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音楽を描く言葉と身体──ふるまいのアナリーゼ 吉川侑輝

もうひとつのポリフォニー——合唱リハーサルのなかの遠隔コメント

冗長な遠隔コメント?

 会話では通常、一度に1人が話すことになっている(1)。もちろん、会話における実際の発言は、しばしば重なりあう。例えば、別の人と同時に話し始めてしまうなどということは、いつだって生じうる。しかしそのような時、少なくともどちらか一方が発言を取りやめることが、系統的に観察される(2)。あるいは、確かにこんな人がいる――他人が話している最中であるにも(かかわ)らず、自分の発言を開始しようとする人である。しかしながらそのふるまいは、今度は相手の発言への割り込みという、ひとつの「違反」として理解されうるだろう(この違反の理解可能性は、割り込む当人がどういうつもり(・・・)であったかは、余り関係がない)。違反はいつだって、何らかの「規則(ルール)」の(もと)での違反であるに違いない。この意味で「一度に1人が話す」は、ひとつの規則のようなものである。ところで、なぜ「一度に1人が話す」のか。それは会話というものが、声に出された(・・・・・・)言葉をその主な素材としているからであるだろう。要するに、異なる発言の重なりは、聞き分けることが難しいのである。だから、もし声に出された言葉以外の(・・・)素材がやり取りの中で利用されるのであれば、事情は少し変わってくる。

 図3-1は、2021年8月末に東京都内でおこなわれた、合唱グループ「カンサォン・ノーヴァ」での調査において撮影された、30秒程度のやり取りの書き起こし(トランスクリプト)である。8月末とは、COVID-19の「第5波」流行に、少しばかり落ち着きが見られた時期である(図3-1からはやや分かりづらいけれども、参加者は皆、マスクを着用している)。カンサォン・ノーヴァのメンバーは最大で60名程度であるが、この断片においてリハーサル室には、S、F、そしてKの3名(いずれも男声)が訪れ、練習に参加している。カンサォン・ノーヴァのリハーサルでは、参加者のひとりには進行をつとめる「ファシリテーター」という役割が、練習する楽曲ごとに設定される。主な役割は、事前の計画などに基づいてリハーサルを進行することである。書き起こしでは、向かって一番左のSがファシリテーターを担当している。断片はファシリテーター主導のもと、楽曲のなかの一節の歌い方について、話し合いのもと検討を進めている場面から抜粋されている。


図3-1 合唱リハーサルより

 図3-1は、ごく一般的なコミックと同じ手順で、左から右へと番号順に読んでいただければ良い。書き起こしの方針は、連載「第1回」でのそれを踏襲している。つまり、異なる話し相手同士の吹き出しの重なりは発話の重なりを意味しており、三点リーダー(「…」)は、ひとつごとに一秒程度の沈黙を表現している。図3-1ではさらに、歌を「♪」で、そしてオンラインでの遠隔コメント——これについては後述する——の読み上げを鍵括弧(「」)でくくっている。吹き出しに対して小さい文字(6コマ目や7コマ目)は、その発話が比較的小さい声で発せられていることを意味している。なお歌っている楽曲の歌詞は、議論に支障がないと考えられる範囲で、一部変更されていることをお断りしておく。

 遠隔コメントの「読み上げ」とはどういうことか。実のところ図3-1において、リハーサルに参加している合唱メンバーは、書き起こしに登場するS、K、そしてFの3名だけではない。リハーサルは部分的にオンライン化されており、図3-1にその姿は映っていないものの、カンサォン・ノーヴァの団体指揮者であるRもまた、遠隔地から練習に参加しているのである。リハーサルは、複数の離れた拠点において取り組まれている。図3-2は、図3-1のやりとりが埋め込まれたネットワークを図式化したものである。リハーサル室におけるやり取りはまず、その映像と音声が、YouTubeライブを経由してストリーミング中継されている。中継は「限定公開」となっており、練習の様子は、R(指揮者)の自宅などを含めた場所から、視聴可能となっている。ストリーミングを視聴するメンバーらはまた、一方的に視聴するだけでなく、Slack(3)というウェブサービスのチャット機能を利用することで、コメントを遠隔から投稿することができる。この遠隔コメントはリハーサル室にいるメンバーたちの手元にあるモバイル端末等でも受信可能となっている。そのためリハーサル室のメンバーたちは、遠隔コメントを随時、練習に取り入れることができる。こうしてリハーサル室のメンバーは映像と音声を利用し、そして指揮者(や場合によってはその他のメンバーたち)は遠隔コメントを利用し、限定的ではあるが、双方向的なやりとりがなされている(4)


図3-2 ネットワークの概略

 そのようなわけで、図3-1の発言の一部は、Slackに投稿された遠隔コメントの読み上げとして発言されたものである。図3-3は、R(指揮者)によって実際に投稿された遠隔コメントである。ひとつは「3回のフレーズで、 2回目、3回目は子音で飛び込んで行ったほうがいいと思います」という遠隔コメントであり、図3-1の3コマ目において読み上げられている——「第1の遠隔コメント」と呼んでおく。第2の遠隔コメントは「「ゆ」を前ですね」というものであり、9コマ目において読み上げられている。後述するように、遠隔コメントは必ずしも、それが書き込まれたそばから読み上げられるわけではない。それは実際のところ、リハーサル室のメンバーによって、その場のやりとりの進行上適切とみなされるタイミングにおいて導入されることになる。


図3-3 Slackにおける遠隔コメント(アイコンや名前などを匿名化している)

 こうした状況を踏まえれば、図3-1には興味深い特徴を見出すことができる。9コマ目における「ゆを前ですね」という、Sの発言である。この発言がまずは指揮者であるRからの遠隔コメントの読み上げとしてなされたものであることは、説明済みである。その上で図3-1をもう一度見てみれば、この遠隔コメントは5コマ目におけるSの発言の一部(つまり「ゆーを前」という部分)の繰り返しを伴っていることに気づくことができるであろう。そう、Rによるこの遠隔コメントは、5コマ目におけるSの発言の正しさを確認するための書き込みなのである。リハーサル室におけるやり取りの正しさについて、遠隔コメントを通じて確認を与えること——このこと自体に、何ら不思議な点はないだろう。だがその確認は、リハーサル室で進行するやり取りに対して、それほど敏感とは言い難いタイミングにおいて与えられているようにも見える。一方においてリハーサル室のメンバーたちは、Rからの確認を待つことなく、歌い方の検討作業を進行している。他方においてRのコメントもまた、リハーサル室における検討作業が既に進行しているまさにその只中において、書き込まれているはずである。であるならこの遠隔コメントは、リハーサル室において既に不要となっている確認を、わざわざ(・・・・)行っているということになるだろう——そのようなことが、ではなぜ行われているのだろうか。

遠隔コメントの理解をめぐって

図3-4 第1の遠隔コメントの導入

 私たちの断片は、メンバーのひとり(F)が、楽曲の一部を歌ってみせている場面から始まる。誰もが知るように、実際に(・・・)歌ったり弾いたりしてみせることは、リハーサルやレッスンにおいて欠くことのできない営みである。演奏の実演がリハーサルやレッスンにおいて何度も取り組まれることには、もっともな事情がある。それは、実際に行ってみせることによって初めて、何かが本当に(・・・)できることが分かるということである。歌唱や演奏に馴染みがなければ、泳ぐことや自転車に乗るといったことを考えてみても良い。私たちが誰かに「泳げる」ことや「自転車に乗れる」ことを示したいのであれば、それを「証明」する強力な方法は、実際に泳いだり自転車に乗ってみせたりすることであり、単にそれを「主張」したり「強弁」することではないだろう(「第2回」における、自作のクオドリベットについての過剰な詳細さを含んだグールドの説明を想い起しても良い)。歌ってみせることもまた、同様である。1コマ目から3コマ目にかけてFは、今まさに検討されていた楽曲の一節を、実際に歌ってみせる。この歌ってみせることによってFは、既になされた検討が十分なものであったかを判断するための素材を、周囲の参加者——あるいは自分自身——に対して提供することができる。

 従って、歌ってみせることを途中(・・)(さえぎ)ることにもまた、それ自体の含意がある。3コマ目では、第1の遠隔コメントが、歌唱の途中から読み上げられている。歌ってみせることの完了——それは今進められている検討作業が十分に行われたかを判断するための、ひとつの重要な場所である。もし歌ってみせることに課題が残されていれば、検討作業は継続されるべきであろう。反対に、もし課題が解消していれば、リハーサル室のメンバーたちは別なる検討課題へと移行することができる。ただしこの判断は、「満場一致」でなされることもあれば、時に見解が「割れる」こともありうる——そう、音楽の記述は難しいのである(「はじめに」)。さて第1の遠隔コメントは、「ゆきを」で始まるフレーズが三度(みたび)歌われ、それが歌い終わろうとするまさにその時、ファシリテーターのSによって、読み上げられている。このタイミングには、一定の適切さがある。第1の遠隔コメントは「3回のフレーズで、2回目、3回目は子音で飛び込んで行ったほうがいいと思います」という、指揮者(R)からの「提案」である。目下の検討課題に関連したこの提案を導入するのであれば、歌ってみせることが完了し、何らかの評価が下されるより()がふさわしい。なぜならそれは、別なる記述が、未だ登場していない場所だからである(別なる記述の導入は、別なる検討課題の導入でありうる)。歌ってみせることが完了しようとするまさにその時に遠隔コメントを導入することはこうして、歌ってみせることの一部を焦点化し、今進められている検討作業を続けるための、ひとつの適切なタイミングにおいてなされている(5)


図3-5 提案内容の明確化

 ところでリハーサルにおけるこうした問題化は、歌ってみせることに対してだけ(・・)なされるのではない。続く4コマ目におけるFの発言(「子音で飛び込んでいくの」)は、今度は当の遠隔コメントが備える部分を問題化するものとなっている。この発言は先立つ遠隔コメントに含まれる「子音で飛び込んで」という部分の繰り返しを含んでいる。この発言はまた、「の」が付け加えられていることによって、「質問」として聞くことができるものでもあるだろう。私たちは一般に、何か言葉を耳にしたとき、それをただ単に繰り返すことができる。言葉を単に繰り返す時、その言葉の意味を十分に理解している必要はない。ゆえに繰り返しを含む質問は、先立つ発言の内容の一部を明確化したり修復したりするやりとりを開始するために利用することができる(例えば、「14小節目から(・・・・・・・)始めます」「14小節目から(・・・・・・・)?」のような会話を想像してみても良いだろう)(6)。再び、Fによるこの発言のタイミングは重要である。この発言は、3コマ目における遠隔コメントの読み上げに続けて、直ちに産出されている。そうそれは、第1の遠隔コメントを踏まえた検討作業が始まりうる、ひとつのタイミングに他ならない。遠隔コメントの内容の一部が十分に理解されていないまま、それを検討作業に利用するわけにはいかない。Fによる明確化の開始はこうして、()なすべきこととして、やはり可能な限り早いタイミングにおいてなされている。

 ではこの質問の形式を備えた発言に対しては、どのような反応がもたらされているか。ファシリテーターであるSは、5コマ目において「…ゆーを前ってこと」と述べる。この発言はまず、「子音で飛び込んでいく」という先立つFの発言の具体化を含むものとして聞くことができるだろう。すなわち「子音」が指しているものが、今三度(みたび)歌われた「ゆ」の子音のことであるとして、その内実を特定しているのである。むろんSは、あくまでも指揮者であるRの遠隔コメントを導入するために、ファシリテーターとして、それを読み上げた(・・・・・)人物であるに過ぎない。この意味で「子音で飛び込んで」という表現の「本当の」含意を明かす資格を有する——少なくとも有力な——人物は、あくまでも遠隔コメントを書き込んだ当人にあたるRである他ない。こうした状況を踏まえればSの発言は、「子音で飛び込んで」という表現を置き換えるための、ひとつの候補を提示(7)するものとして聞くことができるだろう。

「無い」と「まだ無い」

 一見して冗長なものであった9コマ目の遠隔コメントの産出に至る事情の一端は、今やある程度は(・・・・・)明確なものとなっている。5コマ目におけるSの発言(「…ゆーを前ってこと」)は、「子音で飛び込んで」という表現の意味内容を明確化するに際しての、ひとつの候補である。あくまでも候補であるなら、その正否が明かされるということが、続けてなされて良い。であるなら第2の遠隔コメントは、その候補に確認を与えるというだけ(・・)のために導入されているのであろうか。しかしながら、他方においてこれは、あくまでも部分的な理由であるようにも思える。既に見たように、リハーサル室における検討作業は、6コマ目以降、Sの確認を待つことなく進行する。それはSによる確認を、必ずしも必要とはしないような仕方で進められることになるのである。加えて、少なくとも結果(・・)においてこの候補(「…ゆーを前ってこと」)は、あくまでも、正しい(・・・)候補である。確かに、指揮者であるRがその含意を明かす条件は、5コマ目のSの発言において整えられているだろう。しかしながら、決して間違っているわけでもない候補に対する確認を、Sがリハーサル室における検討作業の進行に拘わらず与える必要性の方は、それほど明確ではないように思える。


図3-6 「うん」

 実際のところ、この候補(「…ゆーを前ってこと」)は、Rの反応を待つまでもなく、リハーサル室の参加者たちの手で、それなりにもっともらしい候補として取り扱われることになる。7コマ目ではまずFが、相対的に小さな音量においてではあるが、歌ってみせることを開始する(「♪ゆきを♪」)。Sもまたほとんど同時に、楽曲の一節を再び歌ってみせることをする。こうした一連のやり取りには、それに先立つ遠隔コメントの内容が既に十分に明確であるという、参加者たちのスタンスが伴っているだろう。歌ってみせることが適切になされたことに対してはさらに、歌い手であるS自身による評価が続けて与えられる。8コマ目における、Sの「うん」がそれである。この「うん」は、3コマ目における第1の遠隔コメントの導入と同じ場所、つまり3つ目の「♪ゆきーをー♪」の後で発言されている——検討作業が今や完了できる状態にあるというSの理解が、再び、それを提示すべき最も早いタイミングにおいて示されているというわけである。Sの「うん」はこうして、自らの歌ってみせることに対してのみならず、先立って提示された「…ゆーを前ってこと」という明確化の候補のもっともらしさに対する自己評価を、二重に与えるものとなっている。


図3-7 第2の遠隔コメントの導入

 ところで、8コマ目におけるSの自己評価(「うん」)は、ひとつの可能な(・・・)評価である(評価とは、常にそういうものである他ない)。自己評価が二重の(・・・)自己評価であるがゆえに、それは今とりわけ二重の(・・・)繊細さに晒されていると言うことができる。もし指揮者であるRが第1の遠隔コメントにおいて「子音で飛び込んで」いくと書き込んだときに含意されていたのが、「ゆを前」ということで無か(・・)ったとしたらどうだろうか。その場合、7コマ目における歌ってみせることは、そもそも遠隔コメントの適切な理解に基づいてなされたものでない(・・)可能性が生じてしまうだろう。あるいは、遠隔コメントの理解は適切であったとしても、肝心の歌ってみせることに問題が含まれていた場合は、どうだろうか。その場合は、歌ってみせることを適切に行うためのやり取りが、続けて、必要となるに違いない。8コマ目における評価があくまでもひとつの評価である以上、別様の可能な評価がいつでも併置されうる——そう再び、音楽の記述は難しいのである。

 そして今、この自己評価をより一層繊細な物とするような、もうひとつの事情があるように思える。それは指揮者であるRが、今リハーサル室にいない(・・)ということである。既に述べたように、私たちの断片のやり取りは今、部分的にオンライン化されている(図3-2)。このことはリハーサル室での出来事についての遠隔コメントが、即時的には到着しない可能性が常にあることを意味しているだろう。遠隔コメントは、その送り手がYouTubeライブを視聴し、Slackにそれを書き込むという複数の手順を踏むことによって初めてもたらされる。であるなら、それはいつでもリハーサル室におけるやり取りに、少しばかり遅れをとる可能性がある。ある瞬間に遠隔コメントが無い(・・)ことは従って、遠隔コメントが本当に(・・・)無いことを意味しない。それは常にまだ到着していない(まだ(・・)無い)だけである可能性がある。

 この環境的な制約は言うまでもなく、指揮者(R)とリハーサル室のメンバーたち(S、K、そしてF)の双方が認識可能であるような、いわば現実の制約である。候補の正しさに確認を与えるための遠隔コメントをわざわざ(・・・・)書き込む必要性の少なくとも一端は、この制約との関わりにおいて理解できるように思える。実際のところ、確認のための書き込みがなされないことで、次の可能性が残ってしまうだろう。それは、「確認」以外のことを行うための遠隔コメントが、まだ到着していない可能性である。対して、任意の書き込みは、その内容がいかなるものであったとしても、別なる遠隔コメントが到着する可能性を減じることに役立てることができるだろう。それはいわば、書き込まれた内容というよりは、書き込みが行われたという事実そのものを伝える。一見して冗長な遠隔コメントはこうして、別なる遠隔コメントが続けて登場する可能性を減じ、今既にあるひとつの可能な(・・・)記述をリハーサル室における現実の(・・・)記述とするための差し手となっているのである。

ふるまいのポリフォニー

 次のような疑問を抱く人があるかもしれない。遠隔コメントが「無い」ことが「まだ無い」こととして誤認されうることは、遠隔の合唱リハーサルであれば、いつでも(・・・・)生じうることであろうか。そうではないように思える。もしそうなら、中継の視聴者たちは文字通りいつでも(・・・・)リハーサル室へのコメントを書き込まなくてはならないということになるだろう。しかしながら、そのような必要性は、明らかに生じていない。遠隔コメントが「無い」ことそれ自体の明確化が必要となるための、いくつかの条件があるように見える。少なくとも、指揮者であるRが、3コマ目において第1の遠隔コメントを既に書き込んでいることは重要であるだろう。このことによって初めて、Rがリハーサル室のやり取りを今まさに視聴しているという可能性を、リハーサル室の参加者たちもまた認識することができるからである。5コマ目において、理解候補の提示(「…ゆーを前ってこと」)がなされていることもまた、重要であると思われる。それは既に述べたように、Rが続けて書き込みを行う可能性が、まさにこのふるまいによって条件づけられているからである。

 他方で私たちの断片は、リハーサル室において一体どのようなことがいつでも(・・・・)問題となりうるかを想い起させる。それは、リハーサル室における記述の適切性と多様性が、参加者たちの現実の関心事であるということである。2つの歌ってみせること(1-3コマ目ならびに7コマ目)に対するメンバーのスタンスはいずれも、その完了点の直前という、別なる評価が登場する前のタイミングにおいて提示されている。オンライン化という環境はこの状況を、さらに繊細なものとしている。別なる記述はそもそも「ある」のか「無い」のか。「ある」とすれば、それは「いつ」登場するのか——一見して冗長な遠隔コメントを書き込むことは、リハーサル室のなかの不確実性を減ずるための指し手となっている。参加者たちはいつでも、記述の適切性という問題に直面しうる。私たちの断片は、その潜在的にして遍在的な課題を、少しばかり(あら)わにしている。

 ところで、会話における「一度に1人」の規則が無関連となるための、遠隔コメントとは別様のやり方があるように思われる。それは、共に歌うことである。歌とは、声に出された言葉の、ひとつのあり方であるだろう。共に歌うことにおいては、複数人が「ひとつの」ことを為すことで、複数の声が重ね合わされる。むろん「ひとつの」といっても、皆が全く同じ歌を同時に歌わなければならないということはない。音の高さを適切に変えれば和音が生じ、長さを適切に変えればリズムが細分化される。多様なる旋律と歌詞によって織りなされるいわゆる複音楽的(ポリフォニック)な声楽曲というものは、こうした(たゆ)まぬ制御の、ひとつの極致であるだろう。カンサォン・ノーヴァにおける遠隔コメントもまた、リハーサル室の会話に、もうひとつの言葉を重ねている。単に「話し手」を増やすのではない。離れた場所からリハーサル室のメンバーに届けられるコメントは、会話としての言葉とは、異なる様式(モダリティ)を備えたものである。それぞれの言葉を、誰が、いつ、いかにしてもたらすかからして、予め定められているものは何もない。だからこそ、会話と遠隔コメントは互いに敏感である必要がある。複数の言葉を「ひとつの」出来事として重ね合わせることは、リハーサル室の参加者たちの、現実の関心事である。遠隔コメントがしばしば見せる見かけ上の冗長さは、複数の言葉同士の緊張を制御するための方法のひとつに他ならない。そこではいわば、もうひとつの(・・・・・)ポリフォニーが実践されている。

 

(ビデオカメラなどを用いた調査を快諾してくださった合唱グループ「カンサォン・ノーヴァ」の皆さまに感謝する。本稿の執筆過程において、「スタジオ研究会(仮)」におけるデータセッション(2022年1月31日開催)を実施した。また、開田奈穂美(福岡大学)、宮﨑悠二(東京大学大学院)、有賀ゆうアニース(東京大学大学院)、武内今日子(東京大学大学院)、團康晃(大阪経済大学)、岡沢亮(昭和音楽大学)、そして布川由利(高崎健康福祉大学)の各氏からも、コメント等をいただいた(2022年3月26日、27日、4月16日)。記して感謝する。本稿はまた、日本学術振興会科学研究費助成事業研究活動スタート支援「遠隔による音楽活動にかかわる実践的社会課題の相互行為分析」(20K22167)の助成を受けている。)

 

(1) ハーヴィ・サックス/エマニュエル・A・シェグロフ/ゲール・ジェファソン、2010、「会話のための順番交替の組織——最も単純な体系的記述」『会話分析基本論集——順番交代と修復の組織』(西阪仰訳)世界思想社、43頁。

(2) サックス/シェグロフ/ジェファソン前掲書、97-100頁。

(3) Slackは、Slack Technologies社が提供するビジネスチャットである。

(4) 図3-1において利用されているネットワークは実のところ、図3-2に示されたものに留まらない。例えば、毎回の練習計画の共有は、Googleドキュメントが利用され、手元のモバイル端末などから、いつでも参照できるようになっている。またメンバーたちは、楽譜を読むために、タブレット端末を使用する場合もある。その意味で、図3-2に示された情報の流れはあくまでも、ごくごく簡略化されたものであるにすぎない。差し当たり今は、図3-1の理解に直接かかわる範囲で、ネットワークをおおまかに把握していただきたい。

(5) Sによる読み上げが書き込みの瞬間になされているわけでないことは、2コマ目におけるKの振る舞い(「スマホを見る」という反応)からも明らかであるだろう。

(6) 会話における「修復の開始」のために用いられるいくつかの技法のなかの、「位置の限定を伴う質問」と呼ばれる。詳細は以下(の特に182-185頁)を参照のこと。エマニュエル・A・シェグロフ/ゲール・ジェファソン/ハーヴィ・サックス、2010、「会話における修復の組織——自己訂正の優先性」(西阪仰訳)『会話分析基本論集——順番交代と修復の組織』世界思想社、155–246頁。

(7) この発言は、会話における「修復の開始」のために用いられるいくつかの技法のなかの、「理解候補の提示」と呼ばれる技法と関連する。またKの「位置の限定を伴う質問」(4コマ目)とSの「理解候補の提示」(5コマ目)を比較したとき、後者が先立つ第1の遠隔コメントについてのより特定的な理解を示しており、このことが9コマ目におけるKの了解(「…ってことか」)を条件づけているという点も注記しておきたい。詳細はやはり以下(特に186-187頁)を参照のこと。シェグロフ/ジェファソン/サックス前掲書。

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著者略歴

  1. 吉川侑輝

    1989年生まれ。慶應義塾大学大学院社会学研究科博士課程修了、博士(社会学)。立教大学社会学部現代文化学科助教。専門はエスノメソドロジー。「音楽活動のなかのマルチモダリティ——演奏をつうじたアカウンタビリティの編成」『質的心理学フォーラム』12号(2020年)、「音楽活動のエスノメソドロジー——その動向、特徴、そして貢献可能性」『社会人類学年報』46号(2020年)、『楽しみの技法——趣味実践の社会学』(分担執筆、ナカニシヤ出版、2021年)ほか。

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