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死にたがり読書録 吉田隼人

シアトリカルということ、他

 この連載を始めるとき、読書エッセイの極端なかたちとしてジョルジュ・バタイユの『ニーチェについて』を編集者のMさんが挙げてくれた。『ニーチェについて』というのはいちおう、バタイユの思想的主著になる「無神学大全」三部作の三番目にあたる本なのだが、『内的体験』『有罪者』という前二著(これらも執筆時期が前後したりして面倒なのだが)にもまして滅茶苦茶な本で、ひたすら仏訳のニーチェの引用が続いたかと思ったら、ナチ占領下のパリでのバタイユの日記が延々と続き、そのまま連合軍がノルマンディー上陸作戦に成功してパリが解放されたりする。論理的な構成をもたないよう、意図して破茶滅茶な文章を混在させた、本として成立しているのかどうかすら怪しい、そのような本だ。

 そのような本であるから、出口裕弘は『有罪者』『内的体験』と訳してきて、とうとう三冊目のこの本を訳すことは諦めてしまったようだった。訳しかけているけれど、あまりに破格の本なので扱いあぐねているという話が、かれのエッセイに何度もみられる。結局、出口はそのあとバタイユでも戦後の経済学理論編である『呪われた部分』や、先史時代の芸術を取り上げた『ラスコーの壁画』を訳し、『ニーチェについて』には戻らなかった。後年は親友の澁澤龍彦による『エロティシズム』の訳文がバタイユにしてはややこなれすぎている、という理由で、一橋大学での講読の教材に使って訳文を検討していたそうだ。

 

 

 大学一年の三月、ということはまだ二十歳にもなっていない。そのとき、堀江敏幸先生の研究室をたずねたのである。たずねたとは言え、おなじ学部のなかでも堀江先生が教えておられる文芸創作系のコースではなく、表象文化論やメディア論などを掲げる新設のコースに進むことがきまっていて、直接なにがしか文学にかんする指導をお願いにうかがったわけではなかった。一年生の秋から短歌会というサークルの幹部のうちいちばん下っぱの会計をやるようになんとなく決められてしまって、そしてその年度をもってそれまでサークルの顧問にあたる会長であった佐佐木幸綱氏が退職されるので、あとを承けるかたちで新会長になっていただくことを、ほかのいろいろな先輩や同期生たちのはたらきで容れてくださることになり、その年度がわりのごあいさつといった意味あいの、いってみれば事務的な側面のつよい訪問であった。だから当然ひとりで行ったわけではなく、幹事長になった一年上の先輩や副幹事長になった同期生、それにもっと上の先輩も同席してくれていたとおもう。たしか卒業式のある日で、だから春休みなのに先生方も出校しておられたわけだが、はかま姿の女子学生でごったがえすキャンパスを、しかもその日はあいにく雨で、へろへろと歩いてたずねていった。

 研究室での雑談のなかで、あたらしい会計のヨシダは第二外国語でフランス語をとっていて、転部試験をうけて文学部の仏文科に行こうか迷っていたのだ、というような紹介のされかたをしたのだとおもう。フランス文学をめぐるはなしに一瞬たちいたり、たまたま目につくところにあった大判の本の背にMaurice Blanchotとこれまた大きな活字がみえたため、聞いたことのある名前だというので、モーリス・ブランショ、と口にだした。しかしいまにもましてフランス文学や思想については貧弱な知識しかもちあわせていなかったから、フランス文学における砂漠のエクリチュールといった話題をむけられてもとんちんかんなことを口走るばかりで、まあがんばって勉強してくださいね、と、おそらくは苦笑まじりにおっしゃって、先生はべつの話題にうつられた。知ったかぶりをするものではない、ということをそのときたしかに肝に銘じたはずなのだが、それにしては今もあいかわらず、くだらない衒学をしてはその道の専門家にただされて冷汗三斗、といった経験には事欠かない。

 べつにそのことが機縁になったわけでもなかったが、堀江先生とことばを交わす機会はほんのすこししかなかった。福島のいなかから東京に出てきてまわりに圧倒されるばかりで、とくに創作系の授業には、これは堀江先生の担当科目にかぎらず、さぞかしきらびやかな才能の持ち主たちがひしめいて切磋琢磨しているのであろうと気圧されて、詩歌や俳句の授業にせよ、文芸批評の授業にせよ、編集や装幀など出版関係の授業にせよ、顔をだすことのないまま大学を出てしまった。年に一度の新歓コンパで堀江先生とお目にかかっても、そのころテレビではやっていた川越シェフがどうした、むかしの特撮ヒーローもののスペクトルマンがどうした、などなど、俗なはなしばかりしてしまった。こちらは一方的にご著書をつうじて、なるほどパトリック・モディアノの小説というのは平易な語彙のようだから原文で読んでみるべえ、と古本屋をまわったり、あるいはまた、中原中也の日記で出典不明とされているフランス語の文章はパスカルの書きかえで、中也はそのころ鉄塔書院から出ていた落合太郎の文法書で勉強するなかで抜き書きしたのだろうというはなしがひどく好きで、これまた古本屋で買ってきた『パンセ』の普及版をひっくりかえし、邦訳とつきあわせてあちこち眺めたりしていたというのに。

 サークルでは短歌をつくっている、などと口にしてもかえってくるのは大抵、なんで小説や現代詩ではないの? という、こちらでも自分ですらよくわかっていない根本的な問いかけであって、あるいはそれよりもまず、山頭火や放哉のそれは自由律俳句であって短歌ではないことや、石川啄木の歌はかなり特殊な形態であることなどから説明するはめになり、話の腰を折るばかりであった。じつはサークルは短歌会にはいっていて、というはなしをして、吉本隆明の『言語美』に出てくる「短歌的喩」の例にひかれた葛原妙子や齋藤史のうたが……という話題になったのはたまたま教職課程の必修科目でとっていた「国語科教育法」の、附属校でながらく教鞭をとっておられた先生であった。

 

 

「試驗場では、百人にあまる大學生たちが、すべてうしろへうしろへと尻込みしてゐた。前方の席に坐るならば、思ふがままに答案を書けまいと懸念してゐるのだ。われは秀才らしく最前列の席に腰をおろし、少し指先をふるはせつつ煙草をふかした。われには机のしたで調べるノオトもなければ、互ひに小聲で相談し合ふひとりの友人もないのである。

 やがて、あから顏の教授が、ふくらんだ鞄をぶらさげてあたふたと試驗場へ駈け込んで來た。この男は、日本一のフランス文學者である。われは、けふはじめて、この男を見た。なかなかの柄であつて、われは彼の眉間の皺に不覺ながら威壓を感じた。この男の弟子には、日本一の詩人と日本一の評論家がゐるさうな。日本一の小説家、われはそれを思ひ、ひそかに頬をほてらせた。教授がボオルドに問題を書きなぐつてゐる間に、われの背後の大學生たちは、學問の話でなく、たいてい滿洲の景氣の話を囁き合つてゐるのである。ボオルドには、フランス語が五六行。教授は教壇の肘掛椅子にだらしなく坐り、さもさも不氣嫌さうに言ひ放つた。

 ――こんな問題ぢや落第したくてもできめえ。

 大學生たちは、ひくく力なく笑つた。われも笑つた。教授はそれから譯のわからぬフランス語を二言三言つぶやき、教壇の机のうへでなにやら書きものを始めたのである。

 われはフランス語を知らぬ。どのやうな問題が出ても、フロオベエルはお坊ちやんである、と書くつもりでゐた。われはしばらく思索にふけつたふりをして眼を輕くつぶつたり短い頭髮のふけを拂ひ落したり、爪の色あひを眺めたりするのである。やがて、ペンを取りあげて書きはじめた。

 ――フロオベエルはお坊ちやんである。弟子のモオパスサンは大人である。藝術の美は所詮、市民への奉仕の美である。このかなしいあきらめを、フロオベエルは知らなかつたしモオパスサンは知つてゐた。フロオベエルはおのれの處女作、聖アントワンヌの誘惑に對する不評判の屈辱をそそがうとして、一生を棒にふつた。所謂刳磔の苦勞をして、一作、一作を書き終へるごとに、世評はともあれ、彼の屈辱の傷はいよいよ激烈にうづき、痛み、彼の心の滿たされぬ空洞が、いよいよひろがり、深まり、さうして死んだのである。傑作の幻影にだまくらかされ、永遠の美に魅せられ、浮かされ、たうたうひとりの近親はおろか、自分自身をさへ救ふことができなんだ。ボオドレエルこそは、お坊ちやん。以上。

 先生、及第させて、などとは書かないのである。二度くりかへして讀み、書き誤りを見出さず、それから、左手に外套と帽子を持ち右手にそのいちまいの答案を持つて、立ちあがつた。われのうしろの秀才は、われの立つたために、あわてふためいてゐた。われの背こそは、この男の防風林になつてゐたのだ。ああ。その兎に似た愛らしい秀才の答案には、新進作家の名前が記されてゐたのである。われはこの有名な新進作家の狼狽を不憫に思ひつつ、かのぢぢむさげな教授に意味ありげに一禮して、おのが答案を提出した。われはしづしづと試驗場を、出るが早いかころげ落ちるやうに階段を駈け降りた。」

(太宰治「逆行」)

 

 太宰治による、フランス語のできない仏文科大学生としての自分の、多分に戯画化されたスケッチ。ぼくは大学で人文学をまなぶという環境にふしぎな馴染み方をして、この春から本格的に黒板を後ろにして学生に教える側に回った。そうしてこの夏、太宰のように教場での試験ではなかったが(一発勝負の試験ではかえって不公平になるだろうという判断だった)学生たちに課した期末レポートをすさまじい数にわたって読むことになった。太宰ばりのふざけた答案には、幸か不幸かお目にかからなかったが、なるほど、と感嘆の息がもれるような答案にはいくつも出会った。

 ここで太宰が戯画化している教授は辰野隆、日本一の詩人と日本一の評論家はいうまでもなく三好達治と小林秀雄だが、辰野のよき相棒であった鈴木信太郎は小林秀雄の試験答案をあまりの出来の良さにながらく保存していたという。前年、象徴派の小説を論ぜよという問いに「かかる愚問には答えず」とだけ書いて零点をとった小林はその翌年、マラルメの奇妙な体験を扱った散文詩「類推の魔」を課題に与えられ、哲学者ベルクソンの論文集『精神のエネルギー』に収められた記憶と認識をめぐる議論を彼一流のべらんめえに要約して、マラルメの散文詩にあらわれた不吉な暗合めいた偶然の出来事を、人間精神のはたらきのちょっとしたエラーとして説明したのだった。

 

 個人的にベルクソンの時間論(純粋持続論)は、ベルクソン自身の文章をできればフランス語原文か英訳で読むのがよいと思う。その体感や読書行為を通じた時間感覚の変容まで含めて受容されるとき最も輝くような、イマーシヴ受容というか、体験型消費というか、読書行為論的というか、そういう哲学なのだと思っている。ベルクソンの文章そのものが読者の知覚や身体感覚を変容に誘うインターフェイスとして機能していて、だからベルクソンを読む人たちは座禅に打ち込んだり(西田幾多郎)、武道に打ち込んだり(前田英樹)、骨董に凝ったり(小林秀雄)、忍耐とか言い出した挙句に死んでしまったり(原口統三)しがちなのかなぁという、これはぼくの偏見か。 しかしベルクソンを読むことは自己変容の体験であり、ベルクソンもそのための媒体として言語を用い、書物を著していたのだという見立ては、じぶんの実感にはかなりしっくりくる。最近では、九月というフリーランスのお笑い芸人が、哲学概論の講義でベルクソンの『笑い』を講じようとする教員が、ヘンテコな学生に阻まれ続けるというかたちで『笑い』の理論を実体化するようなコントを発表していた。ベルクソンを読むことによる読者の自己変容はおそらくそのまま、ベルクソン・ルネッサンスを巻き起こしたドゥルーズにおける「生成変化」につながっている。

 

* 

 

 博士課程までお世話になった恩師の千葉文夫先生も、優秀な学生の答案をだいじに保管しておくのだと言っておられた。じじつ、第二文学部の「複雑系の文学」という演習科目で滝口悠生さんが提出したという中国の作家・残雪についてのレポートがとても良かったのだと、滝口さんが芥川賞をとられたときに教えられた。しかし自分の答案のたぐいはおそらく保管の栄誉にはあずからなかったことだろう。二年生の秋、演習でなにごとか稚拙な発表をしたあと、まずかけられた言葉が「いつも最前列で熱心にノートをとって、リアクションペーパーにもあふれんばかりの感想を書いて出してくるのに、ヨシダくんの声を聞いたのはきょうが初めてのような気がしますね」であったのだから。

 しかしその後、震災や原発事故、さらには身近な死別などがかさなってますます口が重くなっていたはずの時期に、卒論指導のさしむかいのなかで、じつはサークルが短歌会でして……などといった話題から、研究室の本棚にならんでいた岡井隆の歌集がでてきたり、塚本邦雄のはなしに飛んだりした。失礼なはなしだが、仏文学者が現代短歌をご存じなのに、すこし意外の感をうけたものだった。石井辰彦さんの名前などは、あるいは短歌会の部室より先に、千葉先生の研究室でうかがっていたかも知れない。さいきん読み返している太田一郎の歌集は、『墳』であったか『蝕』であったか、先生から譲りうけたのが出逢いであったのを憶えている。

 卒論など書かせると、みんな引っかかって先に進めなくなるジョナサン・クレーリーの『知覚の宙吊り』などという本を、要するにこの論文と関係ある範囲でいえばこういうことを言っている本です、と強引に荒っぽくまとめてしまうこちらの手つきを苦笑まじりに、しかし注意するという口調でもなく指摘されたことが、そう遠くない過去のこととしてよみがえる。また、大学院のゼミで仏語文献について報告させられ、分担箇所についてあまり要点を絞るということをせず、とにかく目についた大事そうな大量の要素を、香具師の口上のように早口でまくし立ててみせ、「映画を早送りで見るようだ」と言わしめた。そういう学生がわたくしであった。

 

 

 いまの職場に通いはじめたころ、朝起きてシャワーを浴びるとき、シャワーを浴びてから小田急線や神奈中バスに揺られているあいだ、小沢健二の曲ばかりを聴いていた。春のおわり、すでに長袖では汗ばむ陽気のころだ。

 ことしの三月までは、田舎のドラッグストアで無能なレジ打ちのバイト店員として勤務していた。金券の処理などで毎日なにかしら面倒なミスを引き起こし、手先の不器用さや接客態度のぎこちなさ、常識のなさやいい加減さもさることながら、そうした弱みをごまかそうとする自分のたましいの醜さをだれからも見抜かれて、針のむしろのような気持ちでレジに立つ日々だった。

 地元は車社会だから、成人男性で自動車を運転しないというのは異常者である。これはべつに誇張ではなく、おそらく何かしらの重大事件などが発生した場合、まず疑いの視線を向けられるのは「いい歳して免許も持ってない大人の男」だろう。免許を取れないだけの理由がなにかしら背景にあることが容易に推察されるから。

 そんな世界で、真夏は39℃まで気温が上がる午後の暑いさかりに日陰もない道を、真冬は大雪で道路がどこも膝の深さまで埋もれてしまった道を、来る日も来る日も2キロほどの道のりを歩いて通勤した。その道のりでもよくオザケンを聴いた。オザケンのほかに春ねむりもよく聴いたが、いまはオザケンのことを書く。

 オザケンと「生の肯定」というテーマでこの連載エッセイを書きたい、と思っていた。ドラッグストアの手前にあるローソンの駐車場で、あるいはその隣にあるホームセンターのプレハブのトイレ棟で、何度そのことを思い、しかし書き出せずにきたことだろうか。頭のなかいっぱいに膨らんだ小沢健二の歌声と歌詞とメロディとアレンジとその他もろもろの気持ちを、モップで掃き出すように追い出すと、ネクタイを締め直し、水筒やタオルや替えの不織布マスクを仕度して、仕事に向かうのだった。『強い気持ち・強い愛』や『愛し愛されて生きるのさ』の間奏のコーラスとオザケンによる、日本語と英語の混線したかけあいがかもし出す、いいようのない含羞をふくんだ多幸感のこと。かつてタモリが生命の最大の肯定だと賛辞をおくったとされる、『さよならなんて云えないよ』の何気ない風景描写。左へカーブを曲がると光る海が見えてくる「この瞬間は」「いつまでも」「続く」と〈ぼく〉は思う。その時間感覚は、タモリがかつて『超時空対談』という企画本で架空の対談相手に選んだ哲学者ベルクソンの「純粋持続」としての時間論を思わせるとともに、〈生の肯定〉という意味でニーチェ的な「永劫回帰」のそれにもまた通ずるように思われた。バーナード・レジンスターの『生の肯定』という、分析哲学の視点からのニーチェ論を読みたいと思いながら果たせず、文語調をほどよく残した文体がしっくりくる新潮文庫の竹山道雄訳『ツァラトストラはかく語りき』上下巻を、そのころショルダーバッグにいつも入れて持ち歩いていた。

 阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件の年にオザケンは『痛快ウキウキ通り』を出したのだと中学生のときQuickJapanで読んで、その対比のグロテスクさが鮮烈な印象を残していたのだが、同じ年に筒美京平の作曲で出されるも長いことアルバムには収められなかったのが『強い気持ち・強い愛』だった。渋谷系の王子さまとして多幸感を振りまきながらカローラIIにのって紅白歌合戦にあらわれ、ブギー・バックな今夜は仔猫ちゃんとおやすみなさい。夜が明ければポンキッキーズで着ぐるみの鈴木蘭々と「ブーブーブー」オナラで月まで行けたらいいなと歌っていたオザケン。ポップジャムで司会の森口博子に「小沢、がんばれよ」とからかわれ、NHKなので「プラダの靴」を「きれいな靴」と歌いながら仔犬のような照れ笑いを浮かべていたオザケン。ダウンタウンを相手に「おじいちゃんは右翼の大物なのね」とニコニコしていたオザケン。おしゃれカンケイで古舘伊知郎に渡辺満里奈との仲を冷やかされ、「いけすかない東大出」と呼ばれていたオザケン。ニュースステーションでいじわるな久米宏(初の女性首相が「なんか、意地悪やなあ……」とタレントを恫喝する姿を久米に見てほしかった、といま急に思った)にクソガキの笑顔で「あれやってくださいよ、今週のスポッッッットライト!」とやり返していたザ・ベストテン世代のオザケン。フジテレビの特番で予備校時代の東大模試の点数や順位まで映されてしまっても、初めて買ったレコードは沢田研二の『勝手にしやがれ』で、小澤征爾の甥とはいえ普通なんですよ、と笑っていたオザケン。

 そんなニコニコ笑顔が頭にこびりついたまま聴いていたので感触をつかみそこねていたのだが、『ぼくらが旅に出る理由』やタモリが褒めた『さよならなんて云えないよ』はもとより、ウキウキごきげんな『強い気持ち・強い愛』も『愛し愛されて生きるのさ』も歌詞をあらためて見直してみれば、深い傷跡をそれとなく隠しながら、わざとらしく殊更にはしゃいでみせているのだった。遠くへと旅する恋人へ向けられる言葉たちはあまりに死出のそれに発ってしまった愛する人への言葉に似ているし、筒美京平とたっぷり遊び歩くことで生まれたという華やかなメロディに乗って、しかし最後の大サビ部分で冬の乾いた空気のなか、階段をのぼるようにして苦しい日々を送り、涙を流すけれどすぐ冷たい風に乾いてしまうようなぼくらは、そのうえでなお笑うのだ。

 そしてそれはべつに活動再開後の『彗星』冒頭で1995年の冬の寒さに言及されるのを待つまでもなく、93年のソロ第一作となるアルバムで明らかに特権的な位置を与えられた13分半の大作『天使たちのシーン』のクライマックスには、地震やテロが起きるより前から、生きることの苦難に突き当たって神にすがるかのような一節が置かれていたのだ。つねにふりかえることでしか出会えない原点としての『天使たちのシーン』。この曲にはオザケン版のほかに、オリジナル発表からまもなく、愛称こそ似ているものの方向性は一見まったく違ってみえたオーケン版が存在するわけだが、その大槻ケンヂ版での歌や演奏の違いから見えるものもある。オーケンはピアノに、ギターに雄弁すぎるほど心情を語らせ、自身の歌声も意図的に陶酔感を前面に出した、きわめてシアトリカルな戦略でこの曲のカヴァーに臨んでいる。そこで際立つのは、たとえば冬の寒さ、夜の暗さといった要素であろう。オザケンには不思議なくらい「冬」の歌詞が多い。喪失のうたとしての『ぼくらが旅に出る理由』も、秋の場面から始まる歌だった。しかしその「冬」から旅立つために、冬の終わりを迎えにゆくために、この春ぼくはささくれだった心を抱えたまま、新居の風呂場でオザケンを口ずさみ、時代遅れの有線イヤホンでオーケン版『天使たちのシーン』をリピート再生していたのだ。

 だからこそ活動再開後のオザケンの楽曲やパフォーマンスには「へんなの!」と思い、曲名『演歌がいいから』『ウルトラマン・ゼンブ』ってダサすぎるだろ、なんでtiny desk concertでウサギの覆面かぶって歌わにゃならんのだ、中島みゆき『悪女』のカヴァーとか食合せの悪さにも限度があるだろ、など無数の文句を垂れながら、しかし映画化される『リバーズ・エッジ』のために作られた『アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)』で誰の目にも明らかなかたちで岡崎京子との交友を取り上げた歌詞、とりわけ日比谷野音ライブ音源での、吉沢亮と二階堂ふみの台詞パートもすべて一人で歌い続ける、昔から決して歌がうまくなかった元・王子さまの苦しそうな高音と息づかい、そういったものに一筋の涙をこぼさずにはいられないのだ。「80年代」というゲームに参加していた年少世代のセンス・エリートとしての小沢健二や岡崎京子が、ようやくプレイヤーとして参入した90年代の日本社会。そこはすでに日本型ネオリベ思想が蔓延し、通俗道徳としてゆるやかに右派カルトと連帯する「悪い場所」となり果て、すでにロスジェネ/失われた数十年ははじまってしまっていた。その「悪い場所」で精一杯の輝きを撒き散らしながら、しかし確実にもがき苦しんでいたはずの彼ら彼女らを、ほんのひとすじでも浄福の陽光が照らすことを願ってやまない。そのような祈りとしての『アルペジオ』。

 

 実家には大学二年か三年のとき、つまり震災がいまだ起きないころに穴八幡の青空古本市で数百円で買った中公バックス「世界の名著」のスピノザ・ライプニッツの巻があった。國分功一郎が博論本『スピノザの方法』を出し、高崎経大准教授の肩書でアメブロやTwitterを更新しているのを目ざとい文芸サークルが目に留め、國分本人ではなかったが別なスピノザ研究者を招いて講演会を開いたのが、ジャスミン革命やアラブの春について議論の交わされた記憶から推察するに、2010年の年明けからまもない時期だった。おそらくこれはその前後に買ったものだ。

 どういうわけかスピノザが好きで、それはたとえば別な古本屋の棚で見かけた福島泰樹の第二歌集のあとがきにこの『エチカ』の哲人への熱烈なラヴレターが綴られていた記憶などとも関係するのではないかと思う。しかしラテン語を習得することはどうしてもできず、大学院でおそわった谷川多佳子先生からは「ヨシダくん、あなたそんなにスピノザが好きならラテン語くらいおやりなさいよ」と叱られたものだった。故郷のなにもない農村でエチカを読んで暮らすなか、「日本の古本屋」に千円ほどで『エチカ』の仏訳、ガリマール書店のfolio版が出ているのを見付け、ひどく逡巡しながらもバイト代をつかって買った。ロラン・カイヨワという、ロジェ・カイヨワと関係のある人ではないかと思われるものの調べても情報が出てこない、その人の訳したいささか熱っぽい文体の仏訳を中公版の邦訳と並べ、先に挙げた竹山道雄訳のニーチェと交互に読んだ。

 地元の図書館の本を、最寄りの公民館に取り寄せてもらって借りる。そうして読めた数少ないスピノザ関連文献に、まだ刊行から日が浅い加藤節のスピノザ論があり、また「人類の知的遺産」シリーズのスピノザの巻があった。「人類の知的遺産」でスピノザの巻を担当した工藤喜作は、そのとき手許にあった中公版『エチカ』の訳者でもあり、さらにまた、そのころ面接が進みつつあったいまの職場にかつて勤務し、博士論文であるスピノザ研究を大学出版会から出版していた。そうした些細な偶然にでも気持ちを託していないと、いまにも折れてしまいそうなほど心が弱っていた。

 

「スピノザの主著『エチカ』に接して以来、すでに四半世紀はとっくに過ぎ去ってしまった。しかしその初めての出会いはまったく偶然の機会からであった。

 大学三年のある日、たまたま語学の恩師Y先生を訪問したとき、卒業論文のテーマに何を選ぶかが話題になったことがある。先生はガルニエ版の羅仏対訳の『エチカ』二冊を手にされて、スピノザを私にすすめられた。私はそれまでスピノザについてはほとんど何も知らなかった。だが自分の敬愛する先生のすすめによることでもあるし、また私自身その当時、人生問題について悩んでいたことでもあり、書名の意味する「倫理学」にひかれ、まず読んでみようということになった。研究室のゲプハルト版の『スピノザ全集』は当時禁帯出となっていたので、ガルニエ版を借り出し、休暇を利用してその筆写に没頭した(今のように便利な、即座にコピーのできる機械がなかった時代である)。筆写のノートは五冊に及んだが、今ではなぜそのようなことをしなければならなかったのかわからない。たぶん熱にうかされていたのであろう。長期貸出を思いつかなかったのであるから。

 何の予備知識ももたずに『エチカ』に接したため、その形而上学や認識論よりも倫理説の方が私にとって理解し易く、また興味深かった。特に、スピノザが人生に対してなによりも肯定的であり、また西洋の伝統的な、いわゆる禁欲主義的な倫理に対して批判的であった点が、カントよりもスピノザを私にとっていっそう身近なものと感じさせた。ゲーテは心の激情を鎮めるため『エチカ』を読んだといわれる。しかし私はむしろ理性によっては制御し難い激情、そしてそれから生ずる不都合な結果についての肯定的な慰謝を求めるため、『エチカ』に接したのである。今日から見ればスピノザに「甘え」ていたといえるだろう。ともかくこのようなたわいない動機からスピノザの門をたたくことになった。(…)すでに述べたように、スピノザにおいて学ぶべき第一のものは、その哲学と一つになった彼の人格である。この点に関して私はすでに次のように書いた。「……スピノザ哲学についての知識はいくらか増えたが、人間としての彼との距離は少しも狭められていない。この意味でスピノザは著者にとって常に変わらぬ反省の糧であり、探求の対象である。今後たとえ直接にはスピノザ研究に従事しなくても、彼の〈人間〉から離れ去ることはないであろう」(拙著『スピノザ哲学研究』の「まえがき」)。この気持ちは今でも全然変わっていない。そして人間スピノザとの距離は依然せばめられていないのである。努力のたらざるゆえんを深く反省する次第である。」

(工藤喜作「まえがき」、『人類の知的遺産35 スピノザ』講談社)

 

 どういうわけか、ぼくは他人の自伝的な書き物を読むとき〈性の目覚め〉よりも「知への目覚め」に興味が強く向かうたちなので、この種の文章を読むことは無上のよろこびである。この文章もそのような喜びのなかで書き写した。

 自分にとってスピノザはまず、デカルト『情念論』のあとを承けるかたちで人間のさまざまな感情を小さな要素に分解して検討した「異形のモラリスト」とでもいうべき存在で、そのような読み方は國分功一郎のむかしむかしのアメブロ投稿で知ったほかに、花田清輝が『復興期の精神』でからかい半分にスピノザを取り上げていた「ブリダンの驢馬」という皮肉っぽい批評文の印象もいくらか含まれている。それが工藤喜作の著書で主にその倫理説にふれ、加藤節の著書ではロックやホッブズと比較される政治哲学の側面を読むことになった。大学院生のころ、まったくの趣味で読んだ清水礼子『破門の哲学』は、スピノザの伝記的事実の痕跡を、おもにその認識論のなかに見ようとする本であったと記憶する。

 そうしたスピノザとニーチェをめぐる貧しい読書を重ねながら、バイトの通退勤のあいだは小沢健二や春ねむりを聴き、冬のわずかな日差しのなかで〈生の肯定〉ということを考え、こんなメモを書きつけた。

 生の肯定とは、単なる生の享受ではない。生のすべての要素を肯定するわけでもない。生には避けがたく決して肯定しえないものごとが存するが、そのことをふまえたうえで、決して肯定しえないものを含むものとしての生を肯定することだ。

 ライプニッツの最善可能世界仮説のような迂回をせずに、生には〈悪〉がただ悪として(フランス語を借りれば病い mal として)あることを肯定する。死を極点とする〈悪〉は否定性(négativité)のはたらきなので、そもそも完全なかたちでは肯定することができない。否定と肯定は一致しえない。それは語義矛盾である。

 ただ、そのような決して肯定しえない〈悪〉が避けがたく存するところの生を、スピノザ的な、ニーチェ的な、あるいはオザケン的な存在は肯定する。〈悪〉そのものを肯定するのではなく、「肯定しえない〈悪〉が存する生」という一個の全体を肯定するのである。

 

 小沢健二を聴いて仕事に通っていたのが、五月の連休が明けたくらいから、友川カズキを聴くようにシフトした。友川はたまたま『生きてるって言ってみろ』が三月、いま住んでいる神奈川の部屋に引っ越した直後にYouTubeからレコメンドされてきて、その凄絶な歌唱と演奏に打たれた。そのあと『ワルツ』や『死にぞこないの唄』を聴き込んで、絶望をさらに深めるような聴取体験をしていたが、いくぶん気持ちが落ち着いてきてからは『無残の美』や『家出青年』の2014年以降に演奏されたヴァージョンを好んで聴くようになった。聴きながら毎回、感極まって涙を流した。

 『無残の美』は若くして死を遂げた実弟への愛憎を、まるで自分のからだから肉を引きちぎって投げ棄てるような烈しさで歌った曲だ。『家出青年』も弟と自分がそれぞれたどったような、日雇い労務者としての明日の見えない暮らしぶりを取り上げた怪作だが、東日本大震災と原発事故のあとに付け足された、すすり泣くようなヴァイオリンの音、静かな怒りをしめすドラムスの響きとともに繰り広げられる、スポークンワードというのかポエトリー・リーディングというのか、その詩句があまりに鮮烈だった。

 曰く、「最なる時のさなかにあって 人どちはみな一様 寒立馬である 寒げな淋しげな風である 次世代のためなぞと云うから滑稽になっちまう 負の遺産なぞと括るから大概になっちまう 原発だろうと何だろうと イヤなものはイヤだと声を成せばいい 色素のない奥ゆかしき美意識なぞ そんじょそこらの鶏のフンですらない 君よ 君よもしや かつてこの国には真っ青な翼の鳥がいた 「貧困が暴力」なら 無知も暴力である 悔しき暴力である 「貧困が暴力」なら 無知も暴力である 悔しき暴力である」。歌詞が公開されておらず、こちらで聞き取って書いたので間違いがあるかも知れない。ご容赦ねがいたい。

 フォークソングのなかでもパンク・ロックやノー・ウェーヴ、フリー・ジャズやノイズ・ミュージックへと接近した、アシッド・フォークの極地にいる一人ということになるのだろうか。友川は遠藤ミチロウや大友良英といった人たちとも共演している。二人ともぼくの高校の遠い先輩である。梅沢富美男くらいしか有名人が出ていない地味な公立校ではあるが、時おりその種のパンク的な衝動が爆発することがあるのだろうか。先に大槻ケンヂについてシアトリカルということを書いたが、シアトリカリティにはさまざまな発露のかたちがあることをまざまざと思い知らせてくれる。友川カズキは中原中也や種田山頭火などのほかに西村賢太をよく読んでいるようで、鬼気迫る歌声とは打って変わった秋田訛りむきだしの軽妙な喋りに乗せられて、ぼくも遅ればせながら西村賢太作品をまとめて図書館から借りて読んでみようかと思い始めたところである。

 

 

 自分のなかに「四方田犬彦経由の蓮實重彦の呪い」がある。四方田犬彦『歳月の鉛』で、東大文三一年の四方田が受けた第二外国語(フランス語)の授業の初回が丸山圭三郎、阿部良雄、蓮實重彦といった教師ごとに描写されるのだが、そこで蓮實は学生にフランス語で「ことば」を指す語彙を思いつくかぎり挙げさせ、そのparole, mot, écriture, langue, langageといった単語の違いからソシュールはじめ構造主義言語学などの見取り図(たぶん当時存命のバルトやデリダの初期くらいまでを含む)を一通り説明したという。それはいいのだが、そのあと蓮實は、吉本隆明という人はこういう語学の勉強をちゃんとやらなかったから『言語にとって美とはなにか』などという「お猿さんのような本」を書いてしまったのです、と学生たちに嫌味を言ったのだと、少なくとも『歳月の鉛』には書かれている。

 四方田と蓮實の仲が良かろうが悪かろうがそれは別にどうでもいいのだが、いわゆる「フランス現代思想」の洗礼を受けたかなり下のほうの世代である自分には、四方田→蓮實→吉本という二重の悪意でねじ曲がった呪いの言葉が頭にこびりついていて、日本語だけで思索しようとすることへの過剰な拒否感が染み付いてしまった。これがよろしくない。よろしくないのだがしかし、なまじ大学院で外国文学など専攻したものだから、母語である日本語だけで日本語のテクストを論じようとすることの不毛さにどうしてもついていけないところがある。といって全編フランス語や英語で論文を書くことなどできないのだが、なるべく印象批評に陥らないよう、比喩を以て何かを語り得たと思うことは慎重に避け、キャッチコピー的な造語などはもってのほかという、ガチガチの慎重居士的なものの考え方、書き方をすぐには離れられない。

 現代短歌について語らないわけにもいかないのだが、かといって語ろうとすると「日本語だけで日本語のテクストを論じる」ことの血で血を洗うような不毛さに付き合わないわけにはいかない。しかし「チャート式」と謙遜しつつ込み入った話をエレガントにまとめてみせる浅田彰のような頭脳の持ち合わせはもちろんないし、フランス流のexplication de texteを明晰判明な正反合のdissertationふう三部構成で書くなんてことも、仏文科の劣等生だった身には重荷にすぎる。いかに書き、いかに思考し、いかに語るべきかという、根本的すぎる問題にここにきてぶつかって、たちゆかなくなっている。il me faut chercher la clarté de la vérité simple tout en gémissant…

 

 

 トーキング・ヘッズ初期のデヴィッド・バーンを見ていると、痩せた神経質そうな青年がピチッとしたグリーンのポロシャツをチノパンにタックインして着ているのに、これでロックをやれてしまっているのはすごいなと毎回思う。極端から極端に振れて、その後のデヴィッド・バーンは「大きいサイズ」の広告を出しているサカゼンでしか売っていなさそうなぶかぶかのスーツを着る時期が長くあって、いまはつなぎの作業服のようなものを着てステージ・パフォーマンスをしている。

 ともあれ、その初期のトーキング・ヘッズが『サイコ・キラー』をライヴで演奏するとき、デヴィッド・バーンが ce qu'elle a dit というフランス語のフレーズを「スケラディ」とつなげて発音せず「ス・ケル・ア・ディ」と神経質に区切って発音しているのがいつも気になるのだが、それもやっぱりサイコ感の演出なのかな、と思う。例の「ファファファファ……」というサビのフレーズも、最初期のライヴを見るとバーンは今にも消え入りそうな声で歌っていて、それが逆にサイコパスのシリアル・キラーめいて恐ろしく、しかしキッチュでもある。これもまたシアトリカルなミュージシャンのパフォーマンス。

 

 

 パランティアという『指輪物語』にちなむ邪悪な名前のテック専制の尖兵が、『技術共和国』という彼らの思想を扱った著書を生成AIのGrokに要約させて、以下のようにXにポストしていた。その全文のGrokによる日本語訳を示す(Grokに要約させ、Grokの翻訳で読まれることを前提にした英文を、わざわざこちらが骨折って訳すのは流石に嫌なので……)。

 

「よく聞かれるので。

技術共和国、要約。

1. シリコンバレーは、その台頭を可能にした国に対して道義的負債を抱えている。シリコンバレーのエンジニアリング・エリートは、国家防衛への参加という積極的な義務を負っている。

2. 私たちはアプリの専制に対して反旗を翻さなければならない。iPhoneは、私たちの文明の最高の創造物、いや頂点の業績ではないのか? その物体は私たちの生活を変えたが、今や可能性の感覚を制限し、抑圧しているかもしれない。

3. 無料のメールだけでは不十分だ。文化や文明、そしてその支配層の堕落は、その文化が国民に経済成長と安全保障を提供できる場合にのみ許されるだろう。

4. ソフトパワー、雄弁なレトリックだけの限界が露呈した。自由で民主的な社会が勝利するためには、道義的訴求以上のものが必要だ。それはハードパワーを必要とし、この世紀のハードパワーはソフトウェアによって構築されるだろう。

5. 問題はA.I.兵器が作られるかどうかではなく、誰が作り、どのような目的で作るかだ。私たちの敵対者は、軍事および国家安全保障に重要な技術の開発の是非についての演劇的な議論に耽るために一時停止しない。彼らは進むだろう。

6. 国民奉仕は普遍的な義務であるべきだ。私たち社会は、全員志願制の軍隊から離れ、次なる戦争を戦う際には全員がリスクとコストを共有するという条件を、真剣に検討すべきだ。

7. アメリカ海兵隊員がより良いライフルを求めれば、私たちはそれを作らなければならない。ソフトウェアについても同じだ。私たち国は、海外での軍事行動の適切さについての議論を続けつつ、危険の道に踏み込むよう求めた者たちへの揺るぎないコミットメントを保つことができるはずだ。

8. 公務員は私たちの司祭である必要はない。連邦政府が公務員に報いる方法で従業員に報いるようなビジネスは、生き残るのに苦労するだろう。

9. 公的生に身を投じた者たちに対して、はるかに多くの寛容を示すべきだ。許しの余地を根絶する——人間の精神の複雑さと矛盾に対する寛容を放棄する——ことは、私たちが後悔するようなキャラクターのキャストを舵取りに残すかもしれない。

10. 現代政治の心理化は私たちを誤った道に導いている。政治の舞台に魂と自己の感覚を養うことを求め、決して会うことのない人々の中に内面的な生活の発現を過度に依存する者たちは、失望に終わるだろう。

11. 私たちの社会は敵の没落を急ぎ、しばしば喜んで見ている。相手の敗北は、喜ぶ瞬間ではなく、立ち止まる瞬間だ。

12. 原子力時代は終わろうとしている。抑止の時代の一つである原子力時代が終わり、A.I.に基づく新たな抑止の時代が始まろうとしている。

13. 世界の歴史上、この国ほど進歩的価値を推進した国はない。アメリカ合衆国は完璧にほど遠い。しかし、この国に遺伝的エリートではない者たちにとって、地球上のどの国よりもはるかに多くの機会が存在することを忘れやすい。

14. アメリカのパワーは、驚くほど長い平和を可能にした。多くの人々が忘れたか、あるいは当然視しているが、ほぼ一世紀にわたる何らかの平和が、大国間の軍事紛争なしに世界に支配的であった。少なくとも三世代——数十億の人々とその子孫、そして今や孫たち——は世界大戦を知らない。

15. 戦後のドイツと日本の去勢は撤回されなければならない。ドイツの無力化は、ヨーロッパが今重い代償を払っている過剰修正だった。日本平和主義への同様で高度に演劇的なコミットメントは、維持されれば、アジアのパワーバランスを脅かすだろう。

16. 市場が行動を怠った場所で構築しようとする者たちを称賛すべきだ。文化は、マスクの壮大なナラティブへの関心を嘲笑うかのように、億万長者は単に自分を富ませるレーンに留まるべきだと。……彼が創造したものの価値へのいかなる好奇心や真の関心も、本質的に却下され、あるいは薄い軽蔑の下に潜んでいる。

17. シリコンバレーは暴力犯罪への対処に役割を果たさなければならない。アメリカ全土の多くの政治家は、暴力犯罪に対して本質的に肩をすくめ、問題に対処する真剣な努力を放棄し、解決策や実験を講じる際に有権者や寄付者とのリスクを取らない。それは、命を救うための必死の試みであるべきだ。

18. 公的人物たちの私生活の無慈悲な暴露は、あまりにも多くの才能を政府奉仕から遠ざけている。公的舞台——そして、自分を富ませること以外に何かをする勇気ある者たちに対する浅薄で些細な攻撃——は、あまりにも非寛容になりすぎ、共和国は無能で空虚な器の重要な名簿を残される。その野心は、内部に潜むいかなる本物の信念構造もあれば許されるだろう。

19. 私たちが無意識に奨励する公的生の慎重さは腐食的だ。何も間違ったことを言わない者たちは、しばしば何も大したことを言わない。

20. 特定のサークルにおける宗教的信念の遍在する不寛容に抵抗しなければならない。エリートの宗教的信念への不寛容は、その政治的プロジェクトが内部の多くの者が主張するよりも開かれた知的運動ではないという、最も示唆的な兆候の一つかもしれない。

21. 一部の文化は活力ある進歩を生み出した。他は機能不全で退行的だ。すべての文化は今や平等だ。批判と価値判断は禁じられる。しかし、この新しい教義は、ある文化、むしろサブカルチャー…が驚異を生み出した事実を覆い隠す。他は中庸で、悪くは退行的で有害だと証明された。

22. 空虚で中身のない多元主義の浅薄な誘惑に抵抗しなければならない。私たちアメリカ、広義には西側は、過去半世紀にわたり、包括性の名の下に国民文化を定義することを拒否してきた。しかし、何への包括か?

#1 ニューヨーク・タイムズ ベストセラー『The Technological Republic: Hard Power, Soft Belief, and the Future of the West』(アレクサンダー・C・カープ&ニコラス・W・ザミスカ著)からの抜粋 techrepublicbook.com」

 

 これをぼくは、曲がりなりにも大学院の博士課程まで人文学を学んだ人間として英語原文と突き合わせて読んだのだが、そのうえで吐き気を催したフレーズが、theatrical debatesやhighly theatrical commitment to Japanese pacifismといった「シアトリカル」にかかわるものと、the political arenaやThe public arenaといった「舞台/闘技場/戦場」にかかわるものだった。それはぼく自身がバタイユを専門に選び、かれの思想にあらわれる「演劇(的なもの)」の主題を追求する博士論文をもう十年以上も書き続けていることに起因する。

 詳細に論を展開するのは場にそぐわないので避けるが、バタイユ的供犠論──そこで供犠は広義の演劇、さらには主体の自己形成のモデルでもある──の「すぐれてアメリカ的な」(というのはもちろん皮肉で言うのだが)継承者であるルネ・ジラールの、テック・オリガルヒによるきわめて邪悪かつ幼稚なかたちでの転用だとぼくは読む。

 パランティアを率いるPayPal開発者ピーター・ティールがスタンフォード大学の哲学科でジラールの思想から強い影響を受けたのは周知の事実だが、ジラールなどという「フレンチ・セオリー」のごく通俗的な紹介者、思想の貿易業者のために世界の秩序や安寧が音を立てて崩れ去っていこうとしているのは、皮肉というにはあまりに間が抜けておもしろみも何もない光景である。国際協調主義や平和主義という「お芝居」の議論はもうやめましょうやと言った口で、かれらは海外派兵や徴兵制を議論しようと言う。実のところかれらがやりたいのは、民衆にarena(舞台/闘技場)で殺し合いをさせてAIという新たな神への供物にするという、より野蛮で前近代的な「お芝居」としての供犠でしかないのだ。原文を読むとWe should as a country be capable of continuing a debate about the appropriateness of military action abroad while remaining unflinching in our commitment to those we have asked to step into harm’s way.とも言っていて、この新しい封建領主ワナビーたちは、軍事力増強・行使につながるdebateやcommitmentだけを特権化している。

 ぼくはだらしなく戦争にあらがう身体でありたい。ぶよぶよと、みにくく肉のついた、およそあらゆる運動に適さない身体。怠惰で、あらゆる責任を億劫がり、つねになにかに疲労している。メランコリアとは、戦争と相性のわるいものであるべきではなかっただろうか?

 

 ジョルジュ・バタイユが『内的体験』ほかでオブセッションとして繰り返し取り上げる « cent morceaux » の刑に処された中国の男性の写真は、かれにとって脱自(extase)に至るまでの瞑想を方法論化した演劇化 dramatisation のための媒体と捉えるのはどうだろうか。かれ自身はその方法論をイグナチオ・デ・ロヨラ(に代表される、イエスの受難を観想する「演劇的」な修行法)に帰しているわけだが、ごく卑近な言い方をすれば、それは同時代のアメリカの兵士たちがピンナップ・ガールを眺めて自慰に耽っていたのと同じ構図でもあるのではないか。それらはいずれもpetite mortというエクスタシーを目的にしているのだから。

 バタイユについて、博士論文を書き上げることがなかなかできず、その穴埋めのようにバタイユについてのエッセイふうの論考を集めた本を出すことができないか、と考えている。「〈伽藍〉について」という序論で始まり、「〈涙〉について」という章ではイグナチオ・デ・ロヨラ、「〈牛〉について」ではコレット・ペニョ(ロール)、「〈君〉について」ではディアヌス、「〈花〉について」ではジャン・ポーラン、「〈歌〉について」ではルイ゠ルネ・デ・フォレ、「〈風〉について」ではサミュエル・ベケット、「〈怪物〉について」ではジル・ド・レェという、それぞれバタイユともうひとつの名前とを並べて、論文としての堅いお作法から少し外れ、フリーハンドに書いてみたい、と。

 

 

 ふとした偶然から、ジャン・グルニエ『孤島』のフランス語原書を手に入れた。むかし恩師のお宅にうかがったとき、みんなで分けなさいと言われたフランス語の本からこの本を選んだのだったが、それは東京を離れたとき失ってしまった。ことし首都圏に戻ってきて、偶然『孤島』をふたたび手に入れた。原文で読んでいるだけだと自分の語学力では隔靴掻痒の感がぬぐえないので、ちくま学芸文庫で出ている井上究一郎の邦訳を買い求めて照らし合わせた。この本をぼくは「猫のムールー」の話から始めるのだと記憶していたのだが、グルニエの教え子であるアルベール・カミュの序文のあとは「videの誘惑」という文章で始まっていた。このvideというのをなんという日本語に移されているか、井上究一郎という手練れの技を見てみたかったのだ。井上はこの語を「空白」と訳し、こんなふうに冒頭を訳していた。

 

「何歳のころだったか? 六歳か七歳だったと思う。菩提樹のかげにねそべり、ほとんど雲一つない空をながめていた私は、その空がゆれて、それが空白のなかにのみこまれるのを目にした。それは、虚無についての、私の最初の印象だった。そしてそれは、ゆたかな生活、満ちたりた生活の印象につづいていただけに、一層つよかった。それ以来、私はなぜ一方が他方のあとにつづいておこるのかを、頭のなかで求めようとした。そして、自分の肉体と魂とで求めないで自分の知性で求めるすべての人たちに共通の、一種の勘違いから、私は哲学者たちが「悪の問題」と呼んでいるものがそれなのだ、と考えた。ところで、それは、もっと深刻で、もっと重大な事柄であった。私は、自分の前に、瓦解ではなくて、空隙をもったのだ。口をあいたその穴のなかに、すべてが、完全に何もかも、のみこまれてしまう危険があった。この日づけから、私にとって、物の現実性のはかなさにたいする反省がはじまった。「この日づけから」といってはいけないだろう、なぜなら、われわれの生活の諸事件は――いずれにしても内的な事件をさすのだが――そうした諸事件は、われわれ自身のなかのもっとも深いものが、日をかさねて順次に啓示されることでしかない、と私は思いこんでいるからだ。してみると、日づけの問題は大して重要ではない。私というのは、生きるべく運命づけられている人間というよりも、むしろなぜ生きているかを自分に問いかけるべく運命づけられている人間の一人だった。」

(ジャン・グルニエ『孤島』井上究一郎訳)

 

 幼稚園児のころ、貧血なのか何なのか、卒園式の練習を休まされて、ひとりだけ別室で寝かされていた。ガラス戸の向こうに空が見えていて、おとなしく寝ていないといけないから、ひたすら青い空を見ていると、雲というのはけっこうな速度で空のむこうへと流れてゆくものなのだと初めて気付いた。しかしグルニエのそれのような特権的瞬間として受容されることはなく、ただ雲を見ていただけの記憶として残っている。

 しかしグルニエが遭遇したような、生きる意味を失ってしまうほど幸福な特権的瞬間というのはおそらく誰にも存在していて、たとえば中村草田男が十代で遭遇したという「ラザラス体験」などもその一種ではないか。角川文庫版句集巻末にある草田男の自筆年譜には「秋、学校の修学旅行解散後の帰途を其儘に長崎まで伸ばす。長崎到着直前の車中に於て、比喩を以て言へば、天地の幔幕たゞ両断さるゝ、ある異常なる心理体験に遭遇した。このことは、爾後の我が内的外的生活を規定せずには置かなかった」とある。同じく草田男自身の筆になるより詳しい描写だと、

 

「幔幕両断の比喩は、直接には「死の恐怖」というかたちでやってきた、ある経験的事実を指すのだが、それのミミックのようなものなら誰でもが経験していることである。私の場合は、その前景を以てする永遠というものの全ただずまいを直接に見てしまったとでもいえよう。「神の顔を見たものは死ななければならない」という語があるが、永遠を見てしまった者は、有限の時間を有限のものとして具体的に応処することができなくなる。私が、一定の職業につく資格獲得のための修学に手落ちなくとりかかることができなくて、修学コースに迂路を辿らざるを得なかったのも、亦そこに原因している。もとより、これは一応甚しく病的な体験であって、若いとき私と同様の心理的経験を通過してきたらしい志賀直哉氏が、その創作余談の一隅で、触れているのが、アンドレイエフの『ラザラス』である。『ラザラス』とは、基督によって墳墓のうちから復活せしめられた『ラザロ』のことである。私が読んだものでの中は、ただこの一短編小説だけが、永遠を見てしまったものの不幸の実情を、ある程度までさながらに描いていた。」

 

ということになる。草田男はこのとき「永遠というものの全ただずまいを直接に見てしまった」ために、人より長く青春彷徨をする羽目になり、ようやく大学を出て成蹊学園の教師になるころには三十路に至っていた(旧学制でもこれだけ卒業が遅れるのは他に井上靖くらいしか思い付かない)。草田男という俳号も、父を亡くしたとき親類から「腐った男」と面罵されたのにちなむという。しかし音読みにすると「草田」は「そうでん」であり、腐った男かも知れないが、しかし同時にそうそう出ない男でもあるのだぞとの思いも込められている。

 ぼく自身にとって類似の体験があるとすれば、それは幼稚園児のときに寝かされて雲を見ていたことではなく、高校一年の夏休みだと思う。その一端は、最終的な帰結としての「自殺未遂」の箇所をかつて「一行のボオド「レエル」」という題のエッセイとして書いたことがある。このときの精神的かつ実存的な危機については自分でも充分に汲み尽くせていないところがあり、書ききれていないのが現状なのだが、勉強についていけるかという焦りや将来の不安、うつ病による認知のゆがみなどと並んで「この世には絶対の真理などない」という自覚があったのは確かだといえる。そんな形而上的な悩みで自死を試みるまでに追い詰められるというのは、なかなか理解されにくいかも知れないのだが、あのとき、十六歳の自分が遭遇したのは確かに「絶対の真理の不在」という深刻な命題であった。

 

「空白の魔力にさそわれて周遊に出る、ある物から他の物へ、いわば片足とびにとび移るということは、ふしぎではない。恐怖心と、魔力にひかれる気持とは、たがいにまじりあう、――人はのりだすと同時に身をひっこめる。その場にいつまでもとどまることは不可能だ。けれども、この無窮動がいつかはむくわれる日がやってくる。ある風景をだまってながめる、それだけで欲望をだまらせるに十分な日がくるのだ。空白が、ただちに充実におきかえられる。すぎ去った自分の人生を思いうかべるとき、私には、その人生がこうした神聖な瞬間に達するための努力でしかなかったように思われる。子供のとき、仰向けにねて、枝越しにあんなに長いあいだながめてすごしたあの澄んだ空、そしてある日、ふっと消え去るのを見たあの澄んだ空の、あの思い出によって、私は、こうした神的な瞬間に達するようにと決定づけられたのであろうか?」

(ジャン・グルニエ『孤島』井上究一郎訳)

 

 ジャン・グルニエには『存在の不幸』という、シオランのようなペシミスティックな表題をもつ著書がある。原題は L'Existence malheureuse なので『不幸な存在』または『不幸な実存』なのだが、カミュを多く訳した邦訳者がより日本語として据わりのよい訳題を選んだのだろう。

 この本でグルニエはこの世に、また人生に避けがたく存在する「悪」の問題について諸家の思想を次々に紹介しては、その限界をあぶり出していく。バタイユについての言及もあって、不意をつかれたようで読んでいて驚いた。

 もちろんグルニエは東洋思想にも通じている哲学者だし、インドや中国の思想家たち、また東洋思想に救いを求めたショーペンハウアーなどを取り上げる。しかしグルニエの書きぶりはひょうたんでナマズを捕まえるようで、これという結論にたどり着くわけではなく、話が先へ先へと繰り延べられていく。訳者あとがきにもあるが、グルニエ自身が哲学教師としてはそうとう変わった人であり、ソルボンヌの学生たちはノートの取りようがないことに憤慨したのだという。

 

「人間はオプティミストであるべきか、あるいはペシミストであるべきかと、自らに問うてみる必要はない。人間は死ぬ。人間が愛する人びとも死ぬ。人間を取り巻く事物も死んでいく。勿論、いま直ぐにというわけではない。杉の木は野の草よりも、象は昆虫よりも生き長らえる。しかし時間はまったく関係がない。一世紀を生きるよう運命づけられた者にとって、その一世紀は一日と同じように感じられるし、蜉蝣はこのうえなく長い生涯にも匹敵すべきはなはだ充実した一日を生きるのである。生あるものにとって、終末点との関係を抜きにしては、なにひとつ存在しはしない。」(ジャン・グルニエ『存在の不幸』大久保敏彦訳)

 

 グルニエは『存在の不幸』をこう書き出す。その書き出しはあきらかに教え子カミュの『シーシュポスの神話』を意識したものだろうと思われるのだが、グルニエはカミュのように力強い結論を打ち出すようなタイプの書き手ではない。

 

「間もなく死ぬということを知るのは恐ろしい。(…)そしてそれに対しては、世界中のありとあらゆる論証をもってしても、如何ともなし難い。意識とは、われわれのあらゆる喜びのなかに忍び込んできて、生きる喜びを台無しにしてしまう効き目の早い毒なのだ。だから、あまりに意識的に過ぎるために充分な希望をもてぬような人たちは、予期せぬ死、唐突な死をしばしば望んできた。そして自殺は、来る日も来る日も終末を待ち受けることから生じる恐怖と対決する勇気をもたぬ人たちからは、よく理解されている。自殺が駄目とあれば、麻薬の使用があるが、これは、精神にとって自殺による肉体の破壊の等価物である。意識を保ち続けたり、高めたりするための動機は他にもあるかもしれないが、それらは自然の領域に属してはいないので、当面われわれには検討の必要はない。人間は、生来、死を恐れるものであり、人間が生に執着し、意識的であればあるほど、その恐怖は増大していく。(…)そのうえ、人間には、なぜ自分が死ぬべく運命づけられているのかが分からない。なぜわれわれは死なねばならないのか? 自然は、生きとし生けるものとしてのわれわれに、終末のない生への欲望を植えつけたのではなかったのか?」

(ジャン・グルニエ『存在の不幸』大久保敏彦訳)

 

 グルニエはひたすらペシミスティックだ。どうせ必ず苦しんで死ぬのだから、はじめから生まれてこなければよかった。死ぬのが怖いから自分の手で死ぬのが一番いいのだが、そんな決心もつかないとなると麻薬にでも溺れてその場その場の不安をごまかすしかない。

 いまの若者は覚醒剤や大麻を濫用することは減り、ドラッグストアで買える風邪薬や咳止めといった市販薬を買い集め、またはメンタルクリニックで処方される向精神薬をあやしげなルートで取引して、オーバードーズを繰り返す。あるいは、ストロング系の缶チューハイをストローでちゅうちゅう吸い上げる。松本俊彦がいくら警鐘を鳴らそうと、社会における苦しみの総量が減らないかぎり、一時的にでもつらい現実をぼんやりさせようと酒と薬にのびる手は払いのけられないだろう。

 つらい現実をぼんやりさせるという物言いは、漫画家・イラストレーターのじょじむらが彼女のキャラクター「うつねこ」や「うさおちゃん」が酒を飲むときによく言わせるセリフだ。じょじむらが「うつねこ」を主人公に、つらい時期を生きるわたしたちに向けて語りかける絵本『きみが元気のない時に見る本』シリーズをKindleで無料公開したのは、新型コロナウイルス感染症が流行しはじめた最初の夏のことだった。「うつねこ」は今年、夏休みの終わりを前に不安や希死念慮におそわれる層への啓発をねらった政府広報の動画でアニメーション化された。六年前、わたしたちに「おうどん食べろ」と語りかけ、お茶を淹れてくれた元気がないがちの青い猫、うつねこは、この夏もおなじ緑のタオルケットから這い出して、あなたがたにスイカ味のアイスをすすめる。二十一年前、絶対の真理は存在しないなどと嘆いていた高校一年生のわたくしに、二〇二六年からうつねこの声は届くだろうか。

 

 

 愛の希求は絶対ではないし、求愛は瞳孔が収縮するような反射的な動作ではない。ヒトは何らの愛なしに存在し、存在し続け、じゅうぶんに満ち足りて死にゆくことができるはずの生物であるし、またそのようであるべきだと強く願う。愛は動植物の世界にとっては観念的にすぎ、機械的システム的な世界にとってはウェットにすぎる。それは獣の欲望と天使の知性の中間者たる人間存在にふさわしい魂の在り方なのかも知れないが、そうした三幅対による図式化はあまりにスコラの残滓が露骨である。

 偽ディオニュシオス(pseudo-Dionysius)の著書では天使 l'angeがいちばん低い位階にあたり、その上が大天使 l'archangeで、9つある位階の最上位は熾天使 le séraphinなのであるが、そこでふと連想される、LE SSERAFIMという明らかにフランス語を意識しながら(Sを2つ重ねるのは濁ったZの音で読まれないためだろう……)フランス語の辞書にない綴りはどこから案出されたものであろうか?

 生活も執筆も、細かな動作を習慣化することで小さな成果を積み重ね、足場を築いていくことで成り立たせるべきだとうすうす気付いていながら、しかしこの有様は一体どうしたことだろう。日々の思索を書きとめて連載エッセイの材料に供し、ひとつひとつの習慣によって少しでも以前より健康的な生活を作り上げるべきであるのに!(ラヴェッソンの『習慣論』からフランス・スピリチュアリスムにおける習慣の哲学という系譜を遡上していった先にあるであろう中世のスコラ学……putain, pourquoi suis-je si pédantesque !? )

 

 けさは様々な夢を見た。夢のなかではおおむね具合が悪く、空港で動けなくなったり、生き霊だけが実家の庭にまで飛んでいって小細工をしたりしていた。エロティックな夢も見たが、エロティックな夢というのは悪夢が覚めてみるとなんであんなに怖かったのかわからなくなるのと同じで、目が覚めてから記憶をなぞるとまったく性的でも猥褻でもないものごとに情欲をそそられていたらしいことがわかり、ひたすら困惑させられる。今日のそれは神職がふりまわす幣のような和紙でつくられたトンボの群れに、夏のあぜ道で裸の自分が取り囲まれる夢だった。

 

 

 毎日飽きもせず本ばかり読んでいる。食事や身じたくに回すお金と時間がもったいないので、肉体のない魂だけの存在になって、ひたすら本を読んでその成果をアウトプットする非人間的な機構として一生を終えたいと思う。金銭にまつわるあれこれ、経済的なやりくり、そうした一切の不安がけがらわしくてたまらない。生存は不潔だ。その不潔な一切と手を切ることができない自己の弱さ。

 北に生まれたこと自体が敗北なのだろう。敗北という字がすでに北を含んでいる。北方的情念と南方的情緒。北へ逃げるものは破滅するが、南へ渡るものは彼岸へと至る。そんなことを椹木野衣が『シミュレーショニズム』で書いていた。『ヤンキーと地元』や『裸足で逃げる』を読んだのだから、南には南の悲惨があるだけとは知りつつ、それでも補陀落渡海、ニライカナイ、詮ない夢想に身を委ねたくなるのもまた北方の生まれゆえか。南へ逃げた男たちがむかえる破滅は、たとえば北野映画のような、キタノブルーの海をのぞむ海岸でたわむれるうち、乾いた銃声とともにふざけた死に方をするようなものではあるまいか。あるいは、キッズ・リターンのラストのような。

 東北はあまりに暗い。大江健三郎があそこまでカラフルな日本語をつむぎ得たのは「南」の人だからだ、と思う。似たような資質をもって同年代の「北」に生まれると、たとえば寺山修司のように殺風景な地獄を仮構することになる。

 いささか過激とさえみえる思想のフィメールラッパーに強く心惹かれ、より俗な物言いに訴えればメロがりを奏でている。そのような激烈な思想に振り回され、メロがり、エロがりながら命ごと果てていきたい。そうしたファム・ファタール願望はつまり谷崎潤一郎の女人崇拝などと同根の、ミソジニーとさして変わらないものなのだろう……と気付いて恥じつつも、それを克服できない己がいる。うつくしいショッキング・ピンク。かくの如きマゾヒズムはヘーゲル的な主奴の弁証法的転倒と関聯ありやなしや。MはMasochの頭文字であるとともにMasterの頭文字でもあり、SはSadeの頭文字であるとともにSlaveの頭文字でもある、とはこれまた通俗にすぎるか。ある種のグレープフルーツのような甘く苦い鮮烈なピンク色。マゾヒズムとサディズムが単純な表裏の関係にないことを確認するために、敢えてふたたび蓮實重彦訳で『マゾッホとサド』を読み返すべきだろうか。……次回こそきっと、蓮實重彦『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』の「「怪物」の主題による変奏」のことを書こうと思う。

 

 人びとが、じぶんも含め、その相貌からすさまじい速度で複雑な陰翳を棄て去ってしまう時代が、いつのまにか到来していた。われわれは一度、複雑さの前に立ち止まってお辞儀する術を心得なくてはならないだろう。

 

 

 「遅れてきた青年」──。だが、救援投手とはつねに遅れてしか現れえないものではなかったか? ……腹のせり出した江夏豊が、マウンドで投球練習をはじめる。

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著者略歴

  1. 吉田隼人

    1989年、福島県生まれ。県立福島高校を経て2012年に早稲田大学文化構想学部表象・メディア論系卒業。早稲田大学大学院文学研究科フランス語フランス文学コースに進み、2014年に修士課程修了、2020年に博士後期課程単位取得退学。高校時代より作歌を始め、2013年に第59回角川短歌賞、2016年に第60回現代歌人協会賞をそれぞれ受賞。著書に『忘却のための試論』(2015年、書肆侃侃房)、『死にたいのに死ねないので本を読む』(2021年、草思社)がある。

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