フォークナーとの出逢いー2つの翻訳文
この難解と言われる作家をどうして好きになったのかわからない。1作読むごとに次作品を求めて読み、大学で英語の和訳が当たっているのを承知の上、下宿で耽読した記憶もある。フォークナー作品を読む方が大切だと判断したのだった。のめり込むことに快感さえ覚えた。前回の「和訳から翻訳へ」でも記したように、短篇の翻訳を、それも高校3年生で試み、冷や汗をかかされたが、それほどに文体に惹きつけられた。ジョイス流の「意識の流れ」を駆使し、時系列の転倒している小説。伊藤整の愛読者でもあった私は、氏がジョイスの『ユリシーズ』の翻訳者であることはむろん知っていた。
フォークナーの作品、いずれも好きだが、ここでは『響きと怒り』の2つ(2人)の翻訳文を並べてみたい。重なる箇所もあるが、異なる訳文がいかに見られるか!
・高橋正雄訳(講談社文庫、1974年2刷、197頁)
1910年6月2日
「人間とはその『人の』不幸の総和だと父はいった。がいずれかは不幸の方がくたびれるかも知れないと『人』は思うかも知れない、だがそうなると『こん度は』時間がお前の不幸となるのだと父は『いった』」
・大橋健三郎訳(新潮社世界文学41 フォークナーⅠ、1971年、357頁)
1910年6月2日
「人間はその不幸の総和だ、と父は言った、いつの日か不幸も疲れはててしまうだろうと『おまえ』は考えるだろうが、でも『そのときには』時間がおまえの不幸になるんだよ、と父は『言ったものだ』」
この箇所の英文(登場人物の1人であるクエンティンが自分の世界に入りこんでいるので、構文や文法的な決まりごとから完全に逸脱した「意識の流れ」が続いているところだが、この箇所はそのなかでは比較的ノーマルな文章)を挙げておくが、2つの翻訳文と比較してどうでろう? まず翻訳文じたい、2つに微妙な相違がある。気がつくだろうか(『 』)の部分を比べ、原文を見てほしい)。
Father said a man is the sum of his misfortunes. One day you’d think misfortune would get tired, but then time is your misfortune Father said.
それほど難しい英文ではないので、『 』の差異はすぐに見分けられるだろう。『人』と『おまえ』の違いで訳文から受ける印象が大きく変わることが知れよう。いずれが好みかはひとそれぞれだろうが、親しみやすいのは、「おまえ」だとおもう。
高橋正雄氏(1921-2008年)も大橋健三郎氏(1919-2014年)もフォークナー昨品を多数翻訳されている方々だ。大橋訳の『アブサロム! アブサロム!』も読んでいるが、最初に読んだ折のその強烈な印象に打たれて、篠田一士(はじめ)氏(1927-89年)訳の同名作品に牽引力を感じられなかった。訳出の正確さを超えた何かが、大橋訳にはあった。フォークナーの研究者は多く、『フォークナー』という研究誌まで刊行されているが、翻訳文学作品として昇華できる翻訳家の数は少ない。私見だが、翻訳作品に対しては「熱狂」が不可欠だと思っている。冷静さ・客観さ・正確さを欠くということを意味するのではなく、訳者の秘めた「心根・心映え」の深さと表現したらよいだろうか。


