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イタリア文学哲学散策――特にルネサンス文化下の著述家たち 澤井繁男

口述筆記のアルバイト(2)

  瀧田文彦先生との、セリーヌ著『なしくずしの死』の口述筆記を終えて、充実感にひたっていると、國定さんからまた電話を戴いた。

 「また、1冊、頼まれてくれないか?」

 「はい、よろこんで。どの本で、翻訳者はどなたですか」

 「ジョン・バース(1930-2024年、ポストモダンの代表的作家)の『酔いどれ草の仲買人』だ。訳者は野崎孝さん」

 「あの『ライ麦畑でつかまえて』のですか?」

 「そう、その野崎さん」

 「是非」と私はすぐにお引きけした。著名な翻訳家だ、野崎孝といえば。ラジオの深夜放送を聞きながら、若者言葉を研究し翻訳に活かした苦労話は語り草だ。1964年に白水社から出版されて以来、およそ40年間で百数十万部の売り上げを誇ったという、2003年村上春樹訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が出るまで。しかし、村上春樹のあまりよい読者でない私だが、彼の文体の底に野崎訳の同書の影響が垣間見られる。あくまで私見だが。

 先生のお宅は西武池袋線沿線で、ご自宅の最寄りの駅で國定さんと待ち合わせをした。でも1電車乗り遅れてしまって、約束の時間に着くことが出来ずに叱られた。野崎先生はいわゆる厳格な方で、ひとを選ぶという。つまり、気に入られないとダメだということだ。

 お宅ではお1人で待っておられた。私たちはこじんまりした居間に通された。國定さんが紹介して下さった。瀧田先生のリラックスした雰囲気とは変わって、いかにも文人学者に映った。私はかじりかけのイタリア文学を話題にした。あがっていたので、だいぶ適当なことを喋ったと思う。

 先生は眼鏡の奥でにこやかな笑みを浮かべ、テーブルの茶器に手を添え、紅茶を淹れて下さった。喫みおえると、國定さんが、腰を上げ、お暇します、と私を促した。もう帰る?
と戸惑いつつも、玄関をあとにした。「気に入ってくれたようだな」「はあ?」「お茶が出ただろう」⸺そうかあれが合図だったのか。

 帰路、中野駅近くの日本旅館○○の2階に罐詰になって、お仕事されるから、中野に週2回通ってほしい、午前中に。昼頃筆記作業は終わるだろう。

 「昼食を愉みにしているといいさ。野崎さんは和食好みで、ま、グルメだな」

 「それで、ぼくも英語の勉強をしたいので、原著のコピーを下さいませんか」

 「わかった。用意する」

 嬉しかった。先生がどのように翻訳されるか、〈実地見聞・検分〉できる。

  

 8畳の和室だった。座り机の向こうに和服の先生が胡坐をかいて、私も、楽に、と言われたのだが、胡坐の姿勢では文字が書きにくいので、正座をし、ときに崩した。私は原稿用紙の横に原書を置いて、訳を書き取っていった。

 「どこからですか」

 「○○頁の上から○○行目から」

 私はその行に目を凝らして英文を読んだ。先生は髪を掻きむしって、懸命に訳を捻出しているようだった。固唾を飲んで待った。

 声に乗って出て来る訳は、英文とはまったく異なっていた。〈英文和訳〉の域を超えていた。これが〈翻訳〉なのか! 以前、同人誌に発表したパヴェーゼの訳文を瀧田先生に読んでいただいた際、なかなかいいよ、と評された。だが、同じ翻訳を野崎先生は渋い顔つきでご覧になった⸺これは翻訳ではない、という具合に。

 2人の翻訳家の翻訳観に違いがある?

 瀧田先生は1930-96年。野崎先生は1917-95年。生まれが13年違う。

 拙訳はほぼ、直訳に近かった。瀧田先生は適訳派? 野崎先生は意訳派? 

 とにかく野崎訳と原文は大きく離れていたように読めたが、後年、私がイタリアルネサンス研究の泰斗、エウジェニオ・ガレンの『ルネサンス文化史』(平凡社ライブラリー)の翻訳に臨んだとき、意訳でしか日本語にならないことを知った。まず直訳し、文意を汲み取って適切な日本語に組み立ててゆく。異文化翻訳・創作だった。バースの翻訳は1日10枚もいけばよかった。それを午後に先生が青のボールペンで修正していく⸺。

 昼食は中野駅のアーケードの食堂街の店屋でご馳走になった。一度、天婦羅を食べたあと、当たったのか、体調を崩して、アルバイトを休んだこともあった。筆記のときの休憩は、紅茶を希望した。あのコクのある、甘くて香り豊かな味は忘れられない。

 アルバイトは、残りは先生お一人で仕上げる、ということで中断となった。冬場だった。

 私は、記念にほしいものは? と問われて、思い切って、「ブルーフレーム」(対流式灯油ストーブ、馬小屋で使用された)を、と乞うた。「わかった、次回まで、持ってこさせるから」と。

 最終の日、私は玄関まで見送りに出て下さった、腕を組んだ和服の先生に見送られ、ストーブの取っ手を持って、下宿まで帰った。

 休憩の紅茶の時間、いろいろ、文学談議になった。野間宏の『青年の環』を全巻読まれていた。その他、フォークナーの研究者の話題など、興味が尽きなかった。

 

                                                           ⸺つづく

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