田中小実昌
死にたさということについて連載をしないか、という話になって面喰らった。確かに僕は去年、『死にたいのに死ねないので本を読む』という本を出している。でもこれは2014年とか15年とかそれぐらいの頃にネットで連載していた記事を、いくらか書き直したり余計なところを削ったりしてできた本だ。それに連載していた当時のタイトルは「書物への旅」だった。ブックカフェの宣伝も兼ねた連載で、ということはつまり本を売るための文章なわけで、別に死にたさを前面に出して書くつもりだった連載でもない。本にするときも『書物への旅』というタイトルで話が進んでいたのが、編集者の人から、こういうご時世で若い世代に鬱や自死が増えているからなにかそういう層に届きそうなタイトルに変えたいと言われて、いくつか考えて出したタイトルのひとつが『死にたいのに死ねないので本を読む』だった。誇大広告のようなタイトルではないかと思って、そういう文句がつくのではないかと心配していたが、書いた当人が思っている以上に死にたがっているような文章ばかり集まっていたらしく、そういう本として受け取られてべつだん不思議がられもしなかった。金原瑞人さんがいくつかの媒体でこの本を取り上げてくださって、そのどれかにもタイトル通りの本だというようなことが書いてあって、そんなもんかなと思うなどした。
一個だけ、ネットで「死にたいときにこんな難しい本は読めない」といった評価があって、そんなに難しい本を書いたわけではないのだけれど、ほんとうに死にたくて切羽詰まっているときは本なんか読んでいられないのではないか、と我が身を省みて思う。死にたさについて連載をしないかと提案されたときの僕もいろいろあって相変わらず死にたかったし、死にたいときに長い文章を書くというのもかなりしんどいことのように思われたのだが、毎回なにかしらの本をとっかかりにして、それをきっかけに死にたいという気持ちについて書くということで企画書の叩き台のようなものを作って、企画が通ったのでこの連載が始まった。長い文章を書くだけでもしんどいのに、死にたいときにできるかどうかわからないような「本を読む」ということをまた軸に据えてしまって、なんだか二匹目のドジョウを狙っているようで恥ずかしくもある。現に世の中がこういうことになってしまったあたりから、どうも本を読んでものを書くということができなくなってしまっていて、博士論文を「課程博士」の資格で出せる期限が刻々と迫っているのに論文が書けないでいるし、2020年は隔日連載を持っていたのが長いこと休んでしまったし、いちおう歌人ということになっているので短歌雑誌などからときどき原稿依頼があるのだが2021年はほとんど原稿依頼に応じることができなかった。
それでも連載のテーマとして本を読むということをこちらから提案したのは、死にたさだけでものを書くというのは相当難しいだろう、シオランとかペソアとか先達のような人たちはいるにはいるけれど、あれはそれなりの芸があってこそのもので、自分にはとてもそんな芸当はかなわないと思ったからだった。反出生主義といったこともひとつの話題として提示されたが、その方面についてこれまで本を読んできたわけでもないし、普段から漠然と生まれてこなければ良かったと「砂の果実」のようなことを思っているばかりで、反出生主義の問題と取り組んでいるような哲学、とりわけ英米系のそれなんかには近寄ることもできず、手に余る。そういえば大学生の頃、英仏独の現代哲学を三人の先生がリレー形式で教える講義を取っていたとき、その英仏独のうち独(ベンヤミン)と仏(他者論)はぜんぶ出て、英(いわゆる分析哲学)だけ休んで済ませてしまったことがあったっけ。どうも英語圏の哲学というのは苦手だ。
しかし「死にたい」ということについて本を読みながら考えるとなって、自分のこれまでの乏しい読書遍歴をさかのぼってみると、英米系のものではないにせよ、やっぱりなにがしか哲学に関係あるような本を持ってこないと済まないような具合になってくる。とはいえ初回から哲学書を読むのもしんどいので、どうしたものかと考えて、田中小実昌を取り上げてはどうだろうかと思い付いた。
田中小実昌といっても、もう馴染みのない人たちも多いだろう。亡くなってから二十年以上も経ってしまっている。それでも単行本にまとまっていなかったような文章をまとめた本が出たり、今年に入ってからも『ふらふら日記』が新しく文庫本で出たり、お孫さんの本が出たりしている。後者はまだ手に入れていないのだが、田中小実昌じしんの文章も併録しているらしい。しかし田中小実昌というと、コミさんとかコミちゃんとか呼ばれて、いつも新宿ゴールデン街でお酒を飲んでいる酔っぱらいのおじさんとか、ストリップ劇場で働いていた経験なんかを軽い読物にしたり、ストリップの幕間やテレビの深夜番組に出たり、ポルノ映画に出てカラミを演じたりしているスケベなおじさんとか、映画について評論というのでもないがなにか書いたり話したりする人とか、バスに乗ってどこへでも気ままに行ってしまう旅のクロウトとか、なんというのか、無理にひとことでまとめるとすれば「一昔前のタレント作家」という受け止め方をされているような気がする。
急にまた個人的な話になってしまって申し訳ないのだが、高校生から大学の前半ぐらいまでは自分も、リアルタイムでは知らないけれど、やっぱりテレビなんかによく出ていたらしい作家というイメージしかなかった。高校の頃なぜか「第三の新人」とその周辺(北杜夫とか)みたいな、かつて擬似的にせよ「文壇」らしきものを構成していた人たちの文章が好きでいたので、田中小実昌もその星座のなかで捉えられるような人としか認識していなかったフシがある。クイズダービー(というのにも説明が必要だろうか。僕も世代ではないのだがいくらかは知っていて、大学院で畑違いの仏文科を受けるのに「篠沢教授」こと篠沢秀夫のフランス文学史で勉強したこともあった)にゲスト回答者として出ているのをネットで見たことがあるような気もする。
自分のなかで田中小実昌のイメージが変わった、というかあやふやだったのがいくらか定まったのが、大学三年のときにゼミで「洞窟の比喩」という短篇のコピーが配られてからだった。僕は文化構想学部表象・メディア論系イメージ哲学ゼミ、というところにいたのだが、文化構想学部はその頃まだできたばかりで海のものとも山のものともつかない。ゼミの担当教授はもともと仏文の先生で(だから僕は続けて指導を受けるためにフランス語は苦手なのに仏文の大学院に進んだりしたのだが)しかしフランス語をまったく習っていない学生ばかりの新しい専攻だから、ゼミといってもフランス語のテクスト講読をやるわけにもいかず、教える側も教わる側もまだ手さぐりでやっているような黎明時代だった。それでもとにかく「イメージ」というのが手がかりだというので、邦訳や英訳でドゥルーズの切れ端を読んでみたり、谷崎潤一郎の『陰翳礼賛』や九鬼周造の『「いき」の構造』を読んでみたり、いろいろ試みながらゼミは進んでいく。そうやって取り上げられる本のなかにプラトンの『国家』があって、有名な「洞窟の比喩」というのがどうもキーのひとつになるというようなことになった。しかし哲学を専門に勉強してきた学生たちではないのだし、また哲学科で勉強するようなこととはまた少し毛色の変わったことを勉強することになっている専攻なのだからと、プラトンの研究書なんかを読ませる代わりに、その洞窟の比喩について書かれた短篇小説――と呼んでよいものかどうかわからないのだが――を読んでみないかということだったらしい。
「洞窟の比喩」というのは変な文章だった。こういうのを小説と呼んでいいのだろうかといまだに悩ましい。プラトンの「洞窟の比喩」について岩波文庫の翻訳がわーっと引用されて、それもカッコもなければインデントを下げて一行ずつあけるとかそういう気遣いもあんまりない。まだプラトンの続きなのかと思っていると地の文で、田中小実昌とおぼしき語り手がプラトンに疑念を差し挟んでみたり、呉の旧制中学で一緒だった井上忠(東大・駒場の教授だった哲学者だが、こちらもかなり変わった人で、そのライフヒストリーを追った論文がネットで読める)が翻訳した哲学書のなかの「洞窟の比喩」に関係ある箇所をこれまたえんえんと引用してみたり、そしてまた引用かと思うと地の文だったり地の文かと思うと引用だったりしながら続いていく。そして恐らく規定の枚数に達したらしいあたりで、別になにかまとめがあるわけでも、オチがあるわけでもなく、ただ書くのをやめたという感じで終わってしまう。それにやたらとひらがなが多い。ふつう漢字で書くところをひらがなに開いたり、カタカナで書いてみたりしている。日本語、ではなく、ニホン語、と書いたりする。
とにかく変な文章だったので、ゼミでも特にこれを取り上げて誰か発表するとかそういうこともなく、そのまま過ぎてしまった。しかし読んでみてなにかしら思うところがあったのだろう、僕は田中小実昌をもっと読んでみたいと思い、まず大学近くの古書店街で見付けてきた『ポロポロ』という連作短篇集を読んだ。これは大学三年の夏のゼミ合宿に持っていって読んだのを妙におぼえている。そのころ他人とうまく話すことができず(今もそう変わりはないが)就活で何より重要視されるのが「コミュ力」だといわれており、自分は「コミュ障」だから就職はできないと暗澹たる気分で、だから大学のゼミ合宿なんていうキラキラした青春の一ページには馴染めなかったので、しぜんゼミ生よりも文庫本に親しむようになり、合宿中に『ポロポロ』は読み終わった。読んでから知ったのだが谷崎賞をとった、田中小実昌の代表作のひとつという位置付けの本だった。最初の短篇は戦時中、キリスト教の独立教会というのか、あるいはキリスト教系の新興宗教といったほうがイメージしやすいか、しかしそんなレッテル貼りのようなことをするのも違う、とにかくそういう宗教団体をやっている父親とのはなしで、「ポロポロ」というのはその祈り(?)のときにひたすら発する言葉にならない言葉のことだった(この不思議な父親についてはほかの作品でも折に触れて語られる)。そのあとに続く短篇はみんな、旧制高校の途中で兵隊にとられ、中国大陸でひどい行軍をさせられたり、病気になったり、たいへんな思いをしたはなしなのだけど、私小説とか戦争小説というのとも違う、そしてもちろん苦労話なんてものでもない、その手前でぐるぐる、うじうじ、逡巡しているうちに終わってしまうようなものばかりだった。記憶の不確かさとか、体験を言葉にすることへの潔癖な疑問とか、そういうことがやはりカナの多い平易な文章で綴られている。こちらは「洞窟の比喩」より前で、小説らしくない小説だが、それでもまだいくらか小説の体をなしてはいる。祈りのときポロポロ言っていたというのも小説らしい虚構らしく、のちに『アメン父』などに代表されるより自由な形式で書かれたものを読むとアーメンアーメン言っていたらしい。だいいち「洞窟の比喩」でびっくりさせられた膨大かつ独特な哲学書からの引用がない。
『ポロポロ』は文庫本だったので安かったけれど、「洞窟の比喩」の出典として示されていた(手さぐりのゼミでもいちおう学問的訓練の初歩ということなのだろう、先生は取り上げる本にはきちんと出典を付けておられた)『カント節』という本を、今度は単行本なのでいくらか高かったが、そこらへんの古書店にはなかったのでネットで取り寄せた。あたりまえのことだが、「洞窟の比喩」はちゃんとその本に載っていた。ほかに収められている短篇を読むと、「洞窟の比喩」と似て、哲学書の翻訳を読み、やっぱりカッコや一字サゲなどは使わないで引用しながら、それと織り交ぜるようにしてああでもないこうでもないと考えごとをしているものが目に付いた。「ジョーシキ」ではスピノザの『エチカ』を、「カント節」ではカントの『純粋理性批判』や『プロレゴメナ』を、岩波文庫で読んでいる。スピノザの畠中尚志訳はまだしも、その頃の岩波文庫のカント(篠田英雄訳)なんかはかなり読みにくい翻訳なのだが、ほかにおもしろい本もないからと電車に乗るたびに読み続ける。『ユリイカ』の総特集・田中小実昌という号に載っている対談では、池内紀があれはひどい日本語訳だからこそ読んでいるのだと言っている。おもしろい映画があるわけでもないし観たい映画があるわけでもないのだが、試写会に行ったり映画館に行ったりで電車に乗る。そのときに岩波文庫の哲学書を読んだり買ったりする。『エチカ』のほうは文庫本で軽いからいいかということでアメリカの旅先に持って行って、また読んでいる。そしてカントをえんえんと引用しながら、カントは(正確には篠田英雄訳のカントは、ということになるのだろうが)こういう言い方をする、と喜んだりもする。
手許にある『カント節』の帯には「プラトン、スピノザ、カント、コトバからの遁走と追跡の軌道を描くテツジン・コミマサの哲学小説集!」と書いてある。「コトバからの遁走と追跡の軌道を描く」というあたりはうまいこと田中小実昌というひとの書くものの特徴をとらえた惹句だと思うのだが、ちょっとこの作家に対しては堅すぎるということなのだろう、「テツジン・コミマサの哲学小説集!」なんて少しふざけてしめくくっている。
さきに触れた『ユリイカ』の対談で池内紀は、田中小実昌というと『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』にハードボイルドの翻訳を載せているイメージがまずあったというが、対談相手の堀江敏幸は文芸誌『海』なんかに難解な翻訳文学と並んで載っている、純粋な小説の書き手としてまず認識したと話していて、どうも1980年代ぐらいに田中小実昌のイメージはだいぶ変わったのではないか。テレビに出たりストリップ小屋で寸劇をやったりしながら軽い読物を書いているつるっぱげのおじさん、だったのが、ちょっと見ただけではとりつく島がないというか、どうしたらいいのかわからなくなってしまう、前衛的といってもいいような小説を書く作家になっていく。「哲学小説集!」と帯で銘打たれたからというわけではあるまいが、およそ80年代ぐらいに田中小実昌はこの種の「哲学書をひたすら読んでいる」小説を書いていて(同時にそうでない小説も書くわけだけれど)、それらは一括して「哲学小説」と呼ばれているらしい。田中小実昌は東大哲学科中退だが、これは旧制福岡高校にいるうちに兵隊にとられてしまって、戦争が終わって一年後ぐらいにやっと中国大陸から帰ってきたら、本人不在のまま旧制高校を繰り上げ卒業になって、父親が手続きをしたので知らないうちに(というか連絡が付かなかったそうなので生死すら不明のまま)東大哲学科に進んでいたのだというすさまじい経歴だった。本人は京都学派への関心から京大哲学科か、父親の教会(「アサ会」といったそうだが、こういう教団が生まれたこと自体がたいへんなことだったようで、調べると「アサ会事件」なんて言われている)に関係する人たちが多く進んでいた九大哲学科へ進むことを考えていたようだ。ともあれ東大哲学科に進んだが、池上鎌三教授(謙三と誤植されている。廣松渉などにも影響を与えた新カント派の哲学者で、「いななきて馬はめざめぬみすずかる信濃高原雪真白にて」という良い短歌も詠んでいる)の演習でカントの『プロレゴメナ』を読むはずが、旧制高校で習ったドイツ語もフランス語も戦争体験を経てまるでできなくなってしまっていることがわかり、そのまま米軍基地で働いたり香具師やテキヤをやったりしているうちに東大からも哲学からも離れてしまったという。そして長い年月が経って80年代ごろから急に「哲学小説」を書き出すのでびっくりされるわけだが、ベルクソンの『笑い』なんて哲学書を小学生の頃から(!)翻訳で読んでいたというし、哲学書の読みは僕なんかよりよほど透徹している。
『カント節』が80年代はじめで、ほかにタイトルを頼りに買い進めていってみると、あいだにライプニッツやルソーやディドロを読んでいる『モナドは窓がない』なんていう本もあって、だいたい90年代のあたまに書かれたものを収めた『ないものの存在』あたりで終わっている。ちなみに『ないものの存在』に入っている短篇では翻訳よりも、浅田彰の『逃走論』や柄谷行人の『探求Ⅱ』など当時の国内の新刊書を読んでいて、このうち浅田彰のことについてはまたこの連載でも取り上げるかも知れない。(そして堀江敏幸、とか浅田彰、とか呼び捨てにして書くわけだが、それぞれ少しずつ個人的にお世話になったことのある人たちなので、本当は最初に出てきた金原瑞人さんのようにさん付けしたほうがいいような気もして、悩ましい。)
はなしを元に戻すと、田中小実昌は「哲学小説」を書いていた時期があって、どうもそのあたりに僕の関心は向かっているのだけれど、ただ著作一覧を見ただけでは同じ時期にそれ以外のものもいろいろ書いたり本になったりしていて、どれが「哲学小説」を収めた本なのかよくわからない。それでわからなくて、たぶん違うだろうと思って最初買わなかったなかに、『なやまない』という本があった。これなんかタイトルだけ見たら生き方指南書のたぐいにしか思えない。それがまったく別の機会に買った『西田幾多郎 永遠に読み返される哲学』というムック本に、表題作「なやまない」が収録されていて、これが西田幾多郎についての「哲学小説」だった。『なやまない』の単行本を手に入れてみると「西田経」という短篇もある。『ないものの存在』にも「出がけのより道が」という、西田幾多郎と波多野精一が出てくる短篇がある。この短篇には哲学者の書くものに神は出てきてもイエスは出てこないが、波多野の『宗教哲学』には、これはイエスについて言っているのだろうというところがある、なんてはなしが出てきたりして、本人は「読んでいるというより一行ずつ目を置いていっているだけ」なんて書いているが、うかつな僕なんかではとうてい及びも付かない水準で哲学書を読んでいることがわかるのだが、それだけでなくこういうところは田中小実昌を読むうえでも肝心なポイントのひとつだろう。
僕は高校の終わりぐらいから広い意味での京都学派、というかむかしの(この「むかし」という言葉を田中小実昌は敬遠して使わない)日本の哲学者たちに関心があって、寂しい懐をはたいて今日に至るまでぽつぽつと本を買い集めている。広い意味での京都学派、といったのはふつう「京都学派」に含めないような河野与一とか林達夫とかいった人たちもひっくるめて読むので便宜そういってみた。林達夫のことは『死にたいのに死ねないので本を読む』にも書いたし、『機関 精神史』という同人誌の創刊号にも書いたことがあるが、河野与一のことは好きでずっと読んでいるのにまだ書いたことがないので、この連載でも取り上げることがあると思う。
波多野精一についても前に書いたことがあって、これも『死にたいのに死ねないので本を読む』のなかに入っているのだが、これは『時と永遠』という哲学書の死について論じたところを取り上げたものだった。波多野はそこでなぜ死が問題の解決にならないのかというようなことを説いていて、その背景には彼が妻を亡くした時期にこの本が書かれたこと、またその時期というのは戦争末期にあたることなどがあることを取り上げたのだ。ひょっとして波多野精一もいっそ死んでしまったらどんなに楽だろうかと僕と同じようなことを考えて、しかし偉い哲学者であり熱心なプロテスタントなので死んでしまわないで考えて考えて考え抜き、そこで踏みとどまったのではなかろうかというようなはなしだった。
しかし年譜とか伝記を調べてみると、家庭の不幸という意味では波多野より西田のほうがよっぽど苦労していたようなのだ。NHKの「100分de名著」という番組で『善の研究』が取り上げられたときのテクスト(若松英輔著)に、西田の家庭の不幸が年表形式でまとまっていたので引用して掲げることにする。
一八八三年 姉と共にチフスを患う。姉は死去(一七歳)
一八九八年 父死去(六四歳)
一九〇四年 日露戦争で弟が戦死
一九〇五年 『善の研究』の実在論の原型となる論文を執筆
一九〇七年 次女幽子死去(五歳)、五女愛子、生後一か月で死去
一九一一年 『善の研究』の発刊(弘道館)
一九一八年 母死去(七六歳)
一九一九年 妻寿美が脳溢血で倒れ、以後寝たきりとなる
一九二〇年 長男謙死去(二三歳)
一九二五年 妻死去(四九歳)
一九四一年 四女友子死去(三三歳)
一九四五年 長女弥生死去(四九歳)。西田幾多郎死去(七五歳)
「死去」だらけで気が滅入ってくる。僕が最初に死にたいと思ったのは幼稚園にあがる前の年、父方の祖父が亡くなって父が泣いているところを見て、「これは父にとっての父が亡くなったからたいへんにつらいことなのだ。だとすると自分にとっての父、また母などが亡くなったらどれほどつらいことだろう。そんなつらい思いはしたくない。しかしそのまま生きていれば両親のほうが先に死んでしまう可能性のほうが大きいから、自分から死ぬしかないのだ」と思ったからで、これが今日にまで続く厭世観とか希死念慮の芯になっている。西田幾多郎の父親は「毒父」なんていう言い方では生やさしいほど、かなりしんどい人物だったらしく、西田は一度妻と離婚させられているし、死ぬ間際に幾多郎とその妻は自分の子孫とは認めないというような文書を遺してもいるようだ。身内にそういう人がいて、そのうえ親も子もきょうだいも次々に死んでいってしまう。どれほどしんどいことだろうか。田中小実昌も「なやまない」で、中村雄二郎や竹田篤司(この人には『物語「京都学派」』といういい本があり、文庫になっている)が西田幾多郎について書いた本やそれに付いている年譜を読んで、こんなことを言っている。
西田幾多郎は多感な〈明治の青年〉の多くに共通する、挫折感、悲哀感を帯びた悩める自己だけでなく、つぎつぎに、かなしい、とんでもないことがおこったようだ。それは、自分の身のまわりで、自分に密着しておきたといったぐあいでも、やはり外部のことではなく、西田幾多郎自身のことだったのだろう。
竹田篤司著「西田幾多郎」(中公叢書)は部厚い本だけど、らくに読めた。またわるいくせで、らくに読めたのが不満らしいが、すらすら読めて、西田幾多郎につらいことばかりおきるので、ぼくは気分がよくなかったらしい。まことに低級な読者だ。
田中小実昌のほうで「らくに読めた」といっているものをこちらも楽に読めるかどうかというのは実は怪しく、ほかのところで「らくに読めた」といって引用している文章などなかなかに難しかったりするのだが、竹田篤司の本は評伝のようなものなのでそこまで読むのに苦労は要らなかったのだろう。ともあれ、西田幾多郎の哲学とこの種の悲しみは切っても切れないものだというのは、半ば常識のようになっている。先に年表を借りた若松英輔の「100分de名著」テクストなんかもそういう立場から書かれているし、何より西田自身に「哲学の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない」(『無の自覚的限定』)という言葉がある。しかし田中小実昌の西田幾多郎は標題通り「なやまない」。
西田幾多郎は四高を中退したころ、眼を病み、あとで肋膜炎になり、それが再発したりしている。また西田幾多郎の子供は次女幽子が幼くして死に、双子だったらしい四女、五女のうち、五女の愛子は生後一カ月で死亡した。
でも、そんなふうだから、〈……西田哲学の思索の主導的モチーフは悲哀であった〉(鈴木亨「西田幾多郎の世界」)とは、ぼくは言わない。ぼくは言わない、と、ぼくは考えない、おもわないというのは、おなじみたいだったり、やはりちがうようでもあるが、いまははぶく。
ただ、つぎからつぎにとんでもないことがおこり、くりかえすが、西田幾多郎はかなしんだり、なやんだりしたどころではなかっただろう。
耐えられないことで、しかし、耐えられないことに耐えたというのは、まだなまやさしい。耐えようとしても、耐えられるものではなかった。だったら、どうしたのか。どうしようもなく、耐えられないまま、それはおこってしまった。
そんなバカな、あり得ないこと、と西田幾多郎は、くりかえすが耐えられなかったにちがいない。まことに理不尽なおもいだったはずだ。これまた、おもいなどと言われるものではあるまい。
ともかく、西田幾多郎は、かなしみなどという、いわば情緒的なことではなく、あり得ないこと、矛盾に心底ぶつかったのではないか。あり得ないことがげんにあっている。
矛盾はそれこそ判断がまちがってることで、そんなふうに考えたが、考えがちがってたということだろう。実際はちがってたというわけだ。
ところが、西田幾多郎にとってはあり得ないこと、あってはならない(倫理的な意味でなく、ゾルレンとして)ことが、げんにあり得ている。
矛盾は、なにかのまちがいだから、実在はしないというのが、ながいあいだの、いや哲学、論理学がはじまって以来の、わかりきったことだった。その矛盾が実在する。
西田幾多郎の哲学にはいろいろ標語のようなものが出てきて、「純粋経験」「自覚」「絶対無」「場所」などあるが、その最終的なものとしてよく挙がるのが「絶対矛盾的自己同一」というものだ。これをそのまま題にした論文もある。これは毀誉褒貶さまざまな言葉、ないしは概念で、戦後まもなく、京大生だった作家の高橋和巳は、友達でやはりのちに作家になる小松左京に「絶対矛盾の自己撞着」などと悪口を言っていたと読んだことがある。これまたよく言われることだが西田幾多郎には禅宗の影響が色濃くあって、たとえば公案などというものの矛盾したように思われる言い方などに影響されて、それを無理に哲学のほうへ持ち込んだのだなどと訳知り顔で言うこともできそうだ。しかし田中小実昌の西田幾多郎は、「苦悩教の教祖」なんてこれも悪口を言われた高橋和巳とは違って、「なやまない」。それは意志の力で悩みを乗り越えるとか、そういうことではなく、悩んでいる場合ではない。悩むことさえもできないぐらい、つらいこと、しんどいこと、悲しいことが次々に起こる。矛盾そのものに「ぶつかる」(この言い方も田中小実昌の鍵語で、神にぶつかられる、なんていう父親由来の言い回しが文章のあちこちに出てくる)。悲哀どころではない。悲哀どころではないところに「矛盾」がある。こういうところから田中小実昌は「絶対矛盾的自己同一」に接近する。
ともかく、これで西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一なんて用語も、ひとり合点に、いくらかわかったような気がした。いろんなひとたちが、これは奇怪な用語だ、とわるくちを言ったり、首をかしげたりした。
でも、絶対矛盾的自己同一という言葉を奇怪がったり、こわがったりすることはあるまい。なにしろ、西田幾多郎は、自己の根柢に深い自己矛盾を意識し、自分が矛盾的存在だと言うんだもの。
西田幾多郎について語るとき、哲学は悲哀にはじまるという先に引いた言葉が取り上げられることは多いようだし、僕も『ねむらない樹』という短歌雑誌に載った「永遠なるものの影」という短歌連作のなかに詞書として使ったことがある。しかし悲哀にとどまっていたのでは哲学ははじまりきらないのだろう。悲哀の先に矛盾がある、といっていいのかどうか、ともかく田中小実昌は中村雄二郎の『西田幾多郎』から、西田の最後の論文になった「場所的論理と宗教的世界観」からこう引用する。
〈我々が我々の自己の根柢に、深き自己矛盾を意識した時、我々が自己の矛盾的存在たることを自覚した時、我々の自己の存在そのものが問題となるのである。人生の悲哀、その自己矛盾と云ふことは、古来言旧された常套語である。併し多くの人は深く此の事実を見詰めて居ない〉
人生、悲しいことも、理不尽なこともある。悲哀あり、矛盾あり。しかし「そんなもんだよ」と悟り済ましたように振る舞ってみたり、逆に悲哀の底にずんと沈んでしまって出てこられなくなったりしているようではいけないらしい。自己矛盾を見つめろ、と西田幾多郎は言う。自己の根柢に矛盾がある、というなら、それはたいへんなことなのだと田中小実昌は言う。しかし矛盾というものにぶつかるのは、あるいはぶつかるところまでいくのは、いつまでも悲哀の底に沈んでばかりの僕のようなのにはまだまだ遠いところのように感じられる。さきに哲学書の読みについては田中小実昌には及びも付かないというようなことを書いたが、人生の悲哀とか矛盾とかいうことへの向き合い方に関しては、哲学書の読み方どころでなく及ばない。「なやまない」から引く。
文学をする者、哲学をする者は、みんななやんだ、なやむために文学や哲学をするというのはわるくちだが、なやみがある者が文学や哲学をやり、ますますなやんだ。この世にうまれてなやまない者は(とくに、そのころのニホンで)考えのたりない者、あるいは自分さえよければことたりるという者で、すくなくとも文学や哲学をやろうとする者は、なやむのが当然だった。
ところが、ぼくはなやまなかったんだなあ。小説を読むのは好き、哲学もわからないのに好きだったが、なやまない。なやみたくても、なやめないんだから、しようがない。でも、じつは、そんなことになやんでるどころではなく、とにかく勉強しなきゃ、はたらかなきゃ、という者のほうがほとんどだったけど、ぼくはそういう気もない。とにかくバカみたいになやまなかった。
嘘や強がりではなく本心からこう言っているらしい。「失業保険大好き」というすごいタイトルのエッセイに、家庭を持ってから失業してもまったく悩みも悲しみもせず、それどころか退屈すらせずに、映画を観に行ったり誰かに飲ませてもらったり、失業保険をもらいに行くのさえ楽しんでいた様子が書かれている。とてもかなわない。そもそもこういう境地にたどりつこうとしてたどりつけるものなのかもわからない。悩みを乗り越えるとか悟るとかではなく、最初から悩めないのだというのだから。僕のように死にたいなどと思ったことなんかないのではないか。
悲哀と矛盾のあいだ、あるいは「自己矛盾を見つめる」ところまでのあいだは、どうもずいぶん長くて険しい道のりになりそうだ。せっかく西田幾多郎が出てきたので、この次は西田幾多郎や彼に関するものをいくらか読んで、第二回を書いてみたいと思う。京都学派に興味をもちつづけてきたくせに、そういえばアネクドートみたいなことにばかり気を取られていて、西田が「死」についてどんなことを考えていたかとか、それは同時代の哲学者、たとえばハイデガーなどとどう違ってくるかとか、気にしたことがなかった。さて、連載を続けていって「なやまない」境地まで行けるものかどうか。