口述筆記のアルバイト(1)
電話を部屋に設置したその日に、國定さんの名詞の裏に住所・氏名・電話番号を書いたことは、前回述べた。翌日の午前11時頃、初めての電話。出ると、まさか國定さんだった。
「最初の電話の方が、國定さんだとは」と応ずると、「澤井君、頼みがある。口述筆記のアルバイトをしてもらえないか?」
「口述筆記?」
「そう、翻訳の先生の傍らで、先生の訳す日本語を、原稿用紙に書き写すんだ」
「あの集英社の『世界の文学』の、ですか」
「そうだ」
「どの巻です?」
「セリーヌの『なしくずしの死』で、訳者は瀧田文彦さん」
「ああ、瀧田先生なら知ってます。アンドレ・マルローの『王道』(新潮文庫)を訳されていますね」
「そうか、それはよかった。引き受けてくれるね。君の字が原稿用紙に合うと思ってね」
「はあ?」。原稿用紙は書きなれているから、まあ、よしとしよう。字じたいは悪筆だけど。
「実は翻訳が進まないのは、国書刊行会から、高坂和彦訳がもう出てしまっていて、瀧田さん、落ち込んでいるんだ」
國定さんは「……さん」付けにしているが、それは彼の信念だという。自分が教えを受けたことのない学者には、決して「先生」を付さないと決めているそうだ。
「で、いつからですか?」
國定さんは、急いでいると言って、日給(高額だった)や日取り(週・2日)、それに筆記の場を、千鳥ヶ淵の、今は無き『フェアモンテホテル』を挙げた。当時私は、埼玉県川口市の一軒家の二階にある4畳半に、月・6500円の格安で下宿していた。駅は蕨(わらび・中仙道の2番目の宿場)駅を利用していた。そこから千代田区までは遠かったが、午後開始だったので、その点、楽だった。ホテルの一室で、瀧田先生との仕事が始まった。
作者のセリーヌ(1894-1961年)は、反ユダヤ主義作家で、ユダヤ人たちに批判され、亡命生活を送ったこともある異色作家。
先生は、ソファーに腰をおろし、片手に原書を持ち、訳を書き取れる速度で読み上げて行った。
印象に残っているのは、やたら「………。(てんてんてんまる)」が多かったことだ。
夕方近くにその日の分を終了して、15枚くらい出来ていた。それを先生が改めて見直すのだ。
まだ紙媒体出版の景気がよいときで、私とのホテルでの食事の代金は出版社持ちということで、ホテルのレストランで、先生と一緒にご相伴に預かった。食通の先生なので、食についての「講義」つきで、いろいろと学ぶ点が多かった。しかし、私の方が食オンチ、つまりグルメとはほど遠かったので、よく、「これはすでに話しましたが」とからかわれた。
また確か神田のわんこ蕎麦店とか、ホテル内のかつ丼とかを食べさていただいた。一種の食歩きつきのアルバイトだった。
先生の研究室は、駒場の東大キャンパスで、研究室には2度ほどお邪魔したが、実に殺風景なものだった。書架も1、2連で、大きな机が一つ窓際に。先生によると、研究室はめったに利用することはなく、別棟1階の事務室で待機して、授業に向かうらしい。事務室の長たる女性の事務長に頭が上がらないとしきりに頭を抱えておられたが、愉しんでいるふうにも映った。
先生はいわゆる「売れている学者」で、『ユリイカ』や『現代思想』(ともに、青土社)からエッセイの依頼が結構来ていた。例えば、いまフランスの大学生(文学部生)が卒論のテーマにする作家の多い順番とか。これは拝読したが、簡潔にまとまったわかりやすい記述だった。自著は自著と共著の2冊だが、翻訳の冊数は多かった。
ラストの追い込みの際、先生がテープに声を吹き込んでこられて、それを起こすことになった。渋谷の喫茶店で國定さんをまじえて3人で会った。そしてどういうわけか記憶にないが、代々木の先生のマンションでテープ起こし作業をすることになった。
「親父と妹がいるからねぇ」とあまり気乗りのしないようすだったが、とにかくマンションヘ向かった。先生の妹君(瀧田あゆち氏)は、さる大手の航空会社の管理職で、女性初の役員職の才媛だということだ。マンションは広く、おそらく4LDではなかったか。先生の部屋も、研究室よりも立派だった。そこでテープ起こしを私は一所懸命にやった。
ついに終わりのときが来た! 原著の3分の2くらいが、私の「文字」だ。
出版された本はサイン入りで、頂戴した(1978年11月)。
⸺つづく


