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音楽を描く言葉と身体――ふるまいのアナリーゼ 吉川侑輝

「ふるまいのアナリーゼ」を始めよう

音楽記述の難しさ

 音楽を記述、すなわち言葉によって表現しなおそうとする試みには、しばしば、一種の歯がゆさがつきまとう。訪れたコンサートにおける演奏を褒め(・・)ようにも「お客様アンケート」にどのような言葉を並べてよいのかがわからないという経験をしたことはないだろうか。吹奏楽やオーケストラに参加したことがある人ならば、指揮者や指導者が自分たちの演奏についてくだす評価(・・)に納得できないままリハーサルが進行するといった経験をしたことがある人もいるかもしれない。あるいは、楽器のレッスンをする音楽教師が生徒の演奏を改善するためにどのような助言(・・)をおこなえば良いのかは、しばしば解決が難しい悩みをもたらすことであろう(生徒がやる気を損なっては大変だ)。あるいはもっと素朴に、気にいった楽曲やアルバムなどについて言葉を尽くして知人に勧め(・・)ても、なかなか魅力は伝わらず、もどかしい思いをするということもあるかもしれない。

 記述は、ときに問題含みな帰結をもたすことがある。2014年のアメリカ映画《セッション》(原題:Whiplash)では、音楽記述がときに生命の安全をも脅かしうるということが、極端な仕方ではあるが描かれている。音楽学校の教師フィッチャーはバンドの新人ドラマーであるニーマンに相対しその演奏に対して次々と否定的な記述を与える。「今のところはマズいな」「テンポが違う」「18小節目のダウンビートのところだ」「17小節目の4拍目のところ」「速すぎる」「遅すぎる」……等々。フィッチャーは挙句の果てに、傍らにあった椅子をいきなりニーマンに投げつける。フィッチャーが学生をコントロールする問題含みな「教育」の一端を描く象徴的なシーンのひとつであるが、音楽を記述する一連の言葉はいま、椅子を投げつけるという危険で攻撃的な行為の理由を、曲がりなりにも構成するものとなっている。音楽の記述は、単に何かを述べたり書いたりすることにとどまらないのである。ここまでくるともはや、「歯がゆさ」ですむ話ではない。

 音楽の記述はこのように悩ましいものではあるが、しかしそれは様々な場所でとりくまれている。その内容の如何にかかわらず、音楽をなんらかの仕方で記述するという営みがなければ演奏会プログラムは書けないし、リハーサルやレッスンも立ちゆかない。当然ながら、音楽の批評などもままならないだろう。コンクールの評語ともなれば、若い音楽家たちのその後の人生を左右するということにもなりうる。音楽の記述は確かに難しく、多くのひとが悩み、ときに躊躇するものである。しかしそれでも、記述はどうにかしてなされなくてはならない。その問題含みな性質にもかかわらず、記述は避けがたい営みなのである。

 一見すると、音楽の研究者たちが使う専門的な言葉の数々は、音楽を記述するための有力な道具立てであるようにもみえる。ひとつ、音楽理論の言葉を用いた記述のようなものを考えてみよう。音楽理論による記述が備えているひとつの特徴は、それが抽象的な見えを構成する点にある。音楽理論による記述は通常、対象となる音楽作品を予め用意された記号体系のもとで分節化しまとめ上げていくというプロセスをふんでゆく。音楽学者アレン・フォート(1)が体系化した「ピッチクラス・セット理論」では、まず対象となる楽曲の要素を規則にしたがって整数に変換された音名の組み合わせ——これが「ピッチクラス・セット」とよばれる——によって表現し、つづけて所定の操作をすすめることで「原型」とよばれる形式への還元作業をおこなう。原型という抽象的な水準で楽曲やその断片を比較検討することは、それを個別の作品という具体的な水準で検討することによっては見えてこなかったような、思わぬ共通性や規則性を詳らかにする。このような、理論的な観点から記号などを用い、音楽についての抽象的な記述を進めていく方向をいま、ひとまとめに、「形式分析」と呼んでおきたい。

 しかしながら、こうした形式分析をもってしても、音楽を言葉で表現することの歯がゆさがすっかり解決するわけではない。たとえば、ピッチクラス・セットという水準で考えたとき、バルトーク・ベーラやイーゴリ・ストラヴィンスキーといった作曲家の作品には特定の8音集合が繰り返し登場するけれども、そのことはかれらがその集合を実際に利用していたことを直ちに意味するわけではない(2)。それはまずはピッチクラス・セット理論に従事する分析者が特定したものであり、「必ずしも作曲家自身が8音集合の存在を知っていて使ったというわけ」ではないのである(3)。ピッチクラス・セット理論がそうであるように、形式分析はその抽象性ゆえにいわゆる無調作品をふくんだ楽曲の分析において、目ざましい成果をもたらしてきた。他方でそれは、言葉を尽くせば尽くすほど、音楽を作ったり、聴いたり、あるいは弾いたりするときの具体的経験からは離れていくという一種のねじれをともなうものでもある。形式分析とは言ってみれば、それがなければ発見することができなかったような記述の可能性を、新たに紡ぎだす専門技術なのである。

 こうした事情はまた、記述を進めていくための道具立てを音楽理論でないものに置き換えても、変わらないように思える。音楽についての理論があるように、私たちが暮らす社会生活についての理論というものがある(社会学は、この社会理論を扱うのを得意とする学問分野のひとつである)。音楽に関心をもつ社会理論は、社会についての記述に、しばしば音楽についての記述を含みこませる。私たちはふつう、自らの好みに基づいて自由に音楽を選択し聴いていると素朴に考える。しかし社会理論が明かすのは、それとは一風異なるものの見方である。北米におけるヒットチャートの推移を調べたリチャード・A・ピーターソンとディヴィッド・G・バーガー(4)が論じたのは、人びとの純粋な好みでなく市場の状態の変化がその変遷をよりよく説明するということである。ピーターソンたちは1940年代から約30年間にわたるヒットチャートなどを調べ、それを音楽の新規性や等質性、そしてレーベルの数や市場寡占の度合いといった項目にわけて検討した。明らかとなったのは、寡占の度合いが高まるほど似かよった音楽が聴かれるようになるということ、そして、この寡占状態と競争状態の循環には、一定の規則性がみられるということである。いま一方で、ピーターソンたちによる記述には、新規性や等質性という観点から記号的に変換された音楽の記述が含みこまれている。他方でその記述は、私たちが日常的におこなう素朴な音楽記述とは、いまやほとんど関係を持っていない。検討する資料を増やすことが、必ずしも記述をより的確なものにしていくとは限らないのである。音楽をその記述に含みこませる社会理論はしばしば、楽譜すなわち音楽作品の検討によっては音楽を分析しつくすことはできないと主張する(5)。しかし音楽を記述しなおすという関心にそくしてみれば、音楽理論と社会理論はどうも同じ穴の(むじな)であるようにもみえる。それどころか具体的経験と記述の乖離は、利用する資料の拡張とともにむしろ広がっていくとは言えないだろうか。言ってしまえばこのねじれは、形式分析という営みに、いつでもつきまとっているものなのである。

 こうして私たちは、音楽を記述する難しさが、言葉を増やしたりその正確さを高めたりすることによっては解消しないのではないかという見立てにたどり着く。音楽理論であれ社会理論であれ、形式分析をもってすら力不足であるとなると、音楽の記述などつまるところナンセンスな作業でしかないということになってしまうのだろうか。音楽を言葉によって表現するなどというのは叶わぬ夢でしかなく、結局のところ意味などないのだと、私たちはそれを諦めるべきなのだろうか。

記述はすでにできている

 しかしこうした、音楽の記述をナンセンスなものでしかないとするいまたどり着いたどこか悲観的な考えは、これはこれで極端なものである。すでにみたように音楽の記述はレッスン、リハーサル、批評、日常会話、音楽学や社会学の研究、……等々のさまざまな場面においてすでに実際になされている。もしいま記述がそもそも無意味なものであるなら、なぜ記述は実際になされているのだろうか。記述が原理的な難しさを備えているのであれば、「いかに記述するべきか」という問題はそもそも成立しようがない。いわばこの「悩み」は、記述がなされうる可能性をすでに含みこんでいるような悩みなのである。実際のところ私たちは、音楽についての適切な記述とそうでない記述を区別することができる場合があることを知っている。たとえば、以下のような場合を考えてみればよい。葬儀の場で耳にした住職のお経が豊かな発声と律動を備えていることにあなたが気づいたとしても、その場で賞賛を送ることは、明らかに不適切である。いくら目ざましく聴きごたえのあるものであっても、それはまずは評価や論評の対象ではないのである。あるいは反対に、招かれた演奏会における知人の演奏のような、まずは何らかの肯定的な評価を演奏の巧拙にかかわらず(・・・・・・・・・・・)伝えることが望ましいような場面を考えてもよい。こうした場合に私たちは、記述の難しさについていちいち悩んだりすることはない。記述の難しさとはこのように、なにも根本的な困難を常に伴うというものではない。記述の可能性について私たちがいろいろと思い悩むことができるのはむしろ、それが実際に可能である場合がすでに知られているからなのである。

 であるなら、見直さなくてはならないのはどうやら、音楽の記述はいつでも「完全な」ものを目指しているという前提のほうであるといえるだろう。このことに関心をむけるためにいま、音楽記述のひとつのユニークな実例をみてみたい。下に引用したのは、岡崎体育が2016年にリリースした、《Explain》という楽曲の歌詞である。 

 ここからサビ
 俺は今歌ってるんだよって
 みんなに届いて欲しくて
 でも歌詞にはメッセージ性なんて全く無くて
 ただ説明してるだけ
 曲を説明してるだけなんだよ
 ここでまさかのYEAH YEAH

          岡崎体育《Explain》より

《Explain》はその歌詞において、「ここからサビ」とか「ここでまさかのYEAH YEAH」と歌うことを通じて、ただひたすらに楽曲の展開を記述している(私たちがここまで「記述」と呼んできたものを岡崎体育は「説明Explain」と呼んでいる)。この全編にわたり記述をおこなう歌詞はしかしながら、明らかに楽曲の形式を「完全な」仕方で明確にすることを目指しているのではないだろう。そうではなく「説明」というタイトルが付されたこの楽曲は、歌詞がその形式をうたうという自己言及的な構造そのものが、冗談めいていて面白いのである。もちろん、歌詞の内容をより正確にすることなど、やろうと思えばいくらでもできるだろう——たとえば「いま何小節目」であるとか、使用音源に言及したりなど、「正確な」記述はいくらでも付け加えることができる。しかしそれではメロディに歌詞がのせきれず、歌として歌うことができなくなってしまうなどの様々な齟齬が生じてしまうことになる。あるいは、「完全な」記述はいくらでも続けることができるが、それを逐一歌詞にすると楽曲自体を終わらせることもできなくなってしまうということも生じるだろう。そう考えればここでなされている記述は差し当たり、音楽を通じた冗談というその目的に照らし合わせて、適切な(・・・)ものであるといえる。この歌詞がそなえるユーモアを無視して「もっと正確に!」などと口を挟むのは野暮でしかない。

 いま見た音楽記述の興味深い事例が私たちに想い起させることのひとつは、記述というものがナンセンスなのではなく、記述だけを単体で取り出して検討することがナンセンスなのであるということである。つまり音楽の記述を真剣に検討するのであれば、わざわざ記述を行うことでその都度なにをしているのかを、併せて検討しなくてはならないのである。確かに音楽の記述は、幾重にも重なった可能性に、つねに開かれている。それでいてもたらされる複数の記述の可能性が問題のように見えたり歯がゆさを覚えたりするのは、どれがより「正しい」記述であるかを探し求めようとしてしまうからである。しかしながらすでに見たように、そのつどの記述において実際に気にされているのは、単なる「正確さ」というよりはむしろそれをする個別的な状況における「適切さ」であると言うべきだろう。記述という営みにはいつでも、単に正確であるだけでなくそれを適切なものとする、個別的にして具体的な状況がともなっているのである。

 音楽の記述には確かに難しい場合があるにしても、それは決して不可能な営みなどではない。むしろ記述はその都度の文脈における適切さの探索とともにある。だからこそ私たちは、ふさわしい記述について、ときに思い悩むこともできるのである。

音楽の「余りもの」?

 もし音楽の記述というものが真剣な検討に値するものであるとすれば、その作業を進めていくために、音楽の記述をその状況とともにとらえ直していくということにあえて愚直にこだわってみるという方針がありうるであろう。つまり音楽についての記述を、それがなされる活動のなかで実際に言葉や身体をつうじて産出される具体的なふるまいの水準においてとらえ、それがいかなる状況においていかなる課題としてなされているかということそれ自体を、(つぶさ)に検討してみるのである。

 とはいえ、具体的なふるまいというものは、形式分析——音楽学におけるそれであれ、社会学におけるそれであれ——が真っ先に捨て去ってしまうような、一見すると「余りもの」のような存在であるともいえる。すでに見たように、形式分析はふつうその伝統において、経験的なデータを分析可能となるように整えるという作業をともなうものである。そしてたいていの場合、このような細部は正確な分析を妨げる「雑音(ノイズ)」のようなものとして取り除かれ、議論の俎上に載せられすらしないし、されても音楽の「付随物」程度の扱いをうけてしまう。

 だが実のところ、こうした「余りもの」たちが常に分析におけるのけ者のような扱いのみをうけてきたかというと、そうというわけでもない。「エスノメソドロジー」とよばれる研究プログラムを1960年代に創始した社会学者ハロルド・ガーフィンケルは、社会科学における形式分析という営みの特徴それ自体を検討するなかで、それが分析過程において捨て去ってしまう残余物のことを「見失われた何か」とよび、真剣な検討対象にすえることを提案した(6)。同時代の社会学を学ぶなかでガーフィンケルが気づいたのは、研究者たちが社会生活を営む人びとを理解可能な仕方で記述するさいに、研究者たちが入念に準備した自前の方法論を最初から押しつけてしまっているのではないかということである。ガーフィンケルの代替案は、人びと自身が社会生活を理解可能な仕方で記述するために実践している方法論を特定し、記述すると言うことであった。「見失われた何か」への着目は、社会生活そのものに分け入り、このエスノメソドロジー(人びとの方法論)をみつけだしていくために踏み出しうる、ひとつのステップに位置づけられる。

 音楽の「余りもの」などというと身構えてしまうかもしれないが、それを探求するなかでめざされているのは結局のところ、記述というありふれた営みそれ自体を、個別具体的な状況とともにまずは真剣に検討してみよう、ということであるにすぎない。実際のところ、私たちは音楽の「余りもの」の価値を、既によく知っているともいえる。たとえば、ドキュメンタリー映画が描く音楽製作の「裏舞台」がしばしば、当の音楽と同じくらい関心をもたれている、ということはないだろうか。あるいは音楽のリスナーが、CDとして発売される際にカットされてしまったアーティスト同士のスタジオ会話などをある種の「コレクター商品」として楽しむことは、決して珍しいことではない。オーケストラの公開リハーサルやマスタークラスにふれることは、音楽を聴くだけでは近づくことのできない音楽家たちの日常のひとこまに接近するような感覚をもたらすということもあるだろう。音楽の「余りもの」は既にそれ自体に価値が充満していることがよく知られた「人気者」なのであり、その探求とは、まずはこの素朴な感覚に立ち戻っていくことに連なっている。

 念のため付記しておけば、むろんこのように述べられることで、形式分析という伝統の地位が(おとし)められているわけではない。たしかに既に述べたように、形式分析における抽象的な記述とふるまいを通じた具体的な記述との間には、方針の違いが様々に生じうる。しかし形式分析もまたれっきとした記述のひとつであり、ゆえにそれらは、その都度の関心にそくして、これまた適切な仕方で取り組まれているはずである。ガーフィンケルの高弟マイケル・リンチも述べているように、これまで形式分析によって「見失われ」てきた記述の具体的なありかたを明確にすることは、両者の関係をむしろその類縁性と連続性のなかでとらえ、形式分析を異なる視点から再検討し理解を深めるための手がかりを提供することつながるだろう(7)。比喩的に表現することが許されるのであれば、形式分析と音楽の「余りもの」における記述はそれぞれ家族的な類似性をそなえた関係にあるのであり、互いに貢献し合えるものなのである。

ふるまいのアナリーゼ

 音楽の記述を具体的なふるまいの水準において検討するためには、それを支援する道具があると便利であるだろう。いま注意を向けておきたいのは、この音楽の「余りもの」の内実はおそらく、音楽と同じくらい複雑であり多様だということである。少し想像してほしい。ただでさえ冗長な話し言葉による記述には、たくさんの言い淀みや文法的な誤りがある。「練習してきた?」という教師の質問に対して生徒が返答に窮してしまう(つまり言い淀んでしまう)ことは、それ自体が否定的な回答をほのめかしてしまうものである。また、かりに同じ発言をしていても、顔や身体の向きひとつでその受け取られ方は変わってしまうことがある。「歌いたい曲が無いんだよ」という発言がカラオケにおいて選曲リモコンを操作しながらなされるのであれば、その発言はカラオケへの参加を放棄するための言い訳などではなく、いままさに「頑張って」曲を選んでいるという「献身的な」態度の指標として聞かれるであろう(8)。こうした細やかな記述実践の全てを頭の中で想像したり想起したりすることはおそらく、事実上不可能であるように思われる。

 「見失われた何か」を探求する学問的伝統において遂行されてきたのは、いわば「使えるものは手あたり次第何でも使う」とでもいうべき精神である。ガーフィンケルの同僚であった社会学者ハーヴィ・サックスが1960年代に開始したのは、当時一般に利用可能となった音声レコーダーを利用し、録音された会話を書き起こしたうえで詳細に分析するということであった。サックスの野心的な試みはのちに「会話分析」と呼ばれる目ざましい学際的潮流をもたらし、家庭用のビデオカメラが手に入りやすくなった現在も、会話分析者たちは映像の記録やその書き起こし技術を洗練させながら、研究をすすめている。近年ではさらに、映像データの書き起こしをするために、注釈ソフトウェア(9)などを利用することもさかんである。

 音楽の「余りもの」たちの探求もまた、こうした先人たちに倣うような仕方で進めることが可能であるだろう。つまり、「使えるものは手あたり次第何でも使う」精神を行使することで、リハーサル、レッスン、趣味の場、仕事の場、……等々における音楽にかかわる活動を、音声レコーダーやビデオカメラなどを用いて記録・収集し、それらを直接分析していくのである。

 意外に思われるかもしれないが、いま私が思いがけず想起するのは楽曲分析、とりわけ和声や楽式の分析をはじめとした、あの(・・)古典的な楽曲分析である。よく知られているように、和声には様々な「規則」がある。それらはたいてい、分析者が好き勝手にその存在を主張するような規則ではなく、実際に参照され、ゆえに故意に逸脱したり反対にそれに固執したりすることも可能であるような、実践的な規則であるといえる。古典的な楽曲分析は、少なくともその一部において、作品においてすでになされた記述を、まさにこの規則のもとで記述していくことをめざしている。このように考えると、古典的な楽曲分析には、楽曲における観察可能な記述それ自体を記述するという関心が含まれているとは言えないだろうか(実際のところ、楽譜に記された記号を当てにすることなしに「ここから転調している」といったことを指摘することなどできそうにない)。私たちがこれから始めようとすることもまた、ふるまいの観察を通じて音楽を記述することそれ自体を改めて記述しなおしていくということである。これはちょうど、古典的な楽曲分析がそうであるように、対象の見かけや聞こえが提示するものに、まずは徹してみようということにほかならない。このようにして、ふるまいの分析と楽曲の分析には、意外な連関を見出すことができる。だからいま、こうしたことを念頭におきつつ私たちの試みを、楽曲分析をドイツ風に「アナリーゼ」(10)とよぶ広く行き渡った慣習をもじって「ふるまいのアナリーゼ」とひとまず呼んでみたい。

 私たちが最初に確認したのは、音楽の記述についての問題含みな性格である。続けて提示してきたのは、すでになされている個別具体的な状況における音楽の記述を検討することで、音楽の記述がいかにして可能となっているかそれ自体を見届けよう、という方針である。いまや、誰にも知られていない何かを新たに「発見」するために、音楽や社会についての理論を最初から(・・・・)準備しておく必要はない。まず見て、そして聴いて、すでになにが理解できるかを丁寧に想い起しさえすればよいのである。

 

(本稿の執筆過程において、「社会言語研究会」(2021年7月18日、10月9日開催)の参加者からのコメントなどを得る機会があった。記して感謝する。)

 

(1) アレン・フォート、2012、『無調音楽の構造——ピッチクラス・セットの基本的な概念とその考察』(森あかね訳)音楽之友社。

(2) 日比美和子、2019、「音を秩序づける——ポスト調性時代のハーモニー」西田紘子/安川智子編『ハーモニー探究の歴史——思想としての和声理論』音楽之友社、176-7頁。

(3) 日比前掲書、177頁。

(4) リチャード・A・ピーターソン/ディヴィッド・G・バーガー、2010、「文化生産における循環——ポピュラー音楽の事例」(湯川新訳)『社会志林』57号3巻、103–127頁。

(5) ピーター・J・マーティン、2002、「音楽と社会学のまなざし」 (杉本学/関守章子訳)『現代社会理論研究』12号、325–6頁。

(6) マイケル・リンチ、2012、『エスノメソドロジーと科学実践の社会学』(水川喜文/中村和生監訳)、勁草書房、313-7頁。

(7) リンチ前掲書、352-5頁。

(8) 吉川侑輝、2021、「「歌いたい曲がない!」——カラオケにおいてトラブルを伝えること」秋谷直矩/團康晃/松井広志編『楽しみの技法——趣味実践の社会学』ナカニシヤ出版、149-169頁。

(9) 代表的なソフトウェアとして、マックス・プランク心理言語学研究所が提供しているELANがある。利用法などについては、以下に詳しい。細馬宏通/菊地浩平編、2019、『ELAN入門——言語学・行動学からメディア研究まで』ひつじ書房。

(10) 島岡譲、1964、『和声と楽式のアナリーゼ——バイエルからソナタアルバムまで』音楽之友社。

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著者略歴

  1. 吉川侑輝

    1989年生まれ。慶應義塾大学大学院社会学研究科博士課程修了、博士(社会学)。立教大学社会学部現代文化学科助教。専門はエスノメソドロジー。「音楽活動のなかのマルチモダリティ——演奏をつうじたアカウンタビリティの編成」『質的心理学フォーラム』12号(2020年)、「音楽活動のエスノメソドロジー——その動向、特徴、そして貢献可能性」『社会人類学年報』46号(2020年)、『楽しみの技法——趣味実践の社会学』(分担執筆、ナカニシヤ出版、2021年)ほか。

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