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V.E.R.D.I. ヴェルディ 受容のリトグラフ 林いのり

「父と子」の作曲家ヴェルディ――ヴェルディ作品の「母」を聴く

 「さようなら、素敵な手紙をちょうだい。そして早く、私たちの(・・・・)トロヴァトーレを上演してね」
(ジュゼッピーナ・ストレッポーニからヴェルディへ、1853年1月3日付の手紙より[1])

 

「私たちの(・・・・)トロヴァトーレ」――当時ヴェルディの恋人であったソプラノ歌手ジュゼッピーナ・ストレッポーニは、《イル・トロヴァトーレ》(1853)の初演を2週間後に控えたヴェルディに、そう書き送った。

《イル・トロヴァトーレ》には、ほかのヴェルディ作品とは異なる、ある特徴がある。それは、1人の「母」がドラマを動かすという点である。ジプシーの老女アズチェーナは、かつて焼き殺された母の記憶と復讐の言葉に取り憑かれながら、自身も息子マンリーコを深く愛する母である。恋人たちの物語と並んで、母子の関係がこれほど強烈に打ち出されたヴェルディ作品はほかにない。

 ヴェルディの作品には、父親を中心にドラマが展開する作品が多い。処女作《オベルト》のオベルト、《ナブッコ》のナブッコ、《ルイザ・ミラー》のミラー、《リゴレット》のリゴレット、《シモン・ボッカネグラ》のシモンやフィエスコ、《アイーダ》のアモナズロ――息子や娘を愛し、守り、ときに支配し、その運命を大きく左右する父親たちが多く思い浮かぶだろう。こうした「父性」の重要性や、強い父とその子との葛藤という劇的な構図は、これまでヴェルディ作品の特徴として度々指摘されてきた(Gonzáles 2011; Napolitano 2013; Riberi 2018)。一方で《トロヴァトーレ》のように、「母」がドラマの中心となる作品は極めて珍しい。そしてストレッポーニは、作曲段階からこの作品に強い関心を寄せ、「私たちの」トロヴァトーレと綴っていた。

《イル・トロヴァトーレ》とストレッポーニとの関係については、音楽学者S. ラザフォードが興味深い可能性を示唆している。ヴェルディ作品に登場する女性像を19世紀の女性たちの生活と重ね合わせて論じた著書[2]のなかで、ラザフォードは、当時のイタリアでは「母性」が称揚される一方、婚外子の遺棄がヨーロッパでもきわめて高い水準に達していたことを指摘した。未婚の母親から子どもを引き離すことさえ、行政や宗教上の権威によって推奨されていたという。ラザフォードはこうした背景を踏まえ、《イル・トロヴァトーレ》に登場する母親アズチェーナが抱え続ける、幼い息子をめぐる秘密や悲嘆、罪悪感もまた、同時代の人々に共感を呼び得るものだったのではないか……と考えている(Rutherford 2013, 170–174)。そして同じ文脈で、ヴェルディと結ばれる以前に複数の婚外子をもうけるも、子どもたちと離れて生きたストレッポーニについても言及されている。とはいえ、もちろん、ストレッポーニがアズチェーナと自らを重ねていたとみなすのはひとつの仮説に過ぎない。

 今回は、もっと素朴な疑問について考えてみたい。理想的な「母性」が称揚される一方、現実の女性たちが必ずしもその理想どおりに「母」として生きられなかった時代に、ヴェルディはどのような「母」たちを描いたのだろうか。

 

不在の母を聴く──「父と娘」の背後にいる母

《リゴレット》のリゴレットとジルダ、《アイーダ》のアモナズロとアイーダ、《シモン・ボッカネグラ》のシモンとアメーリア、そして処女作《オベルト》のオベルトとレオノーラ。ヴェルディのオペラに登場する「父と娘」に目を向けてみると、ある共通点が浮かび上がってくる。父と娘がドラマの重要な軸を形成する一方で「母」の姿がない。しかし、「母」たちは単純に物語から排除されているわけではなく、父と娘が向き合う重要な場面で、しばしば言葉や記憶のなかに呼び戻されている。ときには父娘を結びつける愛情の記憶として、ときには娘の行動を律する道徳的な存在として、さらには父が娘に服従を迫るための力として。「父」の存在感がひときわ大きな作品は、「不在の母」の側から眺め直してみることもできるのだ。

 父娘の絆に「不在の母」が深く関わっている作品として、まず《リゴレット》を見てみよう。孤独な道化であるリゴレットは、一人娘のジルダを心の支えとして生きている。第1幕の二重唱では、ジルダから母について尋ねられた彼が、思い出を語る場面がある。今は亡き彼女を「天使」として回想したリゴレットは、自分に残されたのはジルダただ1人だと歌う。

リゴレット:
「ああ、この哀れな男に語らないでおくれ、
失われた愛しい人のことを。
あの人は、あの天使は、
私の苦しみに哀れみを感じてくれた。
孤独で、異形の、貧しい私を、
憐れみから愛してくれた。
彼女は死んだ……土よ、
あの愛しい頭を軽やかに覆ってくれ。
今やお前だけが、この哀れな男に残されている……
おお神よ、感謝します!」
(筆者訳)

 亡き母の回想は、そのままジルダへの愛情の吐露へつながっている。母の記憶が父娘を結びつけるものとして働いていることがよく分かるが、この箇所では、音楽にも変化が現れている。「天上の母」が語られるとき、音楽は透明で柔らかな表情を帯びるのである。具体的には、弦楽器と木管楽器が柔らかなタッチで和音を奏で、その上で大きな起伏をもつカンタービレの旋律が歌われる。

 この亡き母のイメージと音楽の組み合わせは、オペラ終盤で再び現れる。刺客の刃を受け、父の腕のなかで死を迎えるジルダが、「あの天上で、お母様のそばから……永遠にあなたのために祈ります」と歌う時だ。娘を死から引き戻そうする、必死なリゴレットの歌を挟みながら、この言葉は三度繰り返される。音楽に注目してみると、旋律がほぼ変わらない一方で、彼女を包む音の響きは繰り返されるたびに姿を変えていくことがわかる。1回目の歌唱では、フルートの細かな分散和音に、弦楽器群の和音が重なる(譜例1a)。2回目の伴奏では、フルートの動きはトリルに変わり、高音域の弦楽器が和音を引き延ばすなか、分割されたヴィオラが分散和音を奏でる。そして3回目の歌唱で伴奏に残されるのは、ジルダの歌声に静かに寄り添う弦楽器の和音だけだ(譜例1b)。


譜例1a《リゴレット》終幕、ジルダ “Lassù in cielo, vicino alla madre” 1回目


譜例1b《リゴレット》終幕、ジルダ “Lassù in cielo, vicino alla madre” 3回目

 つまり、同じ言葉と旋律が繰り返されるなかで、音量は弱まり、低音の重量は失われ、音の動きも減少していく。娘を地上につなぎ止めようとするリゴレットの力強い音楽に対し、「母のそばへ」と歌うジルダを包む音響は、しだいに薄く、軽くなっていく。つまり、ジルダ自身が、第1幕で亡き母の記憶を包んでいた、軽やかで透明な音の世界へ近づいていくのである。舞台に姿を見せない母の存在が、オーケストラの響きのなかに刻み込まれている……そんなふうに聞こえてこないだろうか。

 こうした「天上の母」と透明感のある音の響きとの結びつきは、《リゴレット》だけに見られるものではない。ヴェルディの作品を遡ると、舞台に姿を見せない母が娘によって呼び起こされる場面で、これとよく似た音の世界がしばしば現れる。

 処女作の《オベルト》(1839)もそうだ。第1幕で父オベルトの怒りに直面したレオノーラは、「裏切られた哀れな私を抱きしめてください」と赦しを乞い、「天国の母もあなたにそう願っています」と言う。すでに亡くなった母が、天上から父と娘の和解を願う存在として、娘の言葉によって呼び出される。そしてやはり、「母」への言及を含む懇願の部分では、柔らかな木管楽器が歌声に寄り添い、弦楽器はピッツィカートによる分散和音を奏でる。もちろん、《リゴレット》とまったく同じ楽器や旋律が用いられているわけではないが、オーケストラの重量を抑えた軽く透明な響きのなかで亡き母が父娘のあいだに呼び戻される、という共通点が確認できる。

 さらに《第一回十字軍のロンバルディア人》(1843)では、「母」と「天上」との結びつきがいっそうわかりやすく明示されている。本作の娘は、愛と信仰の間で揺れるジゼルダだ。彼女は亡き母に「天から私の嘆きを救ってください」と祈り、母が自分のもとへ戻ってくることが叶わないのなら、「せめて祈ることで、私があなたのもとへ昇れますように」と願う。地上で苦悩するジゼルダと、天上の母という対照は、音楽にも表れている。たとえば「あなたのもとへ昇れますように」と歌うアンダンティーノでは、弱音の弦楽器を中心とする穏やかな伴奏に木管楽器が重なり、その上を装飾的なカンタービレの旋律が流れていく。この響きは、先ほど見てきた《リゴレット》や《オベルト》における「母」の音楽とよく似ている。ところが、ジゼルダがこれから自分を襲う「恐ろしい日々」を予見すると、伴奏にトランペットとチンバッソ(チューバと同じ音域をもつ低音金管楽器)が加わり、歌唱も鋭い付点リズムをもつ音型へと一変する。そして、再び母のもとへ昇ることを願う言葉とともに、先ほどの柔らかな響きが戻ってくるのである。地上の苦悩から天上の母のもとへ――ジゼルダの祈りが向かう方向性が、音楽の変化によってはっきりと示されている。

 そして《スティッフェーリオ》(1850)では、亡き母の「清らかさ」がいっそう直接的に語られる。夫を裏切った罪に苦しむリーナは、母の墓を訪れ、「あの方はあれほど清らかだった。それなのに私は」と自らを責め、天上にいる母に、神のもとで自分の赦しを取りなしてくれるよう願う。ここでもレチタティーヴォからアリアへ移ると、木管楽器と弦楽器による軽やかな伴奏の上に、大きな起伏をもつカンタービレの旋律が広がる。

 もちろん、これらの作品に「母」を表す決まった旋律や楽器があるわけではない。しかし、亡き母が天上的、あるいは清らかな存在として呼び起こされる場面を並べてみると、木管楽器の和音による柔らかい響き、弦楽器による分散和音やピッツィカート、弱いダイナミクス、そしてカンタービレの歌唱旋律といった要素が繰り返し現れる。つまり共通しているのは、歌声を柔らかく包み込むような、透明感のある音響の作り方なのだ。

 しかし、「不在の母」はいつも父と娘を優しく結びつけるとは限らない。先ほどの《オベルト》を振り返ってみよう。レオノーラは「天国の母もあなたにそう願っています」と父に訴え、母を父娘の和解を取りもつ存在として呼び出していた。ところがその後、今度は父オベルトが、天上にいる母が娘の過ちを見て「震えている」と娘を諌める。彼の語る「母」は、娘を律する道徳的な権威へと姿を変えているのである。「不在の母」が父娘の和解を願っていると語るレオノーラ、娘の過ちを見て「震えている」と語るオベルト。自らの意思を語ることができない「不在の母」は、生きている父や娘によってその意思を代弁され、それぞれの願いや主張に権威を与える存在にもなり得るのだ。

 こうした「不在の母」の権威が恐ろしいかたちで現れるのは《アイーダ》(1871)である。第3幕、祖国エチオピアのためにエジプト軍の進路を聞き出すよう迫る父アモナズロに対して、愛する人を裏切ることのできないアイーダは抵抗する。するとアモナズロは、戦争で命を落とした同胞たちの姿を娘の前に描き出し始める。血に染まった町から死者たちが立ち上がり、アイーダを指さして「お前のせいで祖国は滅びる」と叫んでいる、と。そして、その死者たちのなかから一体の「恐ろしい亡霊」が現れる。

アモナズロ:
「震えろ! あの痩せた腕を……お前の頭の上に掲げたぞ……」

アイーダ:
「お父さま!」

アモナズロ:
「それはお前の母だ……」

アイーダ:
「ああ!」

アモナズロ:
「認めるのだ……お前を呪っている!」
(筆者訳)

 アモナズロは、娘の想像のなかに母の姿──娘を呪う恐ろしい亡霊の姿――を与える。「不在の母」はここで、娘を従わせるための恐ろしい力へと変えられている。

 その恐ろしさは音楽でも表現されている。この場面の直前までは、激昂するアモナズロをフル・オーケストラの力強い響きが支えていたが、死者たちの幻影を語り始めると、彼の声は sottovoce に落ち、オーケストラも ppp にまで音量を潜める。そして、クラリネットやファゴットと弦楽器を中心とする伴奏のなかで、アモナズロはカンタービレとは程遠い、語りのような旋律で「話す」。低い木管楽器や弦楽器がその声に重なる一方、高音域では弦楽器のトレモロが絶え間なく震え、不吉な緊張を持続させる。弱音や木管楽器と弦楽器を中心とする響きという点では、先に見た「天上の母」の音楽と共通する部分もあるが、ここでは語るような声と高音域のトレモロが、静けさそのものを不気味なものに変えている。そして、アモナズロが「それはお前の母だ」と亡霊の正体を明かすあたりから、抑え込まれていた音響は厚みを増していき「お前を呪っている!」という言葉の直後にフル・オーケストラの響きが戻ってくる。声を潜めた ppp のなかでおぼろげに現れた亡霊は、「母」という名を与えられ、娘を呪う存在となるにつれて、音楽のなかで圧倒的な重量を獲得していく。「母のそばへ」と歌うジルダを包む音響がしだいに薄く、軽くなっていった《リゴレット》の終幕とは、まるで対照的である。

 このように、父娘の物語における「不在の母」は、決して単なる空白ではなく、父娘の記憶のなかに呼び戻され、ときには2人を結び、ときには娘を律し、さらには父が娘に服従を迫るための力となる。彼女たちの共通点は、「そこにいない」ということである。だからこそ、あるときには天上の清らかな存在として記憶され、またあるときには、生きている者たちによってその意思を語られる。では、一方で舞台の上で実際に登場して自らの声で語る母たちはどのように描かれているのだろうか?

 

「母」以外の顔ももつ女性たち──舞台に登場する「母」

 まずは、先ほど亡き母の墓前で祈っていた《スティッフェーリオ》のリーナへ戻ってみよう。彼女が「清らかだった」と回想する亡き母とは対照的に、リーナは自らを「清らか」だと思っていない。夫を裏切り、別の男性と関係をもった罪に苦しんでいるからだ。そして、そんな彼女自身もまた、1人の母なのである。舞台に姿を見せない母たちとは異なり、実際にドラマを生きる母たちは、必ずしも「清らかな母」というひとつの顔だけをもっているわけではない。彼女たちは母であると同時に、妻であり、娘であり、1人の女性である。

《2人のフォスカリ》(1844)のルクレツィアは、夫ヤコポを救おうと奔走する妻としてドラマを動かしていく。夫が追放されることになれば、自分も子どもたちとともに彼について行こうと願う彼女にとって、夫を思う「妻」としての愛情と、子どもたちを思う「母」としての感情は、ひとつの家族を守ろうとする思いのなかで重なり合っている。

「母」という立場の特殊さが際立つのは、《ドン・カルロ》(1867)のエリザベッタだ。もともと主人公カルロの婚約者となるはずだった彼女は、政治的な事情から、彼の父フィリッポと結婚する。つまり、愛する男性の「母」となってしまうのだ。2人のあいだに実際の母子関係があるわけではない。それでも王妃となったエリザベッタには、カルロへの愛を封じ、彼に対して「母」として振る舞うことが求められる。彼女にとって「母」の役割は、恋心を封じることを強制する重い枷である。

 しかし、「母」であることと1人の女性としての感情とがもっとも切実に交差するのは、《仮面舞踏会》(1859)のアメーリアかもしれない。彼女は夫レナートとの間に幼い息子がありながら、リッカルドへの思いを断ち切ることができない。とはいえ、そのことによって彼女の「母」としての感情が失われるわけでもない。それが顕著に現れるのは、妻の裏切りを知ったレナートが、彼女に死を宣告する場面だ。死を覚悟したアメーリアが最後に願うのは、もう一度だけ息子に会うことだったのである。「ただ一度、私の息子に会わせてください」――妻としての赦しも、恋する女性としての未来も求められなくなったとき、最後まで残るのは「母」としての願いだった。夫ではない男性を愛したからといって、息子を思う母としての感情が失われるわけではない。恋する女性である彼女は、同時に母でもあり続けるのだ。

 リーナ、ルクレツィア、エリザベッタ、そしてアメーリア。舞台上に生きる「母」たちは、母であることだけによって語り尽くすことのできない女性たちである。妻であること、恋する女性であること、母であることは、1人の人物のなかに同時に存在し、ときには重なり合い、ときには異なる方向へ彼女たちを引いていく。そして、この複数の立場のあいだで最も激しく引き裂かれる「母」が、《イル・トロヴァトーレ》のアズチェーナなのである。

 

母の娘、息子の母──《イル・トロヴァトーレ》のアズチェーナ

《イル・トロヴァトーレ》はヴェルディの生涯において、もっとも成功を収めた作品の1つとして知られる。しかし、その音楽が絶賛される一方で、複雑に入り組んだ筋書きは、ときに荒唐無稽であると酷評されることもあった。なかでも、ドラマの中心となる女性――アズチェーナは、その不可解な行動と複雑な過去によって、さまざまな議論を呼んだ人物だった。

 アズチェーナは、「母」であることと「娘」であることのどちらか一方を選ぶことができない人物だ。

 物語が始まるよりも前、アズチェーナの母は、ルーナ伯爵家の先代伯爵によって魔女とみなされ、火刑に処された。母が死の間際に残した言葉は「仇をとっておくれ!(Mi vendica!)」だった。アズチェーナはその言葉に従い、復讐のために先代伯爵の幼い息子をさらい、火に投げ込んだ――はずが、錯乱のあまり、彼女が炎のなかへ投げてしまったのは、自分自身の息子だったのだ。そして彼女は絶望のなか、殺すはずだった伯爵の息子を、自身の息子「マンリーコ」として育てることになる。

 つまりマンリーコは、アズチェーナにとって、本来なら母の仇を討つために殺すべき相手でありながら、自らが育てた「息子」でもある。彼女のなかでは、亡き母の「仇をとっておくれ!」という声と、マンリーコを息子として愛する思いとが、同時に生き続けている。こうして、「母の娘」であることと「息子の母」であることがアズチェーナのなかで分かちがたく結びつき、互いを傷つけあうのである。

 この奇妙な二重性は、アズチェーナが初めて舞台に登場する第2部[3]から、すでにはっきりと示されている。有名なアリア「炎は燃えて」で、彼女は1人の女が火刑に処される凄惨な光景を歌う。燃え上がる炎、その周囲を取り囲む群衆、処刑人に引きだされる女――その正体が明かされるのは、群衆が去り、舞台上にアズチェーナとマンリーコの母子だけが残ってからである。先ほどの歌について尋ねる息子に、アズチェーナは「あれは、お前のお祖母さんの恐ろしい最期の話さ」と答える。ここで初めて、先ほど火刑に処されていた女がアズチェーナの母だったことがわかるのである。

 そしてここから、アズチェーナはもう一度、母の最期を語り始める(「彼女は鎖に繋がれて」)。ただし今度は、1人の「娘」として、自分の母の記憶を「息子」に語る。現在の母と息子のあいだに、過去の母と娘の物語が入り込んでくるのである。

 この長い語りのなかで、何度も繰り返される言葉。それは、炎のなかへ連れて行かれる母が娘に叫んだ「仇をとっておくれ!(Mi vendica!)」という願いである。曲中でアズチェーナがこの言葉を繰り返すとき、その言葉には共通する抑揚が保たれている。冒頭の音節が大きく引き伸ばされた抑揚である(譜例2)。しかし、繰り返されるたびに、旋律の起伏はしだいに大きくなっていく。つまり、「母の声」は、アズチェーナの声で再現されるたびに、大きな身振りを獲得していく。そればかりではない。語り終えたアズチェーナは、「ほとんど周囲で起こっていることにも気づかないほど没入したまま」、再び静かに「仇をとっておくれ!」と呟く。亡き母の「仇をとっておくれ!」という声は、その抑揚とともに、娘アズチェーナのなかで響き続けているのである。


譜例2《トロヴァトーレ》第2部 アズチェーナ “Mi vendica!” の抑揚

 しかしその声に従おうとしたことが、「母」としてのアズチェーナを悲劇へ導いた。先ほど触れたように、復讐を果たそうとする錯乱のなかで、彼女は伯爵の子と自分の子を取り違え、自らの息子を炎へ投げ込んでしまった――この恐ろしい出来事を語る場面で、オーケストラは再び「炎は燃えて」の旋律を奏でる。最初は母の火刑の光景を描いていた音楽が、今度は、その復讐によってアズチェーナ自身の息子が炎へ消えた記憶に重ねられる。娘として母に忠実であろうとした瞬間、アズチェーナは、自らの息子を失ったのである。

 本来なら炎へ投げ込むはずだった伯爵の息子はこうして生き残った。アズチェーナはその子をマンリーコと名づけ、息子として育てる。そして奇妙なことに、彼女はこの「仇の子」を、自分の息子として愛するようになるのである。その愛を語るとき、アズチェーナの音楽は、母の復讐を語るときとは大きく異なる表情を帯びる。伯爵たちに捕らえられた彼女がマンリーコへの思いを語る場面で「あの子には深い愛情を感じている、この世のどんな母親も感じたことがないほどの!」という言葉には、穏やかなリズムをもつ伸びやかなカンタービレの旋律が与えられている(譜例3)。


譜例3《トロヴァトーレ》第3部 アズチェーナ “qual per esso provo amore madre in terra non provò!”

 鋭いリズムで繰り返された母の声――「仇をとっておくれ!」とは対照的な、柔らかく美しい旋律。そして、その直後に伯爵を呪う音楽には、再び鋭い付点のリズムが戻ってくる。復讐の世界と、マンリーコへ向けられた母としての愛とは、1人のアズチェーナのなかにありながら、異なる音楽的表情をもって表されている。

 印象的な場面をもうひとつ挙げたい。処刑を待つアズチェーナとマンリーコが牢獄で2人きりになる場面(第4部)だ。ここでもまた、過去と現在、娘と母という2つの顔が重なり合っている。自分もかつての母と同じように火刑に処される、あの日の炎が目の前に見える、と訴えるアズチェーナの言葉に、オーケストラが奏でる「炎は燃えて」の旋律が重なる。かつて母の処刑を描いていた音楽が、今度は処刑を待つ娘自身の恐怖として蘇るのである。ところがその後、音楽は再び大きく変化する。まどろみながらアズチェーナが口にするのは、もはや復讐ではなく、2人で暮らした故郷へ帰る夢である(「私たちの山へ帰ろう」)。息子とともに歌う旋律は、まるで幼い子どもをあやすように穏やかで、優しい。亡き母の火刑の記憶と、息子とともに帰ることを夢見る母の歌――アズチェーナのなかにある2つの母子関係は、ここではすぐ隣り合わせに響いているのである。結局その夢が叶うことはなく、マンリーコは伯爵の命令で処刑される。息子が殺されたその瞬間、アズチェーナは伯爵に、マンリーコが実は彼の弟だったことを明かす。そして絶叫するのだ。「お母さん、仇を討ったよ!」と。

 母が娘へ残した「仇をとっておくれ!」という言葉は、長い年月を経てもアズチェーナのなかから消えることがなかった。母から娘へ託された復讐という使命は、「息子の母」としての彼女に、もっとも大きな代償を払わせることによって果たされたのである。

 

「友達母娘(おやこ)」?──《ファルスタッフ》のアリーチェ

 ここまで見てきたヴェルディの「母」たちには、どこか重苦しい影がつきまとっていた。理想化された「不在の母」、妻として、恋する女性として苦しむ母、そして2つの母子関係のあいだで引き裂かれる母。しかし、ヴェルディ最後のオペラ《ファルスタッフ》(1893)には、まるで違った「母」が登場する。それが、ナンネッタの母アリーチェである。

 まず《ファルスタッフ》という作品のなかで、アリーチェがどのような立ち位置にあるのかを確認しておこう。このオペラは、シェイクスピアの喜劇『ウィンザーの陽気な女房たち』を物語の主な土台としながら、『ヘンリー四世』第1部・第2部の要素も取り入れ、台本作家アッリーゴ・ボーイトとヴェルディが新たに作り上げた作品である。物語の中心となるのは、原作と同じく、好色な老騎士ファルスタッフが、フォード夫人とペイジ夫人という2人の人妻を同時に誘惑しようと企み、それを知った女性たちから手痛い仕返しを受けるという展開だ。

 ただし、ボーイトとヴェルディは、原作の人物関係をそのままオペラに移したわけではない。《ファルスタッフ》で老騎士から誘惑される人妻アリーチェは、フォードの妻であると同時に、ナンネッタの母である。そして、ナンネッタと恋人フェントンとの恋、それに反対して娘を医師カイウスと結婚させようとする父フォードをめぐるもう1つの騒動が、ファルスタッフをめぐる喜劇と絡み合っていく。つまり、彼女は2つの騒動のちょうど真ん中に置かれている。《ファルスタッフ》には、従来のヴェルディ・オペラのような意味での「ヒロイン」は存在しないが、最も積極的にドラマを動かしていく人物を1人挙げるなら、それはアリーチェだ。

 実際、ヴェルディもアリーチェをひときわ大きな行動力をもつ人物として捉えていた。初演に向けて配役を検討するなかで、彼はアリーチェ役には、クイックリー役に求めた歌唱力や演技力、舞台上での自在さ、言葉の適切なアクセントといった資質に加えて、「活気(vivacità)」が必要で、「悪魔が取り憑いているくらいでなければならない。ポレンタを掻き回す(事を動かしていく)のは彼女なのだ」と述べている[4]。まるで悪魔に取り憑かれたかのようにエネルギッシュに、周囲を巻き込みながら事を動かしていく――ヴェルディがアリーチェに求めたのは、そんな活力だったのだろう。そしてその行動力は、彼女が「母」として振る舞うときにも発揮されるのである。

 ヴェルディのいうアリーチェの「活気」は、音楽にもはっきりと現れている。第3幕第1部、ウィンザーの森でファルスタッフを懲らしめる計画が始動する場面を見てみよう。ここでアリーチェは、家族や仲間たちに計画を説明したり、指示を出したりと、場面の進行を取り仕切る。彼女のパートの楽譜を追ってみると、ヴェルディが、声の調子を次々と変化させるよう指示していることがわかる。たとえば、ファルスタッフを騙すために利用する恐ろしげな作り話をするときには「太い声(voce grossa)」や「陰鬱に(cupo)」、そこから通常の声に戻って「生き生きと(con brio)」、さらに計画を説明するときには「軽やかに(leggero)」――。こうした変化はごく短いあいだに次々と起こり、聴いているだけでも、アリーチェの快活な性格や頭の回転の速さが伝わってくる。

 しかも、こうした細かな指示に従って歌おうとすれば、演じる歌手の側も、次から次へと頭を切り替えなければならない。歌手が「アリーチェは頭の回転の速い女性だから、そう演じよう」と考えるより先に、そのキャラクターがすでに楽譜に書き込まれているのである。ヴェルディの指示どおりに歌っていくうちに、アリーチェという人物の性格が、いわば歌手の身体に染み込んでくるような書き方、と言ってもよいかもしれない。

  さらにヴェルディは、音楽の変化そのものもアリーチェに牽引させている。彼女が話題を変えたり、新しい思いつきを話したりするたびに、音楽の拍子やテンポ、性格が変わっていくのである。そのことをわかりやすく示すのが、仲間たちに扮装の指示を与える場面だ。フルート、続いてオーボエ、クラリネットへと受け渡されていく軽やかな音型は、まるでアリーチェの頭のなかから次々と姿を現すイメージが、異なる楽器の音色をまとって舞台へ飛び出してくるかのようだ。アリーチェがすでに出来上がった音楽のなかで歌うというより、彼女が想像し、語り、指示することによって、音楽の方が次々と姿を変えていくようなのである。こうした音楽を聴くと、演出家エイドリアン・ノーブルが、オペラのアリーチェについて、原作の対応人物よりもその「想像力が奔放」であり、その性格が「かなり奔放な音楽」を通して表現されている、と語っている[5]ことにも頷ける。アリーチェの想像力は、周りを動かし、音楽を変化させながらドラマを進行させていく。まさに「ポレンタを掻き回すのは彼女」なのだ。

 そんなアリーチェが、ナンネッタの「母」である。彼女は娘と同じ世界に生き、自分の言葉をもつ。彼女が「母」として振る舞うときにも、ここまで見てきた機転や行動力が鳴りを潜めるわけではない。むしろアリーチェは、その力を娘のために存分に発揮する。

 この母娘関係でまず目を引くのは、母と娘が同じ側に立っていることである。父フォードが娘を医師カイウスと結婚させようとするのに対して、ナンネッタが愛しているのは若いフェントンだ。そしてアリーチェは、娘に父の決めた結婚を受け入れさせようとはしない。むしろ、娘の恋を知ってその味方となり、夫の思惑から2人の恋を守ろうとする。父が自分をカイウスと結婚させようとしていることを知ったナンネッタが不安を見せると、アリーチェは「心配しなくていいわ」と娘を安心させる。そしてフォードの仕掛けた罠は、かえって彼自身に恥をかかせ「私たち」の助けになるのだと請け合う。これは、母が娘を教え導き、娘がそれに従うという関係ではない。現代風に言えば「友達母娘(おやこ)」のような関係である。

 とはいえ、アリーチェが娘の「友達」になってしまったわけではない。第3幕第2部の冒頭、フェントンが1人で情熱的なソネットを歌っていると、ナンネッタが現れる。2人の歌声が重なり、口づけへ向かおうとする――その音楽のクライマックスは、突然現れたアリーチェの「だめですよ」の一言で、あっさりと遮られるのだ。ヴェルディは初演の稽古でも、「ソネットの終わりでは、アリーチェに邪魔されるので、2人は口づけをしてはならない」とわざわざ念を押している[6]。もちろん、これは喜劇にふさわしい「お約束」的な流れである。しかし、娘の恋そのものは応援しながら、若い2人のすることを何でも黙って見守っているわけではないところに、アリーチェの「母」としての顔が覗いているようにも見えないだろうか。

 興味深いのは、この母娘関係が、シェイクスピアの原作からそのまま受け継がれたものではないということだ。『ウィンザーの陽気な女房たち』でナンネッタにあたるのは、アン・ペイジという娘である。つまり彼女は、原作ではフォード夫妻ではなく、もう一組の夫婦であるペイジ夫妻の娘なのだ。そしてアンの結婚をめぐっては、父と母もそれぞれに思惑をもっている。父ペイジはスレンダーを、母ペイジ夫人は医師カイウスを娘の結婚相手として望んでおり、2人とも、アン自身が愛するフェントンの味方ではない。ところが、ボーイトとヴェルディの《ファルスタッフ》では、この人物関係が組み替えられている。ナンネッタはフォードとアリーチェの娘となり、そして母アリーチェは、娘に自分の選んだ結婚相手を押しつけるのではなく、ナンネッタ自身が選んだフェントンとの恋を支持する。つまりオペラへの改変によって、「娘の結婚を決めようとする父」と「娘自身が選んだ恋の側に立つ母」という、原作にはなかった鮮明な対照が生まれたのである。

 こうして、80歳を目前にしたヴェルディは、ほかの作品に登場する「母」たちと大きく異なる母親像を描き出した。父と娘の背後で、すでに亡くなった存在として呼び戻されていた母たちとは違い、彼女は娘と同じ舞台の上に生き、自分自身の声をもつ。そして父と娘の意思が衝突したときには、父の権威を補強するのではなく、娘自身が選んだ恋の側に立って行動する。「父と娘」の背後にいた母が、最後のオペラでは、娘の隣に立っているのだ。

 

おわりに

「父」の作曲家ヴェルディのオペラを「母」の側から聴き直してみると、これまで父親たちの大きな影のなかに隠れていた、もうひとつのドラマが聞こえてくる。母たちは、決していなくなっていたのではない。彼女たちは、言葉のなかに、記憶のなかに、そして何より音楽のなかに、それぞれの仕方で生きていたのである。そして、アズチェーナの運命ほど極端でなかったにしても、「母」として生きることを選択しなかった、またはできなかった女性もたくさんいただろう。おそらくは、ジュゼッピーナ・ストレッポーニも。そう考えると、彼女が書いた「私たちの《トロヴァトーレ》」という言葉が、いっそう印象深く響いてくるのである。

 

[1] “Addio scrivimi una lettera carina e spicciati a dare il NOSTRO Trovatore”.(Luzio 1947, 264)

[2] Rutherford, Susan. 2013. Verdi, Opera, Women. Cambridge: Cambridge University Press.

[3]《トロヴァトーレ》は、幕(atto)ではなく部(parte)で分けられている。

[4] “Deve avere il diavolo addosso. È lei che mena la polenta.” 1892年6月13日付のG.リコルディへの手紙より。(Busch 1997, 206; Budden 1988, 450)

[5] “Prendiamo per esempio il personaggio di Alice: nell’opera la sua immaginazione è più selvaggia che nel suo omologo della commedia, e il suo carattere è espresso attraverso una musica piuttosto selvaggia nell’ultima scena dell’opera”(Mello 2022, 98)

[6] “alla fine del sonetto non dovrevvero baciarsi perché interrotti da Alice”(Gerhard 2022, 85)

引用文献

Busch, Hans. 1997. Verdi’s Falstaff: In letters and contemporary reviews. Bloomington & Indianapolis: Indiana University Press.

Budden, Julian. 1988. Le opera di Verdi: Volume terzo: Da Don Carlos a Falstaff. Torino: EDT.

Gerhard, Anselm. 2022. “«Una cosa così malinconica». Boito, Verdi e le disilusioni della vita” In VENEZIAMUSICA e dintorni: Falstaff: Teatro La Fenice, 85.

González, Javier Roberto. 2011. “Una madre entre padres, o la nula excepcionalidad de Il trovatore de Giuseppe Verdi” In Letras 63–64. 85–99.

Luzio, Alessandro. 1947. Carteggi Verdiani: volume 3. Roma: Accademia Nazionale Dei Lincei.

Mello, Leonardo. 2022. “Adrian Noble: «La partiture di Falstaff è una delle più variegate, ricche e sofisticate mai scritte» In VENEZIAMUSICA e dintorni: Falstaff: Teatro La Fenice, 97–99.

Napolitano, Michele. 2013. “Padri e figli in Verdi.” Treccani, 21 febbraio 2013.(2026年9月23日最終閲覧)

Riberi, Mario. 2018. “Paternal Justice in Giuseppe Verdi’s Operas.” In Law and Opera, edited by Filippo Annunziata and Giorgio Fabio Colombo, 223–239. Cham: Springer International Publishing.

Rutherford, Susan. 2013. Verdi, Opera, Women. Cambridge: Cambridge University Press.

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著者略歴

  1. 林いのり

    音楽学者、声楽家。1992年神奈川県生まれ。東京芸術大学音楽学部声楽科を卒業後、お茶の水女子大学大学院にて音楽学を学ぶ。博士(人文科学)。日本学術振興会特別研究員、お茶の水女子大学グローバルリーダーシップ研究所特別研究員などを経て、現在エリザベト音楽大学音楽学部音楽文化学科専任講師。ヴェルディの後期オペラ作品を中心に、19世紀のイタリア・オペラ作曲家の活動と受容の研究を行っている。

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