疫病の年の記憶
一月下旬、急に発熱した。昼間にめまいがして、身体にも違和感があったが、冬にしては少しあたたかい日だったからそのせいで調子が狂っているのだろうと思っていた。しかし夕方にはひどい寒気がして毛布をかぶっていても震えが止まらず、立っているとフラフラして今にも倒れそう。観念して熱を測ると三十八度近くあった。
インフルエンザがはやっていたから自分もやられたかと思ったが、発熱外来で鼻に棒を突っ込まれる例の検査(鼻咽頭拭い液採取というらしい)を受けたところ、思いがけずCOVID-19の欄に+の表示が出た。コロナ陽性、というやつだ。流行開始から五年、感染することなく過ごしてこられたと思っていたが、ついに捕まってしまったか。
発熱外来は五年前にニュースなどで伝えられた様子とあまり変わらなかった。感染者が大挙して押し寄せるようなことはないようだったが、一般と別に用意された駐車場で車のなかで待たされ、全身に防護服を着た看護師さんがやってきて熱や血圧を測り、インフルエンザとCOVID-19の抗原定性検査をしてまわっていた。あのころ「ドライブスルー検査」などと言っていたのとほぼ同じ光景だ。
陽性とわかると病院の裏手に用意された専用の診察室(物置部屋かなにかを改装して使っている様子だった)に通される。医師も看護師もみな雨合羽のような防護服で全身を覆っている。そういえば原発事故のときも似たような防護服がメディアによく登場していた。五年前、大阪で防護服が足りないからとビニールの雨合羽そのものを供出させたのがニュースになっていたのを思い出す。そのころ府や市の首脳たちは、仰々しく会見まで開いて「イソジンが有効なのではないか」と発表していた。原発事故のときもヨウ素がどうのヨード剤がどうのとネットで不確かな情報が飛び交い、「イソジンを飲めばいいのか?」と本気か冗談かわからない書き込みを見かけたのだった。
ワクチンは七回くらい打った。無料で打てる機会はぜんぶ利用したのだ。肥満体でBMI値が規定を超えているのと、気管支喘息で近所の呼吸器内科にかかっていたのとで、基礎疾患ありの分類にまわされて追加接種を受けることができた。最初にワクチンを打ったのは二回とも夏の暑いさかりだった。いまは気候変動のせいで夏の暑いさかりが長い。そのころ西武新宿線鷺ノ宮駅のそばに住んでいて、鷺宮区民活動センターとかいう役所の出張所のようなところで大勢並んで接種した。夏に自治体の施設で、それほど親しくもない近隣住民ががやがや集まっていて、夏祭りとか盆踊りとかを連想させられた。Aさんという、これまで会って話したなかでいちばん頭の回転がはやいのではないかと思っている人とメールのやりとりをしたとき、かれはmRNAワクチンという技術のすごさについてわかりやすく説明してくれ(実際にカタリン・カリコ博士がノーベル賞を受けることになるわけだが)、そのついでに役所のロジスティクスがあまりうまくいっておらず不快だと書き送ってきた。
あきれるほどみんなワクチンを打ちに行き、みんな副反応の発熱で寝込んでいた。仲間うちでも接種後の副反応の経過をツイッターで報告しあい、ものめずらしさから何度も体温を測っては推移を記録したものだった。真夏に打ったのでエアコンの効いた部屋にいても発熱で暑くてたまらず、冷房が効いていないのではないかと思って外に出たらさらに地獄のように暑く、部屋に戻ってぬるくなった氷まくらにすがりついた。年齢が高いと副反応が出にくいとかで、身内でも接種後特になんともないという例がみられた。コンビとして仕事をしなくなって久しいお笑い芸人が、同じ自治体に住んでいたということなのか、十何年ぶりに再会したのがワクチン接種会場だった、なんてニュースもあった。
二〇二〇年は、まだ大学で助手の仕事をしていた。前任者(エジプト考古学専攻の、とにかくよく仕事のできるひとだった)の留学のため二〇一八年の秋に着任する変則的なスケジュールで、三人体制で半年だけ働いたあと、二〇一九年の春には残り二人の任期が切れたため、自分でも初めてやる仕事を、新任として着任した二人のあたらしい同僚に教えながらこなさなくてはならず、毎日バタバタしていた。新元号が発表されたニュースを、助手室の入っている研究棟の入口で知ったのを、ふしぎなほど鮮明におぼえている。二〇二〇年の年明けは、年末の大きな国際シンポジウムをどうにか片付けたばかりで、やっとひと息つけるかなという頃合いだった。同僚のひとりは中国大陸からの留学生で、春節の休暇に帰省しようとしたが、武漢のロックダウンのあおりを食って帰ることができなかったと言い、「わたしの国が病気になってしまいました」と嘆いた。こちらは正月に帰省して親の還暦祝いをしたばかりだったので、他人事のように慰めの言葉をかけた記憶がある。村山富市が「武漢加油」と墨書した半紙を手に「武漢、がんばれーっ」と声をあげる動画を見たりした。思えばあのころは、まだ安倍晋三が首相の座にあったのだなぁ。
ふりかえってみてあきれるほかないくらい、のんきで、油断していた。隣国の疫病よりも、緊張が強いられる入試業務が目前にいくつも控えていることのほうが大問題だった。すでに少なくなりかけているアルコールやマスクを受験生のため確保するので、よく一緒に仕事をしていた事務のひとたちが奔走していた。採点業務の合間、ついに国内でも感染者が出たという話題になり、「安倍さんの運転手か何かをしてた人らしいんだよな、このまま安倍さんまでかかったりして」などと、春先のうららかな陽射しを浴びながら軽口をたたいたりもした。入試業務の合間をぬって、恩師が読売文学賞を受賞されたパーティーに参加したりもした。研究室の先輩にあたるひととの雑談で、感染症をおそれて参加者が例年より少ないらしいという噂話を聞いた。なんかクルーズ船とか大変らしいですね、と気の抜けたような相槌をうった。翌日も朝早くから入試業務があったので二次会には行けず、間の悪いタイミングで会場を出ることになり、受賞者のひとりだった松尾スズキとそのおつきの人と三人だけの空間になってしまい、変なファンだと思われないか勝手に心配した。パーティーには指導教員のS先生もきていて、博士論文の進捗がおもわしくないので、入試業務が終わったら春休み中に助手室のデスクでバリバリ書く予定だと強気なことを言った。そのころ住んでいた部屋には椅子と机がなく、コタツに向かって書き物をしていたので、学内のオフィスに机があるのは執筆という点ではありがたい環境だった。
論文をバリバリ書くと豪語したくせに、入試期間が過ぎて春休みに入ると、結局はだらけてしまってスマホばかり見ていた。イタリアで医療崩壊が起きて、どこかの市長が外で遊んでいる若者たちに「家でプレイステーションをしてろ!」と怒鳴る映像や、食料品店の棚にパスタがなくなった様子が流れてきた。三月の末、都知事が緑色とカタカナ言葉を多用した会見で外出自粛を訴え、楽しみにしていた池袋の名画座でのオールナイト上映「春休みキングギドラまつり」も中止がアナウンスされた。高校の友達は「週末は高尾山に行く予定だったのに、百合子のせいで取りやめになった」とぼやいていた。東京ではめずらしい大雪が降り、寒さもきびしかったので週末の人出はかなり減った。「八割おじさん」を名乗ることになる西浦博氏は四月に入ってからバズフィードメディカルのインタビューで、この雪が降った週末のときぐらい人出が減らないと八割削減は達成できないと言っていた。
四月一日になっても、まだ危機感が薄かった。花粉症や喘息のためマスクは多少持っていたのだが、汗かきなものでずっと着けているとびしょびしょになってしまうのが嫌で、マスクをせずに出勤した。それでもさすがに人と会うときだけはマスクをつけた。前年度に着任したばかりの同僚ふたりのうち日本史専攻のひとが優秀で、すぐに地方の私大に専任のポストがみつかったためやめてしまい、あらたに日活ロマンポルノの研究をしているひとが着任することになっていた。新任者のための仕事の引き継ぎのことで頭がいっぱいだった。すでにWHOはパンデミックを宣言していたから、国外の研究者を招いた学術イベントは軒並み中止か延期になっており、その手のイベントを大量に引き受ける部署にいたため、当面の業務が減るから毎日オフィスに出勤して、春休みで進められなかった博士論文を書くのに集中しようなどと思っていた。
その日、直属の上司にあたる平安朝文学専攻の教授は「わたしマスク苦手なんですよね……」と、眼鏡のつるとひもの絡まった不織布マスクをあわただしくほどきながら、当面の在宅勤務を命じた。資料は集めてあるから部屋で論文を書くこともできなくはないが、立派な机と椅子がある助手室でないとはかどらないなぁと残念だった。なんだかやたらとくたびれたので、帰って数日は寝てばかりいた。
給食当番がつけるような布マスクを一世帯あたり二枚ずつ配るというニュースを見て、手許に残っている不織布マスクはそう多くなかったから、洗って使えるのはありがたいなと思った。ひとり住まいだから、二枚を使い回せる。そんなことを思いながら眠って、目が覚めたらSNSのトレンドに「アベノマスク」が浮上し、世紀の愚策とばかりに批判が集中していて、どうもこの疫病に関して自分の勘は外れることが多いなと頭をかいた。
三月いっぱいで、博士課程を満期退学になることが決まっていた。人文系の博士論文は規定の三年どころか、満期の六年まで在籍しても書き上がらないことも珍しくない。休学というカードを切らなかったことを悔やみつつ、当座の問題は学籍が切れることで大学の保健センターが使えなくなることだった。二〇一二年の春に大学院に進学したときから、うつ病のため月に一度ほどのペースで通っていたのだ。しかし保健センターはさすがに衛生管理に関して危機意識が高く、ドアは閉ざされていて建物にすら入れてもらえない。インターホン越しにやりとりをしたあと、何枚かの紙を渡された。大学近くのメンタルクリニックが何軒か、簡単な地図や診療時間、予約のための電話番号などを添えて記載されていた。方向音痴なので、第一候補と第二候補のクリニックは行けないと思い、駅前のビルに入っている第四候補ぐらいのクリニックに行った。
そこのクリニックは老人がひとりでやっているところで、ネットのクチコミでは評判がよくなかった。実際、話をちゃんと聞いてくれるようなところではなく、老医師が北大の医局で一緒だった大家がいま新宿の医大にいて、光トポグラフィ検査というのを受けないとうつ病なのか躁うつ病(双極性障害)なのか判断がつかないからと、その大学病院への紹介状を出された。そのころには遅まきながら、さすがにパンデミックで社会がガラリと変わってしまったことへの不安が強くなっており、そんな状況で大学病院にかかるのはためらわれた。電話も苦手だし、方向音痴だから知らないところへ行くのも苦手だし、それでも薬が足りなくなってきたので悩んだ末にまたクリニックに電話したら、「あそこの病院もいまコロナ診てるから怖いよね、当分うちで面倒みるよ」と言われ、出戻ることになった。大学の保健センターでは診察費用がかからなかった(助手として勤務していたので免除になっていた)のが、ここではそうもいかないからと自立支援医療の申請などを提案され、それはありがたかったが、あまり話を聞かずに古くてあまり使われなくなったものを含めやたらいろんな薬を取っ替え引っ替えするような医者で、あまり好感はもてなかった。アモキサンをやたら処方されたせいで便秘に悩まされたりした。大学病院まで光トポグラフィ検査を受けに行かなかったのを気にして、やたら「あなたバイポーラー(双極性)じゃないよね?」と聞いてきた。なんだかうんざりした。
大学の開講はゴールデンウィーク明けまで先延ばしになった。そういえば早稲田は東日本大震災のときも、いちはやく春休みを連休明けまで延ばしたのだった。メンタルクリニックの老医師は「あなたもオンライン授業とかで大変だろうねえ」と言っていたが、こちらはまだ博士号を取っていないので、幸か不幸か学内の規定のため授業をもつことはできない身分だった。地方私大にポストを得た元同僚のことを、勝手がわからない土地でいきなりこんなことになって気の毒だななどと思ったりした。SNSの大学教員たちのあいだでは、それまで聞いたこともなかったZoomというサービスの名前が飛び交い、こちらではそれが何なのかわからないでいるうちに、みんなそれを使ってオンライン授業をやるのだということに決まっていった。ある有名なシェイクスピア研究者は、Zoomのようなビデオ通話サービスや、それ以前からオンデマンド授業として採用されていた講義の録画といった手段ではなく、ツイッターの上で講義をするのだといって実践していたが、あまりあとに続くひとはいないようだった。みんな試行錯誤していた。
緊急事態宣言というのが出て、ひごろ体制寄りのユーザーが幅を利かせていたはずの動画サイトで、『関白宣言』のさだまさしに安倍首相の顔と声をコラージュして風刺した「緊急事態宣言」というMAD動画が人気を集めたりした。さだまさし自身も『緊急事態宣言の夜に』という曲を即座にリリースした。このひとはロシアによるウクライナ侵攻のときもいちはやく『キーウから遠く離れて』という曲を出したり、ふしぎにフットワークが軽い。緊急事態宣言のさなか、いもうとが里帰り出産をして、いまひとつ実感のわかないまま叔父になった。そのとき生まれた甥とは去年の秋に初めて会ったのだが、四年の月日が流れて達者にしゃべるようになっていた。品薄になっていた不織布マスクを五十枚セットでおひとりさま二セットかぎりで扱っているネットショップをみつけて、いもうとの帰省している実家あてに届く設定で注文した。一箱は両親、一箱はいもうとの手にわたった。
ステイホームというあやしげなカタカナことばが叫ばれ、ときどき散歩に出るほかは家にこもって過ごすようになった。助手の仕事は在宅でも事足りるようなものばかりになった。国際シンポジウムや講演会などのイベントにまつわる雑務をやる部局にいたので、その手の仕事はすべて払底して、もうひとつの大きな柱だったオンライン学術誌の編集の仕事だけが当面やるべきことだった。メールで執筆申請を受け取り、様式や推薦状をたしかめ、送られてきた書類データを上にあげるなどの業務はテレワークで充分だった。外出自粛とやらで家にこもっている時間を持て余した人たちがわれもわれもと論文を書くので、例年より投稿件数が多いような気がした。前年末に博士論文が通ったばかりだった同僚は「せっかく家にいられるんだからヨシダさんも博士論文書き上げて出しちゃったほうがいいですよ」と勧めてくれたが、ただでさえ助手としての任期が九月いっぱいで切れてしまうから次の仕事を探さなくてはならないのに、未曾有のパンデミックが起きてしまって生活が制限され、でもそれはきっとありふれた悲劇にすぎなくて、悲しくて悲しくてとてもやりきれないので、論文を進められるような精神状態ではなかった。気持ちに余裕がないので、読み慣れたフランス語の文献をいくら読み返しても目が滑ってしまって、そこに何が書いてあるのかぜんぜん頭に入ってこなくなっていた。毎日、夕方に二話ずつ再放送される『ひよっこ』を見て、かつてこのようであった世界は今やもう取り返しのつかないほど変わってしまった、と泣く日々がつづいた。銀杏BOYZの峯田が演じるイギリスかぶれの主人公のおじさんが、ビートルズ来日で茨城の村から東京に出てくる騒動記を見ながらシクシク泣いていた。終わってしまうのがもったいないから、毎日二話ずつやるのではなく一話ずつにしてほしいと真剣に思っていた。
年末年始に一挙再放送された『アンナチュラル』も見た。井浦新が演じるキャラクターの境遇に、かつてのじぶんが置かれたかなしみを重ねるという厚かましいにもほどがある見かたをして、またさめざめと泣いた。かなり世間から遅れるかたちで、米津玄師のLemonに感情をゆさぶられるなどした。第一話でMERSコロナウイルスのはなしが出てきて、濃厚接触とかPCR検査とか、予言のようにいま現実にみんなが口にしている言葉が使われていた。三月に深夜帯の映画枠で放送された『ベニスに死す』も録画で見た。疫病が迫りくるヴェネツィアの街をえがいた作品があのタイミングで放送されたことに、いろんなひとたちがざわめいていた。美少年の役を演じた俳優が負ったふかいふかい傷のことが報じられており、陰鬱なきもちで見終えた。いつ録画したか覚えていない『帰ってきたヒトラー』も見た。これも気が滅入るような映画だった。あのころトランプが米国の大統領だった。さすがにこれでは選挙で負けるだろうと思っていたら案の定負けたが、なんだかんだでまた返り咲いた今となっては、地獄の底は二重底、三重底、ここがどん底と思ったところから、まだ一段も二段も落ちられるのだなと悲しくなるばかりだ。無料配信された『すみっコぐらし』の映画を見たり、青空文庫で森鷗外の『渋江抽斎』を読んだりもした。『ヴェニスに死す』の原作も読もうとしたが、『抽斎』とちがって退屈なので読めなかった。『地下生活者の手記』を読もうとしたが、もう気力が残っていなくて読めなかった。
朝早く起きなくてもいい生活になったので、深夜ラジオをたくさん聴いた。伊集院光のラジオにメールを送り、いくつか採用されたりした。前年、早稲田のシャノアールで伊集院光を見かけたことがあった。太ったひと、というのではなくて、背の高いひと、という認識のしかたをした。太っているというのはテレビ画面越しでも伝わりやすいが、背の高さは伝わりにくい。シャノアールは二階にあって、一階の書店で買ったらしい漫画雑誌を片手に、ノートパソコンで仕事をしていた。伊集院光の番組のまえが『東京ポッド許可局』で、プチ鹿島が堀内孝雄の『愛しき日々』をかけた。むかし、日テレが年末にやっていた時代劇スペシャルの『白虎隊』で主題歌に使われた曲だった。フォークグループのアリスから出てきた堀内孝雄が演歌のほうへ移行した曲だということだった。気に入って口ずさんでいたが、「頑ななまでの」となるはずのところが「頑なまでの」と一音省略されているのにいつもひっかかった。作詞は東大出の小椋佳である。
厳密にはラジオではないのだが、『かえるさんの沼ラジオ』というのもあった。かえるさんこと細馬宏通氏が、ツイキャスだったか、配信プラットフォームを使って毎晩やっておられた動画配信だ。細馬氏は前年に早稲田大学の表象・メディア論系に着任され、こちらは助手としてごくわずかな機会にかかわりをもった、というか余計な仕事を増やしたにすぎないが(たとえば、ランチタイムに新任教員がほかの教員にじぶんの専門についてプレゼンする催しで、会議室のプロジェクターと持ち込みのMacBookとの接続を学内のケーブルでどう対応するか……といったことで余計にお手をわずらわせる、典型的なブルシット・ジョブを発生させるなど)、表象・メディアというのは学部のとき籍をおいたいわば古巣なのと、朝ドラや大河ドラマ、ポピュラーミュージックなどにかんするそのお仕事に一読者として接していたことから、その配信も自然ななりゆきで毎晩見ることに決めた。「今夜は何時から配信があるからその前に夜の散歩をしよう、時間を逆算すると阿佐ヶ谷まで行っている余裕はないから、反対方向の新青梅街道のほうに出てスーパーや銭湯が、緊急事態宣言のさなかにどうなっているか見てこよう」などと生活を組み立てていたわけである。
配信では緊急事態宣言下の東京の街のようす、前年からつづけておられた暗渠めぐり、歌舞伎揚げをつまみながら飲むビール、歌舞伎揚げに七味や一味をかけると酒のあてに良いという情報、オンライン授業の試行錯誤、「アベノマスク」を顕微鏡で見てみるとどうなるか……などさまざまな話題が、ごく静かなトーンで展開され、テレビやラジオほど作った感じのしない「ひとのふつうの話し声」に飢えていたこともあって、夜のひととき、気持ちをすこしゆるめることができた。七味をかけた歌舞伎揚げとビール、に呼応するように、炭酸水を飲みながらビーフジャーキーの硬いやつをかじって視聴した。
話のなかで、東京メトロの駅などに貼られていた「オフピーク」の広告のことが出てきた。いわゆる「一発屋」の芸人などを起用して、通勤や帰宅のラッシュ時を避けて交通機関を利用することを促すもの。飛沫感染する呼吸器疾患の流行という以前から、本来ならその年に開催されるはずだったオリンピックに伴う混雑などを避けるためにキャンペーンを組まれたのではなかったか。細馬氏がダンディ坂野(さかの)のことを「ダンディ板野(いたの)」と発音していて、ログインして訂正のコメントを入れるべきか迷ったが、ダンディ坂野の名前を訂正して何の意味があるのか……と思ってやめた。他の路線でもあしたのジョーやコウペンちゃんが、同時期に似たような広告に出ていた。駅や電車の広告も、どの業界も打撃を受けたため急減して、この手の鉄道会社じしんが打った広告ばかり目立つようになっていたころだった。秋に助手の任期が切れて職を失い、失業保険をもらうために新宿の職安まで出向くと、人気のない新宿駅に、たくさん設置された湘南美容外科クリニックのサイネージ広告たちが「ショウナン!ショウナン!」と一定の間隔で声を上げる寒々しい光景がひろがっていた。
はやりやまいの拡散を防ぐため、駅構内などでは「時差通勤」を推奨するアナウンスがいつも聞かれた。あるひとが、このアナウンスを聞くたびに、最初の三音でギクッとするから言葉を変えてほしいと言っていた。そのころはまだ部分ツイートというのはあまりはやらなかったが、「時差通勤の自殺の部分」ということになる。みんなマスクをして、暗い目でうつむき気味に出歩いていた。職安は失業者でごったがえし、小池百合子に「密です!」と怒られそうな景色が常態化していた。マスクを着けて、知らない駅に出向いて、スマホのマップを頼りに迷いながらいろんな会社の面接を受けた。ある業界紙の社長はこちらの顔を見るなり、椅子に座る前に「きみには話を聞き出そうというオーラがない、記者はつとまらん、きみを呼んだのは採用する気があったわけやなく、早稲田のフランス文学の博士課程なんてところを出たのはどんなやつか見てみたかっただけや」とまくしたてた。鼻マスクというやつで、大きな鼻の穴が両方ともマスクで覆われずにふがふがしていた。「短歌?じゃあやってみ、『ここで一句!』……できん?簡単やろ、(指折り数えながら)『コロナ禍や 夫婦円満 いい気持ち』……どや?」。げんなりして、大きな川ぞいの道をとぼとぼ歩いて帰った。
年の暮れが近付くとともに、感染者数は毎日のように最多を更新した。朝日新聞のデジタル版の紙面ビューアーを扱う関連企業で、発足したばかりの菅内閣の閣僚一覧の記事をつかって仕事の要領を教えられた。デジタル大臣になった河野太郎の顔写真を動かしたりした。そこも落とされ、暗い気持ちで過ごすうちに、師走がきて、大みそかがきた。星野源は紅白歌合戦で『うちで踊ろう』を夜景をバックに披露した。東京で一日の感染者数が千人の大台を超えたという速報が流れた。暗闇のなか、東京タワーの赤がぶきみに光っていた光景は、ほんとうにあったことなのか、勝手にあたまのなかで捏造された記憶なのか、いまとなってはよくわからない。そのようにして疫病の年は暮れ、とはいえ疫病そのものはおさまることなく、二〇二〇年の四月に発表された浅田彰「疫病の年の手紙」(realkyoto)や、そこにリンクが貼られていた西浦博氏のインタビュー(BuzzFeed)、エリザベス女王のスピーチ動画(BBC)などを何度となく見返す日々は、それからもしばらく続くことになる。
夜になると熱っぽくなり、三十九度近くまで上がる日々が二週間ほど続いたが、二月の頭にはなんとか回復した。感染から三ヶ月ばかり経つが、心なしか抜け毛がひどくなった気がする。この程度の後遺症で済むのなら、まだ助かったといえるのだろうが……。