考にしたものです。

(注5)シェグロフ(1998)は、このような身体的ふるまいを「身体ひねり」と呼んで詳細に分析しました。

 

参考文献

Goffman, E. Behavior in Public Places: Notes on the Organization of Gatherings. New York: Free Press. (1963) (丸木恵祐, 本名信行 (訳). 『集まりの構造――新しい日常行動論をもとめて』. 誠信書房. (1980))

Heath, C. Body Movement and Speech in Medical Interaction. Cambridge: Cambridge University Press. (1986)

Heath, C. Body work: The collaborative production of the clinical object. In Heritage, J. & Maynard, D. W. (Eds.), Communication in Medical Care: Interaction between Primary Care Physicians and Patients, 185‒213. Cambridge: Cambridge University Press. (2006) (樫田美雄, 岡田光弘 (訳). 身体のワーク――臨床上の対象の協同的な産出. 川島理恵, 樫田美雄, 岡田光弘, 黒嶋智美 (訳), 『診療場面のコミュニケーション――会話分析からわかること』, 233‒263. 東京: 勁草書房. (2015))

Jefferson, G. Glossary of transcript symbols with an introduction. In Lerner, G. H. (Ed.), Conversation analysis: Studies from the first generation, pp. 13-31. Amsterdam: John Benjamins Publishing Company. (2004)

Mondada, L. Multiple temporalities of language and body in interaction: Challenges for transcribing multimodality. Research on Language and Social Interaction, Vol. 51, No. 1, pp. 85-106. (2018)

⻄阪仰. 『分散する身体――エスノメソドロジー的相互行為分析の展開』. 勁草書房. (2008)

佐伯胖. 保育におけるケアリング. 佐伯胖 (編著) 『「子どもがケアする世界」をケアする――保育における「二人称的アプローチ」入門』, pp. 1-31. ミネルヴァ書房. (2017)

坂井田瑠衣, 諏訪正樹. 受け手になるか対象物になるか――歯科診療における参与地位の拮抗と相互調整. 『社会言語科学』, Vol. 19, No. 1, pp. 70‒86. (2016)

Schegloff, E. A. Body torque. Social Research, Vol. 65, No. 5, pp. 536-596. (1998)

 

 

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著者略歴

  1. 坂井田瑠衣

    国立情報学研究所情報社会相関研究系特任研究員。2017年慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科後期博士課程修了。博士(学術)。多様な場面におけるコミュニケーションを映像に収録し、人々の言語的および身体的なふるまいを微視的に分析している。共著書に『コミュニケーションを枠づける――参与・関与の不均衡と多様性』(くろしお出版)、共著論文に「受け手になるか対象物になるか――歯科診療における参与地位の拮抗と相互調整」(『社会言語科学』19巻1号)など。

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