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音楽を描く言葉と身体──ふるまいのアナリーゼ 吉川侑輝

能力をめぐって——『芸能人格付けチェック』のなかの感覚と観察

弱気な記述

 音楽についての、どこか緊張を伴う記述というものがある。観察(・・)を言葉にすることである。「深い音がする」「ちょっと速いと思う」「楽譜と違うよ」……等々、こうした言葉はただ漫然と音楽を聴くのとは異なるような、音楽に注意を傾ける試みの結果として得られたひとつの観察といってよいものとなっている。こうした言葉を口にするとき、私たちはしばしばそれをためらってしまう。記述をするその人自身が試されている——そんな風に思えることがあるのである。哲学者ギルバート・ライルはその著書『心の概念』において「感覚をもつことhaving a sensation」と「観察することobserving」を概念上混同してしまわぬよう注意を促すなかで、観察は——感覚とは対照的に——それをする人の能力が係ると指摘している(1)。「要するに、観察とは努力を要する仕事なのであり、それ故、われわれは、観察するにあたって、首尾よくいったりいかなかったり、得意であったりなかったりすることがありうるのである」(2)。観察が能力と係るのであれば、観察の失敗はそれをする観察者の能力の程度を露呈してしまう場合があるだろう。むろん、観察が適切であれば良い。だがもしそれが的外れなものであったとしたら、それをした人は音楽を聴き分ける能力を欠いているのだということになりかねない(記述に失敗してしまうような人は、今度はどんな風に記述されてしまうだろうか)。記述に伴う緊迫——それは記述をしている側もまたもうひとつの記述の可能性に晒されているという事情によってもたらされているように思える。

 以下に示す断片5-1は、2015年1月1日に地上波で放送された『芸能人格付けチェック』と題されたバラエティ番組から集められた11の断片のひとつである(3)。番組内容の一部は視聴者も参加可能であるので、SNS等において「実況」をする視聴者たちの賑わいを目にした人もあるだろう。番組は大まかに、以下のように進行する。始めに、複数のチームを組んだ出演者全員に「一流芸能人」の「ランク」が割り当てられる。それぞれのチームから代表が回答者として「チェック室」に移動し、グルメや音楽などをテーマとして「高い物」と「安い物」を目隠し(ブラインド)で識別し回答する。回答者はAかBの2択から回答を選択し、残りの出演者たちはその選択をメインのスタジオで注視する。なぜならひとたび判断を誤れば、その度にチームもろとも「一流」→「普通」→「二流」→「三流」→「そっくりさん」、……と「ランク」が下げられてしまうからである。すなわち「ランク」を維持するためには、ふさわしい判断能力を示し続ける必要がある。2015年放送回においては、アントニオ・ストラディバリら誉高い楽器製作者の作とされる高価な楽器(「総額27億円」)とそうでない「初心者用の」楽器(「総額50万円」)の「三重奏」を聴いて、高価な方を当てるというコーナーが含まれていた。断片5-1は、「チェック室」での回答に先立って、スタジオに残った出演者たちの予備的な回答を、「格付けマスター」と呼ばれる番組の進行役たち(ISとHM)が、順に尋ねている場面である。

断片5-1 発問の再試行

 観察を進めていくのに先立ち、文字起こしされた断片の読み方を説明しておきたい。基本的にはそれぞれの行ごとに、戯曲の台本(第4回)よろしく上から順に発言を読んで頂ければよい。行頭には01、02、03、……と参照のための行番号が付されており、行番号に続けて、発言者がイニシャルで記されている。発言中のイニシャルで記された人名は【】で括っている。また「A」や「B」などと述べているのは、回答された選択肢である(断片5-1では6行目の「A」がそれにあたる)。二重の丸括弧は注記が付されており、また着目したい行には、その都度矢印(→)を付している。

 どうやら、回答さえ正しければ十分というわけではない、ということがわかる。1行目と2行目では、「格付けマスター」のひとりISからの発問に対し、SKは笑いながら「…え?」とだけ述べている。続く3行目におけるもうひとりの「格付マスター」HMからの発問の再試行「あなたが聴いた感覚で言っ…てらどっちですか?」は、SKが抱いた「感覚」を根拠とした回答を許可するものであるだろう。ためらい(04行目)を見せながらもSKは、6行目において「……A」と回答する。断片5-1からわかることのひとつは、1行目の発問が、単に回答を産出すれば事足りるような発問として聞かれてはいないようだということである。2行目の笑いは、この回答に併せて産出すべき何事かが産出できないことの訴えを含意しており、03行目におけるHMによる発問の再試行は、この訴えへの対処を含意している(少なくともHMはそのような理解を示している)。

 では回答に際して、何が必要とされているか。他の事例を見てみよう。実際のところ、大方の回答において、その選択をした理由(・・)が説明される。以下の断片5-2と断片5-3はともに、回答に際するひとつの典型のように見えるものである(ともにメインのスタジオでの予備的な発問に対する回答である。トランスクリプト内の四角括弧([)は、その箇所で複数の発言が同時に開始されていることを意味する)。ふたつの断片ではともに、回答に併せて「音が深い感じがした」(断片5-2の2行目)や「音が鳴ってんのは」(断片5-3の2行目)と、今自分が聴いた音についての観察を記述している。そしてこれらの記述は、いずれも単なる(・・・)記述ではなく、それぞれの回答を選択した「理由」として聞くことができる。

断片5-2 回答の選択理由α

 

断片5-3 回答の選択理由β

 「ランク」に値する能力を実演するという番組の趣旨に照らして、回答に理由が必要とされることには、確かに一定の適切性があるだろう。単にAかBかを選ぶだけであれば「当てずっぽう」や「まぐれ」が許されてしまう。それに対して回答の理由は、その回答が、回答者が持つ音楽を聴き分ける能力によってもたらされたことの「証明」として利用することができる(第2回第3回)。選択にはいわば説明責任(アカウンタビリティ)が求められるとでも言えようか。

 しかし他方で、断片5-2と5-3の観察はいずれも、どこか控えめな態度が伴っているということがないだろうか。ふたつの断片にはそれぞれ、「感じがした」(断片5-2、2行目)や「だと思う」(断片5-3、2行目)といった仕方で、そう述べる人が抱いた印象を表明するための表現が付加されている。「感じ」や「思い」は、他人であればそれを抱かないことがありうるという意味で、記述の妥当性をダウングレード(・・・・・・)するものとなっているだろう。しかしながら再び番組の趣旨に照らして、自らの観察をダウングレードすることには、問題が含まれるとも考えられはしないだろうか。ダウングレードは、回答についての確信の不在を示してしまいうる。であるなら、仮に正答が導かれても、それを導いた人が本当は音楽を聴き分ける能力を持っていない可能性が残り続けてしまう。ではこのダウングレードは正答を、ひいてはそれをする人の能力をも格下げ(・・・)してしまいうる表現ともなってしまうのではないか。

 

観察の記述

 ダウングレードされた記述の効果を検討するために、それが施されていない(・・)事例を検討することができるだろう。以下の断片5-4は、「チェック室」で2つの演奏を聴いた女優MHが、回答として「A」の札を掲げたあとに続けられた発言である(断片5-4は放送時一部カット編集が施されており、その編集点を二重丸括弧で「((カット))」と記している)。

断片5-4 教示

 断片5-4には、少なくともある一面において、断片5-2や断片5-3と同様、MHの回答がもたらされた理由の説明が含まれている。この断片では「1回こう、弦を、……ぴゅんっと触れる」という、MHだけが認識できた(と主張される)詳細が記述されている。他方その記述は、断片5-2や断片5-3に見られたダウングレードを伴わない。こうした特徴によって断片5-4は、単に理由を説明する以上のことをしているように見える。それは、MHのみが可能であった観察を、その能力を持たない他人に教えてあげる(・・・・・・)ということ(いわば教示(・・)すること)ではないだろうか。もし仮に、MHの回答が実際に正しいものであったことが明らかとなったとしよう。そんなとき私たちは、「1回こう、弦を、……ぴゅんっと触れる」と述べることで指し示されている細部を実際には認識できていなかったとしても——あるいは、MHがこの表現を通じて言わんとしていることがそもそも十分に理解できないとしても(4)——、MHにはそれが見えていたのだと受け入れたり、あるいはそれを聴き取ろうと演奏に耳を凝らしたりすることが可能である。そうしたひとつの洗練されたものの聴き方を教示しうる(・・)ものとして、断片5-4は理解することができる。

 教示しうる(・・)、と今述べたように、しかしながらこの教示が実際の(・・・)教示となるかはあくまでも偶然的であるだろう。その記述においてダウングレードを行わないことで、確かにそれをなす人は自身の能力についての比較的強い証明を行うことが可能となるに違いない。その記述は恐らくは、能力を例証するための、ひとつの理想的な記述である。しかしそれはあくまでも、結果としてその人が正答を導くことに成功していたときのみの話である。反対に、もしこうした記述を行う人が実際には誤答を選んでいたことが明らかとなれば、全くの出鱈目な(・・・・・・・)ものの聴き方が、そうと自覚もせず(・・・・・・・)開陳されていたということになってしまう。こうしてダウングレードを伴わない観察の提示は、回答の誤りがその人が持つ能力についての見えを毀損しうるという意味において、後戻りのできない危険な(・・・)記述を編成する場合がある(5)

 そのようなことを踏まえれば、「感じ」や「思い」といったダウングレードを伴う観察というものを一種の防衛的(ディフェンシブ)な記述であると理解することができる。断片5-2と5-3における観察は、もし誤答をしてしまった場合であっても、私にはこう聞こえていたけれども本当は(・・・)違ったのか、という仕方で、先立つ自分の記述を取り下げることが、少なくとも論理的には可能な表現となっているというわけである。同じ誤答でも、取り下げ不可能な表現をしてしまうことに比べて、その「傷」は浅いものに留まるであろう。すなわちそのような記述は、それをする人の聴き方が全くの出鱈目(・・・・・・)であったとしても、少なくともその出鱈目さが明らかとなる可能性だけは自覚(・・)されていたことを伝える。あるいはそれは、能力を必ずしも強力には証明しないけれども、自分が誤りうる可能性を示すことで回答の「難しさ」を主張したいと望む人などにとって選択可能な、ひとつの使い勝手の良い記述となっている(6)。記述に備わる一見して問題含みなダウングレードはこうして、取り組んでいる課題の容易でなさの訴えとして施されているのである。

 であるなら検討すべきは、取り下げ可能な表現を用いながらそれでも能力を示すということがいかにして可能であるかの方である。この技法の一端が、続くふたつの断片5-5と断片5-6において見てとれる。これらの断片はそれぞれ女優のKKとZNが「B」と回答した後の発言であり、その観察が、今度はアップグレード(・・・・・・・)されているように見えるものである(断片5-6の1行目における「-」は、発言が中断していることを示すカットオフの記号である。また、断片5-6の3行目における「【IP】さん」とは、KKとチームを組んでいる——ゆえにチームとしての利害をともにする——女優である)。

断片5-5 記述の多重化

断片5-6 対象の多重化

 断片5-5と5-6では、それぞれ微妙に異なる仕方で、観察が敷衍されている。断片5-5では、Bの演奏が「すごく広く」(1行目)聞こえたことが、「あんま普段聴いたことのない」(2行目)音であるとZNが考えたことの根拠(・・)として示されている。ここで行われているのは記述に基づく推論とその推論に基づく(希少性の)評価であり、いわばその対象を選択した理由の理由(・・・)を伝えることで、対象についての記述が(・・・)多重化されているのである。他方の断片5-6では、AとBがそれぞれ「乾いた」「音」(A、1行目)と「高音の伸び」(B、2行目)といった表現を通じて、対比が行われている。こちらの断片のほうでは、いわば記述をする対象を(・・・)多重化することによって観察が敷衍されているという特徴づけが可能であるだろう(図5-1)。当然のこと、ある対象について記述をふたつ以上与えることは、記述を単にひとつだけ与えることより難しい。同様に、ふたつ以上の対象について記述を与えることは、単にひとつの対象を記述するより手がかかる。そのような意味で、これらの技法はともに、その観察を行う人の能力を実演してみせるやり方として利用可能である。


図5-1  2つの技法

 これら諸技法(記述の多重化と対象の多重化)は、併用されることもある。次の断片5-7ではまた、推論に基づく評価づけや、記述の対比といったやり方が併存している。断片5-7は「ミュージシャン」であるKSが「B」と回答した後の発言である。この断片では一方において、「A」の演奏が「こぢんまりとまとまってた」(2行目)ゆえに「部屋で」「演奏するのに向いている」(3行目)という、推論に基づく評価が行われている——私たちはこれを先に記述の多重化と呼んでおいた。その上でこの断片は、その評価を「B」の演奏が備える「大きい」「会場が似合う」「響き」(5行目)との対比において下すものとなっている——これは、私たちが先立って対象の多重化と呼んだものに他ならない(図5-2)。

断片5-7 記述の多重化と対象の多重化

図5-2 技法の併用

 かくして演奏についての記述のいくつかは、一方において能力が毀損される危険性を軽減するためのダウングレードが行われながらも、その条件のもとで可能となるアップグレードが試みられている。これらの断片はいずれも、「気がした」(断片5-6の1行目、断片5-7の3行目と6行目)、「聴こえた」(断片5-5の1行目)、そして「感じが」する(断片5-7の2行目)といったダウングレードが伴う。しかしそれでもこうした記述を耳にした私たちは、単なる観察の提示だけでなく、その敷衍を通じて演奏についてのより洗練された観察が示されているのを理解することができる。先述のように、KSは「ミュージシャン」でもある。断片5-7に見られるやり方は、ミュージシャンというひとつの専門職にふさわしい入念な(・・・)観察を、しかしあくまでも予防的に提示するやり方にもなっているだろう。

 

感覚の記述

 ところで、ダウングレードされた記述がひとつの安全なやり方を構成するのであれば、今度はそれをしない(・・)ことの方に理由が必要であるということになる。断片5-4における「教示」のような能力の強力な証明を試みるのでなければ、少なくとも記述のダウングレードはしておくべきであるだろう。ではそれをしない(・・)ことには、一体どのような事情が伴っているか。続けて示す断片5-8は、ダウングレードが伴っていないように見える記述のひとつである。TMは俳優として活動するタレントであり、「チェック室」で演奏を聴いた後に「A」と回答し、その理由を以下のように続けている。

断片5-8 報告


 断片5-8においてTMは、すでに見た「教示」とは別のタイプの行為を編成しているように見える。TMが提示しているのは、視覚(3行目「見えました」)や嗅覚(2行目「香り」)といった、聴覚とは別なる様態(モダリティ)からなる種々の感覚である。確かにこうした感覚の記述は、観察にも似た仕方でひとつの見えを主張するだろう。しかしながら感覚は——観察と異なり——、他人がそれを経験するということがありそうにないものでもある。感覚を他人が経験するのが難しい(・・・)ということではない(・・)。「エロスの」「香り」という感覚を抱くための他人の努力などというものがそもそも存在もしなければ、意味をなすこともないのである。感覚とは、他人に教えたり、あるいは反対に他人から教えられたりすることによって抱くことができるようなものではない。感覚の記述はこの意味で、断片5-4がそうであったような「教示」のようなものとなる可能性を欠いている。あえていえば、それは感覚の一方向的な「報告」というべきものであるほかない。

 断片5-8が感覚の報告としてなされていることは、それがダウングレードを伴わない理由と本質的に(・・・・)係わるように思える。感覚は誤ることができない。このことは、ライルによっても正しく指摘されている。「観察を誤るということはありうるが、感覚に関して誤りを犯すとか誤りを避けると述べることは無意味である。なぜならば、感覚がそもそも正確であったり不正確であったり、または真実であったり真実でなかったりすることはありえないからである」(7)。TMにしても、実際のところ「思えばエロスの香りはしていなかった」などと後から(・・・)述べることなど、できそうにない。仮にTMが回答した「A」が誤答であることが明かされた場合ですら、そうであるだろう(「香り」がしたという報告それ自体は取り下げることができない)。感覚はその無謬(むびゅう)性ゆえに、取り下げることがそもそも意味をなさない。感覚が誤り得ないなら、当然のこと、それをダウングレードすることもできない。

 無論、抱かれた感覚が不適切なものであるという事態は生じうる。しかしそんなときでさえ、抱かれた感覚それ自体は、どこまでも無謬である。次の断片5-9は、メインのスタジオでのお笑いコンビのFTとHT同士のやりとりである。「格付けマスター」のHMによる発問に対して、FTとHTは共に「B」と回答する(2-3行目)。FTは続けて4行目において「Bはね、ガンガン、…こう し し 下腹に響いてきましたね」と、Bを選択した理由を説明している。

断片5-9 正常化


 この断片には見かけ上、4行目において「ガンガン」「下腹に響いてきましたね」と述べるFTの感覚が疑われているように見える部分が含まれている。6行目のHMによる「ほんま?」や7行目のHTによる「酔ってるだけちゃうの これ大丈夫?」がそれである。しかしこれらの発言は、実際のところFTが表明する感覚それ自体を懐疑しているのではない。先立つ4行目のFTの「ガンガン」「下腹に響いてきました」は、ひとつの感覚の記述である。確かにこれは、高価な楽器による「三重奏」を聴いて抱くべき感覚の記述としてまずは不適切にも見えるものであり、HM(6行目)とHT(7行目)による反応はその不適切さを印づける(マークする)ものであるだろう(8)。しかしながら「酔ってるだけちゃうの」が問題視するのは、感覚そのものでなく、酩酊状態といういわばFTの一時的な体調である(9)。「ガンガン」「下腹に響いてきました」という感覚それ自体は否定されていない点に注意しなくてはならない。そうではなくむしろ、不適切な(・・・・)感覚を抱く背景にあるはずの、何らかの適切な(・・・)理由が探索されている。

 さて観察の教示がそうであったように、感覚の報告もまた、今や後戻りのできないもうひとつの(・・・・・)危険な記述である。なぜなら感覚の記述における不手際は、それをする人物の側に備わる問題を示唆してしまうからである。すでに見たように、感覚の記述が無謬であるといっても、何もそのことが、不適切な感覚というものが存在しないことを意味するわけではない。その不適切な感覚を開陳してしまったとき、それをする人間の方が危険に晒される。抱かれた感覚がいくら無謬であっても、人間のほうはいくらでも不完全でありうるからである。その無謬性ゆえ、感覚についての不適切な記述はかえって、それをする人のいわば素質(・・)の無さを、ありありと示してしまう。

 単に素質のなさを示してしまうだけではない。感覚の記述は実のところ、それを記述する人に音楽を聴き分ける能力(・・)がないこともまた、同時に示してしまうように思える。次の断片5-10は、同じチームのアイドルWMとMMがそれぞれ「A」と「B」という異なる回答を提示したあとのやり取りである。『芸能人格付けチェック』では回答が最初に「割れた」場合であっても、同一チーム内では最終的な回答を揃える必要がある。そこで断片5-10においては、WMとMMが互いの回答を揃えるための相互の説得が試みられている。

断片5-10 観察の優先性


 断片5-10において、感覚と観察は対等なものとして扱われていない(・・)。まず1- 3行目にかけて行われているのは、WMによるひとつの感覚の記述である。「胸に刺さった」(2行目)のは他人には接近不可能なWMの経験であり、ダウングレードを伴わないひとつの感覚の報告というべきものであるだろう。続くMMの記述は、演奏の「抑揚」(5行目)または「波」が「すごいあった」(6行目)というひとつの観察をダウングレード(6行目「気がした」)するものとなっており、既にその実例をいくつか見てきたような、典型的な謙虚さを備えた観察である。いま重要なのは、これら2つの記述が単に並列されているだけではないということである。4行目においてMMは、「私はもっとちゃんと、具体的にあって、」と述べている。MMによる観察の記述に比して、WMの感覚の記述には不足が聞き取られているのであり、続く観察の記述は、先立つ感覚の記述を凌駕するもの——少なくとも凌駕すべき(・・)もの——としてもたらされている(10)

 その人が属すべき「ランク」に値する能力を実演するという番組の趣旨に照らして、感覚に対して観察が優先的であることには、再び一定の適切性があるだろう。冒頭で述べたように、観察はそれをする人の能力を例証する。観察とはひとつの試みであり、それは失敗することがありうる。反対に、感覚は能力に基づかない。感覚を抱くことはそもそも失敗しえないからである。であるなら、感覚と観察の両方が提示できるとき、私たちは観察を提示するべきであるということになる。音楽を聴き分ける能力を例証することができるのは、観察の方だけだからである。反対に、もし感覚のみが示されたのであれば、それをした人物は次のことを露呈してしまうだろう。そうそれは観察ができなかったのだということ、そしてだからこそ感覚を記述するしかなかったのだということである。

 

記述の記述

 では、感覚しか示すことができないようなとき、どうすればよいか。私たちは「危険」を冒しながら、それでも感覚を記述するという以外の(すべ)を持たないのであろうか。残されている問題のひとつは、誤りようのない感覚というものだけ(・・)を利用しながらも、それでいて()能力を示さない(・・)ことができるのか、ということである。ちょうど私たちの手元にある最後の断片5-11が、そのような関心に係る断片であるように見える。この断片は、番組の進行役3名(「格付けマスター」のHM、IS、そしてアナウンサーのHA)同士による、「ミニ格付け」と呼ばれる、いわばプレテストのようなコーナーから採られている。断片は、目隠し(ブラインド)で演奏を聴いた3人が同じ「B」の札を一斉に掲げたあとに続けられるやりとりである(1行目の「お父さん」は、ISを指している)。

断片5-11 感覚の非優先性


 この断片でISは、自身の感覚を消極的に(・・・・)表明しているように見える。5行目ならびに7行目における「いや耳に入ってくる」「感覚でしょうか」は確かに、抱かれた感覚を記述するものであるだろう。他方それは、あくまでも複数の可能性のなかから選び取られた、ひとつの候補として記述されている(ISは、単に「感覚でしょう」などと述べていない。断片5-8、断片5-9、断片5-10における感覚の記述と見比べても良いだろう)。感覚を相対化するこうした振る舞いは、当の記述が感覚の記述でしかないとしても、感覚に基づかない記述があり得たことそれ自体は理解していることを仄めかす。

 同じ感覚を記述する場合であっても、観察を記述していないことに無自覚であるよりは、それを自覚していることを示せる方が、幾分かはまし(・・)である。このようにして、感覚がいわばひとつの「次善の策」として提示されることは、必ずしも能力を例証はしないけれども、無能力の誹りを部分的に免れるためのひとつのやり方になっている。

 さて私たちの11の断片は、ひとまずはこれで全てである。とはいえ、私たちの最初の問いに対する、差し当たりの解答は得られたように思う。最初の問いとは、なぜ音楽を聴き分ける能力を示すための記述がダウングレードされるかというものであった。音楽の適切な聴き分けを実演するためには、記述を行う必要がある(断片5-1)。しかし、記述さえすればよいというわけではない。実際のところ、取り下げの可能性がない感覚の記述は、それゆえの危険が伴う(断片5-8、断片5-9)。感覚の記述はまた能力を例証しないものであるため、可能であれば、能力を必要とする観察を提示することが優先的(断片5-10)であるし、それができないのであれば、感覚は仕方なく(・・・・)提示されるべき(断片5-11)である。他方で、能力の証明に利用可能な観察の方も、それを強めすぎると「教示」のようなもう一方の危険な記述(断片5-4)に陥ってしまう。したがって、観察を提示する際にはダウングレードを伴う観察(断片5-2、5-3)がまずは穏当であり、能力の発揮はその条件のもとで記述を敷衍することを通じて試みられる(断片5-5、断片5-6、断片5-7)。

 もうお気づきであろうが、私たちがここまで進めてきたのもまた、ひとつの観察にほかならない。そのうえで、一言だけ防衛(ディフェンス)を。ここまで検討した様々なやり方が音楽を聴き分ける能力の実演において利用可能なやり方を記述し尽くしているかについて、私は確かな直観を持ち合わせていない。当然のこと、ここまで進めてきた記述が唯一の(・・・)記述であると主張などするつもりもない。もとより、そんな主張ができる人などいない。再び、観察とは誤り得る記述にほかならないからである。どのような観察であれ、よりまし(・・)な観察ができなかったという以上のことを意味しない。実際のところ、検討する断片を『芸能人格付けチェック』の他の放送回からいくつか追加するだけでも、様々な記述の相互関係はおそらくより明晰なものとなるであろう。いずれの場合であっても、目指されているのはあくまでも番組の参加者たちが編成している記述を改めて詳らかにしていく——すなわち、記述それ自体を記述する(第1回)——ということであるのだけれども。

 とはいえひとつの観察であるがゆえに、私たちの記述は、その一般的な緊迫を呼び込むものでもある。観察の記述はいつだって、別なる記述の可能性に晒されている。観察は能力に係るのであり、その程度は観察者の程度を露呈してしまう。だからこそ観察は、ときに緊張を伴ったものにもなるのだ、と最初に述べておいた。では私たちの観察の観察は、今やどんな風に観察されうるだろうか——このいわば記述の記述の記述(・・・)は、読者に委ねることにしたいと思う。

(本稿の執筆過程では、「社会言語研究会」(2023年5月20日開催)における参加者からのコメントなどを得る機会があった。また、坂井愛理氏(東京大学大学院人文社会系研究科)より研究上の助言を頂いた(2023年5月21日)。記して感謝する)

 

(1) ギルバート・ライル、1987、『心の概念』(坂本百大/宮下治子/服部裕幸訳)みすず書房、294-295頁。

(2) ライル前掲書、294頁。

(3) 本稿の断片は全て市販されている以下のDVDから収集されたものである。浜田雅功・伊東四朗・ヒロド歩美他出演、2016、『芸能人格付けチェック——これぞ真の一流品だ!』完全版(よしもとミュージックエンタテインメント)、Disc 2、特に00:32:17-00:55:03。

(4) 実際のところ私は、断片5-4を何度見返しても、MHが「1回こう、弦を、……ぴゅんっと触れる」という表現によって言わんとしていることが、そもそも十分に——というか殆ど——理解できない。しかしその内容が十分に理解できないとしても、MHはその観察を自らの能力に基づいたものとして示すことをしているということ、そのこと自体は十分に理解できる。今はこの点が重要である。

(5) 3行目の最後においてMHは、話しながら笑うことをしている。本稿では追求しないけれども、この笑いは、いまMHがなした発言の取り下げの不可能性に志向しているように思える。

(6) 反対に、「教示」のようなやり方は与えられた課題の容易さ(・・・)を主張することにもなるだろう。当然のこと、判断が困難なものであるかそうでないかを判断することもまた、それ自体、能力の積極的な提示である。その意味でもダウングレードされた観察は使い勝手が良い。

(7) ライル前掲書、295頁。

(8) 言ってしまえば、「お笑い芸人」という役割に適合的なふるまいとして、FTらは「ボケる」ことと「ツッコむこと」をしているように見える。

(9) 「酔っているだけ」という理由説明が持ち出された背景には、ひとつ前のコーナーでFTらがワインを飲んでいることが係わっているだろう。浜田・伊東・ヒロド他出演、2016、前掲DVD、Disc 2、00:05:46-00:32:17。

(10) 凌駕すべき(・・)と今述べたように、後続する記述が先行する記述を実際に(・・・)凌駕するものであるかは、あくまでも偶然的である。実際のところ、MMによる8行目の「(なんか)演奏がすごい一瞬に感じたの」の方は、WMのそれにもよく似た、感覚の報告であるように見える。

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著者略歴

  1. 吉川侑輝

    1989年生まれ。慶應義塾大学大学院社会学研究科博士課程修了、博士(社会学)。立教大学社会学部現代文化学科助教。専門はエスノメソドロジー。「音楽活動のなかのマルチモダリティ——演奏をつうじたアカウンタビリティの編成」『質的心理学フォーラム』12号(2020年)、「音楽活動のエスノメソドロジー——その動向、特徴、そして貢献可能性」『社会人類学年報』46号(2020年)、『楽しみの技法——趣味実践の社会学』(分担執筆、ナカニシヤ出版、2021年)ほか。

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