web春秋 はるとあき

春秋社のwebマガジン

MENU

ぼくらはまだ、ほんとうの旅を知らない 久保田耕司

楽園のジレンマ__彼岸はどちらの側にあるのか? (2)

 

 今回も前回同様、ちょっとした思考実験から話を始めてみたい。といっても、今回のそれは実験ともいえないくらい簡単なものだ。

 その思考実験とは、コップの中に200ml程度の水が入っているとして、その水の温度をどうすれば正確に測ることができるのか? というものだ。

 あまりに単純で簡単なので、そんなの考えるのもばかばかしいと思った人も多いだろう。たいていの人は「普通に温度計を持ってきてコップの中に入れて測ればいいだけじゃないの?」と思ったのではないだろうか。

 しかしよく考えてみると、200ml程度の水の中に、直接、温度計を入れてしまうと、温度計自体の温度があるから、本来の水の温度がその温度に影響されて、正確な水の温度が測れない可能性があるのではないだろうか?

 何が問題なのか分からないという人のために、もうちょっと分かりやすく改変して説明すると、コップの大きさが小さくて、中に水が10ml程度しか入っておらず、かつ、温度計も計測前に冷蔵されていて、コップの中の水の温度とは明らかにかけ離れた冷たい温度だったとしたらどうだろうか?
 さすがにこの場合、水の温度と冷蔵されていた温度計の温度とが混じってしまうので、元の水の温度を正確に測れないのではないだろうか?

 「なんだ引っ掛け問題か、ばかばかしい。だったら、そんなのは非接触型の温度計で計測すればいいだろう」と言う人もいるかもしれない。

 だがその場合、コップの材質によっては中の水の温度は正確には測れないだろう。コップ自体の温度は測れるかもしれないが、内部の水の温度自体を測るのは難しいだろう。

 仮に百歩ゆずって、それでうまく計測できたとしても、原理的に非接触型の場合、対象物からの放射熱を測るわけだから、その温度は、測るそばから変化していっている最中で、正確な水の温度とは言えないかもしれない。さらに付け加えると、内部で対流が起こっていて、計測される水の上部とその内部とでは温度が微妙に違うかもしれない。

 ここまで言うとさすがに「そんなのは仮に違いがあったとしても、それこそ無視できるくらいの小さな誤差だろう」という人がほとんどではないだろうか?

 しかし、これは本当に「誤差」とか「程度」の問題なのだろか? 温度計の温度が水の温度に与える影響が無視できるぐらい小さければ、それは本当に誤差の問題と考えていいのだろうか?

 では今度はちょっと条件を変えて「コップの中の水の温度」を固定することができる、としたらどうだろうか? 

 つまり、どんな温度の温度計を入れても「コップの中の水の温度」は、その外部からの温度の影響を一切受けないようにできる、としたらどうだろう? そうすれば他から影響を受けないので、コップの中の水の固有の温度を正確に測れるようになるのではないだろうか?

 「なるほど、それならうまくいきそうだ」と思った人には申し訳ない。実はこちらが引っ掛け問題で、よくよく考えてみると、仮にそのように温度を固定してしまうと、今度はとたんに温度の計測自体が不可能になってしまうことに気が付くはずだ。

 当たり前の話だか、そのように仮定したら、水の温度が温度計に影響を与えないので、どうやっても温度計の目盛りが動かず、そもそもの最初から温度を測ること自体ができなくなってしまうのである。

 ここまで書けば明白と思うが、この問題のおかしなところは、そもそも「温度」というものは普遍的に存在するもので、コップの中でだけ固有の温度を保ち続けることなんてできないはずなのに、さも最初から、そういう「実体」があって、その温度を正確に測れると思い込んでしまう、というところにある。

 そして、さらによくよく考えてみると、これは「温度」の問題だけではなく、この世に存在するありとあらゆる物理現象に関しても同じように言い得ることだと気が付くだろう。

 たとえば仮に今、ここにAという物体があって、この物体Aには強固な実体とたしかな自立性があり、いかなる意味でも他の物体や物理現象から一切影響を受けず、それ自体の固有の実体から変化しない物質で出来ている、と仮定してみよう。

 そうすると、まずこの「物体A」は人間の目で見ることはできないということが分かるだろう。見るためには光が反射する必要があるが、光が反射するということは、光が当たった物体Aの側にも何らかの物理的な反応(たとえば光電現象とか)を引き起こして変化が起こってしまっているはずだからだ。

 当然、物体Aは手で触ることもできないだろう。手で触れて反発するというのもそれなりの物理現象で、触れる側も、触れられる物体Aの側にも何らかの影響を相互に与え合っているはずだからだ。

 つまり「他の影響を一切受けず、変化しない固有の実体」というものが存在すると仮定すると、その「実体」はいかなる意味でも観測や計測が不可能になって、そのような「実体」は物質現象としては存在できない、ということになるのである。

 実はこの「コップの中の温度を測る話」は、量子力学などで言うところの、いわゆる「観測問題」を自分なりに理解しようとしたときの思考実験なのだが(特に元ネタは無い)、途中からすぐに、まてよ、これは仏教で言うところの「縁起」と「空」の説明そのものじゃないか、と気が付いたのだ。

 

 前回僕は、唯識論でいうところの「外境」と、世間一般でいうところの外的世界は、その物質性の捉え方がかなり違う、と書いた。

 僕らは普段、それほど意識しないだけで、普通に「コップの中の水の温度」はあると思っているだろうし、物質現象には「実体」がある、と思っているはずだ。

 これに対して大乗仏教の論師たちは、そのような「実体」は存在しない、すべては「空」であると主張してきた。

 先の思考実験に沿って縁起と空を解釈するなら、僕らがあると思い込んでいる「コップの中の水の温度」には「実体」が存在しないから「空」であると言えるだろう。
 また「空(実体がない)」であるからこそ、お互いが影響し合ってその温度を測ることができるのだ、という言い方も可能になるはずだ。

 「他から影響を受けない固有の実体」を仏教でいうところの「自性(svabhāva)」として、そのような自性のある「実体」が存在できない事情を「縁起」として説明するなら、この話は「縁起」と「空」をうまく説明できていると言えるんじゃないだろうか?

 もっとも、世の中に様々な「空」と「縁起」の解釈があるようで、誰が最初に言い出したのか、最近は「色即是空」は正しいかもしれないが、「空即是色」は正しくないという言説をよく耳にするようになった。
 僕がこの思考実験をした当時(20年以上前だが)は、あまりそういう主張は聞かなかったような記憶があるから、ここ20~30年くらいで急に言われだした言説だと思う。

 しかし、さすがにこの主張は「空」を物質現象の側の「虚無」と曲解した誤解に基づく解釈であるように思う。伝統的な解釈が正しければ「空」とは、さまざまな事象に「固定的な実体」がないことを指した言葉で、「虚無」などではなく、基本的には「縁起」とセットで捉えるべき、その同義語というべき言葉だからだ。

 

 はたして「実体」として存在しないのは、僕らの頭の中にある観念としての「コップの中の水の温度」だろうか? それとも目の前の現実の側にある「コップの中の水やその温度」のことだろうか?

 

 目の前の現実の中に自性(svabhāva)としての「実体」がないのは当然として、そのような「実体」があると思い込んでしまうのは、人間の側の頭の中で起こる観念作用の成せる業というべきではないだろうか? そしてもちろん、目の前のコップや、水や、その温度という「現実」そのものが虚無であるはずはない。


 わざわざこんなことをくどくどと書いたのは、物質現象は「空」だから、この世はすべて「虚無」なんだよ! とするようなオカルト的解釈が世間にはあまりに多いと思ったからで、前回紹介した唯識論も、世間一般で言うところの単なる「唯心論」ではないということを説明したかったからだ。

 もちろん「空」それ自体を、観念的に実体視すること(この場合は世界を「空」だから「虚無」なるものとして観ること)も可能だが、伝統的解釈でも「空亦復空」として、その場合は観念的実体として観じられた「空」をさらに空化する必要があると言われている。

「空」はもともと人間の側の「観念としての実体視」を否定したもののはずなのに、逆に「空」を「虚無」と同義のものとして実体視し、虚無主義に陥り、自らの観念を強化してしまう者は救いがたい、という訳だ(「空」を観念として実体視する、の部分がわかりづらいと思うので、このあたりは次回にもう少しだけ解説する予定)。

 もちろん、これとはまったく逆の解釈、たとえば「縁起」は存在論として解釈せず、意味上の論理的相関関係として捉えるべきだという説や、仏教本来の縁起は「相互依存の縁起」ではなく「十二支縁起」だけだ、などという説もあるのは承知しているが、ここではそれらの説をとらない。

 「現実」とは何か? あるいは事象の「実際のありよう」はどうなのか? ということを探っていくうちに、その捉え方が「縁起」や「空」のそれと似ていると気がついたというだけで、思想としての仏教を論じたいわけではないからだ。

 ただ、前回の思考実験もそうだが、これらの話は、単に旅についてだけでなく、人生の途中で誰もが出会うだろう、とある重要な問題(本章のテーマになっている問題)を解決するための基本的考え方の土台にはなると思うので、これらの話を頭の隅において旅の話を読みすすめてもらうといいかもしれない。

 

 ということで旅の話を続けると、バンコクで再会した金村氏の推薦で、僕は元祖バックパッカーとでも言うべき老人を取材するべく、パンガン島を訪問することにしたのだった。

 

パンガン島へは、90年代半ばに初めて上陸してから、1~2年に1回くらいの割合で訪れていたと思う。最初の頃は、まだフィルムで撮影していて、最後の訪問時にはデジタルになっていた。最初の訪問時の写真が少なめだったので、今回紹介する写真は、後年訪れたときに撮ったデジタルのものも混在している。この2枚は島を目指すフェリーの甲板の様子。2003年頃撮ったものなので、もしかしたら最初の訪問時のフェリーとは型が違うかもしれない。

 

 とは言うものの、これまで僕はパンガン島には行ったことがなく、現地の土地勘がない。金村氏に説明されても、老人が住居とするバンガローが島のどの辺りにあるのかまったく分からなかった。

「そのバンガローの電話番号とか分からない?」
「電話なんてあったかな。バンガロー名は分かるけどね」

 僕が割と本気でパンガン島に行く気であると分かると、金村氏もだんだん乗り気になってきた。

「パンガン島まではバスとかで行くんだっけ?」
「普通はバスとフェリーだね。カオサンから直通のジョイントチケットがあるから、それで行くのが一番安いんじゃないかな」

 島自体には飛行場も無いようで、対岸の町まで夜行バスで行って、そこからフェリーで渡るのが一般的ということだった。

「でも夜行バスは荷物を盗まれたりするから気をつけたほうがいいよ」
と金村氏が脅かすように言う。
「荷物室に貴重品ごと預けておくと、夜に停車してる最中に中身だけ抜かれたりするからね」

「えっ、タイの夜行バスってそんなに危険だったっけ?」

「油断してると危ないよ。自分もやられたことあるからね。いや~、あれには参った」

「........」

 とまあ、こんな調子で計画を練っていくうち、暇をもてあましていた金村氏も、久しぶりだから自分も一緒に行くと言い出した。

 最初の旅を終えてからの僕の旅は、生計を立てるための取材を含む旅がほとんどで、外面的なスタイルから言うと、純粋に放浪するという意味での本来の「旅」とは違ったものになりつつあった。

 もちろん取材旅は、本来の「旅」だけではなく、いわゆるリゾート滞在をのんびり楽しむ観光旅行とも違ったわけで、このときも取材という名目がなければ、わざわざパンガン島を目的地にしようとは思わなかったかもしれない。

 とはいうものの、このときは、それほどまじめにその老人を取材しようとしていたかと言うと、そうでもなかった。内心、仮にその老人を取材したところで発表できる媒体がなさそうだなとか、まあ、取材にならなければパンガン島でのんびり過ごすのもいいか、という気持ちもあったのだ。

 取材するつもりと言ったり、でものんびり過ごすのもいいとか、いい加減だなぁと思われるかもしれないが、僕はガイドブックとかの頼まれ仕事で取材に行くときでさえ、あまりタイトにスケジュールを決めず、何を取材するかは現地に行ってから決める方式でやっているくらいで(さすがに軽く下調べくらいはするが)、自分としてはそういう態度で臨んだときにこそ、逆に思いもかけない出会いがあったり(以前書いたヴュルツブルクの取材時の話みたいに)、まだ誰も知らないような穴場の店を見つけられたりしていい取材が出来るのだと思っている。

 付け加えると、僕はもともと、普通のツアー観光や、リゾート旅が特別に嫌いというわけではなかった。今でもそれほど観光ツアーには参加しないが、過度にお金がかからないなら、いわゆるリゾート滞在を嫌がる理由は無い。

 最初から特定の目的地があったり、そこで行う行為が限定されていたり、現地で求めることがあらかじめ決まっているなら、それは厳密には「旅」ではないというだけで、そんなのは「旅」ではないからダメだとまで言う理由はまったく無いし、実際、そこまで言うつもりはないのだ。

 たとえば、登山が好きな人が、とある特定の山の登山を目的に、そこでの登頂の喜びを求めて山を目指すという場合、普通はそのような登山行きを「旅」とは呼ばない。あるいは釣りが大好きな人がアマゾンに魚を釣りに行くというような場合も、普通は「旅」とは言わないだろう。

 では、それらは「旅」ではないからダメなのかと言えば、そんなことはまったく無いわけだ。

 特定の目的地も無ければ、そこに行ったからといって何をするとあらかじめ決めているのでもなく、そこで何を求めているかも明確でない。

 だからこそ、それは単に(目的のための)「移動」ではなく「旅」と呼ばれるのだろう。

 そして、最初の「旅」でそのスタイルが気に入ってしまった僕は、その後の仕事の取材旅でも、外面的にどう見えるかはともかく、内面的にはやっぱり、何を求めているか分からないから「旅」なのだという、この隠れた原則で取材していたと思う。

 ということで、このときも結局、当初の計画からはまったく予期せぬ形で、いい年したおっさんの金村氏と二人でという、なんとも色気の無いパンガン島行きとなったのだった。

 島へ向かうバスの車中で金村氏とどんな話をしたか、それほど明確に覚えてるわけではないが、話しをしてみると金村氏は意外にまじめに将来のことも考えていた。
 たしか生前贈与的に母から相続した、まとまったお金があるから、それをタイに投資して事業をやるつもりだ、というような話をしていたと思う。少なくともこの当時は、将来ライターになるつもりだ、というような話は一切していなかった。

 後年、金村氏がライターとして活動し始めたのを知ったときは、さすがの僕も驚いたものだが、金村氏もまた、旅を通じて身につけたある種の臨機応変さ(いい加減さ、ともいう)で、人生そのものを旅にするような処世術を身に着け始めていたのかもしれない。


 島へのフェリーはたしか、日本のどこかからか持って来た中古の観光船を改修して使いまわしているものだった。それなりの大きさだったが、とても中古船とは思えないような、モーターボート顔負けの快速で島を目指した。

 南国特有のまとわり付くような湿った不快な熱気も、甲板に出ると潮風が拭い去ってくれ、爽快な気分になってくる。
 甲板の縁から下を覗き込むと、海は青く揺らめき、フェリーは、その青い表皮をナイフで剥きとるかのように、下から白く泡立つ水しぶきをめくり上げ、側線に飛び散らせながら進んで行った。
 
 同じフェリーに乗ってる連中は、大きなバックパックを背負った20代前半くらいの若い西洋人が多く、中にはインドからそのまま来たんじゃないかと思うようなヒッピー風の外見の人たちもいた。

 彼らに混じって、ただ無心に海を眺めていると、どこか懐かしいあの感覚が戻ってきた。以前からたびたび言及しているあの妙な「現実感」だ。

 それは特に大きく開けた自然景観に出会ったときには、かなりの確率で感じられ、たとえば高い山に登って下界を覗き込むようなときや、このときのようにフェリーやボートで大海原を移動するときには強烈なものになるのだった。

 久しぶりの「現実感」に浸ってしばらく時間の経つのも忘れて海を見つめていたが、ふと前方に視界を向けると、遠くから小さく見えていた島影が徐々に大きくなってくるのが分かった。


「よう、金村氏。久しぶり!」
 そう言って迎えてくれたのは、想像していたよりずっと小柄だが、思ったとおり闊達な雰囲気の、ちょっと色黒な老人だった。

「いやー、千葉さん。久しぶりです」
 その老人は千葉さんといい、金村氏は挨拶が終わると、僕をその老人に紹介してくれた。

 千葉さんは日本でよく見かける田舎の老人、それも漁村でよく見かけそうな風貌の老人だった。人柄も外見も素朴で飾らない、でもちょっとどこか頑固そうな芯の強さと温かみのある、誰もが思い描くような典型的な「海の男」という印象だった。もっとも僕がそう感じたのは、出会ったのがパンガン島だったからかもしれない。また、今にして思えば、当時まだ50代後半だったはずで、それほど老齢というわけでもなかった。

 千葉さんがその当時住居としていたバンガローは「ムーンライト・バンガロー」といって、フェリーが着く桟橋から、歩いて20~30分程度のところにあった。

 

バンガロー近くの小さな沼を手前に、奥の山の遠景を狙ったショット。パンガン島はそこそこ大きな島なのだ。

 

 目の前がすぐビーチで、ちょっと奥まったところにレストラン兼、ロビー兼、受付みたいな建物(調理場とカウンター、飲食用テーブルセットがいくつかあるだけの素朴なスペース)と、周囲に掘っ立て小屋みたいな個別の小屋(バンガロー)が何棟か建っているだけという、島の中でも小規模な部類の宿泊施設だった。

 

バンガロー手前の海。島で一番人気があるビーチといえば、フルムーンパーティーで有名なハドリンだが、こちらは人も少なく、プライベートビーチ感覚で毎日泳いでいた。

 

 バンガロー内を散策すると、千葉さんが住居としている小屋はすぐに分かった。小屋の周りに釣竿が何本も立てかけられていて、そこだけ地元の漁師の監視小屋と言われても納得してしまいそうな生活感あふれる佇まいだったからだ。

 その小屋の前のビーチの前方、つまり浅瀬の海の中には、小さなボートも繋がれていた。

「ここってボートもあるんですね。宿のものですか?」
 散策から戻って、ふと何気なく聞いてみると、

「いや、あれは俺のだよ」
 との返事が返ってきた。

「え、買ったんですか? いくらくらいでした?」

「いくらだったかな。まあ安かったよ。地元の漁師に頼んで安く譲ってもらったんだよ」
 千葉さんは、具体的な金額はぼかして、でも僕のぶしつけな質問には気を悪くする風もなく笑顔で答えてくれた。

「久保田氏は釣りはするの?」
「いや、特別趣味にしてるとかはないですけど。でも嫌いじゃないですよ」
「じゃあ、時間があるときにでも、あれで海釣りにでも出てみるか?」
「え、いいんですか? 是非!」

 千葉氏は、愉快なときにはカッカッと屈託なく笑う人で、このときもそんな風に笑っていたと思う。

 宿にはこのとき、僕と金村氏と千葉さん、そして千葉さんの知り合いの別の日本人と、欧州からの若いバックパッカーが数名泊まっていたと思う。

 到着したこの日は、夕飯は刺身パーティーにしようということになった。

「ちょうど板前さんも泊ってるし、今夜は釣れた魚を刺身にしよう!」
 千葉さんのもう一人の知り合いは元板前さんらしく、秘蔵の醤油も使っちゃおうとか言っていたと思う。

「いいですね~」
 と、食い物の話には相好を崩して機嫌がよくなる金村氏。

 バンコクを発つときには、まさかこんな南の島で刺身パーティーで歓迎されるとは思ってもみなかったが、それが旅というものだろう。日が落ちると、お約束の地元のビールを片手に、獲れたての魚を捌いた刺身をテーブルに広げ、千葉さんを囲んでの和やかな夕食会が始まった。

 夕食の合間に聞かせてもらった千葉さんの話は興味深いものだった。昔の旅では飛行機は高価だったから、まずは船で大陸に渡ったものだとか、インドから欧州に向かうのにはバイクを使ったとか、その途中、荒野で野犬の群れに襲われそうになって、必死でバイクを走らせながら石を投げて逃げ切ったとか、最終的には欧州まで行き、そこでバイトをして帰国の資金を作った、などなど。雰囲気的にはちょっとした千夜一夜物語を聞いているような趣があった。

 

  

 

 

ムーンライト・バンガローの宿泊小屋。トイレ・シャワーは別で、クーラーもないが、個人的には居心地がよかった。次が千葉さんが住んでいた小屋で、手前に座っている人が千葉さんだ。親しくなると、改まって取材という雰囲気ではなくなって、撮った写真の枚数も少ないのだが、最初の訪問時のフィルムに残っていた(3枚目)。4枚目は、千葉さんが過去に旅したときの写真を見せてくれた機会に、それを並べて撮ったもの。最後の2枚は自慢のボートに乗せてもらって海釣りをしたときのもの。千葉さんの釣りの腕前は僕の目からはプロ級に思えた。

 

 このときは千葉さんの話を特にメモに取ったり録音したりしていなかった。すっかり取材モードから、のんびり過ごすモードにスイッチが切り替わって、それほど突っ込んだ質問もしなかった。今にして思えば実にもったいないことをしたと思う。

 それでも、その後の千葉さんとの交流で得たいくつかの記憶の断片を集めてみると、千葉さんがなぜ旅に出たのか、特に取材という名目で質問などしてなくても、おぼろげながら見えてくるものがあるような気がするのだ。

 たとえば、旅に出る前の仕事について聞いたときには、はじめての就職は地元の役所だったが、こんな仕事をしていると人間がダメになると思ってすぐに辞めてしまった、と言っていた。

 なぜそれが人間をダメにすると感じたのか、安定した公務員のほうが本当は良かったんじゃないかとか、浮かんできた疑問がないではなかったが、それ以上聞くのも野暮に思えて、そのときはただ黙って聞いていた。

 また、ふと思いついて、これまで旅で出会った人の中で特に印象に残っている人はいるか、という質問をしたときには、インドで出会った日本人の仏教僧の名を上げていた。仏教が衰退したインドで、その復興に尽力した僧侶だったそうで、たしか八木上人と呼んでいた。最後に壮絶な自死を遂げたんだよ、と感慨にふけっていたのが印象的だった。
 なぜその僧が自殺したのか、その生き様のどこに感銘を受けたのか、いや、そもそも、その八木上人がどういう人物なのかもまったくわからず話を聞いていたが、千葉さんはその生き様と死に様にかなり影響を受けていたようだった。

 このパンガン島に住むための資金はどうしてるのか、という質問には、最初の旅のあとに仕事現場も海外が多くなって、たしか中東とかアラブ方面とかでODAがらみの建設現場を渡り歩くようになり、そこで現場監督みたいな仕事をして金を貯めた、ということだった。

 海外のODAというと、いわゆる日本政府から途上国へのひも付き援助として悪名高いものだが、千葉さんが実際に仕事をした当時は、まだその存在自体がそれほどマスコミで大きく取り上げられてなかった頃だと思う。バブルがはじける前だったし、知る人ぞ知る特殊な仕事だったということもあるのだろう、ひとつの現場でみっちり仕事すると、その間遊びに使う暇もないから、かなりまとまった金が貯まったということだった。ちなみに、この当時のタイの金利はそこそこ高くて、そのまとまった金を預けておけば金利だけでそれなりの生活資金になるという話だった。

 家族に関しては、旅で出会った女性(日本人)と、帰国後結婚して娘さんも授かったとのことだったが、千葉さんはこの当時、その日本の家族と離れ、このバンガローに一人で住んでいた。離婚したわけではなく、娘さんもたまにここに遊びにくるとも言っていた。それがなぜこういう形で別居しているのか、その辺りの家庭の内情に関しては、さすがに質問しなかったので詳しくは知らない。

 なぜ他の場所ではなく、このパンガン島を選んだのか、と聞いたときには「釣りができれば別にどこでも良かったんだよ」との答えだった。ペナン島(マレーシア)とか他も色々探ったけど、ここが一番良さそうだった、とのことだった。
 言われてみれば、滞在費が安く(宿泊費は年払いということだった)、ビザの更新も比較的簡単で、気候もよく、大好きな釣りも毎日堪能できるわけで、たしかにここは、釣り好きが隠居するには理想の楽園のように思えた。

 ちなみに、このバンガローを運営していたのは、スースーとサオという、まだ若い地元の女の子二人組みだった。ずっと後で知ったのだが、もともとオーナーは別にいたのだが、この二人の女の子が経営権を買い取ることになったとかで、特に年長のスースーが実質的なオーナーになっていたのだ。

 若い方のサオは、初めて会ったこの当時は、まだ十代後半だったと思う。スースーはどちらかというと裏方の仕事で忙しく、宿泊客を直接相手にしていたのは、主にこのサオのほうだった。

 サオは、いかにも南の島の娘というイメージの、自由奔放な明るい性格で、宿に泊まっている外国人客の間ではちょっとしたアイドル的存在だった。
 宿泊客がすることがなくて暇なときは、話相手になってくれるのはもちろん、庭先でバトミントンの相手をしてくれたり、トランプやバックギャモンなどの遊びにも付き合ってくれていた。

 サオもスースーも、ホテル業界で働いて、そのノウハウを元にこのバンガローを運営していたというわけではなかった。もともと地元の漁師の娘でしかなく、彼女たちなりに周囲のバンガローの運営方法を見ながら、自分たちでどうすればいいか、何とかサービスを考えながら運営しているというという状態だったと思う。サオとおしゃべりしたりゲームの相手をしてもらっていると、気分的には地元の民家の別棟に泊まっているような感じがしないでもなく、それはそれで高級リゾートでは絶対に味わえない、単なる設備の豪華さとは別の次元での特別な贅沢さがあった。

 単なる宿の運営者という以上の人間味を発揮してくれるサオとスースーが身近にいたし、天候がいいハイシーズンには僕らみたいな日本人の訪問者もいるし、千葉さんはそれほど孤独ではないようだった。

 

 

宿の運営をしていたサオとスースー。サオはなかなかエキゾチックな顔立ちの美人だった(2枚目)。スースーは見るからにポリネシア系の体格で、このときは遠浅になっている宿の前のビーチで貝を拾っていた(3枚目)。 

 

 僕も最初のこの訪問で、すっかりこのバンガローが気に入り、取材のこともどこかへ忘れて、そのまま2週間くらいは滞在したような記憶がある。

 昼間は毎日のように千葉さんの小さなボートに乗せてもらって一緒に海釣りに出かけ、夜は宿泊客同士で集まってはカードゲームに興じるという生活が続いた。

 正直、自分でも意外なほど楽しかった。子供の頃、近所の森でダンボールを集めて自分だけの基地を作って遊んだときのような感覚というか、あるいは、そのすぐ隣の神社の脇にあった防空壕をローソクの灯を頼りに探検したときのようなというか、いや、もっと普通に一番分かりやすい例えとしては、修学旅行で旅先の京都の宿で友人と夜遅くまで雑談に興じたときのようなワクワク感にも似た楽しさがあった。

 だがその楽しさは、僕が最初の「旅」で感じた、あの「現実」に直接触れることで生じる感動とは違ったものだった。最初の旅は典型的な一人旅だったわけで、誰かと一緒に行動するにしても移動先が同じ方向の間だけ一緒という場合がほとんどだった。

 一人で行動していると、自然に内省的になるし、今にして思えばだが、以前書いたような社会通念を疑うのにも都合がよかった。社会通念というのは同じ社会で共有される集団幻想のようなものなので、グループで旅をしていると、そのグループ内の通念から抜け出すのが難しくなるように思う。

 そしてなにより、最初の旅に出たときには、僕は文字通り、世界というものを何も知らない状態で旅をしていた。しかしこのときには、インドや東南アジアの社会について、そこに住む人々の考え方や習慣、文化について、あるいは自分の背景にある文化的条件付けと、彼らのそれとの相違についてなど、ある程度の知識と見解を持つようになっていた。

 いくらインドや東南アジアに物珍しいところがあるといっても、1年も同じ地域を旅をすれば、さすがに新鮮な驚きは少なくなっていく。一口で言えば刺激に慣れてしまうのだ。

 それでも、刺激に慣れきってしまう前に、なぜ新鮮さを感じるのかということについて、あるいは自分の持つ文化的条件付けと彼らのそれとの違いに関して、その理由が分かるような理解が生じるならまだいい。

 たいていは理解もままならないまま、ああ、この国ではそういうもんなんだ、と勝手に納得して特に気に留めなくなってしまうことのほうが多く、正直、そうなってしまうのが嫌ではあったが、かといってそうならないでいるのも難しかったのだ。

 僕がたったの1年程度で最初の旅を切り上げて帰国したのも、あちこち移動するだけの旅は、とりあえずはもう十分と感じるものがあったからだ。

 昔、僕が旅で出会った人の中には、旅を2年も3年も続けているという人もいた。すごいですね、と僕が感心してみせると、謙遜して「自分なんてまだまだ旅の初心者です。10年ぐらいずっと旅し続けている人もいますよ」というのだった。

 そういう人の話を聞くたびに、内心、僕はある疑問を感じないではいられなかった。そんなに長く旅していると、旅そのものがひとつの決まりきった日常になってしまって、逆に通常の定住生活のほうが恋しくはならないのだろうか? と。

 よく「隣の芝生は青い」というが、人間とは勝手なもので、寒いところに長くいると暖かい所に移住したくなり、南の暖かい気候のところに引っ越せば、今度は雪が降るくらい涼しいところが恋しくなる。

 仮に「旅」を、この手の「変化」の一種であると捉えるなら、場所を移動し続けることがもたらす心境のあり様と、ひとつ所に定住することによる心境のあり様との間の「変化」は、変化の度合いとしては、旅の最中に感じる移動がもたらす心境の変化よりも、より根源的な変化になるのではないだろうか?

 移動し続けることが日常生活になってしまえば、たまには特に気に入ったところに長居したくなるのが人情というもので、だから当時の旅人の間では、ひとつところに留まる「沈没」という現象がよく見られたのかもしれない(これも今にして思えば、だが)。

 では僕が旅に求めていたのは、単に新しい刺激や変化だったんだろうか? 旅に慣れたから今度は金村氏が初めたある種の定住方法や、千葉さんがやっているような隠居生活が新鮮に感じるということなんだろうか? 

 河の向こうに魅力的な対岸の姿が見えるとして、実際にその河を渡って「彼岸」にたどり着いてみると、その彼岸側からは、かつて自分がいた側の川岸が彼岸となって見えてくる。いま渡ってたどり着いたばかりの彼岸は、自分がいることにより「此岸」になってしまっていて、それでまたしばらくしてその滞在に飽きたら、今度は逆に自分が元いた反対側の岸に渡ってみたくなる、ということなのだろうか。つまりは結局、そんなことの繰り返しが旅だったり人生だったりするんだろうか?

 いや、これまで書いてきたとおり、旅には単なる刺激や非日常性で片付けられない何かがあった。

 きっかけとしては、普段の日常とは違う「刺激」があったかもしれないが、文化の違いを意識してからは、その刺激をきっかけに、自分の物の見方そのものが変わっていくのを感じることができた。

 そしてそれは、どちらか一方の見方から、もう一方の見方へ変化する、という問題ではなかった。たとえば日本文化を背景としたものの見方から、インド的世界観がもたらすそれへと変化したのでもなければ、タイや東南アジア、その他欧州文化のどれかに影響を受けたということでもなかった。

 文化と環境の違いが元になった内的条件付けによる境界を越えることについてはすでに書いた。しかし、僕が見出したいと思った「現実」と直接向き合うためには、そのような文化や社会通念とか呼ばれるものが作り出す「壁」よりも、もっと根源的な境界として「観念」そのものが作り出すこの「相対的二元性」の壁のほうがより大きな壁であるように思えたのだ。

 ということで次回はいよいよ、この相対的なものの見方を脱することについて書いてみたいと思う。

 

けっして有名なビーチではなく、豪華なリゾート設備があるわけでもなく、自然景観が他と比べて飛びぬけて良かったということもない、ごく普通の南の島の一角ではあったが、千葉さんやサオやスースーのいた、この頃のムーンライト・バンガローは、他のどんな高級リゾートにも負けない不思議な魅力に満ちた場所だった。

 

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 久保田耕司

    1965年静岡県出身。広告代理店の制作部からキャリアをスタート。90年代初頭から約1年ほどインド放浪の旅に出る。帰国後、雑誌や情報誌などエディトリアルなジャンルでフリーランス・フォトグラファーとして独立。その後、ライター業にも手を広げ、1997年からは、実業之日本社の『ブルーガイド わがまま歩き』シリーズのドイツを担当。編集プロダクション(有)クレパ代表。

キーワードから探す

ランキング

お知らせ

  1. 春秋社ホームページ
  2. web連載から単行本になりました
閉じる