「ギフティッドは発達障害の一部」という誤解(1)
3.ギフティッド児がなぜ特別な支援を必要とするのか
(1)ギフティッドは発達障害ではない
「特別な支援」を、日本の現行の「特別支援」と同様に捉えてしまうと、一つの大きな問題を助長することになります。それは、日本独特の風潮ですが、「ギフティッドは発達障害だ」という誤解の助長を指します。
ギフティッドは発達障害ではありません。
最近「ギフティッド」ということばもメディア等で取り上げられることが多くなってきているところですが、それが、まるで発達障害からの派生物のような位置づけで出てくるという点が、個人的に気になっています。たとえば「発達障害の子どものなかにも優れた才能をもった子どもがいて」というような言い回しです。あるいは、「HSC(Highly Sensitive Child:敏感な子ども、の意)のなかには優れた才能をもった子どもがいて」という言い回しもよく耳にされることと思います。
その言い回しそのものを注意深く読み解くと、決して「優れた才能をもつ=発達障害」と言っているわけではないのですが、これらの言い回しは「発達障害の子どものなかにだけギフティッド児が存在する」、「ギフティッドは発達障害の一種」という誤解のメッセージを伝えている可能性があるように、私には感じられます。(「HSCのなかに優れた才能のある子どもがいる」については、先述のように、日本では感覚過敏があれば発達障害、のような風潮があまりにも強いため、「発達障害の子どものなかに優れた才能をもった子どもがいる」と同様の意味あいが生じることは否定できません。)発達障害について云々言うときにのみギフティッドが引き合いに出されるような社会的状況では、ギフティッドに対する正確な理解はなされにくくなるように感じます。ギフティッドは発達障害の一部と誤解されている教育関係者もいるほどです。(発達障害のあるギフティッド児も、もちろんいます。彼らは2E: twice-exceptional とよばれます。)
発達障害かどうかとギフティッドかどうかとは、基本的には別次元の問題と捉えるべきだと思います。もっとも単純な基本的理解は(単純すぎるかもしれませんが)、知能が100の子ども(人)のなかにも発達障害の子ども(人)やそうでない子ども(人)がいる。知能が140の子ども(人)のなかにも発達障害の子ども(人)やそうでない子ども(人)がいるということです。
どの程度がオーバーラップするのかは、この「別次元」の基本の上に成り立たせるべき議論だと思います。ADHDやASDと「誤診されている」子どものなかに、「実はADHDやASDではなくギフティッドだった」という子どもは日本にはかなり存在するとは思いますが、それは、それらの障害のある子どもの一部がギフティッドであるという意味ではありません。「ギフティッドは発達障害の一種」という誤解を生み出すような言い回しや報道は、極力避けるべきです。
この問題と関連して、拙訳『ギフティッド その誤診と重複診断』の原文のなかには、atypical という用語が複数回出てきます。gifted は atypical だというのです。翻訳の際に、どう邦訳すべきか、本当に悩みました。atypical は、日本語では「非定型」と専門的に訳され、これは「障害」を意味しているというのが日本の一般、また、専門業界でのなかば常識です。しかし、「非定型」は「定型ではない」ということであり、標準から離れていることを意味するという意図をもって、ウェブらは「gifted は atypical だ」と言っています。atypical を「障害」とだけ解釈している日本の専門業界、一般社会は、たとえば、特別支援という枠組みでは、知能のベルカーブの左半分しか視野に入れてこなかったということと通じるものがあります。
似た言葉に、exceptional children があります。「特別なニーズをもつ子ども」です。これも、日本の現状では「障害」の枠組でしかとらえられてこなかった風潮があります。(近年、インクルーシブ教育の概念が広まるとともに少しずつ変化してきているようにも思いますが。)『ギフティッド その誤診と重複診断』の共監訳者である榊原洋一先生が以前訳された、厚さ8cmほどもの立派なハードカバーの専門書があります。『特別支援教育――特別なニーズをもつ子どもたちのために』(明石書店、2007年)です。誤診の本の監訳作業に携わるさなか、榊原先生がその本を私にくださいました。「もしやと思ってあらためて開いてみた。この本の原題は、Exceptional Children だ」と榊原先生がおっしゃる通り、「英才と才能」という章がそこにありました。今から10年以上も前の専門書の一つの章で、ギフティッドおよびそのための教育について取り上げられていたのですが、それが「特別支援教育」という邦題のなかに包括された形になったのは、日本におけるギフティッドの理解という視点からみると少々残念なことでもあります。
ちなみに、米国では、「ギフティッド=発達障害」という社会的通念はなく、むしろ、「ギフティッドであれば障害にはなりえない」、「障害があるのであればギフティッドではありえない」という誤解が、特に学習障害との関連でかなり根強く残っているという問題があります(近年、ようやく2Eの理解が教育実践の場でも浸透し、学習障害のあるギフティッド児に必要な個別教育計画が施される動きが高まっています。その喜びが、『わが子がギフティッドかもしれないと思ったら』の「邦訳版出版によせて」に書かれています)。このようにみても、「ギフティッドは発達障害」という認識は日本独特の誤解であり、国際的な観点からも、正すべきことだと考えられます。
「ギフティッドは発達障害からの派生物」のような風潮がなくなるためにも、発達障害や特別支援に直結するような専門家ばかりでなく、広く教師、教育の専門家、また、医療の専門家、心理の専門家の間で、ギフティッドについての的確な理解が浸透する必要があります。
(2)ギフティッド児に必要な特別な支援
以上のように、「ギフティッド児だからといって、必ずしも発達障害というわけではない」という理解に立ったうえでの、ギフティッド児に必要な特別な支援があります。以下に、それを大きく2つに分けて考えたいと思います。
第一に、米国教育省によるギフティッドの定義にもありますように、「通常学校で標準的に提供される教育プログラムとは異なる教育プログラムが必要とされる」という点です。つまり、通常学校での標準的な教育プログラムでは、ギフティッド児の知的ニーズを満たし得ないということです。日本でよく見られる状況として、「課題ができた子には、できない子のお手伝いをしてもらう」というものがあります。これは、できる子どもにとっても良い効果があると言われていますが、限度があります。授業の4分の3を待ち時間として過ごしたり、できない子どもへ教える役ばかり担わされる子どもは、「いずれにしろ、授業内容が彼らの学習のニーズや能力をはるかに下回っているため、ほぼ学習になっていない」(『わが子がギフティッドかもしれないと思ったら』p.109)のです。彼らにも、新たなことを学習する権利があります。
ギフティッド児の知的ニーズを満たすために、主に標準的な教育プログラムよりも先に進んだ学習(飛び級や早期入学などのような早修)や深く掘り下げる学習(拡充)が世界的に取り入れられています。これらを取り入れることがギフティッド児の教育支援の一端を担います。日本では、大学への早期入学制度はありますが、ギフティッド児が「学校では知的ニーズを満たし得ない」と感じるのに3年かからないことを考えると、その根本的な支援策とはなっていません。
ただし、受験競争をあおるような早修システムにはすべきではありません。また、上の学年の学習内容を学習する機会を与えるだけ、あるいは自ら掘り下げて研究のようなことができる機会を与えるだけでは、特にその年齢が低ければ低いほど、支援としては不十分だと考えられます。知的能力が高いだけがギフティッドの特性ではないということです。上の学年に飛び級してはみたものの、そのクラス担任が、ギフティッドには非同期発達があり、過興奮性があり、完璧主義、理想主義の傾向があり、権力行使を極度に嫌い、真の意味での正義感が極めて強いなどの特性を知らなかったとしたら、おそらく次々と困難や問題が生じるでしょう。それが、私が第二にあげたい特別支援の必要性につながります。これはまた、米国のギフティッド児の社会的・情緒的支援のための最初の団体であるSENG(Supporting Emotional Needs of the Gifted)発足の大きな理由ともなっています。
この第二の支援とは、ギフティッド児の特性を的確に理解した教員スタッフの配置です。言い換えれば、教師がギフティッドの特性について研修する機会の提供となります。たとえば、ギフティッド児が授業中に退屈そうにボーっとしている姿、あるいは、休み時間に誰とも遊ぼうとせずに一人で読書をしている姿について、これまで述べてきたようなギフティッド児の特性を理解しているか否かで、教師の見取りや対応に大きな差が出ることが予想されます。そして、やはり理解している教師の対応のほうがポジティブで適切なものとなります。
(次回は2021/2/19頃 更新予定)
関連書籍
わが子がギフティッドかもしれないと思ったら 問題解決と飛躍のための実践的ガイド
J.T.ウェブ他著/角谷詩織訳