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ぼくらはまだ、ほんとうの旅を知らない 久保田耕司

旅とは何かということについて(2)

 

 この世には、その実質的な意味、あるいはその本質、もしくはその指し示す実体を、誰もが簡単に思い浮かべ、かつ具体的に定義して説明することが出来る言葉(単語)と、皆が皆、その言葉の指し示す事象を実際に知っていて、実体験や実感もあるにも関わらず、その実体を説明しようとすると、急に確かな対象が思い浮かばなくなり、対義語の助けを借りないと定義すら出来ないような言葉、そしてその両者の中間のような言葉の別があるように思う。

 こう書くと「なんじゃそりゃあ、そんな言葉の分類方法は聞いたことがない」と言われるかもしれない。僕も別に言語学を学んだわけではないので、そういう分類方法が実際にあるのかどうかは知らない(もっと洗練された方法がちゃんとあるんだろうけど)。

 実をいうと、僕は自分なりに「旅」とは別のテーマとして、言葉の実質的意味の探求ということに、ずいぶん前から取り組んできた。といっても学問として研究したとかいうことではなく、ただ単に個人的な必要性からそうしていただけなのだが…。

 ということで、今回はせっかくだから「旅」の本質を探るのがなぜ難しいのか、前回書いたとおり、僕が通常の思考方法や分析手法がその探求に対してうまく機能しないと思っている理由を、言葉の「実質的意味を探る」ことを通じて説明してみたいと思う。

 

 たとえば「健康」という言葉がある。さすがにこの言葉を知らない人はいないだろう。別に特殊な用途で使うわけでもなく、ごく普通に日常会話で出てくる言葉だ。もちろん特別に高度な抽象概念というわけでも無い。ところがこの言葉、ある理由によって、先に説明した「皆が皆、その言葉の指し示す事象を実際に知っていて、実体験や実感もあるにも関わらず、その実体を説明しようとすると、急に確かな対象が思い浮かばなくなり、対義語の助けを借りないと定義すら出来ないような言葉」に該当するのだ。

  こう書くと、どこからともなく次のような反論が聞こえてきそうな気がする。

 「ちょっとまて、確かに昔は、何をもって健康と定義するかは難しかったかも知れない。でも、科学が発達した現代なら、たとえば人間なら体温が36~37度以内で、脈拍が平常時で毎分60~100回程度、血圧なら上が130、下が85mmHg未満とか、条件をリスト化していけば、何が健康の条件かくらいのことは定義することができるんじゃないか」と。

 正論に聞こえるし、専門家が細かく条件をリスト化すれば、それなりに使える定義が出来そうにも思える。ところが、こういう定義方法は、ある理由があってうまくいかないのだ。

 理由のひとつは、そのような条件は十分条件ではあるかもしれないが必要条件ではない、というのがある。たとえば、リスト化された条件をすべて満たしているのに、大怪我をして神経を痛め、半身不随で寝たきりになっている人だっているかも知れないし、遺伝的な疾患で、他は完璧な状態でも身体のどこかにピンポイントの不具合がある人だっているかもしれない。

 

 ただ、この程度の説明だと、さらに反射的に次のような反論が飛んでくるかもしれない。

「分かった、分かった。じゃあ必要条件もリスト化しよう。神経に障害がないこととか、インフルエンザに罹ってないこととか、何らかの持病がないこととか、それこそ全部の疾患、病名を明記して、それらの病気に罹っていないこと、とすればいいんじゃないか」と。

 

 これに対しては、実際にその条件をリスト化するには、この世に存在するだろう、ありとあらゆる病気や不具合の名称を全部リスト化する必要があって現実的ではない、と答えるだけで十分だろう。

 つまり、そんな風に定義するくらいなら、最初から「健康とは、心身に病気や不具合などがないこと」と対義語の助けを借りて一言で定義してしまったほうがよっぽど早い。実際、健康の意味を広辞苑で引くと「身体に悪いところがなく、心身がすこやかなこと」と出てくる。「すこやか」とは、「健康」の昔ながらの別の言い回し(厳密には「良好な健康状態」に限定した言い回しだろうと思うが)だから、言い方を変えただけで、要するに「健康」という言葉は、一般に「良い健康状態」を指して使うんだよ!健康とは、要するに良い健康状態のことなんだよ!と、ほとんど何も説明してないに等しい説明だと気が付くだろう。

 また、中には世界保健機構(WHO)の次のような定義を持ち出してくる人もいるかもしれない。WHOによれば、健康とは「身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない。」ということになっている。

 しかしこれだって「完全に良好」とは具体的にどういうことなのか説明していないので、僕が求める言葉が指し示す実体、つまりこの場合は「完全に良好な状態」とやらの実体が具体的にどんな状態であるか、あるいは何がその完全に良好な状態をもたらす要因なのかは不明なままだ。

 ここまで説明しても、僕が何を言いたいのかよく分からない、あるいは主張そのものにいまいち納得できない、という人も多いと思うので、もうひとつ同じような性質を持つ言葉、「健康」と同じグループに属する(と僕が勝手に思っている)「安全」という言葉を例にとって説明を続けてみたい。

 

 実は「安全」という言葉に関しては、数年前、とあるWEBメディアで、今回の事情を説明するのにぴったりの記事を見つけたことがあるので、まずはその記事を紹介させて欲しい。

 その記事のタイトルは『「具体的な『安全』は存在するのでしょうか?」安全を追求するJALの機長が語る驚きの事実と絶対安全に向けたJALの取り組みとは?』というものだ。

 この記事の趣旨としては、インタビューを受けるJALの靍谷機長が、WEBメディアの編集部員記者に対して、JALは「安全」というものをこんな風に捉えていますよ、航空業界の安全対策というのは、こんな風に考えられて運用されているんです、という説明をするというもので、最初から言葉の定義をするのが目的ではないのだが、だからこそ「安全」というものが絶対的に必要とされる空の現場、あるいは航空業界の管理の現場において、空理空論ではない、本当の意味での「安全」の捉え方が分かって興味深いのだ。

 

 記事の中で、機長はまず記者に対して、「危険」とは具体的にどんなことか、どういう事象が危険として思い浮かぶか、という趣旨の質問している。

 記者はその質問に対しては、例えば刃物とか、事故だとか……場合によっては「人」が危険につながることもありますね、と無難に返答している。僕なら飛行機内であることを前提に、発火物とか発煙するもの、リチウムイオンバッテリーとか、気化しやすい毒物全般と答えるかもしれない。誰でも「危険」なものが何か、と聞かれれば、それなりに一つや二つはすぐに具体的な事象が思い浮かぶんじゃないだろうか。

 さて、問題はここからである。機長は記者のこの返答に満足して、次の質問に移るのだが……以下、記事から両者のやり取りをそのまま引用してみる。

 

靍谷:

〔…〕では逆に具体的な「安全」というのが何か、具体例を挙げることはできるでしょうか?

  

……こう尋ねられてハッと気がついたGIGAZINE編集部員。確かに「危ないもの」は簡単に頭に浮かぶのですが、いざ「安全なもの」といわれてみると驚くほど何も思いつきません。自動車や電車、普段使っている道具、電気、ガスコンロなど、たとえ「安全」とされていても、そこには何らかの割合で必ず「危険」が隣り合わせで存在しているように思えてきました。

 

G:

いや、何も思いつかないですね……強いていえば、「危険なものがない状態」ということになるでしょうか?

 

靍谷:

そうなんです、いま思われたように、実は「安全」といえる具体的なものはないのです。危険には具体的なものがあります。しかし、安全に具体的なものはなく、「ある状態にあること」を安全である、と呼んでいるのです。

「具体的な『安全』は存在するのでしょうか?」安全を追求するJALの機長が語る驚きの事実と絶対安全に向けたJALの取り組みとは? - GIGAZINE) 

 

 僕がこの記事を読んだ当時、記事に出てくる安全という事象の捉え方が、以前から自分が取り組んできた言葉の実質的意味の探求の仕方と、一部よく似ていたので、我が意を得たり!とひざを打ってブックマークをした覚えがある。

 

 「健康」もまた、具体的にこれが健康ですよ、と取り出して説明することが難しい言葉だ。そして、そうなる理由も、この記事の「安全」とよく似ている。安全を脅かす対義語である「危険」は、いくらでも具体的な事象を列記できるし、こと細かに何がどう危険なのか説明できるだけではなく、その危険度を数値化することさえ出来るだろう。同様に、健康の対義語である病気(厳密には病気だけを対義語とするのは正しくないが)も、その名称、具体的な症状、原因や危険度をこと細かく描写することが可能だ。

 

 追記しておくと、記事によればこのような「安全」の捉え方はJALに特有のものではなく『国際民間航空に関する機関であるICAO(国際民間航空機関)によって決められているもので、安全とは「危険因子(ハザード)の特定およびリスク管理を継続して行うことによって、人への危害あるいは財産への損害のリスクが受容レベルまで低減され、かつ受容レベル以下に維持されている状態」』と定義されているのだそうだ。

 

 ちなみに僕は「健康」や「安全」以外にも、「自然」「幸福」「正義」「善」などは同じグループに属する言葉と思っていて、僕の中ではそうなる理由もはっきりしている。そして、これらの言葉がなぜ同じ性質を持つのかを説明するには、先の記事内でJALの機長が説明していたような説明だけでは十分ではないことも知っている。でもこれ以上、その理由までここでまとめて説明しようとするのは、寄り道がすぎることになりそうなので、話題を投げっぱなしにして申し訳ないが、そろそろ「旅」の意味を探る話に戻ろうと思う。

 ……と、この項を書き始めた当初はそう思っていたのだが、あることがきっかけで急に気が変わった。多少の脱線覚悟で、もうちょっとだけ、さわりの重要部分だけになるが、そうなる理由の説明を簡単に続け、最後に気が変わった理由も追記しておく。

 

 細かい話を抜きにして結論だけ先に書いてしまうと、先の言葉が同じような性質をもつ理由とは、その言葉の本質が「全体性」として捉えたときに初めて意味をもつ言葉、だからなのだ。

 

 たとえば、あなたは一部分だけの「健康」について聞いたことがあるだろうか?

 誰かが「自分は実は胃がんになってしまって治療中だけど、それを別にすれば他の部分はすごく健康なんだ。」と言ったらどう思うだろう?違和感を感じないだろうか?

 よくよく考えれば、そもそもの最初から、「病気」とは心身の一部の不具合に起因する部分的なものであり、それに対して「健康」とは、心身の調和など全体のバランスが取れた状態を表す言葉、という暗黙の了解みたいなものがあることに気が付くのではないだろうか?

 「安全」の場合、先のWEBメディアの記事は、安全そのものというより、それを脅かすことになるかもしれない危険の、さらにその「可能性」を考慮に入れた話になっているので「健康」の場合と事情が違うように見えるかもしれないが、実際には安全と危険の関係も、全体と部分という意味では同類の言葉なのだ。

 つまり「健康」や「安全」は全体性を前提にした言葉で、その対義語の病気や危険は、常にその全体性のバランスを脅かすような部分的な要因に関する言葉なのである。

 同じように「自然」「幸福」「正義」「善」などの言葉も、全体性を考慮して捉えて、はじめてその本質や意味が分かるような種類の言葉だと僕は思っている。

 

 ここまで説明しても「なるほど。全体性を前提に捉えてはじめて意味を成す言葉がある、というのはなんとなく分かった。でもそれが今回の「旅」という言葉の意味の探求の仕方とどう関係があるんだ?」と言われそうなのでもうちょっとだけ説明を続ける。

 

 問題は、全体性を前提にして初めて意味を成す言葉というのが、思考や論理で捉えることが難しく、その逆に、それらの言葉の対義語は、部分的要因に関する言葉なので簡単に思考で捉えて分析することが可能だ、という点にある。

 そもそも「思考」というものは、物事を対象化して名付けをして、部分として切り出して定義するところからしか機能しないものではないだろうか?また「論理」というものも、AはAでありBではない、に始まる、事象の「分別」を大前提として成立しているもののように思える。

 

 このことがどう「意味」や「本質」の探求において重要なのか。出来るだけ簡単に分かりやすく、かつ短い紙幅で説明できないか考えていて、この状況を表すぴったりの寓話を思い出した。

 古くからインドに伝わる「群盲象を評す」という寓話だ。この話は仏教にも取り入れられていて日本でも仏教説話として知られているから、どこかで聞いたことがあるという人は多いと思う。イスラーム教や他の宗教でも取り入れられているようだが、話の筋はだいたい以下の通りだ(仏典に出てくる話を元に独自にアレンジしています)。

 

 あるところに王様がいて、象を飼っていた。王様はあるとき、とあることがきっかけで、盲人たちが世界をどう捉えているのかに興味を持ち、数人の盲人たちを宮殿に招待した。

 王様は、盲人たちが捉える世界の様子を知るには、それぞれ皆が今まで見たことがない(触ったこともない)象に引き合わせ、各自がどう捉えるのか試してみるのが良さそうだ、と思い立つ。

 そこで集めた盲人たちに象を好きに触らせて、象とはどういうものか、それぞれに報告させることにした。

 連れてこられた盲人たちは実際に生まれて初めて象を触ってみるのだが、あるものは象の耳を触り「象とは扇子のようです」と答え、足を触ったものは「象とは柱のようです」と主張し、腹を触ったものは「太鼓のようだ」と描写し、以下、脇腹は壁のよう、背は高い机のよう、頭は何か大きなかたまり、牙は角のよう、鼻は大蛇のよう、尻尾はロープのようだ、とそれぞれに自分の触った部分からの印象だけで象を評し、自分だけが正しいと主張した。 

 王は最初、興味深く報告を聞いていたが、各自がそれぞれ自分の描写が正しいと言い争いをはじめたので「皆の主張はそれぞれが正しい。主張が食い違っているのは、触った部分が別々だからだ」と、象の大きさと、皆が触った箇所が少しの部分でしかないということを教えさとした。

 

 ……と、まあ、こんな話である。

 仏教説話という観点から解説するなら、この寓話に出てくる盲人とは、われわれ凡夫のことを指しているのは明らかだろう。その場合、象は「真理」や「仏性」の象徴ということになる。

 もちろん、われわれ凡夫は、自分では自分のことを盲人とは思っていない。自覚がないまま、あらゆることを思考や論理の手探りで解明できると思っている。というより、そもそもそれが盲人の手探りのような行為である、という自覚がないし、普通はそれ以外に外界を評価する手段を持たない、とも思い込んでいる。そこのところをこの寓話は「そんな手探りみたいな方法では一部分しか分からないでしょう、真理はそのような方法では見ることさえ無理ですよ」と教えていると思うのだ。もちろん、これはもともと寓話だから様々な解釈が可能だし、人によって説明の仕方も違うとは思うが。

 

 つまり、僕が言いたいことをこの寓話に当てはめるなら、「旅」に限らずだが、あることの実質的意味を真に理解しようとするとき、「思考」や「論理」は盲人の手探りと同じ程度の道具としてしか機能しない可能性がある、ということなのである。

 

 で、なぜ予定を変更してこの話題をここまで説明したのか、についてだが、実はこの項を書いている最中、たまたまとあるTV番組の録画を見てしまったからなのだ。

 その番組では、最近、世界的ベストセラー(邦題:『世界はなぜ存在しないのか/マルクス・ガブリエル』)を著した新進気鋭の若き哲学者の論説を紹介していて、最後はその哲学者自身が自説解説のあと、画面に向かって「世界ハ存在シナイ!」とドヤ顔でキメ台詞を吐くというものだった。

 

 番組の初見時には「世界は存在しない」のインパクトが強すぎて、本当には何を言いたいのかよく分からなかったが、よくよく見直してみると、この若き哲学者の言いたいことはだいたい次のようなことであるらしいと分かった。

 番組内では、後半、哲学と歴史の流れを対比させて論じたあと、ポストモダニズム以降相対主義が社会全体にはびこっている。そのことが、たとえばトランプの台頭を許した、みたいな話になっていて、自身の言葉で彼は次のように発言している。

 

「……ポストモダニズムはメディアに新しいコンセプトをもたらした。おぼえていますか?ポストモダニズムの根本にあるのは、われわれは現実を見ることが出来ない。映像の外に社会的な現実などない。存在するのは隣り合う鏡だけだ、という概念でした。今こそ鏡を投げ捨て前に進むときです。」

「新実在論はこれまでのすべてに異議を唱えます。相対主義は真実ではない。モラルは存在する。」

「どんなに追求しても<全体>を見わたす神の視点など期待できません。<全体>性という考え方をやめれば全く新しい思考が生まれます」

 (NHK「欲望の哲学史 序章~マルクス・ガブリエル、日本で語る~」より)

 

 つまるところ、行き過ぎたポストモダンの相対主義を批判しつつ、絶対的神の視点も同時に否定(世界は存在しない)して、意味のあるものをすべて実在と認め、その事実を元にしたモラルの復活を唱えている、ということらしい。

 

 「全体性」と「個別性」の関係についての解明は、古くからある哲学的テーマのひとつ思うが、現代西洋哲学が、ここまで個人(主観)主義と相対主義に侵食されて混乱しているとまでは知らなかった。

 僕自身は真に価値のあるものは「幸福」にしろ「善」にしろ、全体性を考慮しないと意味を成さないと思っているわけで、いくら全体としての世界の存在を否定しようと、結局のところ個別的視点を基にした「思考」によって実在を規定しようとしている限り、「これは幻想ではなく実在なんだ」と必死に叫んでみても、真に意味をなす「モラル」は実現できなだろうに、と思ってしまう。

 ということで、この若き哲学者がここまでしても、まだ依然として「思考」という道具を最上の探求手段に置いていることが気にかかって一言書きたくなった次第。

 ネット上ではこの新実在主義的解釈を西田哲学と対比して論じる向きもあるようだが、西田哲学における「絶対無」は、容易に「絶対有」に転換しうるものなので、さすがにそれは無理があるだろうと思う。 

 

 なお、「旅」という言葉が全体性にかかわる言葉と同じグループなのかどうかは別途検証していく必要はある。本当は今回、それについても一気に書いてしまうつもりだったのだが、脱線気味なくらい別の説明が過ぎて書けなかったので、次回は書き逃した「旅」という言葉の意味の構図について解説するつもりだ。

 最後に、こんな風に、たまに寄り道してみるのも「旅」の一部だよね、と言い訳しておく。

 

旅に出ると、ついつい撮ってしまう自分なりのテーマがある。それがプライベートな旅であれ、仕事の取材旅行であれ、誰かから依頼されたわけでもなく、お金になるかも分からないのに、ただ撮りたいから撮ってしまう、そんなテーマの被写体がある。気が付くと、いつもカメラを向けているそのテーマとは、訪ねた先の夜の街並みであり、その中で出会う人物のポートレートだ。前回まで紹介したマハー・クンブ・メーラの写真にも夜の写真が多かったと思うが、あれは完全に僕の趣味で、そういうシーンを普通より多めに撮っていたというのがそうなった理由だ。今回紹介するのは、そんな自分なりの、つい撮ってしまうテーマということで、より人物に重点を置いた「夜の人物ポートレート インド編(1)」である。最初から意図的に、かれこれこういう写真が撮りたい、と思ってカメラを向けない撮り方というか、作為なき出会いによる、作為なき描写とでもいうか、いかにも旅の途上の素朴なシャッターチャンスを捉えた感じが伝わればいいなと思う。ちなみに、これらの写真の舞台は、まだ前回までと同様マハー・クンブ・メーラだ。もっとも、これだけ人物に寄って撮ってしまえば、舞台や背景ほほとんど関係なくなって、主題は完全にポートレートになったといってもいいだろう。

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著者略歴

  1. 久保田耕司

    1965年静岡県出身。広告代理店の制作部からキャリアをスタート。90年代初頭から約1年ほどインド放浪の旅に出る。帰国後、雑誌や情報誌などエディトリアルなジャンルでフリーランス・フォトグラファーとして独立。その後、ライター業にも手を広げ、1997年からは、実業之日本社の『ブルーガイド わがまま歩き』シリーズのドイツを担当。編集プロダクション(有)クレパ代表。

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