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ぼくらはまだ、ほんとうの旅を知らない 久保田耕司

コロナ禍に思う「旅」と「時代感覚」

 

 ※本連載をまとめた書籍『旅路の果てに――人生をゆさぶる〈旅〉をすること』発売中!

 


 昔、最初にインドを旅していたときのこと、首都デリーで印象に残る出来事があった。

 もう30年以上前の旅、細かい内容を覚えているエピソードはそれほど多くはないのだが、なぜかこのエピソードは大した出来事でもないのに、今でも妙に印象に残っている。

 前にも書いたが、この当時のインドは、建物やインフラが古くなったまま更新されないでボロボロだったりで、特に観光客がよく訪れる北インドの都市部は、見るからに貧しい発展途上国という印象が強くあった。

 もっとも、これはインドに限らず東南アジア全般でも言えたことで、当時のバンコクの下町の雰囲気とか、旅仲間とよく「まるで30年前の東京みたいだね」などと言い合っていたものだ。

 さすがに、その当時からさかのぼって30年前の東京を実際に経験したことがあったわけではないのだが、まあ、それくらい遅れているというか、街の雰囲気や住んでいる人たちの感覚にズレを感じた、ということで理解してもらえればと思う。

 近年、日本でも昭和レトロブームとかで、レトロな街並みを再現したテーマパークなどが人気を博しているようだが、当時のインドは、レトロどころか、場所によってはそれこそ100年以上前の中世の街にタイムスリップしてしまった感があったのだ。

 さて、そんなインドの首都デリーでのこと。いくら貧しい途上国とはいえ、さすがに首都というだけあって、旧宗主国イギリスが整備したニューデリーには、コンノートプレイスという、他よりちょっとおしゃれな区画があった。

 公園を中心にロータリーになっていて、ギリシャ風の列柱回廊のある白い建物がぐるっと周りを囲んでいるところだ。

 ここがインドで一番おしゃれな場所かと、なんとなくぶらぶら観光していると、その区画のどこかで、サーティーワンアイス(もちろん当時のインドには無い)じゃないが、そんな感じのモダンなアイスクリーム店があって、その近くでバックパッカーがアイスをかじりながら周囲を観察して何やらもの想いにふけっているのに気がついた。

 容貌から明らかに日本人で、僕よりちょっと年配の、さえない中年のバックパッカーという感じの人だった。

「インドにもこんなおしゃれなところがあったんですねぇ」
 旅先で出会った知らない人でも、同じ日本人同士、なんとなく挨拶してそんな感じで話しかけたと思う。
 
「いやー、彼らは僕らなんかよりよっぽど進んでますよ」
 さえない感じのその中年バックパッカー氏は、何気なく話しかけただけなのに、期待した以上の返答を返してきた。

「だってほら、あの女の子」と、赤い服を着た小さな女の子が、父親に連れられてアイスクリームを買うところを見ながら続けた。
「僕があの子くらいの子供の頃、こんなおしゃれなアイスクリーム屋なんてなかったもんなぁ。あの子が大人になったら、僕らなんかよりよっぽど進んだ世界に生きてるよ」

 なるほど、自分があの子と同じ年頃のことか。そういえば僕も小学校に入る前くらいだと、日本でもまだマクドナルドも出来てなかったな、と思いながら妙に納得してしまった。
 その中年バックパッカー氏は、明らかに僕より年配だったから、なおのことそう感じたのかもしれない。

 その場でちょっと立ち話をしただけで、名前とか経歴とか詳しいことは聞かなかったし、話としてはそれだけで、本当になんでもない小さなエピソードなのだが、モノの見方を変える小さなきっかけのひとつになっていたのだろうか、今でもなぜかこのときのやりとりは印象に残っている。


 人は同じ社会で、同じ教育を受け、同じような経験を重ねていくと、その同じ年代を生きた人同士、自然と同じような「時代感覚」を身に付けるようになる。

 この「時代感覚」は、決して普遍的なものではないのだが、同じ社会で、特に同じ年代の人とばかり一緒に過ごしていると、一種の集団催眠というか集団幻想によって、その感覚が特定の年代だけのものだ、ということが分からなくなっていくように思う。

 以前、旅に出ると「洗脳」が解けるという話を書いたが、振り返ると、旅に出たことで一番変わったのがこの時代感覚だったような気もするのだ。

 何しろ1年近くTVや流行のコンテンツを見ていないので、帰国してからは芸能ゴシップも詳しく分からないし、その手の時事ネタには付いていけなくなる。それまで当たり前のように感じていた同世代との共通の時代感覚が揺さぶられて剥げ落ちていくというか、そもそも最初からそんなものは単なる集団幻想でしかないということにようやく気がつき始める。

 だいたい旅先で毎日が日曜日みたいな過ごし方をしていたので、時代感覚どころか、今日が何曜日かということも含めて、そもそもの時間感覚さえ破壊されてしまって、元に戻すのに苦労したのを覚えている(これはいまだリハビリ中という話もある)。

 インドに限らずだが、旅先で何百年も前の遺跡を見て回ったりして、その当時のことに想いを馳せるということをしていると、だんだん時間軸の取り方も大きくなって、まてよ、100年前ってそれどほ大昔か? もしかしてこの国の歴史的にはつい最近の出来事なんじゃないか? と思うようになっていった。

 フリーになってドイツ取材にも行くようになると、ドイツには古いお城とかも多く残っているので、有名なノイシュヴァンシュタイン城(白鳥城)が100年くらい前の建造と知ると、亡くなった祖父が生まれるかどうかの頃か、エルツ城はたしか15世紀に完成だったし、ずいぶん最近のことだな、と思うようになってしまっていた。

 そんな時代感覚のまま、例えば「10年前にここに来たときには…」みたいな昔話をうっかり始めると「そんな昔にここに来たことがあるんですか!」などと10年前がとてつもない大昔みたいに驚かれて、逆にそのリアクションにこちらが驚く、ということも多くなった。

 時代の変遷は本当は早いのか、それとも気が付かないくらいゆっくりなのか? 

 いろいろ意見はあると思うが、今は僕は、通常の「時代感覚」から世界の流れを見た場合は、世界は本当はいつも、とてつもない速さで変貌しつつあるんじゃないか、と思うようになってきた。もちろん、それに気が付くためには、その変貌を冷静に見つめることのできるような変わらない視座も必要になってくるし、逆にその「変わらない視座」から世界を見ると、100年前も、いや1000年前でさえ、まるで昨日のことのように感じられるようになると思う。

 たとえば冒頭のコンノートプレイスで見かけた女の子だが、彼女がまだ生きていれば、その後、インターネットが台頭してきた頃には中高生くらいだったはずで、スマホを操り、友人とはSNSで連絡を取り合うような現代的な女性に成長しているはずだ。

 それは自分が若い頃にはなかったことだし、ここ20年くらいのインドの経済成長を考えると、あの女の子がその後持ったであろう時代感覚は、自分がまだ持っているそれと比較して、彼女のほうが先を行っていそうである。

 発展途上国を旅して、日本のほうが進んでいる、この国は遅れているなどと感じるのは、僕らの年代では、まあ普通といえば普通の時代感覚なのかもしれないが、すでに30年前、将来の可能性を見通して、自分のもつ時代感覚と将来のそれを冷静に比較してみせた、あのバックパッカー氏の変わらない視座に基づく慧眼には敬意を表したい。

 そんな時代感覚の変遷だが、日本では30年もデフレが続いているせいか、海外では僕らが国内で過ごしているときに感じる変化より、そうとう早いスピードで変化が起こっている、ということに気が付かないでいる人も多いように思う。

 そんな人にこそ、その遅れた時代感覚を改めるため(そして変わらぬ視座を手に入れるためにも)、旅に出ることをぜひお勧めしたいのだが、ここ2年ほどは、気軽に旅に出ることができない期間が続いた。

 言うまでも無く、いわゆる新型コロナ感染症の世界的なパンデミックのせいである。
 
 しかし皮肉なことに、このパンデミック騒動のおかげで、長らく変化がなかった日本の、特に中高年者の時代感覚にも変化が起き始めているように思う。

 最初のきっかけはたぶん、政府が緊急事態宣言を発出した後、自粛要請に伴う経済対策として一人10万円の特別定額給付金を配ることになったときのことだ。

 自粛に伴い仕事が激減した人にも、そうでない人にも、一律で全員に一斉に配る、という話だったので、珍しい政府の対応に、さすがの僕も、やればできるじゃないかと感心したのだが、その後の対応がひどかった。

 選別をしないで、一律で誰にでも配るのだから、申請の手間もそれほど掛からないだろうし、すぐに配り終えるんだろうな、と思ってニュースを見ていると、ネットを使ったオンライン申請にはマイナンバーが必要で、その普及率の低さなどから郵送で申請する人のほうが多い、というような報道を見かけるようになった。

 それはそれで、日本では高齢者にはスマホが普及してないし、PCは使い方が分からないとかの事情もあるだろうしで、オンライン申請が少ないのは仕方がないのかな、と思っていたのだが、その後も報道を追っていると、驚くようなニュースが次々と出てきた。

 中でも一番驚いたのが、便利ですぐに手続が済むはずの、全体では1割程度でしかないオンライン申請が、申請作業全体の足をひっぱている、という報道だった。

 そのニュースによると、例えば世田谷区では世帯数49万に対してオンライン申請は3万程度で、全体の1割に満たない程度(報道時)だったという。
 それだけなら、思ったよりオンライン申請少ないな、で済むのだが、問題はオンライン申請だと、申請者が自分自身でデータを記入するため、その内容が間違った内容であってもシステム上は受け付けてしまう仕組みになっている、というところだった。

 つまり、住所の入力間違いとか、世帯人数を実際より多く書き込んでしまうとかの間違いが簡単に起こりうるので、区で持っている世帯データと送られてきた申請データを付きあわせて、データの不備がないかをチェックする必要性が出てくると言うのだ。

 で、そのチェックをどのようにしていたのかというと、区の職員が机に二人並んで、PCのモニターとにらめっこしながら、目視で相互に間違いがないかを確認し合っている、ということだった。

 いやいやいや、オンラインのデジタルで、さくっと人手が掛からない申請システムじゃなかったの? と、思いながら、あまりにアナログで手間が掛かるチェック体制に目が点になりながらニュースを見ていた記憶がある。

 そんなこんなで、パンデミックがいよいよ長引き、一時的な自粛程度では収まらないと分かってくると、通勤通学でオフィスや学校に一斉に向かうこと自体も避けようという動きが出てきた。

 そこで一躍脚光を浴び始めるのが、オンライン授業やリモート出社、テレワークという形態である。このころからDX(デジタルトランスフォーメーション)という単語を頻繁に耳にするようになり、政府も急にデジタル庁を創設する、と言い出した。

 冷静に考えれば、いまだに紙にハンコが正式文書の主流で、ビジネスの注文のやり取りにもFAXを使っているということ自体が異常だったのだ。

 僕自身はフリーになってから特定の会社に勤めたことがないので、出版業界がデジタル化に遅れをとっていることには気がついていたが、それ以外の業界はそれなりに進んでいるんだろうと思っていた。

 何しろ普段、秋葉原でパーツをあさってはPC自作に励み、Linuxで自宅サーバーを組む程度の、どこにでもいる普通の健全なPC青年ライフを送っていたので、世間も皆、そういうことをしている人のほうが多数派なんだろうと思っていたのだ。

 だが、こういったニュースに触れるうち、大なり小なり中小企業は(もしかしてそれなりの大企業も)最近までずっと、デジタル化やオンライン化に消極的だったのだと遅ればせながら気が付くようになった。

 こう書くと、多くの人が「そういう一面もあるかもしれないけど、日本だけじゃなくて東南アジアとか途上国はもっと遅れてるんじゃないの?」と思われるかも知れない。

 ところが必ずしもそうとは言い切れないのだ。

 実はネットやスマホの普及には、途上国のほうが熱心な側面がある。中国がデジタル化に熱心なのは大手メディアも報道するから知っている人も多いと思うが、インドや東南アジアあたりも負けてはいない。

 例えば2013年当時、東南アジアでも最貧国の一角だったミャンマーの携帯電話の普及率はたったの13%程度だったのだが、そのわずか3年後の2016年には89%まで上がり、今では130%に迫ろうとしている。

 実は貧しい国々では、貧しいがゆえに先進国が持つような有線の電話回線インフラが少なく、かえって逆に一足飛びに携帯の普及が早まるというような現象が起きるのだ。この手の途上国特有の急激な発展現象は「リープフロッグ現象」(蛙飛び:既存インフラがないから最先端インフラが一気に普及するような現象)として広く知られ、軽く見ることができない。

 というより、そもそも、いまや大国といわれる中国でさえ、本格的に発展し始めてまだ20~30年くらいしか経っていないし、以前の中国は今のタイあたりと比べてもそれほど発展していたわけではない。

 中国の製造拠点として有名な深センが経済特区に指定されたのが1980年で、その場所は当時、まだ何もない小さな漁村に過ぎなかったといわれている。なにしろ僕が最初に旅した90年代初頭でも、スリランカで出会った中国人に(確か移住しに来ていた)、TV(液晶ではない)の普及率を聞いて意外に普及していることに驚いた記憶があるくらいで、当時はまだ人民服を着て自転車で移動してるイメージの方が強かったくらいなのだ。

 それがその旅のわずか20年後、2010年になる頃には、中国の製造業は家電では完全に日本に追いつき、今では工作機械やロボット化の分野でも日本の存在を脅かすほどの技術力を付けているといわれている。

 ではこの30年間、日本はどうしていたかというと、デフレのまま投資を控え続け、現状維持のままずっと停滞していたのだ。

 いま、社会の中枢で権限を持っている世代は、若い80~90年代頃に、ジャパン・アズ・ナンバーワンだった記憶がいまだ強く残っている世代だと思う。

 自らの成功体験ゆえに「これでよし」としてデジタル化を拒否してきたツケが、ここに来て一挙に表面化してきたのではないだろうか。

 今の日本は、ある意味、典型的な「イノベーションのジレンマ」に、国ごとズッポリはまっている状態なのだと思う。

 

この2枚の写真を何の説明もなしにパッと見せて、いつの時代のどこの写真? とクイズにしたら、どれくらいの人が正解出来るだろう? 正解は、僕が定宿としていたバンコクのアーティストプレイスのすぐ前の小道で、フィルムで撮ったものだから2000年に入るか入らないかの頃の撮影だったと思う。この宿のあるウォンウェイヤイ近辺は、市内でも特にレトロな町並みが残っている地区として地元でも有名なようで、まるで昭和初期の東京の下町のような雰囲気だった。

 

 

 一方「旅」そのものに関する「時代感覚」の変化という点では、自分が知る限り、ここ20~30年ほどで2度ほど大きな変化があったと思う。

 最初はTV番組などでバックパッカー的な旅が取り上げられ、それまで旅に興味がなかったような普通の若者が、娯楽の延長でより気軽に旅に出るようになる90年代後半と、そして個人旅行がいよいよ一般化して、かえって若者が「旅」に興味をもたなくなる2010年代頃である。

 かって「旅」は、特に海外旅行となると、一生に一度出来るかどうかという贅沢なものだった。

 僕がはじめて旅に出た頃も、それ以前より円高で手軽になったとはいえ、勤め人には長期の休暇をとることが難しかったり、ガイドブックもまともなものが少なかったりで、長期の旅に出ること自体が、かなりハードルが高いことだった。

 状況が一変するのは、某TV番組で、若手お笑い芸人がヒッチハイクをしながらアジアからロンドンを目指すという、今で言うリアリティ番組的企画が人気になってからだったと思う。

「旅先で知り合ったインド人が、最近の日本人は冷たくなって面白くないって言ってた。なんか旅行者の質が変わったよね」

 この頃、旅仲間からそんなことを言われたのを覚えてる。

 旅というのは多分に心理的な行為だから、旅先になんの興味も持たないで、例えば仕事で出張に出る、というような場合、どうやっても本当の意味での「旅」にはならないだろう。特定の場所で遊ぶのが目的で観光しに行くなら、やっぱりそれも「旅」ではなく、遊びのためのただの場所の移動でしかない。

 90年代後半のカオサン通りあたりは、集団でのし歩いて馬鹿騒ぎして、やれ白人女性をナンパしようぜ、とか言ってる若いバックパッカーを見かけるようになった。こうなると田舎モノが東京に出てきて渋谷あたりを闊歩するのと大して変わらず、移動手段が便利になりすぎて、この手のバックパッカー旅も、心理的には以前のような「旅」ではなくなってきつつあるように思えた。インドの安宿街あたりでも、渋谷のセンター街あたりで見かけそうな自分より若いバックパッカーが、それも数人でわいわい連れ立って歩いているのを見かけたときは、さすがに時代が変わったなと思ったものだ。

 TV番組の影響で、なんか面白そう、とインドに来た若者たちの中には、インド人との交流にそれほど熱心ではなかった人も多かったみたいで、騙されまい、ボッタられまい、として声を掛けてくるインド人を冷たくあしらう場面が多かったように思う。

 時代的にはほんのちょっとしか違わないが、TVの影響をモロに受ける90年代半ば以前は、そういう詐欺まがいの目的で近づいてくる怪しいインド人とのやり取りさえ「旅」の一部として楽しむ人が多かった。それが旅仲間の「最近の日本人は冷たくなったと言われた」発言につながるわけだ。

 

 

この2枚はインドのコルカタのショッピングモール。コルカタの中心部は、僕が最後に訪れた2013年頃でも、街の外観はそれなりに綺麗になってきてはいたが、まだまだ昔ながらの市場が幅を利かせ、小型のスーパーや百貨店もどきがあるくらいだった。この大型モールは、中心から少し外れた南の郊外近くにあって、おしゃれなモールが出来たという噂を聞いて訪れたSouth City Mallというところだ。もちろん今なら、首都デリーほか、いくらでももっとおしゃれなモールはあると思うが、コルカタにもこんなモダンなモールが出来るんだ、と感慨深いものがあった。世界中どこでも、資本が入りさえすれば街の外観はいくらでも変化していく。だからこそ、変わってしまう前に訪れておくというのも旅の意義になるんじゃないだろうか? 旅とは多分に心理的な要素に負うところが大きく、だからこそ物理的な場所の移動だけではなく、時代を巡るものでもありえる。よく、同じ川に二度足を踏み入れることはできないというが、旅もこれと同じで、同じ場所を二度訪れることはできないのだ。

 

 2000年代に入ると、さらに少しだけ変化がでてきて「ボランティアでちょっとだけ働きに来ました」という学生さんにもよく出会うようになった。

 当時は「へえ、やっぱりまじめな目的で旅する学生さんもまだまだいるんだな」と感心していたが、後年、とある旅行会社社長の著作を読むと、この頃になると、不真面目な目的のバックパッカー旅などは親の許可が出ないので、帰国後の就職活動のことなども考慮して、あえてボランティアを組み込んだ長期旅行を学生さん向けにアレンジすることが多かったのだそうだ。

 最初から遊ぶことが目的だったり、流行だからといってボランティアに偽装した長期旅をアレンジしてもらっても、やっぱり心理的には「旅」の醍醐味は味わえないんじゃないだろうか。

 そして実際、2010年代に入ると旅行ブームも下火になって90年代に流行ったようなバックパッカー旅なんて過去のものというか、もっとスマートに楽しむ週末弾丸トラベルみたいなリゾート旅が主流になっていったように思う。

 例えて言うなら、まだ冷蔵庫がなかった江戸時代の昔、真夏の暑い日にキンキンに冷えたかき氷を食べることが出来たのは、将軍さまのような一部の特権階級くらいだったのが、現代では100円も出せば誰でも簡単にコンビニでアイスを買えるのようになって、夏のアイスなんてありがたみがなくなったようなもの、といったところだろうか。

 もっとも、本当の旅は、真夏に食べるかき氷のようなものではない。「旅」になるかどうかは、その旅に向き合おうとする人の心理的態度次第なので、貴重であろうとそうでなかろうと旅の面白さ自体は、いつの時代でも普遍的に存在するはずだ。

 例えば、この2年ほどのコロナ禍で、自粛を強いられ、いつもなら気軽に行けるはずの国内旅行にさえいけないでストレスがたまった、という人も多いと思う。

 この世で2番目に重い刑罰が終身刑(1番目は死刑)だとすると、自由に旅に出れずに行動を制限されるというのは、生きる意味を剥奪するに等しい刑務所収監なみの拷問と言えなくもない。
 
 また、これとは全く逆に、リモートワークを実施して自宅で仕事すると、通勤に時間をかけなくてもいいし、周囲の目を気にしないで自分のペースで仕事ができるから、逆に今までより自由を感じた、という人もいるかもしれない。

 その場合は、社畜として会社に絶えず監視されているかのような束縛感から解放され、いつもは目が向かない自宅周辺の日常に目を向ける余裕も生まれ、日常が新鮮に感じられるという効果があったのかも知れない。

 

 つまりは結局、僕が何を言いたいかというと、物理的な場所の移動があるか無いかが「旅」の本質ではない、ということだ。

 人を「思い込み」や「観念」から解放し、自由を与えてくれる行為が「旅」なのではないだろうか?

 今回のコロナ禍は、特に中高年者にとっては、長い間ずっと閉じ込められていた古臭い「時代感覚」を見直し、つまらない日常を新鮮に感じたり、あるいはちょっとした移動の自由がもたらす、解放された現実への接近の重要性とかを再認識させてくれる貴重な機会になったかもしれない。

 もちろん、コロナ禍自体はすぐにでも治まってほしいし、かつてのようにもっと自由に世界を旅できるような状況に一刻もはやく戻ってほしいと思っている。

 だが、皮肉にも今回のコロナ禍は、その移動に関する不自由さが返って「旅」本来の重要性を再認識させる効果ももたらした。

 今回のコロナ禍を機に、例えば「ワーケーション」という言葉に代表されるような、新しい旅の「時代感覚」も生まれようとしているようにも見える。

 長年「旅」に関する時代感覚の変遷を見てきた身としては、出来ればこのまま、その新しい時代感覚にさえ閉じ込められることなく、多くの人がより深く旅の本質に気が付いて、最終的には日常生活のすべてが旅となるような自由な時代が来てくれればいいと思っている。

 

 

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著者略歴

  1. 久保田耕司

    1965年静岡県出身。広告代理店の制作部からキャリアをスタート。90年代初頭から約1年ほどインド放浪の旅に出る。帰国後、雑誌や情報誌などエディトリアルなジャンルでフリーランス・フォトグラファーとして独立。その後、ライター業にも手を広げ、1997年からは、実業之日本社の『ブルーガイド わがまま歩き』シリーズのドイツを担当。編集プロダクション(有)クレパ代表。

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