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音楽を描く言葉と身体──ふるまいのアナリーゼ 吉川侑輝

ピアニストの超え方――グレン・グールドのクオドリベット

伝説前夜

 ありきたりな(わく)にどうしても収まらないように見える人というものがある。カナダのトロント出身の音楽家グレン・グールドは、恐らくそのひとりであるだろう。グールドは、自分が本当になりたいのはピアニストではなく作曲家なのだと、キャリアの最初期から、繰り返し公言していた(1)。実際、作曲もした。1955年には、《弦楽四重奏》作品1が完成している。「作品1」は翌年演奏され、出版もされた。伝説的なデビュー盤となる《ゴルトベルク変奏曲》の演奏が発売されたのと同じ、1956年のことである。1962年のあるインタビューにおいてグールドは、こう言っている。「私は自分のことを、音楽におけるある種のルネサンス的人間だと思っていました。万能型の教養人です」(2)。ルネサンス的人間、少なくとも彼は自身をそのように提示(・・)しようとした。だからグールドは、ピアニストとして活動するなかで、自身が単なる(・・・)演奏家ではない(・・・)のだということを、いつだって示すことができるのでなくてはならなかった。

 以下に示す断片2-1は、グールドが、1955年当時ニューヨークに所在していたコロンビア30丁目スタジオで、デビュー盤となる《ゴルトベルク変奏曲》を録音した際に行われたやり取りから引用されている(3)。スタジオ内には当時22歳の若きグールドならびにディレクターのハワード・スコットがおり、またエンジニアのフレッド・プラウトらも作業にあたっている(プラウトらは断片2-1には登場しない)。レコーディングの過程において製作されたテープには、いくつものアウトテイクだけでなく、グールドらの会話が残されている。グールドはピアノの音を拾うための録音用マイクのそばで話しているが、スコットたちの方はというと、音が遮断された調整室(コントロール・ルーム)から、スピーカー越しにグールドと話しているようである(4)。レコーディング作業は、1955年6月10日ならびに14日から16日にかけて実施されている。会話はその最終日からのものである。

断片2-1 グールドのクオドリベット(1955年6月16日)

グールド:ええと、ちなみに、この間の夜、浴槽のなかでひらめいたクオドリベットがあるんです。そのうち7月4日にコンサートを開かないかと声がかかるでしょうね、きっと。どうするかというと、《星条旗》の繰り返しを省いて、《ゴッド・セイヴ・ザ・キング》の13小節目から入りを開始することでそれを思いついたんです。そして、《ゴッド・セイヴ・ザ・キング》を繰り返して弾き、《キング》の後半で和声を変えて、転調します、あー、上主音の調域(スーパートニック・リージョン)にね。これが本当にすばらしい効果をあげるんです。聴いてください。最初に《キング》の途中から始めます、あー、《星条旗》の前にね。(こんなです。)

グールド:♪演奏♪

グールド:残念ながら最後に平行オクターヴがありますけど、それ以外は美しく響きます。

スコット:(これは)すっばらしい!

[参考:実際の音声(10:46~)]

 可読性を高めるためこの書き起こし(トランスクリプト)(5)には、いくつかの工夫が施されている。まず、極めて短い()や、調整室にいるスコットらが発言をする際にスイッチを入れるマイクのノイズ音などは、書き取っていない。また発話が明瞭でない部分は、聞き取りの候補を丸括弧で括っている(グールドの「(こんなです。)」などがそれである)。グールドのピアノ演奏については楽譜に書き起こすことはせず、単に「♪演奏♪」と簡略的に表記している。さらに《星条旗》と《ゴッド・セイヴ・ザ・キング》といった楽曲名と判断できる表現やその省略形(「《キング》」など)については、二重の山括弧で括っている。

 この会話の中で生じているのは、レコーディング作業のひとこまとしては、やや逸脱的な出来事であるように思える。そうグールドは、レコーディングの最中に、自作の楽曲(・・・・・)をスコットたちに披露している。バッハ作《ゴルトベルク変奏曲》は30の変奏から構成されており、最後を飾る第30変奏はいわゆる「クオドリベット」という、バッハが生きていた当時よく知られていた旋律を複数重ねる形式で作曲されている。この会話の少し前、第30変奏を演奏しようとするグールドは「クオドリベット、テイク2」を宣言する。耳慣れないこの表現を聞いたスコットは、グールドに、それを尋ね返す。グールドは、第30変奏に含まれる旋律のピアノでの演奏なども交えながら、クオドリベットの形式的な説明を行う。断片2-1は、グールドからの説明がなされたその直後に開始されている。周知のように、《星条旗》はアメリカ合衆国の国歌であり、《ゴッド・セイヴ・ザ・キング》はイギリスの——事実上の——国歌である(6)。会話のなかでグールドは、これら2つの賛歌(アンセム)を組み合わせた自作のクオドリベットがあるのだと述べ、それを作り出す過程を説明し、そのクオドリベットをスコットらに披露しているのである。

 グールドが単なる(・・・)演奏家であるなら、レコーディングの最中に、自作の楽曲を披露することなどしなくてもよいだろう。この会話断片は、若きピアニストが、自身が単なる演奏家ではない(・・・)のだということを、スタジオにいる共同作業者たちに理解してもらうやり方の一端を捉えているように思える。

「浴槽のなかで」

ええと、ちなみに、この間の夜、浴槽のなかでひらめいたクオドリベットがあるんです。そのうち7月4日にコンサートを開かないかと声がかかるでしょうね、きっと。

 グールドはなにも、自作のクオドリベットについての話題を、何の脈絡もなく切り出したわけではない。彼がまず気を配っているのは、自らの発言を先立つ会話の中の話題と関連づけながら開始するということである。グールドは、「ええと、ちなみに、」と述べることから発言を開始する。このことによって、以降の発言が、直前まで進行していた話題と関連付けてなされることが示される。実際のところ、続けて述べられるのは、グールド自身が「ひらめいた」自前の「クオドリベット」があるのだということである。すでに述べたように、直前までなされていたのは、第30変奏がクオドリベットであることを知らなかったスコット——それどころか彼は、クオドリベットそのものについての知識を持ち合わせてもいなかった——に対し、その一般的な説明を与えることであった。上の発言はこうして、直前の話題と、クオドリベットについての話題という点において連続したものとして開始されている。

 かくして条件づけられた関連性のなかで、グールドは、自身がクオドリベットを単に着想した(「ひらめいた」)という以上の(・・・)事柄を伝えている。単にクオドリベットを作曲したのであれば、「ひらめいたクオドリベット」とだけ述べればよい。しかし実際のところ、グールドは、自作のクオドリベットについて「この間の夜、浴槽のなかでひらめいたクオドリベット」なる記述を与えている。楽曲についてのこの特徴的な記述は、聴き手に対していくつかの事柄を理解可能にするように思える。

 まず第1に、グールドがクオドリベットを、何の変哲もない日常生活を送る中で着想したということである。グールドはある「夜」、「浴槽」に入っているとき、クオドリベットを着想したのだと言う。夜に入浴することとはおそらく、誰もがなしうるような、特別ならざる日常的なルーティンのひとつであるに違いない。スコットを含め、調整室にいるメンバーたちもまた、日ごろから浴槽に浸かりうる。それに対してクオドリベットを着想することは恐らく、入浴と同じ意味においてはありふれた出来事ではないだろう。誰もがなしうる日常的な営みの中で、しかしグールドにはクオドリベットの着想というとても日常的には見えない出来事が到来したのである。

 何気ないこの発言はまた、クオドリベットの着想という(たぐい)(まれ)なる出来事が、入浴という類稀ならざ(・・)る営みのなかで訪れた理由を、併せて伝えるものともなっている。そう、この若きピアニストにとって、クオドリベットを着想するなどといったことは、決して特別なことでも何でもないのである。この発言は第2に、グールドの生活における音楽の遍在性を伝えている。一般に入浴とはおそらく、その手順を逐一考えなくとも進めることができるようなルーティンのひとつであるだろう(料理や掃除などと比較して考えてみてもよい)。であるなら、グールドがもし普段から音楽のことばかり考えているような人物であれば、彼は、それを「浴槽のなか」においても続けることができる。反対に、普段から音楽のことを考えなどしない人物が「浴槽のなかで」のみ(・・)音楽のことを考えるなどということは、ありそうにない。グールドは文字通りいつだって音楽のことばかり考えているような人物なのであり、まさにこのことが、入浴中にクオドリベットを着想するという出来事を条件づけたのである。

 むろん入浴中にクオドリベットを着想するなど、誰にでもなせる芸当ではない。この発言は第3に、グールドの秀でた音楽能力をほのめかすものともなっている。「浴槽のなか」はくつろいだり落ち着いたりすることができるような場所ではあっても、決して、作曲に適した空間ではないだろう。浴槽には少なくとも、クオドリベットを作り出すために利用可能な道具など用意されていない。つまり、当然のこと浴槽にはピアノなど無いし、楽譜も、筆記用具も、そして五線紙も無い。グールドがクオドリベットを着想するに際して利用可能であった道具と素材の全ては、彼の頭の中にだけ(・・)あったのである。グールドはクオドリベットを自らの頭の中で一から作り上げることができたのだ、とこの発言は伝える。普段から音楽のことばかり考えている演奏家ならいくらでもいるだろう。だが頭の中でクオドリベットを作り出してしまう演奏家となると、どうであろうか。

創意と工夫の確立

どうするかというと、《星条旗》の繰り返しを省いて、《ゴッド・セイヴ・ザ・キング》の13小節目から入りを開始することでそれを思いついたんです。そして、《ゴッド・セイヴ・ザ・キング》を繰り返して弾き、《キング》の後半で和声を変えて、転調します、あー、上主音の調域にね。これが本当にすばらしい効果をあげるんです。聴いてください。最初に《キング》の途中から始めます、あー、《星条旗》の前にね。(こんなです。)

 グールドによって続けられるこの発言は、クオドリベットの一般的な特徴を踏まえれば、ある程度の必然性があるように思える。この発言においてはまず、グールドがクオドリベットの説明を与えていると見ることは容易(たやす)い。クオドリベットは、複数のよく知られた旋律を組み合わせることによって構成される。であるなら、それを披露することに先立ち、クオドリベットがいかなる素材を利用しているかを説明することがなされてよいだろう。グールドに従えば、彼のクオドリベットには、2つの旋律が含まれている。《星条旗》と、《ゴッド・セイヴ・ザ・キング》がそれである。そして彼はそれらの旋律を、然るべきやり方を通じて処理することで、ひとつの楽曲へとまとめ上げているわけである。

 グールドによるこの説明はしかしながら、クオドリベットの素材についての単なる(・・・)説明としては、どこか過剰な詳細を備えてはいないだろうか。彼の説明はいくつかの意味で、調整室にいるスコットらに配慮されたものとは言い難い特徴が備わっている。当然のことスコットらの手元には、いまグールドが口にしたばかりの2つの賛歌の楽譜など、用意されていない。であるにも(かか)わらずグールドは、説明のなかで小節番号(「13小節目から」)に言及することを避けていない。グールドはまた、いくつかの専門的な音楽用語を使用することを回避してもいない。「和声」はともかくとして、「上主音の調域(スーパートニック・リージョン)」とは、いかにも玄人向けの表現ではないだろうか。グールドが説明するまでスコットが「クオドリベット」の一般的説明を必要としていたという直前の経緯を踏まえても、これらの記述はスコットらの手に余るものであるだろう(スコットだけではない。調整室には、プラウトらエンジニアもいるのである)。そうこの記述は、スコットらに対してクオドリベットの素材を単に説明するのみならず、クオドリベットの作出に際してグールド自身によってもたらされた発想と(こだわ)りを、具体的な水準において明かすための詳細を含んだものなのである。

 スコットたちの知識状態を少なくとも部分的に置き去り(・・・・)としながらもグールドは、何をしているのであろうか。グールドが利用している素材は、誰もが入手可能な2つの賛歌であるに過ぎない。他ならぬグールド自身が、この2つの賛歌をそのようなものとして提示している。グールドは《星条旗》と《ゴッド・セイヴ・ザ・キング》について、タイトルにのみ言及している。それぞれがどのような曲であるかといった説明は、なされない(たとえばグールドは、「アメリカ国歌の《星条旗》」などと言うことをしない)。グールドはクオドリベットを、説明など不要な、あくまでも誰もが知っているべき(・・)旋律を用いることによって作り上げたのである。であるなら単にそれらをクオドリベットの素材として利用したのだと伝えるのみでは、そのクオドリベットが他ならぬグールド自身による作であると主張することの方に、危うさが生じうる。それがグールドの(・・・・・)クオドリベットであると述べるためには、単に誰もが入手可能な(・・・・・・・・)素材を組み合わせただけでなく、それをグールドの(・・・・・)創意と工夫のもとで利用したことを、いわば「証明」してみせる必要があるのである。このときクオドリベットの詳細に言及しながら具体的にどう手を加えたのかを明かすことは、その創意と工夫を主張するための、ひとつの強力なやり方となるであろう。グールドによるこの過剰にも見える説明はこうして、クオドリベットにおける、彼自身の能力に由来する部分(すなわち、グールドの創意と工夫)とそうでない部分(よく知られた2つの旋律)の両方を、共に提示するための詳細を含んだものなのである。

残念ながら最後に平行オクターヴがありますけど、それ以外は美しく響きます。

 クオドリベットを披露してみせた直後のこの発言においてグールドは、その美点(「美しく響きます」)だけでなく、欠点を伝えている。クオドリベットの「最後」に含まれる「平行オクターヴ」である。グールドがこの特徴をまずは否定的なものとして提示していること自体は、それが「残念ながら」生じたものだとか、「それ以外は」美しく響くのだとか述べられていることから明らかであるだろう。

 であるならグールドは、クオドリベットを披露することに続けて、自らの能力の限界を告白しているのであろうか。そうではないように思える。欠陥を提示することによって私たちに明かされる、欠陥以上の(・・・)事柄がある。それは、その欠陥が単なる(・・・)欠陥でなく、話し手によって既に認識された(・・・・・)欠陥であるということである。「平行オクターヴ」という表現は、いま再び「和声」や「上主音の調域」にも似て、グールドがクオドリベットの欠陥を本当に把握していることを示すための具体性を備えているであろう。さてこの「平行オクターヴ」が単なる(・・・)欠陥であるなら、取り除いてしまえばよい。グールドがそれをする能力を持ち合わせていないなどということは無いのだ、ということを私たちは知っている。先立つ発言においてグールドは、彼がクオドリベットを創意工夫とともに構成するに足る十分な音楽能力を備えていることを、その記述を通じて実演しているのだから。むろん反対に、クオドリベットの中に欠陥をあえて作り出す必要なども無い(欠陥が意図的に作り出されているのであれば、そちらの方にこそ説明が必要であるだろう)。「平行オクターヴ」なるこの欠陥は、グールドの手に余るようなものでも、あえて作られたもののどちらでもないのである。既に認識された欠陥をわざわざ(・・・・)提示することはこうして、それがいかなる理由によってもたらされた欠陥であるかについての、グールドの理解を伝える。「平行オクターヴ」は、よく知られた旋律を組み合わせるという、クオドリベットに固有の作曲方針によってもたらされた欠陥なのである。すなわちそれは単なる(・・・)欠陥でなく、クオドリベットという制約のもとで生じ、ゆえにグールドに直ちには帰属すべきでない欠陥として、提示されている(7)。 

ルネサンス的人間

 断片2-1にはまだ、いくつもの興味深い特徴が含まれる。「そのうち7月4日にコンサートを開かないかと声がかかるでしょうね、きっと」というグールドの発言は、明らかに冗談めいている。7月4日がアメリカ合衆国の独立記念日だからといって、クオドリベットを作ったことでコンサートの開催を打診されることなど、ありそうにない。ではグールドは、なぜここで冗談めいた発言を挿入しているか。「すっばらしい!」というスコットの反応もまた、目を引く。実のところディレクターのスコットは、ジュリアード音楽院でピアノを学んだ経験をもつ(8)。だからというわけでもないけれども、彼になせる反応はきっと、「すっばらしい!」以外にいくらでもあるはずである。だがスコットの反応は、その賛辞の大きさとは裏腹に、この上なく簡素な形式を備えている(たとえば、どの箇所がどう素晴らしいのかといった論評はなされない)。少なくとも私には、この反応によってスコットが、ディレクターという職業に徹することをしている(つまり、あくまでも単なる(・・・)ディレクターであることに留まることをしている)ように見えてならない。

 差し当たり今は、単なる(・・・)演奏家ではない(・・・)のだというグールドの自己提示に含まれるいくつかの方法に、目を向けておきたい。「浴槽のなかで」という記述は、彼の卓越した音楽能力をほのめかす。クオドリベットを作り出すのに必要とされる創意工夫を記述してみせることはまた、彼がその真正(オーセンティック)な作者であるという主張を条件づける。認識された欠陥への言及はさらに、その欠陥をグールド自身から切り離すことを可能にする。私たちはむろん、グールドがこうしたふるまいを通じて、単に演奏家以上の何者かであるふり(・・)をしている、と主張したいのでは決してない。そうではなく、演奏家を超えることとはあくまでも、単にそう名乗ることに留まらず、それにふさわしい諸々の能力を、具体的なふるまいの水準においてまずは実演して見せることである他ないのである。そのように目撃されうる可能性なくして、ピアニストを超えた者であることはできない。私たちは、調整室にいるスコットら共同作業者たちにとっても目撃可能であったはずのふるまいの一端を、残された録音から、もう一度丁寧に目撃し直そうとしているに過ぎない。

 グールドの提示はなにも、《ゴルトベルク変奏曲》のレコーディングの過程に、無関連に投げ込まれているわけではない。既に見たように、断片2-1におけるやりとりはそもそも《ゴルトベルク変奏曲》の第30変奏(クオドリベット)のテイクを録音するという状況が発端となっている。この意味でグールドが自前のクオドリベットを作ったのだと述べることは、彼が第30変奏を含む《ゴルトベルク変奏曲》を、並み外れた深い理解のもとで演奏しているという見えに結びつくであろう。演奏が深い理解のもとでなされているというこの見えが、まずは演奏家にとって重要であることは、言うまでもない。少なくとも断片2-1において、演奏家として特別であることは、彼があくまでもひとりのピアニストであることから開始されている。

 1964年、グールドは演奏会をその後行なわないことを宣言し、実行した。いわゆる「コンサート・ドロップアウト」である。自らを「ルネサンス的人間」と表現したあのインタビューの、2年後のことであった。グールドは、単なる(・・・)演奏家であることを、本当にやめてみせた。では繰り返し公言していたように、彼は作曲家となったか。しかしながら、グールドの「作品2」が発表されることは、ついに無かった。彼は、作曲家とはならなかったのである。ただし、創造は続けられた。よく知られているように、彼は数多くのレコードのみならず、ラジオやテレビ番組、そして著述などといった多種多様な創造を、1982年にこの世を去るまで生み出し続けた(9)。グールドの創造性は、もはや単なる演奏家とも単なる作曲家とも言い難いやり方を通じて発揮されるようになっていた。単なる(・・・)ピアニストであることをやめたとき、グールドは単なる(・・・)作曲家である必要もなくなったのである。グールドは、演奏家でも作曲家でもなくなった。単なる(・・・)提示を越えてグールドは、本当の(・・・)「ルネサンス的人間」となったのであろうか。

 

(本稿の執筆過程において、「社会言語研究会」(20211226日開催)の参加者からのコメントなどを得る機会があった。また、岡沢亮(明治学院大学)、宮﨑悠二(東京大学大学院)、そして武内今日子(東京大学大学院)の各氏からもコメント等をいただいた(20211219日)。音楽にかかわる表現の一部については、日下舜太(2022112日)ならびに、白鳥まあこ(アパラチアン州立大学)、そしてゲイリー・R・ボイェ博士(アーネストン音楽図書館、アパラチアン州立大学)(2022122日)ら各氏の助言を得る機会があった。記して感謝する。)

 

(1) 宮澤淳一、2004、『グレン・グールド論』春秋社、7-10頁。

(2) グレン・グールド、2017、「引退願望、作曲家への夢」ジョン・P・L・ロバーツ編『グレン・グールド発言集』(宮澤淳一訳)みすず書房、195–208頁。

(3) この会話を含んだテープはCD化のうえ何度か市販されている。『ゴールドベルク変奏曲——メモリアル・エディション(原題:A State of Wonder: The Complete Goldberg Variations)』(2002年、Sony Classical)、トラック2(CD3)。『1955年のゴールドベルク変奏曲——伝説の誕生』(2006年、Sony Classical)、トラック33。『ゴールドベルク変奏曲——コンプリート・レコーディング・セッションズ1955』(2017年、Sony Classical)、トラック21(CD5)。

(4) 以下の記述に基づく。ローベルト・ルス、2017、「今回のリリースにあたって」ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル編『ゴールドベルク変奏曲——コンプリート・レコーディング・セッションズ1955 日本語スペシャルブックレット』(宮澤淳一訳)17頁。

(5) 言うまでもなくグールドらのやりとりは、もとは英語でなされたものである。現存するテープが市販されていることは既に述べたが、前述した『ゴールドベルク変奏曲——コンプリート・レコーディング・セッションズ1955』に付属の長大な解説を含んだブックレットには、会話の書き起こしが掲載されている。本稿ではこの書き起こしを、録音をもとに修正のうえ訳出している。書き起こしの邦訳については日本語版ブックレットも参照のこと。2017、「グールド、クオドリベットと即興について語る」ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル編『ゴールドベルク変奏曲——コンプリート・レコーディング・セッションズ1955 日本語スペシャルブックレット』(宮澤淳一訳)13頁。

(6) 1955年はすでにエリザベス2世女王の在位が開始しているが、グールドは一貫して「クイーン」でなく「キング」と言っている。

(7) 更なる議論のため記しておくと、「平行オクターヴ」とグールドが呼ぶものは、彼の演奏のなかに実際に見出すことができる。クオドリベットにおいて重ねられた《星条旗》と《ゴッド・セイヴ・ザ・キング》がともに含む最終音たる主音への2度下行によって生じる平行8度が、それである。彼はつまり、平行する2つの声部がともに素材となった賛歌の一部となっているために、「残念ながら」グールド自身によってはそれを動かせないのだと説明しているわけである。なお、「上主音の調域」への「転調」を含め、彼の発言のほかの部分もまた、その対応物を演奏のなかに見出すことが可能である。もし関心があれば、是非ともご自身で楽曲分析(アナリーゼ)を試みて頂きたい。

(8) 2017、「ハワード・スコット」ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル編『ゴールドベルク変奏曲——コンプリート・レコーディング・セッションズ1955 日本語スペシャルブックレット』(宮澤淳一訳)30-31頁。

(9) 「コンサート・ドロップアウト」以降のグールドの広範な創造活動を概略的に知るためには、以下の評伝(特に第4章)を紐解くと良いだろう。ケヴィン・バザーナ、2008、『グレン・グールド——神秘の探訪』(サダコ・グエン訳)白水社。

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著者略歴

  1. 吉川侑輝

    1989年生まれ。慶應義塾大学大学院社会学研究科博士課程修了、博士(社会学)。立教大学社会学部現代文化学科助教。専門はエスノメソドロジー。「音楽活動のなかのマルチモダリティ——演奏をつうじたアカウンタビリティの編成」『質的心理学フォーラム』12号(2020年)、「音楽活動のエスノメソドロジー——その動向、特徴、そして貢献可能性」『社会人類学年報』46号(2020年)、『楽しみの技法——趣味実践の社会学』(分担執筆、ナカニシヤ出版、2021年)ほか。

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