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音楽を描く言葉と身体──ふるまいのアナリーゼ 吉川侑輝

イントロ前、アウトロ後──カラオケボックスのなかの音楽と会話

後奏の後に始まるもの

 なじみ深い楽曲の多くには、前奏(イントロ)と後奏(アウトロ)が備わっている。楽曲は、後奏が終了するとともに、終了する。しかし、後奏が終了するとともに開始できることがある。話すこと(・・・・)である。音楽が響くあいだ、私たちはしばしば口をつぐまれる。会話は音楽にとっての、そして音楽は会話にとっての邪魔者となりうる。こうして楽曲の後奏(・・・・・)は、しばしば会話の前奏(・・・・・)のようなものとなる。

 図1-1に示されているのは、2017年より実施しているカラオケの共同調査(1)から得られたビデオデータの一部である。調査のひとつに、調査者2名(YとO)ならびに協力者(I)の3名で実施したカラオケがある。YとIはもともと知り合いであったが、OとIは初対面である。図1-1は、およそ20秒程度の短い動画の断片を、コミック風(2)書き起こ(トランスクライブ)したものである。図1-1を、一度、通して読んでいただきたい。カラオケボックスのなかにY、O、そしてIの3人——いずれも、画像処理などで匿名化されている——が座っているのがわかるだろう。ビデオカメラは、カラオケボックスのディスプレイが設置されている側の壁から、3名を俯瞰的に収録できるよう設置されている。

図1-1 「なにいれたの?」「…キスマスイッチ」

 図1-1 「なにいれたの?」「…キスマスイッチ」

 映像を可能な限り正確に再現するために、いくつかの工夫がなされている。吹き出し同士の重なりは、発話の重なりを表現している。たとえば6コマ目(⑥の数字が付されている)の「…あーーー」と7コマ目の「あーーー」は、先行する「…あーーー」に後続する「あーーー」が一部重ねられるような仕方で発言されている。また、会話における発言と発言の間には誰も発言しない()が生じることがあるが、この沈黙は1秒間ごとにひとつの三点リーダー「…」でおきかえている。四角でかこまれた文字は、発言ではなく、そのコマがおかれている状況の説明である。たとえば1コマ目には「後奏終了」とあるが、これは図1-1で描かれているのが、ちょうど前の歌い手が歌い終わり、後奏が終了した後のやり取りであることを意味している(ちなみに、直前の歌い手はYであり、続けてOが歌うための楽曲の前奏が始まろうとしている)。なお「キスマスイッチ」は、ふたり組のアーティスト名であるが、現実に存在するアーティスト名を匿名化したものである。 

 図1-1には、興味深い特徴が含まれている。1コマ目においてYは、Oに対して「なにいれたの?」と尋ねている。しかしこの発言は、どこか奇妙なものではないだろうか。なぜならこうしたことを聞くまでもなく、Oがどのような楽曲を選曲したかは、あとほんの十数秒も待っていれば、自ずと明らかになるはずであるのだから。Yは、これから自ずと明らかになるはずの事柄を、どういうわけだか、わざわざ聞いている。Yは、なぜそんなことを尋ねるのか。

 2コマ目における「…キスマスイッチ」というOの回答もまた、同様に、奇妙なものである。Oはどういうわけだか、わざわざアーティスト名を回答している。アーティスト名による記述は、確かに一定の正しさを備えてはいる。カラオケボックスで歌うことができる楽曲の多くは、「アーティスト」によって制作されている。したがって私たちは、任意の楽曲を、それを産みだしたアーティスト名に言及することで表現することが可能である。しかしアーティストというものは、ふつう複数の楽曲を作ってもいる。したがってアーティスト名に言及することは、楽曲をひとつに特定することを必ずしも意味しない(楽曲を1つに特定するのであれば、楽曲名を述べればよい)。すなわちこの「…キスマスイッチ」という記述は、正確さを欠いた記述(・・・・・・・・・)であるようにも見えてくる。Oは、なぜそんな仕方で答えているのか。

「なにいれたの?」

図1-2 「なにいれたの?」

 はじめに、1コマ目における「なにいれたの?」が、Oに宛てられた質問(・・・・・・・・・)であるという簡単な事柄から、確認しておきたい(3)。「なにいれたの?」はまず、すでに入力されている楽曲を尋ねるための質問である。したがってこの発言は、続けてY以外の誰かによる回答を必要とするような発言であるといえるだろう。かつこの質問は、カラオケボックスにおいてすでに楽曲を入力した人物に対する質問としてしか理解できないという意味で、誰が回答すべきかが明確な質問でもある。先に説明したように、3名のうち、楽曲の入力を完了しているのはOである。したがってこの「なにいれたの?」という質問は、Oに宛てられたものとしてのみ(・・)理解できるものであるだろう。Yはまた、視線をOの方向に向けながら質問をしている。このこともまた、質問の宛先を明瞭にすることに資するような身体動作として理解できるものであるだろう。

 それでいてこの「なにいれたの?」は、単なる(・・・)質問ではない(・・・)ということもまた指摘できるように思われる。もしこの質問が単なる質問であるなら、Yが知りたいのはOが何の楽曲を選曲したか、ということになる。しかしすでに述べたように、Oが入力した楽曲は、少し待っていれば自ずと明らかとなる。であるならこの質問は、自ずと明らかになる事柄以上の何かを明らかにするための質問であるということになるだろう。次のようなことを考えてもよい。もしOの回答に続けてOが実際にその楽曲を歌うということ以外のことが何も生じなかったとしよう。するとYは、これから生じることを本当に尋ねただけ(・・)だったのだ、ということになってしまう。仮にこの質問が単にこれから何が歌われるのかを確かめるだけであるとしたら、それこそ奇妙な(・・・)ことではないだろうか。

 したがって私たちは、楽曲を歌う前に「なにいれたの?」と尋ねることによって可能となる、単なる質問以上の事柄が何であるかを明確にする必要がある。この質問によって、何ができるようになるだろうか。あるいは反対に、この質問がなされなかったとしたら、カラオケの参加者たちは、何を損なってしまうだろうか。いまこの質問をしなければ、間もなくできなくなってしまうことがある。それは、Oが入力した楽曲について話すこと(・・・・)である。もしOが選択した楽曲が、まさにその楽曲が開始されることによって明らかになったとする。しかし、ひとたび前奏が開始されると、カラオケボックスにおける会話は、それまで可能であったような仕方ではできなくなる。カラオケはうるさい。会話は音楽(前奏)にとっての、そして音楽(前奏)は会話にとっての邪魔者となりうるのである。Oが歌う楽曲について話すことは、実際にそれを歌うOにとって、迷惑であるかもしれない。したがって楽曲について話すことができる次の機会はおそらくずいぶん後、そう、Oの歌う楽曲の後奏が終了した後である。これに対して、「なにいれたの?」質問を楽曲が開始される前に産出すれば、選曲された楽曲が何であるかを、楽曲が始まる前に知ることができるだろう。楽曲開始前になされる「なにいれたの?」という質問は、楽曲が開始する前に楽曲について話す機会を作り出すことを可能にするのである。

 楽曲について話すことなど、歌い終わった後にすればよいとも考えられるかもしれない。確かに、楽曲に対する反応の機会は、後奏の後にも訪れる。しかし楽曲の前と後では、話すことができる内容が、ずいぶんと異なるように思える。たとえば、実際になされた歌唱に対する反応を、前奏の開始前にするなどということはできそうにない。実際なされた歌唱について話す機会は、後奏の後にのみ(・・)登場する。反対に、楽曲の開始前は、楽曲に対する評価を、実際になされた歌唱への評価をしなくてもすることができる唯一の機会であるといえる(他の参加者の歌唱について話すことを避けたくない人などいるだろうか)。さらには、後奏の終了後というタイミングが次の楽曲の前奏の前でもあるという点にも、注意をむけておきたい。ある楽曲の後に訪れる間は、次の楽曲への(事前の)反応がなされうる機会でもある。すなわちある曲間においては、いま歌い終わった楽曲とこれから歌われる楽曲という、少なくともふたつの楽曲に対する反応がなされうる。カラオケボックスにおける曲間とは、常にふたつ以上の楽曲について話す可能性が重なり合うような、いわばデリケートな(・・・・・・)時空間なのである。したがって、次のようにいえるだろう。楽曲開始前における間はその曲について話すことをするための最初の機会でありうるが、それは常に最後の機会ともなりうる。楽曲について話すことが楽曲を歌い終わった後であればいつでもできるかは、それほど明らかではない。

 Yによる「なにいれたの?」は、カラオケボックスにおける曲間という時空間が備える繊細さへの対処として理解できるように思える。いま述べたように、この質問は、楽曲が始まる前にその楽曲について話すための機会を作りだす。この質問はまた、前の楽曲について話すことと次の楽曲について話すこととの間の区別を枠づけることにも利用可能であるだろう。1コマ目からのやりとりは、Yが歌った楽曲の後奏の後に始まっている。であるならいま訪れたこの曲間では、Yの楽曲について話すことと、Oの楽曲について話すことの、ふたつがなされうる。このときYは、Oが選曲した楽曲を事前に訪ねることによって、自らが楽曲を歌った後の曲間における話題の対象を、Oが選曲した楽曲に向けることができる。「なにいれたの?」は、カラオケボックスにおける反応の対象となる可能性を、いま楽曲を歌い終わったY自身から、これから楽曲を歌うことになるOに譲り渡すための質問なのである。

「…キスマスイッチ」

 図1-3 「…キスマスイッチ」

 なぜOはYの質問に対してアーティスト名だけ(・・)を答えているのか、という問題についてはどうだろうか。「キスマスイッチ」は、Oがすでに入力した楽曲を制作したアーティスト名であるにすぎない。Oが回答しているのは、Oが選択した楽曲ではなく、いわばOが選んだ楽曲を含む集合のようなものである。すでに述べたように、これは一定の正しさを備えた記述ではあるけれども、楽曲をひとつに同定することができないような、いわば「曖昧な」記述でもある。ところでこの回答はその他に、少なくともふたつの特徴を認めることができる。第1にOは、この「…キスマスイッチ」という回答を1秒間の沈黙(「キスマスイッチ」の前の「…」によって表現されている)を含めながら行っている。この沈黙はOの回答が、即座には答えることができなかったような回答であることをほのめかしているだろう。単に楽曲の名前を回答すればOはYの質問に対して完全な回答を与えられるのであるから、この1秒間の沈黙は、かれが完全な回答を単にしなかっただけでなく、いまなされた「キスマスイッチ」という回答が完全な回答をしなかった理由でもあるとも理解できるものとしてなされている。第2にOは、身体の向きを前方へと維持したまま、顔だけをYのほうに向けながら回答している。このふるまいは、これからOがYと話すことを始めるのでなく、Yとのやりとりがこれから続いてはいかないのだというOによる見立てを提示するものとなっているだろう。これから一定の時間話すことをするのであれば、顔だけ向けるのでなく、身体ごと向けてしまえばよい(4)。こうしてOによる「…キスマスイッチ」という回答の「曖昧さ」は、何らかの狙いにおいてあえて(・・・)なされたものとして提示されている。ではその狙いとは、何であろうか。

図1-4 小刻みにうなずく

 続けて観察できるのは、当のYにはこの「曖昧な」記述が狙うものが、把握できていないということである。3コマ目においてYは、小刻みに、何度か頷いている。頷いているのだからYは、Oの狙いを理解したのだろうか。少し、違うと思う。確かにこのふるまいを通じてYは、まずOの回答を聞きとったのだということを、最小限の仕方で示すことができているだろう。他方でこのふるまいは、併せて別の事柄を示してしまうようにも思える。ふたつの特徴がかかわっている。第1に、頷きつつもYは、顔をOのほうに向け続け(・・)ている。Oとのやりとりは単に完了していないだけでなく、まだ完了すべきではないものとされている。Yはいわば、Oが回答した内容(「キスマスイッチ」が制作した楽曲を選択したということ)は聞きとったけれども、そのように回答することがなにを意味しているのかが未だ明らかではない、と主張しているのである。第2に、頷きつつもYは、言葉を発さない(・・・)ことをしている。Yはやりとりの未完を主張しつつも、完了のためになにが必要であるかをY自身で提示することができないのである。別言すれば、Yからすれば、Oの方こそがやりとりを続けるのでなくてはならない。この小さな頷きは、Oの回答にはまだ明かされていない事柄があるだけでなく、Y自らが付け加えられる事柄がないことを併せて提示することで、Oのほうが発言を続けることを促すようなふるまいとなっている。

 しかしながら、4コマ目におけるOのふるまいは、Yのスタンスとは対照をなすものである。Oは何も述べることなく、顔の向きを、身体を向けていた方向に戻している。視線の先にあるのは、カラオケボックス内に設置されたディスプレイである。Oは顔の向きを元向いていた方向へと戻すことで、いままさにこれから歌唱を開始するための姿勢をとり、Yとのやりとりから離脱する。それはYが主張する不足をO自身のほうから付け加えることはしないのだというスタンスを提示するふるまいであり、またOによる先立つ回答(「キスマスイッチ」)が、すでに十分な回答であったことを主張するふるまいでもあるだろう。

図1-5 「ふたりぐみな流れだと思って」

 したがって、続く5コマ目におけるOの再参加とともに開始されるやりとりは、本来であれば付加する必要の無い情報をわざわざ(・・・・)付加したものとしてなされている。Oは視線を再びYのほうに向けなおしながら、「ふたりぐみな流れだと思って」と述べている。この「ふたりぐみな流れだと思って」という発話が備えているひとつの特徴は、2コマ目における「キスマスイッチ」に付け加えることが可能な発言としてなされているということである。つまりこれらふたつの発言は、組み合わせられることによって「ふたりぐみな流れだと思って」「キスマスイッチ」の楽曲を入力したのだという、一続きの発言としても聞きうるものとなっているのである。「ふたりぐみな流れだと思って」という発言はまた、楽曲を選んだ際にO自身が抱いていた選曲の「意図」を伝えるものであるだろう。Oは一度完了した2コマ目における「…キスマスイッチ」という発言に、それを行ったさいの意図を付け加えることで、先立つ自分の正確さを欠いた(・・・・・・・)回答の含意を明かしているのである。

 付け加えられた「ふたりぐみな流れだと思って」はまた、「キスマスイッチ」を選曲したときに抱いていた意図が単なる意図でなく、気の利いた(・・・・・)意図でもあると主張するものである。Oが選曲した楽曲は、その前にYとIが歌った楽曲との連続性において選ばれているものだったのである。Oはまた、「指さし」の形をした右手を利用し弧を描くという仕方、すなわち指さしを、カラオケボックスに共在するふたりの人物(IとY)が含まれていることが理解できる仕方で描いている。Oは、過去から現在に至るまでに実は存在していた「流れ」を目に見える弧の動きとして具体化し、自らがおこなった選曲をその「流れ」の中に位置づけているのである。

 したがってここで主張されているのは、2コマ目におけるOの「…キスマスイッチ」という回答の含意が、そもそもYにも理解できるように組み立てられていたということであるだろう。一連のふるまいは、2コマ目におけるOの回答が、楽曲名でなくアーティスト名であったからこそ、理解が容易なものとなっている。「…キスマスイッチ」という回答は、「ふたりぐみ」という流れと関連づいているような、気の利いた選曲であったことを主張するための表現となっているのである。Oが選曲のさいに抱いていた「ふたりぐみな流れだと思って」という意図は、「…キスマスイッチ」と述べた時点において、すでにほのめかされていた。Oが先立つ発言の含意を自ら明かさなくてはならなかったのは、Yがこの記述の狙いを把握することができなかったために、単に結果として(・・・・・)そうなったということに過ぎない。「…キスマスイッチ」はいわば、Oによる選曲の含意についての、いわばヒント(・・・)のような回答だったのである。

カラオケボックスのなかの関心

 図1-6 ふたつの「あーーー」

  O自身の選曲意図がすでにほのめかされていたことは、ほかならぬIとYが、共に認めている。ごく簡単に、素描しておきたい。6コマ目においてYは「…あーーー」と述べている。しかしYは単に「あーーー」と述べているのではない。顔を上に向けながら、そして1秒間程度の沈黙(…)に後続する仕方で述べている。顔を上に向けることで、何をしているのか。Yは、かつて存在していたが、いまやカラオケボックスの中にはないもの、すなわち自らが選曲した楽曲を想い起すことをしているのではないだろうか。Yは、意識をむける対象がこのカラオケボックスのディスプレイにも、テーブルの上にも、そしてIとOのいずれかの方向にもないのだということを示しつつ、それでいて先ほどまでは認識可能であったものを認識しているのである。このふるまいは、Oが明示した「ふたりぐみの流れ」が、確かにすでに存在していたのだということを認めるものであるだろう。「あーーー」が、1秒間程度の沈黙(…)のあとに産出されていることにも、着目しておきたい。もし「ふたりぐみの流れ」がすぐに気づける含意であるなら、Oが「キスマスイッチ」というヒントを述べたまさにそのときに、Yはその含意に気づくべきであっただろう。したがってそれは、いま即座に気づくべきではなく、気づくために一定の時間を要すべきことなのである。Iもまた、Yと同じふるまいを作り出している。続く「あーーー」は、Oが明かした「ふたりぐみの流れ」をIもまた認識したことを伝えているだろう。Iはさらに、自身の「あーーー」をYの「…あーーー」に途中から重ねていることで、Yと同じ対象を想い起したのだという立場を示している。いわばYとIは、Oの明かす「ふたりぐみの流れ」をすでに認識可能であったものとして、同じものを共に想い起し、そして同じものを共に認めることをしているのである。

 図1-1のトランスクリプトには興味深いふるまいが、いまだいくつも残されている。たとえば、私たちは「無視する」ことを、それを述べることとともにできるだろうか。できないのであるとしたら、8コマ目におけるIの発言は、どこかパラドックスめいたものとなってはいないだろうか。あるいは、10コマ目においてOは、ディスプレイの方を向きながら、自らの「思い」を表明している。なぜOは、いまここで自らの思いを表明しているのか。このことによって、一体何がなされているのか。……等々。

 とはいえ、最初に提示されたふたつの見かけ上の「奇妙さ」には、一定の見通しが与えられたように思える。「なにいれたの?」という質問によってYは、自らの楽曲がカラオケにおける話題の対象となる可能性を、Oに譲渡していたのであった。またOは、Yの質問に対してアーティスト名(「キスマスイッチ」)を回答することで、楽曲同士の関係を気にしていたという自らの狙いを明かすためのヒントを提示していたのである。後奏が終了するとともにわたしたちは、何かを話すことができるようになる。曲間というこの限られた時空間でなにを話すべきであるかは、カラオケ参加者たちの関心である。「なにいれたの?」「…キスマスイッチ」はともに、曲間においてとりくまれている音楽の記述が、カラオケボックスにおける話題の対象を制御したり、あるいは参加者による気の利いた献身を明示したりするための適切さを備えているということを教えてくれる。

 音楽が響くあいだ、私たちはしばしば口をつぐまれる、と述べておいた。しかしカラオケ調査のビデオデータを見直すなかで、気づいたことがある。カラオケの参加者たちは、実際には楽曲が開始された後であっても、他の参加者たちと実によく話している。前奏が開始された後、参加者たちは、一体何を話しているのであろうか(うるさいカラオケボックスにおいてそれでも話さなくてはならないこととは一体何だろうか)。しかし残念なことに、彼らが何を話しているのかは楽曲や歌にかき消され、ビデオデータの音量を上げても、耳をこらしても、あるいは「スロー再生」をしても、もはや聞きとることができない。とはいえ、こうも思う。歌っている最中の会話など、私たちに聞きとれてはいけないのだと。前奏が開始してからの会話は、単に楽曲の響きにかき消されるだけでなく、歌う参加者の迷惑にならないよう、控えめな声でなされる。それはそもそも、話す参加者たち以外には聞こえてはならないように組み立てられた会話なのである。そのような会話を、無理に聞きとろうとする必要はない。カラオケボックスにおいて何がどのように話されるか、それはあくまでもカラオケの参加者たちの関心である。そこで話されていることは、参加者たちだけが分かっていればよい。

 

(本稿の執筆過程において、共同研究者の小田中悠(東京大学)ならびに池谷のぞみ(慶應義塾大学)両氏と、データセッション(2021年10月5日開催)を実施した。記して感謝する。)

 

(1) 参考までに、これまでの調査に基づく研究成果は、主だったものとしては以下に掲載されている。小田中悠/吉川侑輝、2018、「日常的な相互行為における期待の暗黙の調整——E. Goffman のフォーマライゼーション」『理論と方法』33(2): 315-330。吉川侑輝/小田中悠、2018、「音楽とコンテクスト再考——カラオケにおいて選曲理由を提示すること」カルチュラルタイフーン2018(龍谷大学、6月23日)。吉川侑輝、2021、「「歌いたい曲がない!」——カラオケにおいてトラブルを伝えること」秋谷直矩/團康晃/松井広志編『楽しみの技法——趣味実践の社会学』ナカニシヤ出版、149-169頁。

(2) ビデオデータを書き起こす方針については、以下を参考にした。 Laurier, E., 2014, “The Graphic Transcript: Poaching Comic Book Grammar for Inscribing the Visual, Spatial and Temporal Aspects of Action,” Geography Compass, 8(4): 235–248.

(3) 日常会話におけるいわゆる順番割り当ての技法については、以下の論文の67-84頁において詳細に議論されているので、必要に応じて参照されたい。ハーヴィ・サックス/エマニュエル・A・シェグロフ/ゲール・ジェファソン、2010、「会話のための順番交替の組織——最も単純な体系的記述」『会話分析基本論集——順番交代と修復の組織』(西阪仰訳)世界思想社、5–153頁。

(4) 顔や身体の向きと会話の展開の関係については、以下の文献を参照のこと。Schegloff, E. A., 1998, “Body Torque,” Social Research, 65(3): 535–596. また、上記論文の平易な紹介や発展的研究については、以下の文献を紐解いていただきたい。西阪仰、2010、「道具を使うこと——身体・環境・相互行為」串田秀也/好井裕明編『エスノメソドロジーを学ぶ人のために』世界思想社、36–57頁。

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著者略歴

  1. 吉川侑輝

    1989年生まれ。慶應義塾大学大学院社会学研究科博士課程修了、博士(社会学)。立教大学社会学部現代文化学科助教。専門はエスノメソドロジー。「音楽活動のなかのマルチモダリティ——演奏をつうじたアカウンタビリティの編成」『質的心理学フォーラム』12号(2020年)、「音楽活動のエスノメソドロジー——その動向、特徴、そして貢献可能性」『社会人類学年報』46号(2020年)、『楽しみの技法——趣味実践の社会学』(分担執筆、ナカニシヤ出版、2021年)ほか。

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