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空海とソーシャルデザイン 兼松佳宏

ソーシャルデザインのための五智②

◎お知らせ

東京で「空海とソーシャルデザイン」関連イベント開催!

詳細は↓をご覧ください。

https://peatix.com/event/413531/view

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「秘められた価値に光を当てる智恵」

 

「秘められた価値に光を当てる智恵」を理解するための4つのシンボル

・空海つながりの言葉:平等性智(医王皆薬/綜芸種智)

・形容詞:Appreciative(ホールシステム・アプローチ/フィールドワーク)

・座右の問い:What?(何がある?/何を調べる?)

・おまじない:医王のおまじない(すでに受け取っている/自ら強いて勉める)

 

 続いて、ソーシャルデザインのための五智のふたつめ、「秘められた価値に光を当てる智恵」を概観してみたいと思います。

 「秘められた価値に光を当てる智恵」とは、端から見たら「何もない」と思われる状況にあっても、「何かがある」という視点を持つことができる力です。では、「秘められた価値」とは、どんなものを指すのでしょうか? そして、どうすればそれを見つけることができるようになるのでしょうか?

 「価値を見出す」という言葉にあてはまるのが、英語の「Appreciative」という形容詞です。もともとは「鑑賞的な, 鑑識眼のある」という意味ですが、さらに「感謝の/(…を)感謝して」という意味も併せ持っています。感謝することと、そこにある価値を見出すことが同じ形容詞であるというのは何とも示唆的ですね。

 この言葉が注目されるようになったのは、1980年代後半にアメリカで提唱された「アプリシエイティブ・インクワイアリー(AI)」という組織変革のワークショップ手法がきっかけでした。AIとは、「組織の真価を肯定的な質問によって発見し、可能性を拡張させるプロセス*1」であり、その中心に「ハイ・ポイント・インタビュー」と呼ばれる、「今までの経験のうち、もっとも意義や重要性を見出したこと」についての相互インタビューが置かれているのが特徴です。

 これまでの組織変革では、目の前の問題を特定し、原因を分析し、対策を考えるという「問題解決型アプローチ」が主流でした。しかし世の中がますます複雑化し、目の前の問題さえも刻一刻と変わっていく時代に入ると、「問題が発生することは避けられない」という不確実性をいっそ受け入れて、何が起こっても自律的に解決できるような状況を整えることが重要になってきました。そのとき、強みや可能性といった、いまここにある「リソース」に光を当てる「ポジティブ・アプローチ」が注目されるようになったのです。

 リソースというと、「ヒト」「モノ」「カネ」、最近ではそれに加えて知的資産としての「情報」といったビジネス用語として語られますが、ここではもっと大きく捉えてみたいと思います。そもそも「リソース」とは、「ソース(源)」の中から価値があるもの、役に立つものとして再び立ち現れたものを指す言葉であり、困ったときの“頼みの綱”というニュアンスがあります。「価値を生み出すようなものがない」と行き詰まったときでも突破口となるアイデアが容易に得られる。「手伝ってくれる人がいない」と壁にぶつかったときでも頼れるつながりがある。「リソースがたくさんある」とは、そんな「何とかなりそう」という安心感のある状態のことであり、「何を活かして、ソーシャルデザインをするのだろうか?」という「What?」、つまりリソースの確保は、ソーシャルデザインの担い手にとって切迫の課題なのです。

 このとき手がかりとなるのが、「あらゆるものにかけがえのない価値がある」という共通点を見つけることができる「平等性智」です。密教では、「私の隣に坐っている人も仏さまかもしれない」というふうに世の中を捉えます。それは同時に「私もまた、他の人に手を差しのべるためにこの世に送り出された仏さまである」という意味でもあるのです*2。

 この智恵を具現化したのが宝生如来で、右手を下げて手の平を上に向けた与願印を結んでいます。これは困ったときに宝物を授けてくれる、とてもありがたいポーズです。「リソースはあなたの周りにたくさんある」と気づかせてくれる「平等性智」は、きっとソーシャルデザインの担い手にとって、プロジェクトを続けるための力のもととなるでしょう。

 

不足から充足へ

 では、どうすればそういった宝物としてのリソースを見つけることができるのでしょうか?

 例えば、こんなふうに考えてみるのはいかがでしょう。「足りない」のではなく、「既に受け取っている」、つまり不足ではなく充足の視点で物事を眺めてみるのです。

 もし「リソースが足りない!」と感じているとしたら、きっとあなたはそれくらい一生懸命、そのことしか見えないくらい真っ直ぐに取り組んできたのだろうと思います。それはとても尊いことですが、もしかしたらどこかで「自分一人だけで何とかしよう」と気を張りすぎているのかもしれません。そんなときこそひと呼吸おいて、既にあるものに目を向けてみてほしいのです。

 実は平等性智は、自分と他者を明確に区別して、過剰な自己防衛や自己顕示をしてしまう意識(マナ識)が起源とされています*3。そして、前回ご紹介した「すべては満月のようである」という大円鏡智に目覚めた結果、そのマナ識が、誰もが価値を持っているという平等性智へと転じてゆくとされています。

 まずは無意識のうちに自分が作ってしまっている壁に気づくこと、そして他者に対して心を開くこと。そうして初めて「何とかなりそう」という安心感が得られるとともに、人に頼る勇気を持つことができるようになるのです。

 ここで、秘められた価値をいかした事例をひとつご紹介したいと思います。

 

世界中の人が訪れる、自転車でめぐる里山ツアー

~元SATOYAMA EXPERIENCE 白石達史さんの場合

 映画『君の名は。』の舞台として有名な岐阜県の飛騨古川。奈良時代から続く木材の伝統技術を受け継ぐ“匠のまち”としても知られ、点在する白壁の土蔵や古民家は、旧きよき面影を伝えています。また、中心部を少し離れると、美しい里山の風景が広がっています。地元の人にとっては「何もない」という田舎道ですが、実はその場所を自転車で回るツアーが世界中の旅人を熱狂させているのです。

 クチコミサイト「トリップアドバイザー」をみてみると、英語だけでも700件以上レビューが投稿され、その評価は満点の5.0! 今では年間約3500人の観光客が訪れるそうです。飾ることのない里山の暮らしそのものが、一般的な観光地では味わうことのできない特別な旅として喜ばれているというのは、驚きであり希望ですね。

 仕掛け人である元・株式会社美ら地球(ちゅらぼし)の白石達史さん(2018年現在は独立し、飛騨でJAZZフェスを展開する音楽会社JAM代表を務めています)は、飛騨古川の魅力についてこう話します。

 

観光地としてというよりも、昔ながらの暮らしが残っていることに、魅力があると思います。たとえば、夏の暑い日には打ち水をする人がいたり、朝玄関を開けると、誰からいただいたかわからない野菜がおいてあったり…同じツアーに参加しても、当然、同じ人にいつも会えるとは限りません。農作業をしている日は、たくさん人に出会ったり、夕方になると人が全然いなくなったりします。そのあたりも、つくりこんでいないので、いろいろな面が見られて、いいかなと思います。

https://greenz.jp/2015/10/11/satoyama_experience/ より

 

 白石さんはいわゆるIターン組で、飛騨出身ではありません。最初の頃は「自転車屋さん」と間違われるなど、たくさんの壁にぶつかったといいます。

 

外から来た人である自分だからこそできることは何だろう。いいことをやっているつもりにならないように、地元の方の負担にならないように。そんな思いで粘り強く続けてきたのは、地元の人たちに「みなさんがやっていることは、本当はすごいんですよ」と何度も何度も伝えるというとてもシンプルなことでした。

 

地域に住んでいる人ほど、自分の暮らす町や、自分の生き方への誇りみたいなものが、失われつつあるように感じるんです。地元の人からは、「いやいや農作業がたいへんで、息子は後を継がないし」というネガティブな言葉が、最初に出てきます。だけど、ツアーの参加者の中に外国人がいて、「じつは、彼、お米が育つのを初めて見たんですよ」と伝えると、「秋になると、こう育つんだよ」と説明したくなってくる。外から言われて、刺激を受けて、その人の内に秘めている本来の誇りが出てきているので、そうした機会は増やしていきたいなと思いますね。

https://greenz.jp/2015/10/11/satoyama_experience/ より

 

 いわゆるインバウンドツーリズムの成功事例として注目されるSATOYAMA EXPERIENCEですが、その最大の成果とは、守り続けてきた暮らしへの自信を地元の人たちが取り戻したこと、そして、失われようとしていた里山の風景が、これから先何十年も引き継がれていくきっかけをつくったこと、といえるかもしれません。

 白石さんたちが光を当てたのは、田舎暮らしの「冥利」といえるでしょう。「冥利」とは、「役者冥利に尽きる」というように、「知らず知らずのうちに受ける恩恵」として日常的に使われていますが、もともとは仏教の言葉で「知らず知らずの間に神仏から受ける利益や恩恵」転じて「善行の報いとして受ける幸福」や「ある立場にいることによって受ける恩恵」という意味があります*4。

 冥利はそれぞれの確かな経験から導き出されたものであり、その価値は表面的ではなく本質的です。しかし、ひとりひとりに秘められているからこそ、何もしなければ価値としては共有されません。地元の人にとっては当たり前だった、でも、外の人から見たら宝物のような里山のリソースを引き出すためには、白石さんや外国人旅行者のような他者の存在が必要不可欠だったのです。

 

医者の目には雑草も薬草となる

 こうした表面的/本質的という対比は、空海の文章にもよく登場します。密教とは「秘密の教え」ということですが、その秘密とは仏さまが意地悪で隠しているのではなく、迷える人たちが自分自身で隠してしまっている、と空海は言います*5。だからこそ頭だけではなく体を動かして、確かな経験を重ねながら、物事の本質を見通すような目を持つこと。それこそが真言密教の目指すゴールなのです*6。

 空海の有名な言葉に、こんなものがあります。

 

医王の目には途に触れて皆薬なり、

解宝の人は礦石を宝と見る。

 

われわれは野原の道を歩くとき、雑草だとつい見過ごしてしまうような草でも、医学や薬学の心得のある人が見れば違います。(…)われわれが石ころだと思って蹴飛ばしてしまうような石でも、宝石の目ききのできる人が見れば、(…)たちまち宝石に変わってしまいます。雑草や石ころの価値は、そのもののせいではなくて、見る方の人の目にものを見分ける能力があるかどうかにとって違う、ということになるでしょう。

松長有慶『大宇宙に生きる 空海』p.30

 

 この文章を読んで僕がまっさきに感じたのは、「医王」の目で世の中を見ることができたら毎日が楽しいだろうなあ、というワクワク感でした。毎日が発見で、好奇心が尽きない。もっと本質に迫ってゆきたいからこそ、いろんな人にその人ならではの気づきを聞いてみたくなる。きっと質問に答えてくれた人にとっても、気づきが生まれることでしょう。どうすればそんな医王のようになれるのでしょうか。

 ここで勉強家を名乗る僕としては、誰かに強いられるのではなく、自らに強いて勉めるという意味で、改めて「勉強」という言葉に目を向けてみたいと思っています。実は「study」の語源は、「熱意・情熱」を意味するラテン語の「studium」といわれています。空海も晩年、「綜芸種智院」という日本で最初の庶民のための学校を創設しましたが、本来の勉強とは、時間を忘れるくらい情熱をもって打ち込むものであり、そのゴールとはインプットだけでなく実践というアウトプットを通じて、物事の本質を見通す目を持つことだと思うのです。

 ということで、書籍では、「あらゆるものにかけがえのない価値がある」と気づかせてくれる「平等性智」、強みや可能性に光を当てる形容詞「Appreciative」、「何を活かして?」をめぐる問い「What?」、空海つながりの言葉を現代的に解釈した「医王のおまじない」という4つのキーワードをもとに、「秘められた価値に光を当てる智恵」をさらに詳しく紐解いてゆきたいと思います。

 

 

 

*1 http://www.humanvalue.co.jp/hv2/our_theory/ai/ai_2.html

*2松長有慶『大宇宙に生きる 空海』p.134

*3 多川俊映『唯識入門』p.115

*4 デジタル大辞泉「冥利」

*5松長有慶『大宇宙に生きる 空海』p.26

*6松長有慶『大宇宙に生きる 空海』p.22

 

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「小さな煩悩を大きく育てる智恵」

 

「小さな煩悩を大きく育てる智恵」を理解するための4つのシンボル

空海つながりの言葉:妙観察智(大欲清浄/教王護国)

形容詞:Mindful(マインドフルネス/サステナビリティ)

座右の問い:Why?(何が気になる?/何を目指す?)

おまじない:大欲のおまじない(モヤモヤこそヒント/大きな問い、大きな願い)

 

 続いて、ソーシャルデザインのための五智のみっつめ、「小さな煩悩を大きく育てる智恵」を概観してみたいと思います。

 「小さな煩悩を大きく育てる智恵」は、“煩悩”というキーワードがそのままあるとおり、かなり密教的です。ひとことでいえば、欲望や嫉妬といった煩悩を受け入れ、それらをきっかけに「ほしい未来」というビジョンを描く力です。ここで「煩悩ってよくないものなんじゃないの?」と思った方もいるかもしれません。そんな煩悩を「大きく育てる」とは、いったいどういうことなのでしょうか?

 ここで向き合ってみたいキーワードが、英語の「Mindful」という形容詞です。「マインドフルネス」というと、「最近流行りのあれね」くらいに思った方も多いかもしれません。もともとは「(…を)心に留めて/忘れないで/注意して」という意味ですが、仏教の根本的な教えである八正道のひとつ「正念(しょうねん)」の英語訳として広まりました。その後、2007年にGoogleで始まったプログラム「サーチ・インサイド・ユアセルフ」を通じて、ビジネス的にもメリットがある瞑想プログラムとして一段と注目を集めるようになります。今では、がんやうつ病などさまざまな身体的、精神的ストレスを低減する手法として医療の現場で応用されているほか、言語障害や注意欠如・多動性障害など特別な支援が必要な児童のためのインクルーシブ教育にも取り入れられています*1。かつては「瞑想=怪しい」というマイナスのイメージもありましたが(実は僕自身もなかなか瞑想の習慣をカミングアウトできずにいました)、ここ10年ほどで驚くほど状況が変わってきました。

 とはいえ、そもそもマインドフルネスとは何なのでしょうか? 先ほどの「正念」を辞書で引いてみると、「物事の本質をあるがままに心にとどめ、常に真理を求める心を忘れないこと*2」とあります。また、マインドフルネスの世界的な伝道師であるティク・ナット・ハン氏は、「今というとき瞬間に目覚めている力(エネルギー)*3」と表現し、上記の「マインドフルネスストレス低減法」を広めたマサチューセッツ大学医学校名誉教授のジョン・カバット・ジン氏は「意図的に、今の瞬間に、評価や判断とは無縁の形で注意を払うこと*4」と定義しています。僕なりに整理すると、いったん思考を離れることで、いま、ここで起こっているさまざま物事に対して、五感の感度が高まっている状態という感じでしょうか。

 ここで突然ですが、みなさんにも少しだけマインドフルネスを体験していただきましょう。数秒ほど目を閉じて、周りにどんな音が聞こえているのか耳を傾けてみてほしいのです。

 ……いかがでしたか?

 この短いあいだだけでも、この文章に集中するために、多くの情報をシャットダウンしていたことに気づかれたかと思います。それくらい私たちは五感よりも思考を優先しながら暮らしているんですね。もちろんそれ自体が悪いということではなく、あまりに思考中心になってしまうよりもほどよいバランスが大切だということです。

 ちなみに八正道の中には、「精神を統一して心を安定させ、迷いのない清浄な境地に入ること*5」を意味する「正定(しょうじょう)」という似たような言葉がありますが、どちらかというと「正定」は自分の内側に向かう瞑想であり、「正念」=マインドフルネスは自分の外側に向かう瞑想ともいえるのだそうです*6。ただじっと「座る瞑想」だけでなく、「歩く瞑想」や「食べる瞑想」など、五感をいかしたさまざまなワークがあるのはそのためだったのですね。

 では、マインドフルネスに取り組むことで、どんないいことがあるのでしょうか? よく言われるのは、集中力を高めたり、感情をコントロールしたりできるようになる、ということです。例えば、何かにイライラしてしまって、感情の赴くままに手を上げてしまい、あとあと後悔してしまった、という経験があるかもしれません。そんなあなたがマインドフルネスのトレーニングを重ねていくと、イライラが起こったときにその感情に振り回されず、「今イライラしているんだな」「自分はこういうパターンだと、イライラするんだな」と客観的に観察できるようになるのです。

 そうやって少しずつ自分の感情への解像度を高めていくことで、脳の作業効率が高まり、よりよい選択をできるようになります。すると、個人のパフォーマンスが向上し、企業の業績もアップしていきます。と、最近はこうしたマインドフルネスのビジネス的なメリットが強調されている一方、スタンフォード大学でマインドフルネスを教えているスティーブン・マーフィ重松氏は、マインドフルネスの習慣が生み出す社会的なメリットにも注目しています。重松氏によれば、マインドフルネスは「先天的に備えている共感力、思いやり、親切心」を呼び起こし、分断されているようにみえていたひとつひとつの存在が実は互いに深くつながっている、ということを理解する能力を高めてくれるというのです*7。

 ここでいう「共感力、思いやり、親切心」とは、仏教の言葉でいえば「慈悲の心」といえるかもしれません。慈悲とはもともと「すべての人に最高の友情をもつこと」を意味する「慈」と、「他人の苦しみを自らの苦しみとすること」を意味する「悲」が合わさった言葉で、経典では「楽を与え、苦を取り去ること」と説かれています*8。個人的な気付きの感度を高めるマインドフルネスが私たちの認識の枠組みを変化させ、結果的に慈悲の願いを育んでいく、というのはとても興味深い指摘です。実は、そうした慈悲の心と向き合うことこそが「何を目指して、ソーシャルデザインをするのだろうか?」という「Why?」の探究であり、慈悲の心から生じた「ほしい未来」こそ、ソーシャルデザインの担い手を導く北極星となるのです。

 「ほしい未来」を見つけようとするとき手がかりとなるのが、物事の違いを見極めて、正しく観察することができるという「妙観察智」です。この智恵を具現化したのが、五智如来の中でももっともポピュラーな阿弥陀如来といわれています。「阿弥陀」のもともとの意味は「量りしれない光を持つ者」、あるいは「量りしれない寿命を持つ者」ともいわれ、菩薩として修行していた頃に「あらゆる人の苦しみの根本を抜き、絶対の幸福にする」という大きな願いを立てたことから、慈悲の心を象徴する仏様として信仰を集めるようになりました。

 そんな情熱的な阿弥陀如来ですが、曼荼羅の中の姿を眺めてみると、深い瞑想に入っている表情をしていて、坐禅の基本的な印である法界定印を結んでいます。この阿弥陀如来の静と動のギャップが示唆するように、静かに自分の心の動きを観察することと、「誰かの役に立ちたい」という慈悲の心は表裏一体なのです。

 

モヤモヤこそヒント

 みなさんは「煩悩即菩提」という言葉を聞いたことがありますか? ここでいう菩提は悟りという意味ですが、「煩悩は即ち悟りである」とは何とも大それた、また誤解を生みそうな言葉です。ここで気をつけたいのは、「煩悩即菩提」とは、以前ご紹介した大円鏡智、つまり三日月ではなく満月の心で眺めてみたときの境地である、ということです。大円鏡智から見れば「煩悩/菩提」といった二元的な考えは解消されます。そうして初めて私たちは、煩悩を離れて菩提はない、つまり、煩悩こそが菩提へ至るヒントであることに気づくのです。

 もしかしたら自分のイライラは、この世界の不平等と関連しているのかもしれない。もしかしたら自分の痛みは、この世界の痛みを代表しているのかもしれない。マインドフルに自分の感情を観察してみたことで、慈悲の心に目覚め、自分と社会はつながっている、あるいは相似形にあることを直観できたとき、自分の嘆きこそがソーシャルデザインの種子となることに気づきます。違和感や怒りといった感情をきっかけに、まずは自分自身を癒すために始めたささやかな企てが、やがてこの世界を癒やすことになるかもしれないのです。

 そうした身近な違和感をきっかけに「ほしい未来」を発見した事例を、ここでひとつご紹介したいと思います。

 

ベビーカーがあるからこそ踊れるダンスを開発!

〜ファミリズム 吉 沙也加さんの場合

 予期せぬことが次々と起こって、とにかく子育ては大変! それは僕が親になって初めて実感した正直な感想です。もちろんまったく子どもに非はないのですが、あまりに疲れがたまりすぎてマインドレスになってしまうと、「子どものせいで○○できない!」とよからぬ愚痴をこぼしてしまうこともありました。

 そんなふうに考えてしまう自分がいることに、僕自身驚き、そして怒りと嘆きを覚えました。そしてそのどん底の状態から少しずつ時間をかけて、「“自分”が幸せでありたい」から「“自分たち家族”が幸せでありたい」という次元へと、根本的な考え方をアップデートしていきました。その結果、「子どものせいで」ではなく「子どもがいてくれたおかげで」というかけがえのない瞬間を味わえるようになってきたのです。

 とはいっても、当時の子どもにはとても申し訳なく思います。そんな親の思いは、子どもがいちばん敏感に(まさにマインドフルに)察しているだろうし、どちらの態度が、「自分はここにいてもいい存在なんだ」という子どもの自己肯定感につながるかは歴然だからです。

 「子どもが小さいからダンスができない」ではなく、「子どもが小さいときにしかできないダンスを踊ろう」と提案しているのが、一般社団法人ファミリズムです。

 「もっと優しくしたい、楽しくしたいけれど、やっぱり色々なことで自分らしく居られることがない。でも、ちょっとしたきっかけがあれば、きっと毎日が変わるはず」*9。ファミリズムは、そんな親たちを子どもと一緒に踊れる親子ダンスを通じて元気づけようとするプロジェクトで、見るものを圧倒する「100台ベビーカーダンス」など話題のイベントを仕掛けています。

 代表を務める吉沙也加さんはダンス歴25年、新体操全日本Jr選手権で入賞するほどの実力の持ち主でした。今では4人のお子さんがいらっしゃいますが、ひとり目を出産後、慣れない育児で産後うつ状態になってしまったそう。そんな辛い日々を抜け出すきっかけとなったのが、大好きなはずのダンス教室で感じたひとつの違和感でした。

 

ダンスをすれば元気が出るかもしれないと、託児付きのダンススクールに通ったんですが、どうしても子どもが泣いてしまうとレッスンを中断しなくてはならなかったんです。でも、そうして大好きなダンスと子どもが切り離されていくことにだんだん違和感を覚えるようになりました。

https://greenz.jp/2013/10/21/baby-car-dance/ より一部調整

 

そうして生まれたのが、「ベビーカーがあるからこそ踊れるダンス」です。ダンス未経験者でもOKで、ベビーカーを押しながら軽やかにステップを踏んだり、ベビーカーの前に回り込んで、親子で触れ合ったり、親だけでなく子どももリズムにのって一緒に楽しめます。その心からの笑顔が、育児をもっと輝かせることにつながる、と吉さんは続けます。

 

育児をしていて、拍手喝さいを受けるというとイメージは湧きにくいかもしれません。でもダンスというツールを使うことで、ママはセクシーにキュートに、子どもはママとの触れ合いでご機嫌に、さらにそのパフォーマンスを見てハッピーになる人がいる。その時の拍手や笑顔がママパパ達のモチベーションを高め、育児がもっと楽しくなる。そうしたポジティブなサイクルが生まれていると思うんです。

https://greenz.jp/2013/10/21/baby-car-dance/ より一部調整

 

 吉さんのちょっとした違和感から始まった親子ダンスですが、最初は「本当に必要としている人がいるのだろうか?」という葛藤があったと思います。それでもなお、「たくさんの親が自分らしくいることができる未来」という「ほしい未来」を実現にまで導いたのは、「メンバー全員がこんなにダンスを通じて育児を楽しんでいる」という揺るぎない事実、言い換えれば「その悩みは自分だけではない」という確かな手応えでした。こうして「私」から「私たち」へと拡大していくとき、個人的な煩悩は社会的な慈悲へと昇華していったのです。

 

大欲は清浄である

 仏教では、3つの根本的な煩悩があるとされています。いわゆる「貪」(むさぼり)、「瞋」(怒り、妬み)、「痴」(おろかさ、愚痴)です。そして「ほしい未来」の“ほしい”とは文字通り欲望であり「貪」に含まれます。つまり「ほしい未来」を見つけよう、という提案は、前向きに煩悩を持とう、という提案になるわけです。

 とはいえ、その欲望は「自分のため」といった小さな欲望ではありません。真言密教の重要な経典のひとつであり、欲望を肯定するといわれる『理趣経』にはこんな言葉があります。

 

大欲は清浄を得

人間に生まれながらに備わった欲望を、頭から好ましからざるものとして否定するのではなく、欲望を充足することの空しさに自らが気づき、欲望のもつ本来的なエネルギーを、他に方向転換させようとするのです。(...)欲望の矛先を自己中心軸から、他人のための活動へと転換したとき、それを清浄と名づけます。

松長有慶『大宇宙に生きる 空海』p.194

 

 このように密教では、煩悩の代表格ともいえる欲望のことを「生命力そのものである」と考えます。であればこそ肝心なのは、そのありあまったエネルギーを押し殺すのではなく、ふさわしい場所へと向かわせることなのです。

 煩悩が止まらないときこそ、むしろあなたの情熱の目的地としての「ほしい未来」を見つけるチャンスといえるかもしれません。「こんな煩悩まみれのわたしなんて」と思うか、「こんな煩悩があふれているわたしだからこそ」と思うかは、あなた次第なのです。

 ということで、書籍では、物事の違いを見極めて、正しく観察することを手助けしてくれる「妙観察智」、「今ここに集中する」という形容詞「Mindful」、「何を目指して?」をめぐる問い「Why?」、空海つながりの言葉を現代的に解釈した「大欲のおまじない」という4つのキーワードをもとに、「小さな煩悩を大きく育てる智恵」をさらに詳しく紐解いてゆきたいと思います。

 

 

 

*1 ダニエル・ゴールマン『フォーカス』p.240

*2 デジタル大辞泉

*3 https://www.tnhjapan.org/mindfulness-breath

*4 チャディー・メン・タン『サーチ・インサイド・ユアセルフ――仕事と人生を飛躍させるグーグルのマインドフルネス実践法』p.51

*5 デジタル大辞泉

*6 2018年7月24日「空海とソーシャルデザイン」での曹洞宗僧侶・嶽盛俊光氏の講演より

*7 スティーブン・マーフィ重松『スタンフォード大学 マインドフルネス教室』p.26

*8 百科事典マイペディア

*9 https://www.famirhythm.org/

(HP閲覧日はすべて2018/08/16)

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著者略歴

  1. 兼松佳宏

    勉強家/京都精華大学人文学部 特任講師/「スタディホール」研究者
    1979年生まれ。ウェブデザイナーとしてNPO支援に関わりながら、「デザインは世界を変えられる?」をテーマに世界中のデザイナーへのインタビューを連載。その後、ソーシャルデザインのためのヒントを発信するウェブマガジン「greenz.jp」の立ち上げに関わり、10年から15年まで編集長。 2016年、フリーランスの勉強家として独立し、著述家、京都精華大学人文学部特任講師、ひとりで/みんなで勉強する【co-study】のための空間づくりの手法「スタディホール」研究者として、教育分野を中心に活動中。 著書に『ソーシャルデザイン』、『日本をソーシャルデザインする』、連載に「空海とソーシャルデザイン」「学び方のレシピ」など。秋田県出身、京都府在住。http://studyhall.jp

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