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ぼくらはまだ、ほんとうの旅を知らない 久保田耕司

旅とは何かということについて(3)

 「旅」という言葉の意味を自分なりにイメージしてみると、それは一本の樹のような姿であるように思える。それはどっしりと、結構な大きさの幹をもつ立派な樹木のようで、あらゆる方向に枝を伸ばし、数え切れないくらい多くの葉をつけている、というイメージだ。

 あらかじめ断っておくと、これはあくまでも意味の構図を個人的にイメージしてみたというだけの話で、旅そのもののイメージという訳ではないし、構造主義的に旅という行為を定義しようとか、パターンランゲージの手法を適用しよう、などという試みでもない。

 この樹が、旅の意味の構図を表す樹であるとするなら、幹の部分には、当然「移動」と書かれていていることだろう。枝はその「移動先」や「目的地」を表し、葉の部分にはその移動先での実際の「行為」が描かれているに違いない。そして、ときどき行為の結果として、枝先の葉の間に花が咲いたり実がなっている、という具合だ。

 言葉の意味をそんな風にたとえることが出来るなら、何も「旅」だけじゃなくて「観光」や「出張」も、多かれ少なかれ同じような構図に収まるんじゃないか、と思う人もいるかもしれない。観光だって旅と同じく移動をともなう訳だし、その移動先や目的も様々で、食事したり買い物したりと、その先々でやるであろう行為も、ある程度は共通している、と。

 もちろん、それはその通りだし、それどころか、他にも同じような構図に収まる言葉ももっとあるかもしれない。

 ただし、旅の樹には一点だけ、それら他の言葉の樹とは大きな違いがあって、それが「旅」を旅たらしめているゆえんである、としたらどうだろうか?

 思うに、その一点だけ違う箇所とは、きっと暗い土の下に隠された根の部分にあるに違いないのだ。もっとも、その根の部分というものが、具体的にどんなものか、今のところはまだはっきりとは分からない(ということで前回の言葉の定義の話に沿って説明するなら「旅」は簡単に定義できる部分と定義でない部分をあわせ持つ中間の言葉ということになりそうだ)。

 話を進める前に、この見えない「根」の部分が、地上の明るい誰の目にも分かる枝葉の部分とどう関連しているのか、まずはそこのところを、よく似た構図を持つ「観光の樹」でちょっとだけ探ってみる。

 

 たとえば最近、ニュースでよく聞く話題に、今月の訪日外国人数が過去最高を更新した、というようなものがある。念のため、観光局(JNTO)の最近の発表を調べると、今年2月の訪日外国人数は260万4千3百人、2月としては過去最高を記録したという。そんな急激に増え続ける外国人観光客のインバウンド需要に応えるように、各種メディアも、訪日外国人が訪れる意外な国内人気観光スポットなどを特集することが多くなってきた。

 その手の特集で必ずといっていいくらい上位に紹介される観光スポットに「渋谷駅前のスクランブル交差点」というのがある。情報番組やニュースなど、TVでも何回か取り上げられたことがあるから、それ見たことあるよ、という人も多いだろう。

 渋谷のハチ公口にあるスクランブル交差点は、多ければ一日に延べ約50万人もの歩行者が行き来する交差点で、ピーク時には一度に3千人とも言われる歩行者が、四方八方からいっせいに対側に向かって流れ出すのだ。ところが、それだけ多くの歩行者が一気にそれぞれの方向に向かって歩いているのに、お互いに秩序を保ってぶつからない様に横断する様子が、外国人の目には面白く映るのだという。

 そこで考えてみてほしい。この手のニュースに接する日本に生まれ育った我々日本人は、特に関東近県に住んでいる人なら分かると思うが、そんな場所を観光スポットに認定する外国人の価値観を不思議に思ったり物珍しく感じることはあっても、自分も実際に交差点に観光しに行きたい、と思うだろうか?

 渋谷駅の周辺が再開発中で、駅前にも新しい商業施設が出来た、とかいうニュースなら、自分も行ってみたい、と思うだろうが、単に交差点の混雑がすごいからといって別に観光しに行きたいとまでは思わないだろう。いや、もしかしたら今後は、これまでも起こってきた価値観の逆輸入現象的なことが起こって、これだけ多くの歩行者が行き交う交差点は世界的にも珍しい、これはニューヨークのタイムズスクエアと並ぶ偉大な交差点だ、世界にプロモーションをかけていこう!となるかもしれない。かもしれないが、しかし、仮にそうなっても、特に渋谷近辺に住んでいる人、通勤してる人、実際に用事があってあの交差点を日常生活の一部として横切っている人なら、あれを観光名所として宣伝したい、とはまず思わないはずだ。

 もちろん、こういう例は他にいくらでもあるだろうし、日本人が海外に出て感動するような場所に、現地の人がまったく無関心だ、という逆のパターンもあるだろう。あくまでもパッと思いつく身近な例としてあげてみたわけだが、要するに、同じ場所で、同じ時間に、同じような行動をしていても、地元に住む住民の日常感覚と、海外から観光に訪れている外国人の観光感覚とでは大きく異なるわけだ。

 それどころか、同じ旅行者同士でも、面白いと感じるポイントは人により、出身国家により、あるいはその旅行者がもつ文化的背景により、それぞれまったく違うことだってありうる。

 単なる観光旅行でも多種多様なものの見方、感じ方があるのに、より個人的な現象と思える「旅」なら、なおさら表面的な行動からは見えない、目に見えない心情や心理の中に何かがある、と思うのが当然だろう。

 ということで、僕としてはその内的心情のあり方を土の中の「根」にたとえて、なぜそうなるのか、その仕組みがどうなっているのか、などを深く探っていきたいのである。

 「そんなの簡単だよ!いつもと違う非日常感が気分を高揚させているんだよ」と言われそうだが、先の例は、あくまでも観光に特有の「あるある話」ということで紹介しただけで、旅には旅の、単なる非日常感覚で片付けられない何かがあると思う。

 だいたい、旅や観光のノウハウ、何処に行くべきか、そこに何があるのか、そこで何を体験すべきか、といった解説は、あくまでも誰の目にも明らかな「明るい部分」の話である。でもそういう幹や枝、葉っぱという、明るいところにある現象としての旅をいくら記述しても、旅の本当の面白さとか醍醐味は伝わらないんじゃないだろうか?

 もちろん、まだ誰も行った事がないところ(そんなところがあればだが)に行って来たとか、ドラマチックな経験をしたとか、めったに出来ない冒険譚である、とかいうことなら、そういう紀行文は第三者的には「物語」として面白く読めるかもしれない。

 でも、旅をする実際の当人たちは、誰もがそんなドラマチックな体験をするわけでもないし、旅人だからといって、誰もが秘境を旅しているわけでもない。

 それどころか、何気ない旅先でのちょっとした現地体験が、なぜかその後の人生観に大きな影響を及ぼすこともあるかもしれないし、あるいは南の島のビーチでのんびり過ごしているだけで心の傷が癒された、ということもあるかもしれない。

 

 実は最近、ちまたでは若者の旅行離れ、ということが言われているらしい。最近の若者はあまり旅に出なくなった、というのだ。若者の○○離れ、というのは一種定型化されていて、そのバリエーションは、いわく「若者のクルマ離れ」「飲酒離れ」「タバコ離れ」などなど、いくらでもあるのだという。

 若い人からしてみれば、旅行に出ようにも、特に海外旅行なら最近は円安気味だし、給料も上がらないしで、そもそも先立つものがないよ!というのが実情なのかもしれないが、もしかしたらインターネットとかの普及で、いくらでも現地の情報が手に入るようになって、大手マスメディアの方でも、表面的な「明るい部分」の情報しか流さないので、だんだん旅行に興味を持てなくなって来ているだけなのかもしれない。

 実際、明るい部分の情報だけを使って「海外へ行けば一流レストランで本場の味を楽しめるよ」と勧めてみても「いや、ミシュランの星が一番多いのは日本だし、日本のほうがおいしいもの多いでしょ」と言われそうだし、「日本では出会えない絶景に出会えるかもよ!」とそそのかしてみても「そんなのインスタグラムで毎日見飽きてるよ」と返されそうだ。

 ネットでいくらでも情報が検索できる時代になって便利ではあるが、この状況は、僕にとある寓話を思い出させる。それは次のようなものだ(記憶を元に再現してみた)。

 

 あるところにナスレッディンという男がいた。あるとき、ナスレッディンは大事なカギを失くしてしまい、自宅の前の庭にかがみこんで必死にそのカギを探していた。

 すると、運よくその近くを友人が通りかかってナスレッディンに話しかけた。
 「どうした、何を探しているだい?」
 「いや、実は大事なカギを失くしてしまってね」とナスレッディン。

 それを聞いた友人は「それは大変だ」と一緒になってそのカギを探し始めた。

 ところが二人がかりでいくら探してもカギは一向に見つからない。
 「おかしいな。もっと正確に失くした場所がどこら辺だったのか覚えてないのかい?」

 友人がそう訊ねると、ナスレッディンはこう答えた。
 「ちゃんと覚えてるよ。失くしたのは家の中さ」
 「なんだって!」と驚く友人。「じゃあなんで庭先で探してるんだい?」
 「だってほら」と得意げに説明するナスレッディン。
 「家の中は暗くってね。だから明るい庭先を探していたのさ!」

 無くした「カギ」は暗い土の下の「根」っこの部分にあるかもしれないのに、みんな必死に「明るいから」という理由で、枝葉の部分を探している。。。

 

 ちなみにこの寓話はトルコ起源らしく、僕の記憶の中ではイスラム教関連の説話として使われていると思っていたが、最近ではビジネスや経済関連の説明用にアレンジされ、「街灯の下で鍵を探す」という名前でよく知られているらしい。

 ばかばかしいほど単純な寓話だが、確かにマーケティングやデータ分析が重視される現代社会では、ますますこのような「失くしたカギの探し方」を指摘する寓話の出番が多くなるのかもしれない。


 実際、寓話じゃないが、確かに明るいところを探すのは簡単なのだ。それは前回、言葉の意味を探る話のなかで説明した通り、明るい部分というメタファーで表されているものとは、要するに、はっきりと明確に分別し、名づけして、思考や論理で捉えることができる「部分」として表出している現象だからだ。

 これに対して、暗い土の下の根っこというのは、それが何処につながっているか、どこまで延びているのか分からない事象といえるだろう。

 

 思うに「知の探求」ということには、二つの方向があるのではないだろうか?

 一つは、明るい部分を分別していく方向で、より小さく、より細かく、より詳しく分かろうとし、細かく分別すればするほど、より多く、より複雑に枝葉が茂るように「知識」が増えていく。

 逆に暗い根の部分への探求は、奥に進めば進むほど、土と根の境目がいよいよ不明瞭になっていき、分けることが出来なくなり(実際は根と土は分けられる。あくまでも例えです)、言葉で言い表すことも難しくなる。何かと何かがつながっていることを「解る」というようなときには、つながればつながるほどに「解る」ことの数が減っていって、より少なく、より単純な「理解」だけが残っていく、という風に。

 前者は突き詰めると、最終的には無限に膨大な部分に関する「知識」と、果てしなく続く複雑さへと至る科学的な知の探求ということになるだろう。それに対して後者は、最終的に、すべてが統合される故の、たった一つの言葉に出来ない「理解」に行き着くという、哲学的、もしくは宗教的探求になるのではないだろうか?

 

 ということで、ようやくスタートラインに立てた感があるが、問題はどうやってその根っこを捜すのか、ということだ。

 明るい部分の探求なら、それを分別する器具や手法さえあれば、いくらでも機械的、科学的に分析することも可能なのだが、暗い部分の探求に関しては、これまであまり一般的に、こうすればいい、というようなコンセンサスは無かったように思える。事の本質からして、そもそも機械的な手法が通用しない領域だからだろう。

 もちろん、そういう内面的なことなら、直観やインスピレーション、あるいは天啓で解る、という考えもあるだろう。いわゆる自己啓発系のちょっと怪しげなノウハウを主張したり、体系的な修行や儀式もある、という人たちもいるかもしれない。

 いろいろな意見があるだろうが、僕自身は正直、こればっかりは試行錯誤で探っていき、そこで出会った根っこの部分とは「違う」ところを否定して、より俯瞰的で統合的な理解を静かに待つしかない、という風に感じている。静かに待つ、というのは能動的に探ろうとするとうまくいかないからで、そうなる理由も追々書いていくつもりだ。

 そして、実をいうと、具体的には「旅」の過程がまさにどんぴしゃ、この理解を探るにちょうどいい実証体験になる、と思っているのだ。

 「旅」こそまさに、自分の持つ文化的背景と、他国とのそれがせめぎあい、その統合を必要とされる現場に投げ入れられたり、何かと出会って内なる感動を引き起こされて、そこから理解がひらめいたりという、暗い家の中の大事な失くしたカギを探るのにぴったりの行為といえるのではないだろうか?

 既存の分かっている何かを否定して、より統合的な理解を、なんて書くと、なんとなくヘーゲルの弁証法に似ている、と思われるかもしれないが、「旅」もまた実体験的弁証法なんだよ!と強弁して、次回からいよいよ僕自身が旅の体験から実際に感じた、暗い土の下に隠れている「根」っこについて書いていきたいと思う。

 

写真のほうは「夜の人物ポートレート インド編(2)」ということで、夜、街中を散歩がてら写した人物写真を紹介してみる。人物写真といっても、その人物に話しかけてポーズを取るようにお願いしたわけでもなく、それほど近づいてアップで撮っているわけでもないが、こちらがカメラを向けてるのに気がついても動じる気配がなく、カメラ目線でそのまま堂々としている、ということが共通したリアクションだろうか。これはインド以外の国ではあまり無い現象で、普通はカメラを意識すると、過剰ポーズになるか、逆に恥ずかしがって顔を背けたりする。僕の知る限り、最高の被写体に出会える国の筆頭がインドだ。

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著者略歴

  1. 久保田耕司

    1965年静岡県出身。広告代理店の制作部からキャリアをスタート。90年代初頭から約1年ほどインド放浪の旅に出る。帰国後、雑誌や情報誌などエディトリアルなジャンルでフリーランス・フォトグラファーとして独立。その後、ライター業にも手を広げ、1997年からは、実業之日本社の『ブルーガイド わがまま歩き』シリーズのドイツを担当。編集プロダクション(有)クレパ代表。

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