「良き歌」の破壊者? ――ヴェルディと19世紀の「ヴェルディ歌手」たち
私が歌手に求めること。それは、
音楽に関する幅広い知識、発声の訓練、
過去と同じように、長期間にわたるソルフェージュの学習。
そして、明確で完璧な発音で行われる声と言葉の訓練である。[1]
オペラ愛好家のあいだでは、しばしば「ヴェルディ歌手」または「ヴェルディの声(la voce verdiana)」という表現が使われる。ヴェルディ作品が似合う歌手、あるいはヴェルディのオペラ作品を歌うためにふさわしい声を指す言葉で、とくに20世紀半ば以降、ヴェルディ作品で当たり役を残した歌手に用いられてきた。たとえば、マリオ・デル゠モナコやマリア・カラス、レナート・ブルゾン、ニコライ・ギャウロフといった伝説的な歌手たち。最近であれば、グレゴリー・クンデ(1954– )やダニエラ・バルチェローナ(1969– )、ロベルト・スカンディウッツィ(1958– )らの名も挙がるだろう。彼らに共通するのは、広い音域、豊かな声量、そしてドラマを支える表現力だ。つまり、私たちが「ヴェルディの声」と聞いて思い浮かべるのは、壮大な響きと劇的な表現力であり、それは「ロッシーニ歌手」や「モーツァルト歌手」に期待される声のイメージと明らかに異なっている。多くの人にとって、ヴェルディ作品に期待する歌声は、18世紀までのオペラ・セーリアや、19世紀前半のいわゆる「ベルカント・オペラ」[2]に期待する声とは別物に感じられるのではないだろうか。
このようなヴェルディ作品へのイメージは、決して後の世で「後付け」されたものではない。1840年代以降、ヴェルディ作品はイタリア・オペラ界を熱狂させたと同時に、多くのオペラ愛好家や歌手から反発をかってもいた。登場人物の感情を熱烈に歌い上げるドラマティックな歌はヴェルディ作品の大きな魅力であったが、それまで連綿と続いてきたイタリアの声楽様式である「ベル・カント(il bel canto)」――すなわち「良き歌」――の伝統に背くと感じられたためである。広い音程を忙しなく跳躍するデコボコとしたメロディライン、大音量のオーケストラ伴奏、ときに美しい音色よりも激しい劇的な表現を要求する歌。こうした要素は、歌手の喉を疲弊させるばかりか、リラックスした心地よい音楽を期待する聴衆に不快感を与えた。ヴェルディはすでにデビュー間もないころから、「ベル・カントの破壊者」と糾弾され、自作《アッティラ》に登場する暴君の名をとって「声楽界のアッティラ」というありがたくない渾名まで授けられている。
「ヴェルディを歌うには、とにかく強靭な喉と広い音域が必要だ」「前の時代の作曲家たちの作品と比べて、細かな装飾音や繊細なレガート唱法は重んじられていない」。こうした印象は、当時の聴衆や歌手のあいだで広く共有されていたし、おそらく現在でも、似たイメージを抱く歌手や声楽教師は少なくないだろう。そして、この「伝統の破壊者」というイメージが、ヴェルディ像に「革新者」という色を乗せたのだろう。
しかし、当のヴェルディにとって、こうしたイメージは心外であった。本連載の第2回でも触れたように、ヴェルディは自作のオペラはあくまで「歌」を主体としたもので、イタリア・オペラの伝統に連なるものであると自負していた。冒頭に引用したのは、《アイーダ》を初演した1871年に、友人に宛てた手紙の一部である。彼は「歌手に求めること」をいくつか列挙しているが、そこには声の質や声量、ドラマティックな表現力といった言葉は見当たらず、代わりに「音楽に関する幅広い知識」「発声の訓練」「長期間にわたるソルフェージュの学習」、そして「明確で完璧な発音」による「声と言葉の訓練」が挙げられている。途中に「過去と同じように」と書き添えていることからもわかるように、これらはイタリアで長く継承されてきた声楽教育の、ごくまっとうな基本事項に過ぎない。
つまりここにも、ヴェルディの自己認識と、周囲が作り上げたリトグラフの向こうに、イメージのズレがありそうだ。では、ヴェルディは自分の作品にどのような歌唱を求めていたのだろうか。そして、彼と共に作品を作り上げた同時代の「ヴェルディ歌手」たちは、その要求にどう応えていたのだろう。今回は、ヴェルディ自身の手紙やインタビュー、当時の批評や歌手たちの証言を手がかりに、その一端を探ってみたい。
「良き歌(ベル・カント)」が見えなくなった時代とヴェルディ
18世紀末まで、イタリア人オペラ歌手は「世界一」の歌手としてヨーロッパ中の羨望を集めていた[3]。しかし19世紀に入ると、その勢いには次第に翳りが見え始める。18世紀のイタリア・オペラで活躍していたカストラート[4]たちが姿を消し、代わって胸声で高音域を歌うフランス人のテノール歌手が脚光を浴びるようになったのも、大きな打撃であった。1834年、当時華々しい成功のさなかにあったオペラ作曲家マイアベーア(Giacomo Meyerbeer, 1791–1864)は、イタリアに「かつてほど多くの名歌手がいない」と評している。1840年には、ドイツのドレスデンで活動していたイタリア人作曲家、モルラッキ(Francesco Morlacchi, 1784–1841)が、イタリアの歌手と歌唱様式の現状に対する失望を、辛辣に綴っている:
最近イタリアで書かれている音楽を見ると、皆が「朗唱風の歌(canto declamato)」に没頭しているようだ。それはもはや私の理解していたものとは違う、誇張され、耳障りで吐き気を催すような代物になっている。いまや、現代の音楽劇における美しさは、ただ「叫ぶこと」にあるかのように思える。最強の肺を持つ者こそ、最良の歌手というわけか! 一体、あの「表情豊かな良き歌(il bel canto espressivo)」は、どこへ行ってしまったのだ?(Brandenburg 2000, 338)
モルラッキは、当時のイタリアで書かれていた音楽において「朗唱風の歌」が「叫ぶ」ような歌唱を誘発し、その結果「良き歌」が失われたと考えている。この短い引用から、2つの興味深い事実が見えてくる。第一に、1840年――つまりヴェルディがデビューした頃すでに「良き歌(ベル・カント)」は失われつつあると認識されていたこと。第二に、「朗唱風の歌」と、「叫ぶ」ような歌唱の蔓延が、多くの人々にとって危機的な問題として意識されていたことである。実際、モルラッキが用いている語彙――「朗唱風の歌」、「叫ぶこと」、そして「ベル・カント」―― はいずれも、その後19世紀末まで、イタリア各地の音楽批評に頻出するキーワードとなる。
過去の栄光と伝統が失われてきたという危機感が広く漂うなかで登場したヴェルディ作品は、格好の非難の的となった。後年、あるイタリア人批評家は、ヴェルディの初期作品にみられる音楽的な特徴を次のようにまとめている:
ヴェルディが作曲を始めたころ、彼の音楽は、ソプラノ以外の歌では技巧的なパッセージがほぼ完全に姿を消し、単純で明確なリズムが支配的で、(中略)数回聴くだけで覚えられるほど容易であった。 その表現はときおり激しく昂ぶり、誰にでも理解しやすく再現しやすかった。(中略)さらに、初期ヴェルディ作品ではしばしば伴奏が騒々しく、歌のパートが楽器に重ねられており、極端な音域が、強く暴力的とも言える表現を支えていた。[5]
ロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティといった少し前の世代の音楽に比べると、ヴェルディの歌は技巧的なパッセージが少ない。リズムは明快で覚えやすく、メロディは極端な音域を行き来する。しかも分厚いオーケストラ伴奏がしばしば歌に重なってしまう――そうした要素が組み合わさって「強く暴力的とも言える」表現に聞こえた、というわけである。この批評家はさらに、こうした音楽的特徴が歌手の意識に悪影響を及ぼしたと指摘している。
「この音楽を歌うには、声と音感と少しの情感さえあれば十分だ」と考えられ、(中略)長く精密な訓練は不要だと思われた。その結果、歌手たちは肺の力に頼るようになり、繊細さや、ベル・カントの技巧を重視しなくなった。こうして、粗野で力任せな歌唱法、安易な効果狙い、そして技術的な不安定さが広がったのである。[6]
もちろん、実際に「声と音感と少しの情感さえあれば十分だ」と本気で考える歌手は多くなかっただろう。それでも、ここに書かれた意識の変化は、現代の私たちが思い浮かべる「ヴェルディ歌手」のイメージ、すなわち豊かな声と、ぶつけるような強い感情表現を最優先する歌唱とどこか響き合っているように思える。つまりヴェルディ作品の歌に対するイメージは、ヴェルディ自身がまだ健在であった時代にすでに形成された認識を、長く引き継いでいると言える。そしてそのイメージの出発点は、「ベル・カントの破壊者」という、きわめて否定的な文脈にあったのだ。
自身の歌の書き方に対する非難については、ヴェルディ自身も認識していた。1845年、《アルツィーラ》を作曲中に台本作家カンマラーノに宛てた手紙には、「私は、やかましい騒音をこよなく愛し、歌を粗末に扱うと非難されている」[7]と書かれている。しかし、こうした非難はヴェルディにとって心外だったに違いない。 晩年のインタビューで彼がドイツ人歌手について述べた批判を読んでみると、むしろ、彼はベル・カントを守ろうとしていた人々と全く同じような問題意識を持っていたことがわかる。
彼らの[ドイツ人歌手たちの]声は、イタリア人のそれより響きがあるかもしれない。しかし、彼らは歌を一種の体操と考えていて、技術を磨くことにはほとんど関心がない。(中略)彼らの目指すところは、あの音やその音を、できるだけ強い力で出すこと――それだけだ。だから彼らの歌は、魂の詩的な表現ではなく、単なる肉体的な競技にすぎない。[8]
この発言の意味するところは、ヴェルディが嫌悪していたのは、「叫び」に頼る表面的なドラマティックさであり、むしろ「良き歌」を軽視する風潮であったということである。ではそのような状況下で、いったい彼は歌手にどのような歌い方を求めたのだろうか? その手がかりを与えてくれるのが、この「気難しいオペラ王」と共に舞台を作り上げていた、「ヴェルディ歌手」たちの記録である。
ヴェルディの薫陶を受けた「ヴェルディ歌手」たち
1. 最初のマクベス夫妻――ニーニとヴァレージへの歌唱指導
ヴェルディは、新作の依頼を受けたり、自作オペラの再演を打診されたりすると、まずその劇場が抱えている歌手の顔ぶれを確認した。彼の頭の中には常に2、3の新作の構想があり、どの題材をどの劇場で実現させるかは、その劇場が用意できる歌手次第だったのである。キャリアの初期から、ヴェルディは配役に強いこだわりを示していた。名声を確立した後には、希望通りの歌手を揃えなければ上演そのものを引き上げる、と劇場に宣言することもあった。興味深いのは、彼の視点が「俳優を選ぶ演出家」に近かったことである。ヴェルディにとって、その歌手が一般的な意味で「良い歌手」であるかは大した問題ではなく、何より重要なのは「その役らしいか」だった。
その姿勢を表す例としてとりわけ有名なのは、シェイクスピアの悲劇をオペラ化した《マクベス Macbeth》(1847)の配役をめぐるエピソードである。初演の翌年、ナポリのサン・カルロ劇場での再演を準備していた際、マクベス夫人役に、美しい声と容姿で知られたソプラノ歌手タドリーニ(Eugenia Tadolini, 1808–1872)が起用されるときいたヴェルディは強く異議を唱えた。
タドリーニの資質はあまりに優れていて、あの役には向かない!(中略)タドリーニの容姿は美しいが、マクベス夫人には醜くて邪悪に見えてほしい。彼女は完璧に歌うが、私はマクベス夫人に歌わないでほしいのだ。タドリーニの声は素晴らしい——澄んでいて、明るく、力強い。だが私は、夫人に“ざらついた、息の詰まるような、暗い声”を求めている。[9]
ヴェルディは美しい声や容姿を軽視したのではない。単に「自分のマクベス夫人のイメージ」を明確に持っており、それに合致するタイプの声と歌い方を求めたのである。そして、そのイメージを形成するうえで大きな役割を果たしたのは、初演でマクベス夫人役を演じ、大成功を収めた歌手マリアンナ・バルビエーリ゠ニーニ(Marianna Barbieri-Nini, 1818–1887、以下ニーニ)であったと考えられる。というのも、ニーニは大変な「不美人」として有名だったことに加え、ヴェルディによって「歌わない」歌唱を猛特訓させられた記録があるからだ。ニーニが残した、初演前のリハーサルにおける練習の記録[10]は、若きヴェルディがオペラにおける歌唱に何を求めていたのかを示す、非常に貴重な証言だ。
ニーニは、この作品以前に《二人のフォスカリ I Due Foscari》(1844)の初演でもヒロインを歌い、何回かヴェルディ作品を経験していた。それでも、《マクベス》のリハーサルでの彼の指導は、生涯忘れられない体験だった。夫マクベスとともに前国王を殺害し、その記憶に苛まれて夜ごと夢遊病のようにさまよう――この有名な「夢遊病の場面」を歌うために、ニーニは3ヶ月もの間ヴェルディの指導を受けたという。
信じがたいかもしれませんが、あの夢遊病の場面のために、私は3ヶ月ものあいだ勉強し続けました。3ヶ月間、朝も晩も、夢の中で話す人々の話し方を真似しようとしたのです。つまり、(ヴェルディが言っていたように)唇をほとんど動かさずに言葉を発音し、顔のほかの部分、特に目を一切動かさないようにする。それは気が狂いそうな作業でした。
ここから、ヴェルディの要求は単に夢遊病者の外見を真似ることではなく、「唇をほとんど動かさず」に歌う、という発声と発音のレベルにまで及んでいたことがわかる。この条件下で声の響きを保ち、言葉を明瞭に伝えることがどんなに難しいかは想像に難くない。またニーニは、第2幕のマクベスと夫人の二重唱の稽古が150回以上に及んだことを証言している。
オペラの最初の見せ場は、バリトンとの二重唱 ——「宿命の女よ」から始まります。信じられないかもしれませんが、この場面は150回以上も稽古したのです。ヴェルディは「この二重唱は、歌というより対話(discorso)でなければならない」と言いました。
ニーニの回想からは、当時まだ30代だったヴェルディが人気歌手たちを相手に一切妥協せず、自分の理想とする歌い方を徹底的に求めた姿が伝わってくる。ここで注目したいのが、彼のこだわりが一貫して「歌い方」にあったことである。ニーニには「夢の中で話す人々の話し方」を真似させ、ヴァレージとの二重唱は「対話」として歌うことを求めた。そこには、歌詞を「メロディに乗せて歌うもの」というより、「台詞として語るもの」としてとらえる姿勢が表れている。
さらに、主人公マクベス役を演じたヴァレージ(Felice Varesi, 1813–1889)は、ニーニ以上に熱心な指導を受けた。ヴェルディはまだ作品全体が完成していない段階から、彼へ何通もの書簡を送っており、それぞれの場面をどのような声で、ニュアンスで歌うべきかを事細かに伝えている。真夜中にマクベスとバンコーが歌う二重唱については、次のような指示が残っている。
これが夜だということを忘れないでください。誰もが眠っている、だからこの二重唱は声をひそめて、しかし恐怖を呼び起こすような、こもった声で歌われなくてはいけない。(中略)あなたに教えておきますが、このレチタティーヴォと二重唱の伴奏は、消音器付の楽器群、ファゴット2本、ホルン2本とティンパニーです。オーケストラが非常に静かなことが分かるでしょう、だからあなた方も、“消音”して歌わなくてはいけないのです![11]
この場面でヴェルディは、歌手たちに「声をひそめて、こもった声」で歌うことを求めている。特定の声の調子を指定すること自体は珍しくないが、興味深いのは、その理由づけである。二人が「消音」して歌わなければならないのは、彼らの内面的な恐怖を表すためだけではなく、劇中の状況――皆が寝静まった真夜中――を観客に「リアルに」感じさせるためだからだ。オペラではしばしば、真夜中の場面や密談の場面でも、歌手が全力で歌うことが暗黙の了解として許される。しかしヴェルディは、その「お約束」を当然視せず、むしろ「舞台上のリアリティ」、すなわち場面において適切な声のあり方を追求していたのだ。
こうした要求を見事に汲み取り、ヴェルディの信頼を得たヴァレージは、1851年には《リゴレット》のタイトルロール、1853年には《ラ・トラヴィアータ》のジェルモン役を初演することになる。当時の記録によれば、彼は決して声量に恵まれた歌手ではなかったという。むしろ次に登場するモレルと同様、ヴェルディはこれらの重要なキャラクターについて、声量や声の質の良さよりも、場面の状況にふさわしい声、歌い方ができる能力を重視したのだろう。
2. 発音へのこだわり―― 「歌う俳優」ヴィクトール・モレル
ヴィクトール・モレル(Victor Maurel, 1848–1923)はフランス出身のバリトン歌手で、19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した。母国フランスでデビューし、イギリス・イタリア・ドイツで満遍なくキャリアを積んだ後、晩年はアメリカに移住して教育活動や執筆活動を行なった。録音黎明期にいち早く自身の歌声を残した歌手の一人であり、演出や舞台美術、さらには心理学など、音楽以外の分野にも強い関心を示し、地理上でも文化的にも、越境的な活動を行なった。新時代の芸術家モデルとして興味深い存在だ。
彼を有名にした最大の強みは総合的な演技力であった。より具体的には、役柄を印象づける衣装の選び方、表情や身振りの工夫、そして何よりもヴェルディが高く評価した「明瞭で完璧」な発音による歌詞の表現である。当時、演技と歌唱を両立できる理想の歌手として「歌う俳優(cantante attore)」という言葉が用いられていたが、モレルはその代表格であった。
モレルは、ヴェルディ晩年の3作品で、重要な役を次々と初演している。1881年には改訂版《シモン・ボッカネグラ》のシモン役、1887年には《オテッロ》でのヤーゴ役、そして1893年には最後の作品《ファルスタッフ》のファルスタッフ役を務めた。ヴェルディは、モレルの歌手としての弱点―― 高音域がやや不得意で、全体として声量も豊かではない[12]―― をよく理解していたが、それでも彼を起用したのは、その欠点を補って余りある長所があると考えていたからである。それが、言葉の扱いの巧みさと、明瞭な発音だった。
[モレルは]何より、言葉の扱い方(dicitura)において際立っている。私はモレルほど、明瞭で表情豊かに、言葉を聴衆の耳に届けられるアーティストを聞いたことがない。誰ひとりとして![13]
とくに《オテッロ》のヤーゴ役は、モレルの「発音」の技術を想定して書かれた役だった。次のヴェルディの言葉からは、ヤーゴの歌唱が、モレルの長所を活かすように書かれたことが窺える。
誰も、彼のようにあの役を演じることは出来ない。彼ほど明瞭に発音出来る者はいない。ヤーゴ役には、彼以上にこなせる者はいないような、声を潜め早口で歌わなければならないパルランテ[語り声に近い歌唱]が非常に多い。[14]
実際、《オテッロ》のスコアを開いてみると、ヤーゴ役には、音程自体はごく単純で、リズムの制約も少ないため、かえって言葉の歌い方が難しい箇所が多い。言ってみれば、作曲家があえて余白を残し、歌手の台詞回しに表現の主導権を委ねているような箇所である。たとえば、物語の中でも最重要の転換点となる場面――ヤーゴが盗んだデズデーモナ(オテッロの妻)のハンカチを、カッシオ(オテッロの部下)の部屋に忍び込ませ、不貞の「証拠」を捏造しようと決める場面――では、ヤーゴの台詞には次のような音楽がついている(譜例1)。

譜例1 《オテッロ》第2幕4場より(著者作成)
ヤーゴの台詞、「この布きれ(=ハンカチ)で不貞の証拠を仕立て上げてやる。これをカッシオの部屋に忍ばせておこう。」は、物語の展開にとって非常に重要で、必ず聴衆の耳に届けたい言葉である。ヴェルディはこの台詞を、弦楽器が静かに和音をのばし続ける上で、「拍子にとらわれずに(senza misura)」歌うように書いている。まず、オーケストラが動きを止めることで、聴衆の耳目はヤーゴの声に集中する。「不貞(=罪ぶかい愛 peccato d’amor)」のところでほんの少し上昇する以外、ほとんど平坦な音型で構成されたメロディラインは、ただ音程だけを追ってしまうと、抑揚に乏しいお経のような歌になってしまうだろう。しかし、言葉の間合いの取り方、子音・母音の色合いや発音の仕方といった妙技は、この拍子にとらわれない単純なメロディラインでこそ、存分に発揮されるのだ。ヴェルディは、おそらくモレルならば、このメロディで、言葉を「明瞭に、表現豊かに」届けることができると確信していたのだろう。つまりこの場面は、楽譜上は一見地味な音楽に見えながら、じつは歌手の能力を最大限に活かすために用意された、非常にスリリングな瞬間なのである。
このように、ヴェルディはモレルの才能を活かして魅力的な役柄を生み出したが、モレルの歌い方については賛否両論があったようだ。とくに母国フランスでは、モレルが時折「歌唱に話し言葉を取り入れる(intercaler le parlé au milieu du chant)」ような歌い方をしており、それはフランス・オペラの伝統的な歌唱に反する、という苦言が散見される[15]。さらに、身振りや表情の作り方など、歌以外の演技については、ヴェルディとモレルの意見が対立することは少なくなかった。その話は次回、ヴェルディの演技論を取り上げる回に譲りたい。
3. 理論家タイプの「ヴェルディ歌手」――デッレ゠セーディエ
エンリーコ・デッレ゠セーディエ(Enrico Delle Sedie, 1822–1907)は、1851年の《ナブッコ》でのデビュー以来、ヨーロッパ各地でヴェルディ作品を数多く歌ったバリトンで、自他ともに認めていた「ヴェルディ歌手」の1人である。とくに《リゴレット》のタイトルロールが当たり役で、ヴェルディ作品の初演に携わる機会こそなかったものの、ヴェルディと個人的な友情を結び、歌手として信頼を得ていた。
才気あふれるモレルが晩年のヴェルディにインスピレーションを与えたミューズだったとすれば、デッレ゠セーディエは、ヴェルディ作品を深く理解し、その魅力を自身の演奏と理論によって後世に残そうとした「伝道者」であった。彼は、ヴェルディが「良き歌」を破壊したという論調に真っ向から異を唱えていた。音楽は常に、その時代の傾向や文化の鏡であり、ヴェルディ作品によってもたらされた変化も、伝統の断絶ではなく、ひとつの「進化」に過ぎない――デッレ゠セーディエはこのように考えており、歌い手の側もまた、音楽との向き合い方を変えていく必要があると説いた。
こんにち重要なのは、単に「歌える人間」を育てることではない。求められているのは真に完成された芸術家であり、 両者の間にどれほどの違いがあるかは、誰の目にも明らかであろう。[16]
「単に歌える人」と「芸術家」との違いはどこにあるのか? 1860年代からパリ音楽院で声楽を教えていたデッレ゠セーディエは、歌手には正しい発声を身につけるだけではなく、さまざまな感情を表現するのにふさわしい声の響きや抑揚を、主体的に研究する姿勢が必要だと考えていた。彼の代表作『歌唱の芸術と生理学』(1876)は、歌手の立場から体系的な歌唱法をまとめあげると同時に、自らの豊富な舞台経験に支えられた「歌で役を演じるとはどういうことか」という問いに正面から取り組んだ大著である。その内容は、これまで見てきたヴェルディの発言やリハーサルでの態度と驚くほどよく響き合っており、現代の私たちがヴェルディ作品を鑑賞したり、実際に歌ったりする際にも大いに参考になるものだ。
なかでもユニークなのは、発声にまつわる理論や練習課題だけでなく、「深い悲しみ」「呪詛」「喜び」のような特定の感情・状況を表現する際に必要なアクセントの付け方、声の色あい、母音の響かせ方を、具体的な練習例とともに提示している点である。解説には、グルックやロッシーニ、そしてヴェルディら、同時代の作品の場面が引かれ、楽譜を示しながら、その時の役の心理と、それにふさわしい歌い方が丁寧に説明されている。こうしたアプローチは、一歩間違えると個人の表現を画一化し「正解」で縛りかねない危険もはらんでいるが、デッレ゠セーディエにはそれを承知した上でなお、この方法をとる理由があった。彼によれば、歌手が役柄の表現に本格的に向き合うためには、「主観的なアプローチ」と「客観的なアプローチ」の両方が不可欠だからである。
他者の心に感動を呼び起こすためには、芸術家自身がまずその感情を自らのうちに体験していなければならない。しかし、実際に演奏する瞬間には、声をうまくコントロールし、音程やテンポを確実に保つための冷静さが必要であるため、感情に身を委ねるわけにはいかない。[17]
つまり、歌手が「芸術家」として役を表現するためには、自分も役の感情に共鳴しつつも、その感情に完全にのみこまれることなく、歌唱として成立させる冷静さを保たねばならない、ということだ。そのためにデッレ゠セーディエが提唱するのが、歌手による「三つの分析」である。第一に「詩(台本)の分析」を行い、第二に「音楽と、その音楽と言葉との密接な関係の分析」を行う。最後に、「自分自身が身につけて熟達している演奏手段の分析」を行うことで、前の二つの分析結果を、実際の演奏において的確に実現できるようになる、というわけだ。デッレ゠セーディエによれば、ヴェルディ作品ではとりわけ第二の分析、すなわち「音楽と、音楽と言葉の密な関係」が重要になる。
ヴェルディの音楽に宿る、力強く劇的な感情は、この巨匠を同時代の作曲家の中でも第一級の地位に置く。 彼の音楽に見られるコントラストは、非常に真実味のある、その場所に即した色彩(colore locale)を持ち、常に的確に用いられているため、それ[音楽のコントラスト]を研究することは、わざとらしい叫び(grida piazzose)と、真に表現的なアクセント(accenti veri ed espressivi)を区別する上で、きわめて有益だ。(中略)確実に言えることは、しばしば彼の作品が演奏される時に聞かれる「無意味な騒々しさ(fragore insensato)は、彼が望んだことも、まして意図したことでもないということである。(Delle Sedie 1876, 201)
「わざとらしい叫び」や「無意味な騒々しさ」という表現は、当時ヴェルディ作品がどのように批判されていたかをよく物語っている。デッレ゠セーディエは、ヴェルディと親交のあった「ヴェルディ歌手」として、そのような批判の原因は作曲家ではなく、歌手の安易な演奏アプローチにあると断言している。彼は、ヴェルディの音楽の魅力は「コントラスト」に由来しており、それを研究することこそが、ヴェルディ作品の適切な演奏に必要だと言う。つまり、デッレ゠セーディエにとってヴェルディ作品の核心とは、音楽に仕込まれた「コントラスト」を読み取り、そこから表現の“方向”を見出すことにあったのである。この「コントラスト」とは、「音の強弱」「メロディラインの滑らかさ、断片性」「音色の明るさ・暗さ」といった、音楽に表れた対照的な性質を指す。歌手は、一連の音楽の中からこれらの「コントラスト」を見つけ出し、その場の言葉の意味や役の心理にふさわしい表現を組み立てていかなければならない。
例として、デッレ゠セーディエは《リゴレット》の1場面を挙げている(Delle Sedie 1876, 210)。娘をさらわれ、その行方を気も狂わんばかりに案じながらも、宮廷では「道化」としての職務を果たさねばならないリゴレット。その場面では、宮廷の人々に向かって歌うおどけた跳躍的なメロディ(譜例2)と、内心の声として歌われる直線的なメロディ(譜例3)は、音型やリズムで明らかな対比をなしている。そこに、リゴレットの外向きの顔と内心の「コントラスト」が浮かび上がるのである。歌手は、こうした音楽上のコントラストを手がかりに、リゴレットの性格や状況を分析し、声の音色・声量・発音を調整することで、メロディを「リゴレットの台詞」として舞台上に立ち上げていかなければならない。

譜例2 《リゴレット》第2幕3場より(Delle Sedie 1876, 209)

譜例3 《リゴレット》第2幕3場より(Delle Sedie 1876, 210)
このように見てくると、ヴェルディがこだわった、役柄の状況にふさわしい歌い方を重視する姿勢は、デッレ゠セーディエの教授内容に忠実に反映されていることがわかる。さらに、彼がそれを単に個人の感性の問題として扱わず、「音楽と言葉の結びつきを分析する」ことによって実現しうる、と説いている点も重要だ。歌手に対して、「まず台本と音楽を分析せよ」と求める姿勢は、作曲者の意図を正しく汲み取る演奏を目標とする、近代的な「作品解釈」の考え方と結びついている。19世紀は、18世紀までの歌手と作曲家の関係性が大きく転換した時代でもあったのだ。
結び
19世紀半ばから後半にかけて、オペラ歌手の在り方は大きな転換期を迎えていた。ヴェルディがオペラ界に登場したのは、まさにその渦中である。前時代に「良き歌」とされたベル・カントの声楽様式には衰退の兆しが見え始め、ベッリーニが自作に導入した「朗唱的な歌」の増加や、パリのグランド・オペラの流行によるフランス人歌手の国際的な活躍、それにともなう歌い方の変化があちこちで議論されていた。そうした時代背景の中で生まれたヴェルディ作品の歌唱は、イタリアの伝統的な声楽様式を破壊するものとして、たびたび批判の矢面に立たされた。しかし、今回見えてきたのは、ヴェルディの作品が本当に求めていたのは、言葉と音楽の有機的な統合であり、歌手が台詞を“生きた言葉”として舞台に置くことだったということである。そのためにはイタリアの伝統的な声楽の技術を身につけていることが前提であり、さらにその上で、発音の明瞭さや、役柄の状況を正確に分析し、表現する感性を求めたのである。現在でも、ヴェルディ作品を主要レパートリーとする歌手の多くは、まず「ベル・カント」作品のレパートリーを身につけてから、中期以降のヴェルディ作品へと進んでいく。ヴェルディの音楽がベルカントを前提とした声楽文化に根ざしていることの証拠と言えるだろう。
次回は、歌手に求められるもう1つの重要な要素――身体的な「演技」に目を移したい。オペラだけでなく、演劇界全体が自然主義的な演技へ移行していった時代に、ヴェルディはどのような美学・価値観を持っていたのだろうか? 当時の具体的な証言とともにたどっていきたい。
[1] 友人の国会議員ピローリに宛てた、1871年2月20日の書簡より(Gara 1969, 314)。
[2] 一般的に「ベルカント・オペラ」とは、19世紀前半にロッシーニ・ベッリーニ・ドニゼッティによって作曲された、息の長いメロディラインにふんだんな装飾をほどこした歌唱を特徴とするイタリア・オペラ作品を指している。しかし後述するように、「良き歌」いう意味にすぎない「ベル・カント」という言葉が時代性をもつ用語として使われ出したのは1840年代以降であり、その定義は未だ定まっていない。
[3] 主にフランスで活躍したベルギー人作曲家グレトリの言葉:「イタリアの楽派は世界で最も優れている。作曲にも歌唱にも、それが見て取れる。」(Spazier 1800, 83)
[4] カストラートとは、少年時の歌声を保つために少年の間に去勢手術を施された男性歌手のこと。16世紀のイタリアで、女性禁制の教会聖歌隊で活動するために生まれたが、17–18世紀にはオペラ・セーリアの主役として活躍した。人道的な問題もあり、19世紀半ば以降は姿を消していった。
[5] Liberio Vivarelliが1889年の『ミラノ音楽通信Gazzetta musicale di Milano』に寄せた文(Izzo 2003, 179)。
[6] 同上
[7] カンマラーノへ1845年2月23日に宛てた手紙より(Izzo 2003, 174)
[8] 1875年、ウィーンで受けたインタビューより。ヴェルディはこの滞在でヴァーグナーの《タンホイザー》をみていた(Conati 2000, 111)。
[9] カンマラーノへ1848年11月23日に宛てた手紙より(Budden 2001, 275)。
[10] ニーニの引用は全て同一のインタビュー(Checchi 1887)より引用。
[11] ヴァレージへ1874年1月に宛てた手紙より(Budden 2001, 273)。
[12] 興行主や出版社リコルディが記した書簡に、モレルは「中音域は力強くてヴィブラートがあるが上のファとソ[1点ヘ、ト音]は弱くて窮屈に聞こえ、少し不満が残る」「声が劇場に対して物足りない」と書かれている(林 2024, 33)。
[13] 1880 年12 月5 日付の書簡より(Henson 2016, 182)。
[14] 1886 年2 月10 日付の書簡より(林 2024, 186)。
[15] とくに《アイーダ》でアモナースロを演じた時の批評には賛否両論がある(Henson 2016, 181–2)。
[16] 1881年に記した「イタリアにおける声楽様式の堕落の原因に関する所感」より(Delle Sedie 1881, 2)。
[17] 『歌唱の芸術と生理学Arte e Fisiologia del canto』より(Delle Sedie 1876, 94)。
引用文献:
Brandenburg, Daniel. 2000. “Enrico Delle Sedie, la presenza scenica e la cultura vocale dell’ottocento” in Una piacevole estate di San Martino. Studi per Marcello Conati. 337–347.
Budden, Julian. 2001. The Operas of Verdi, Vol.I . Oxford: Oxford University Press.
Checchi, Eugenio. 1887.“Verdi alle prove del ‘Macbeth’ nei ricordi di Marianna Barbieri Nini” in Giuseppe Verdi: Il genio e le opere. Firenze: G.Barbèra.
Conati, Marcello. 2000. Verdi: interviste e incontri. Torino: EDT.
Delle Sedie, Enrico. 1876. Fisiologia del Canto. Milano: R. Stabilimento Tito di G. Ricordi.
Delle Sedie, Enrico. 1881. Riflessioni sulle cause della decadenza della scuola di canto in Italia, Paris: Dupont.
Gara, Eugenio. 1969. “Come ha da essere un cantante verdiano?” in Situazione e prospettive degli Studi Verdiani nel mondo : atti del I° Congresso internazionale di Studi Verdiani. 314–318.
Henson, Karen. 2016. Opera Acts: Singers and Performance in the Late Nineteenth Century. Cambridge: Cambridge University Press.
Izzo, Francesco. 2003. "I cantanti e la recenzione di Verdi nell'ottocento: Trattati e Corrispondenza" in Verdi 2001: atti del Convegno internazionale: procedings of the international Conference, Parma, New York, New Haven, 24 gennaio-1.febbraio 2001 . Firenze: L.S. Olschki. 1000–1017.
Spazier, Karl. 1800. Gretry’s Versuche über die Musik. Leipzig: Breitkopf und Härtel.
林いのり. 2024.『歌唱旋律の変化にみる歌劇《シモン・ボッカネグラ》改訂の劇作法-詩行韻律と音楽の関係性を中心に-』お茶の水女子大学大学院 人間文化創成科学研究科 比較社会文化学専攻 博士学位論文.


