「愛国者」という色
「しつこく反対されるのは、働く人間の宿命さ。」
先輩の言葉に、青年は納得いかなかった。『カヴァレリア・ルスティカーナ』も『友人フリッツ』も、文句なしの大ヒット作品だ。不当な悪口を書く批評家たちは、彼を嫌っているだけなのだ。奴らから作品を守るためには、徹底的に闘わなければならない。血気盛んな青年に対して、御年82歳の先輩作曲家――ジュゼッペ・ヴェルディは微笑んだ。「年をとった今、すべての人が私を慕い、褒め称える。君にも同じ運命が訪れるだろうよ。白髪になるまでは、愛されよう、尊敬されようとは思わないことだ。」それから35年後、かつての青年――ピエトロ・マスカーニ(1863-1945)は、ヴェルディの言葉をこう振り返った。「あれは宣告 sentenza ではなく、純然たる回想 semplice ricordo であった」と。これは、マスカーニが1931年に「個人的な想い出」(1)として公開したエピソードである。もちろん、彼の主観で語られた回想の「また聞き」からは、コトの真相はわからない。一つ確かなことは、この時期のヴェルディほど説得力をもって、大衆から寄せられる評価の変わりやすさを指摘できる人物はいなかっただろう、ということだ。
ヴェルディは、生前からすでに「偉人」として扱われた。生きているうちから成功した作曲家は、個々の作品への評価とは別に、彼自身の「人物像」が作品の見方に影響を及ぼすことさえある。すなわち、『アイーダ』や『椿姫』といった個々の作品から離れたところに、「ヴェルディ」という自立するキャラクターが存在するのである。「オペラ王」、「国民的英雄」、「イタリア・オペラの改革者」・・・・・・インターネットで彼の名前を調べてみれば、さまざまに色付けされた人物像が見えてくる。ドイツ・オペラ界の雄リヒャルト・ヴァーグナー(1813-1883)とのライヴァル関係を連想する人もいるだろう。
ところが、ヴェルディと人気を二分するイタリア・オペラの大作曲家、プッチーニにはこうした現象は起こらない。彼は世界中で愛される『ラ・ボエーム』や『トスカ』の作曲者で、「私のお父さん」や「誰も寝てはならぬ」の知名度は、ヴェルディ作品のアリアを凌ぐかもしれない。にもかかわらず、彼の名は常に作品に関する情報の一部であり、広く共有されているイメージは「ヴェルディ以降の、最も偉大なオペラ作曲家」くらいのものである。マスカーニとの会話にある通り、ヴェルディは、自身の「人物像」がさまざまにデザインされ、色付けされ、量産されていく・・・・・・すなわち、「ヴェルディ」というリトグラフが、まさに本人が生きているうちから生産されるのを40年以上も見てきた、ただ1人の作曲家なのである。
もちろん、当人の意図しない人物像の独り歩きは、「偉人」の宿命であり、ヴェルディに限ったことではない。ベートーヴェン(1770–1827)は代表的な例だろう。秘書の手による彼の最初の伝記(Schindler 1840)が、捏造や改ざんだらけであったことは有名だし、『ベートーヴェンの生涯』(1903)の著者、ロマン・ロランも、「『救済者』を描きながらその姿を変容させている」(2)ことを宣言している。しかし、これらはベートーヴェンの死後に起こったことで、動機は個人の胸中にある。ヴェルディのケースが特殊なのは、彼の人生と並走して「ヴェルディ像」の大量生産が行なわれ、その資料が大量に残っていることなのだ。その理由は、彼がほとんど端から端までを駆け抜けた、19世紀イタリアという特殊な時代背景にある。
「イタリア」とともに成長したヴェルディ
ヴェルディが生まれた1813年、イタリアはまだ統治者の異なる7つの国に分かれていた。ヴェルディの故国パルマ公国を含む北イタリアはオーストリア帝国領であり、サルデーニャ王国(ピエモンテとサルデーニャ島)、ブルボン朝の統治下にあった両シチーリア王国、ローマ教皇領(ローマやボローニャ)とは、支配者も法律も異なっていた。これらの国や領土がひとつの「イタリア王国」となるのは一筋縄ではいかず、たびたび戦争や動乱が生じた。ヴェルディがキャリアを形成していった時代は、まさに新しい「イタリア」という国が生まれようとしていた時代と重なる。
さらに「イタリア王国」の成立は、音楽産業の体制や大衆の文化活動にも大きな変化をもたらした。最も重要な変化の一つは、出版業の活性化である。19世紀半ば頃から、大手出版社のリコルディ、ルッカ、ソンゾーニョは、こぞって音楽・演劇専門誌の発行をはじめ、そこでは活発に作品や上演への批評が行われていた。当然、ヴェルディや、彼の作品に対しても多くの執筆者による記録が残されたのである。
筆者も1人のオペラ・ファンとして、記録が残っていることは有難いし、私生活に関するゴシップめいたエピソードを読むのも面白い。しかし、そこには、ベートーヴェンに対するロマン・ロランのように、ヴェルディの姿を「変容させた」書き手も含まれるだろう。「書かれたこと」は、誰かが「書きたかったこと」なのである。
とはいえこの連載の目的は、それらを「ゆがめられたヴェルディ像」と否定して「本当のヴェルディ」なるものを提示することではない。先にも述べたように、ヴェルディの事情はベートーヴェンらのそれとは少し異なる。作曲家の生前のイメージをもとに、後世に巨大で荘厳なモニュメントが次々建立されていくのとは違い、ヴェルディの「イメージ」は作曲家自身が生きている間に「大量生産」可能であった――それはまるでひとつの原画を、さまざまな色と、さまざまな素材でもって複製していく「リトグラフ」の作成に近い。その作られた状況に近づき、ヴェルディが「誰の目で、どのように見られていたか」を知ることができたら、どんなに色付けされてもかき消されない、「音楽家ヴェルディ」の凄さが見えるのではないだろうか。つまり、これからはじまるのは、銅像を金槌で破壊するというよりはむしろ、原画に加えられていった「色」や用いられた「素材」を解析してゆく作業である。
さて最初の挑戦は、最も付着が強固な――「愛国者」という色から。
黄金の翼の旅――1842年から現在まで
1.「神話」の発見
ヴェルディはキャリアの初期に、イタリア統一運動(リソルジメント)を支持し、同調するようになった。....... 『ナブッコ』、『ジョヴァンナ・ダルコ』、『アッティラ』など1840年代のヴェルディ作品に登場する、暴君や抑圧された人々に、異国の支配下にあるイタリア人は、素早く[自分達の境遇との]関連性を見出した。1859年までには、ヴェルディの名は国家主義者たちの叫びとなっていた。イタリアの愛国者たちは、「イタリア国王、ヴィットーリオ・エマヌエーレ万歳!Viva Vittorio Emanuele Re d’Italia!」の意味で、「ヴェルディ万歳!」と唱えた。(Burkholder; Grout; Palisca 2014:695–696)
ヴェルディの「愛国者」像を広めたいくつかのエピソードのうち、よく言及されるのが、1840年代の作品のリソルジメント運動に対する貢献と、「ヴェルディの名前が、イタリア王国の初代国王、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の名前の折句として使われた」というエピソードである。これらが広く知られているのは、19世紀半ばからすでにさまざまな人によって語り継がれてきたからなのだが、それは言い換えれば、伝えられ方もさまざまで、エピソードの信憑性を揺らがせている一因でもある。良い例として、「V.E.R.D.I.」の折句にまつわるエピソードを見てみよう。一般にこのエピソードは、第二回イタリア解放戦争が起こる直前の『仮面舞踏会』(1859)初演時の話として伝えられてきた。1966年出版の「大音楽家/人と作品」シリーズでは、以下のように記述されていた:
[1859年1月10日に]ヴィットリオ・エマヌエーレ王がはじめて議会を収集したことから、イタリア独立運動が急速に燃え上がり、イタリア各都市は団結して「イタリア王ヴィットリオ・エマヌエレ万歳 Vittorio Emanuele Re d’Iltaia」を叫んだ。この頭文字が偶然V.E.R.D.Iとなるところから、人々はヴェルディの名をイタリア独立の象徴とし、その音楽を愛国のシンボルと考えるようになった。二月十七日に行われた《仮面舞踏会》の初演はこのような事情も加えて大成功を収め、人々は「ヴェルディ万歳」を唱えてローマ市中を練り歩いたという。(福島 1966:109、強調は筆者)
福島の記述は、20世紀半ばまでに欧米で刊行されていた伝記の内容に沿っており、ヴェルディの音楽が人々を鼓舞した様子を、鮮やかに描写している。ところが、約50年後の2010年、後継シリーズである「作曲家/人と作品シリーズ」における記述には、明らかな変化が見られる。
……〔『仮面舞踏会』の〕1859年の初演ではアポッロ劇場の聴衆が総立ちになり「ヴェルディ万歳」を叫んだという有名なエピソードがある。ヴェルディの名前は偶然にも国家統一のスローガン「ヴィットーリオ・エマヌエーレ、イタリア王」の頭文字と一致した。人々はそれに気づき、ヴェルディを国家統一運動の象徴に見立ててその力強い音楽を讃えたのだという。しかし不思議なことに、(中略)同時代人の証言も見当たらない。あるいはこれも、ヴェルディを偉人化した後世の意図的な創作なのかもしれない。(小畑 2010:132、強調は筆者)
最後の一文が示すように、エピソードの扱い方は明らかに慎重である。2人の文章をじっくり比較すると、福島が、折句の生成と1859年の政治的情勢(ローマ共和国が樹立される、第二回イタリア解放戦争の直前)を関連づけているのに対し、小畑は、いつ人々が「ヴェルディを国家統一運動の象徴に見立て」たのかをあえて明記していない。また、「ローマ市中を練り歩いた」という福島の記述と、『仮面舞踏会』の初演で人々が総立ちになったという小畑の話では、明らかに、リソルジメント運動にもたらした影響の規模が違う。このような一見小さな相違が、エピソードの足場が実は心もとないことを表している。
小畑の慎重なトーンは、ここ半世紀ほどの、ヴェルディ研究の姿勢を反映している。とくに1990年代以降は、当時の史料を根拠にエピソードを検証する研究が盛んになり、ヴェルディの「非神話化 demythologisation」が進んだ。今では、ヴェルディの「愛国者」像の多くが、国家統一後に創作されたものであるという認識が一般的だ。折句のエピソードについても同様で、近年の研究結果(Valenti 2013, Vella 2014)はさらに新たな情報をさらに追加し、折句の利用は、ヴェルディの音楽を賞賛するというよりも、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世への連帯を確認しあうための「隠れ蓑」というニュアンスが強かったのではないか、という見方を示している。
ただし、ここで重要なのは、彼らの研究の目的はヴェルディとリソルジメント運動の関連を否定することではない、ということである。もともと「非神話化」とは、聖書の神話的な話(死者の復活など、こんにち合理的には説明困難な話)を、事実の報告としてではなく、普遍的な真実を伝える「神話」であると理解したうえで、その「神話」を説明し直そうという考え方だ。ヴェルディ研究は、多くの説の矛盾や根拠の薄さを指摘すると同時に、「神話」の元になった出来事 ――「「V.E.R.D.I」の折句が『仮面舞踏会』の初演時には存在していた」という事実は明確に肯定している。彼らが見直そうとしているのは、この事実が「神話化」されていった過程なのである。一般に広まったヴェルディの「愛国的」イメージは非常に強い。筆者はつい先日、楽譜に関しては非常に厳しい原典主義の立場をとることで有名な指揮者ムーティ(Riccardo Muti)が、「ヴェルディは国家統一を手助けした Verdi ha aiutato l’unificazione」と繰り返し明言するのを聞いた(3)。ヴェルディと愛国精神にまつわる「神話」が成立し、いまだに説得力を持ち続ける理由はどこにあるのだろう? ここでは、リソルジメントと最も結びつきの強い1曲、『ナブッコ』の「行け、我が想いよ Va pensiero」の事例から、その答えを考えてみたい。
2.「行け、我が想いよ」のアンコールをめぐる謎
『ナブッコ(ナブコドノゾール)』(1842) はヴェルディの3作目のオペラで、彼の名をイタリア中に広めた作品である。T. ソレーラによる旧約聖書の「バビロン捕囚」を題材としたT. ソレーラによる台本は、2つの物語を軸に展開する。1つは、バビロニア国王ナブッコのエルサレム侵攻に対する、ヘブライ人たちの戦いの物語。もう1つは、ナブッコと2人の娘たち(アビガイッレ、フェネーナ)の父娘関係をめぐる物語だ。つまり、ヴェルディが生涯取り組んだ2つのテーマ、「政界に身をおく人間たちの心的葛藤」と「父娘関係の断絶と修復」が、すでに現れた作品であると言える。「行け、我が想いよ」は、第3部第4場で歌われる、ヘブライ人奴隷たちの合唱である。故郷から遠く連行されてきた彼らは、絶望して故国に思いを馳せている。
行け わが思いよ 金色の翼に乗って
行って安らぐのだ 小山の斜面や丘の上で暖かく
柔らかく香り立つところ そよ風が甘く香るふるさとに!
こんにちまで伝わる愛国的なイメージは、初演にまつわるエピソードに基づいている。F. アッビアーティによる伝記(Abbiati 1959)は、当時の新聞記事を引用するかたちで、以下の「事件」を記している:
マエストロ・ヴェルディへの大きな賞賛は、例外的な事件を起こした。[「行け、我が想いよ」の後に]規定によって禁じられているアンコールを求める満場の拍手が続き、全員の望みは最終的に叶えられた。(Abbiati 1959, 415)
ヘブライ人たちの境遇に、オーストリアに抑圧された自分達の状況を重ねた聴衆が、「行け、我が想いよ」の合唱に熱狂し、オーストリア官憲の制止に逆らってアンコールを実現させた・・・・・・という報告は、純粋な楽曲としての成功に、「民衆の熱狂が官憲を動かした」というストーリーを加えている。しかし、折句のエピソードと同様に、この「事件」の伝わり方も一定ではない。出版年の古いものから辿っていくと、このエピソードの伝わり方は3通りある。まず、初期の伝記は、このエピソードに「触れていない」。筆者が確認した限り、最初のヴェルディ研究書とされるバゼーヴィ(1859)や、プジャン(1881)、ヴェルディ本人の確認が入ったモナルディ(1887)、そしてガッティ(1955)には、「行け、我が想いよ」が際立った成功を収めたという記録すらない。二番目は、「『行け、我が想いよ』のアンコールがあった」ことのみを記したタイプで、英語圏で普及したフランシス・トイによる伝記(1931)や、ヴェルディ研究の金字塔、バッデンの研究 (1973, 1992, 2001)がある。そして三番目が、アッビアーティのように「オーストリア官憲と聴衆の攻防」があったことを示唆するタイプである。
この伝わり方の違いに注目した研究者のパーカー(Roger Parker)は、徹底的な調査(Parker 1997)の結果いくつかの重要な事実を発見した。まず、アッビアーティが証拠として提示した「当時の記事」――『ミラノ音楽新聞 Gazzetta musicale di Milano』――には、肝心のエピソードが記されていなかった。次に、同じくミラノで発行されていた『ミラノ認可新聞 Gazzetta privilegiata di Milano』(4)には、初演の翌日の上演評が載っており、確かに合唱がアンコールされたと書かれていた・・・・・・が、それは「行け、我が想いよ」ではなく、オペラの最後を飾る「偉大なるエホバ」のことであった。こうして、記録を遡れば遡るほど、『ナブッコ』の批評記事には、政治的な色合いがほとんど認められないことがわかったのである。
結果として、パーカーは「行け、我が想いよ」のアンコールがあったこと自体信憑性が低いとし、後世の伝記作家の作り出した「神話」である可能性が高いと結論づけた。しかしその一方で、『ナブッコ』の初演が成功したことと、「行け、我が想いよ」が人気の曲であり続けたことは事実である。そうなると、この「事実」と「愛国者」像との結びつきはどのように生まれたのだろう? ここで視点を1840年代のイタリアに移してみよう。
3. 1840年代のイタリア・オペラと「合唱のお父さん」
『ナブッコ』を発表した1842年から第1回イタリア解放戦争の終結(1849年8月)までに、ヴェルディは11作を発表している。この7年間は、パリ・オペラ座(『イェルサレム』)やロンドン(『海賊』)へのデビューも果たした、彼が最も精力的に活動した時期であったが、イタリア・オペラ界がすぐさまヴェルディ作品に席巻された、というわけではなかった。
1840年代のヴェルディは「イタリア・オペラ界の新星」であり、言い換えれば、偉大なる先輩たちを追う、同世代の作曲家たちの1人であった。当時の記録を調べてみると、愛国的なイベントで演奏された楽曲の大半は、G. ロッシーニやV. ベッリーニ、G. S. メルカダンテらの作品であったことが分かる。もちろん、新人の中で、ヴェルディ作品への注目度の高さは突出していたが、「愛国的な」オペラを書いた作曲家は他に何人もいた。例えば、A. バッツィという作曲家の『ロンバルディア同盟 La Lega Lombarda』(1846)は、同時代のミラノを舞台にしており、聖書を下敷きにした『ナブッコ』よりも、ストレートな「リソルジメント・オペラ」である。さらに、第1回イタリア解放戦争後、再びオーストリアの支配下に戻ったミラノでは、以前に増して厳しい検閲体制が敷かれていた。最も検閲が厳しかったであろう1849–50年のシーズンに、スカラ座は『ナブッコ』や『エルナーニ』『マクベス』を矢継ぎ早に上演している。このことからも、ヴェルディが、愛国心を煽るような作曲家と認知されていたとは考えにくい。
現在確認が取れる1840年代のヴェルディに対するイメージは、「愛国精神に溢れた作曲家」というよりはむしろ、「合唱曲が得意なオペラ作曲家」である。1845年に、ヴェルディの弟子ムーツィオは、師がミラノで「合唱のお父さん papà dei cori」と呼ばれていることを記している(5)。この頃のヴェルディ作品を見てみれば、『ナブッコ』や『第1次十字軍のロンバルド人』のような戦争が主題の作品だけでなく、『マクベス』や『エルナーニ』にも故郷を想う人々の合唱が含まれていることがわかるだろう。これらの曲は、1840年代のコンサートで繰り返し演奏され、オペラの中の合唱だけをプログラムしたコンサートも多かった。
その背景には、19世紀のイタリアでは、市民に最も大きな文化的影響力を持っていたのがオペラであったということに加えて、合唱という行為が「名もなき散らされた民衆」(6)の心を結集させる機能を持つ、と考えられていたことがある。ベッリーニの『ノルマ』(1831)第2幕の合唱「戦いだ!戦いだ!Guerra, Guerra!」は、国内外のリソルジメント運動で頻繁に歌われており、両シチリア王国で独立運動のため捕らえられた兄弟は、処刑前にメルカダンテのオペラ『スペインの女王カリテア』(1826)の合唱「祖国のために死ぬ者はChi per patria muor」を歌ったと伝えられる。さらに、この時期に盛んに作られたのは、愛国心を歌う「讃歌Inno」であった。革命に向かって市民運動が激化すると、多くの劇場はオペラの上演を減らして愛国的なイベント(会話劇や、「讃歌」の合唱)を開催し、出版社はこぞって「讃歌」の出版に手を染めた。
ヴェルディと「讃歌」の結びつきを示すエピソードとしては、現イタリア国歌にまつわる話がある。『ナブッコ』の「行け、我が想いよ」が「イタリア第二の国歌」として知られる一方で、現イタリア国歌について知る人は少ないのではなかろうか?1946年に国歌として制定された「イタリア人たちの歌Il Canto degli Italiani」は、『ナブッコ』の4年後、1847年である。作詞したのは、当時20歳の学生ゴッフレード・マメーリ、作曲はミケーレ・ノヴァーロという作曲家である。ジェノヴァで発表されたこの歌は、すぐに北イタリアを中心に広まったが、当時英国に亡命していたリソルジメント運動の英雄、ジュゼッペ・マッツィーニ(マメーリも属していた「青年イタリア党」の創設者)は、「勇壮さに欠ける」と不満を示した。マメーリに「イタリアの『ラ・マルセイーズ』となるような讃歌を」と新たな詩を要求したマッツィーニは、作曲をヴェルディに依頼した。ちょうどヴェルディは『海賊』で英国デビューを果たしており、2人はロンドンで会う機会があったのである。こうして作られたヴェルディとマメーリの「ラッパは響くSuona la tromba(発表時のタイトルは「国家の讃歌Inno nazionale」」は1848年夏に完成し、10月にはマッツィーニへ送られた。残念ながらマッツィーニはこれにも満足しなかったが、曲は北イタリアを中心に広まり、楽譜も出版されている。結局、国歌となったのはヴェルディの作品ではなかったが、「行け、我が想いよ」の神話が定着するずっと前に、ヴェルディと「国歌」の縁は始まっていたのである。
このように、合唱が重要なジャンルであった1840年代、ヴェルディは「合唱のお父さん」、つまり合唱曲が得意な作曲家として認識されていた。この状況をふまえると、「行け、我が想いよ」が、早くから人気の合唱曲として親しまれ、それが後の「神話化」の下敷きになったと推測できる。「ラッパは響く」の作詞者マメーリは21歳で戦死したが、ヴェルディはオペラ作曲家として名声を高めていき、1850年代には国内外から「イタリア代表」とみなされる存在になった。作曲家としての評価が高まり、国家の看板を任されたときに、神話の生まれる土壌が整ったのである。
4. 逆輸入された「愛国者」像
ある人物に物語が付随するとき、そこには必ず「紹介」という行為がある。何らかの意図をもってその人をプレゼンテーションするとき、少しずつ話が「盛られ」、次の話し手に再利用されていくことで、「盛り」が巨大化していくのだ。冒頭で述べたように、現在、ヴェルディの「愛国者」像は「初期の伝記」に由来すると考えられている。ただし、ここで言う「初期の伝記」とは1870年代以降に書かれたものであり、その元へさらに遡ると、フランスや英国といった、イタリアの「外」で書かれた記事に行き着く。つまり、ヴェルディという外国人作曲家を、国内へ「紹介」する必要があった国々で書かれた情報である。これらの国においては、少なくとも1850年代後半から1860年代の間に、ヴェルディの「愛国的」なイメージが出来上がっていた。
フランスでの「仕掛け人」は、ヴェルディ作品のフランスにおける上演権を独占していたエスキュディエ社である。自社の音楽雑誌をもっていたエスキュディエは、1845年にヴェルディの紹介記事を載せている。そこには、ヴェルディの音楽に関する記述は少なく、彼の外見や真面目で控えめな人柄、質素な部屋について綴られている。明らかに「人」を売り込む書き方の理由は、ヴェルディの音楽が「イタリアの舞台で成功を収めたにもかかわらず、パリのディレッタンチズムにはほとんど受け入れられず、フランスでは彼のスコアは深い偏見と反感を買った。」(Vapereau 1858, 1717)からであった。エスキュディエは、ヴェルディに生来備わった生真面目なイメージを膨らませて、パリの大衆に好印象を抱かせようとしたのだろう。こうした「質実剛健な苦労人」という描き方は、道徳を重視した当時の「伝記物語biographical novel」の典型的なスタイルであった。
一方、「愛国的」なイメージを積極的に広めたのは英国である。地理的に距離のある英国には、前述のマッツィーニやガリバルディなど、リソルジメントの英雄たちが度々避難してきており、英国内の支持者も多かった。リソルジメントに対する高い関心が、イタリアから伝わってきた「V.E.R.D.I.」の折句エピソードや、ヴェルディの国会議員就任(1861)のニュースと効果的に結びつき、「愛国者」像を瞬く間に広めたのである。1862年のロンドン万国博覧会では、ロッシーニに代わってカンタータの作曲を依頼されており、ヴェルディが完全に「イタリア代表」と見做されていたことが分かる。
こうした報道は、ヴェルディの作曲家としての立場が変わるにつれて、ますます広まっていった。顕著なターニングポイントは、『イル・トロヴァトーレ』(1851)が国際的な成功を収めたことで、フランスや英国での人気と評価が急上昇したことである。それまでヴェルディの音楽を評価していなかった国外の批評家たちの論調は、少しずつ変化していき、1840年代には辛辣に批判された作品も、遡って再評価されるようになった。それどころか、さんざん批評でコケにされたという事実すら、「逆境に耐えた天才」のイメージへと昇華されていった。さらに、1860年代前半における政治活動は、ヴェルディの作品に愛国的なメッセージを深読みさせ、国内外の「愛国者たち」を鼓舞する要因となった。
1871年に一応の統一を果たしながらも、国内にさまざまな問題を抱えていた新生国家にとって、国際的に盤石な地位を築いていたヴェルディの存在は、まだ危うい「イタリア」のアイデンティティの拠り所となっただろう。1870年代以降にイタリアで書かれた伝記が、それ以前にイタリアで書かれたものよりも、フランスや英国で書かれた伝記に多くを依っていたのは、ヴェルディを「我々の代表」として、国内に再紹介するための手続きだったからではないだろうか。
そして、「行け、我が想いよ」の神話を仕上げたのは、ほかならぬヴェルディその人だった。1892年、79歳のヴェルディは、英紙『The Daily Graphic』の取材に対し、『ナブッコ』のリハーサルを以下のように振り返っている:
…… あたりには舞台転換に追われる作業員たちの喧騒が聞こえていた…… 合唱は、いつものように無造作に「行け、我が想いよ」を歌い始めた。しかし、最初の5、6小節もいかないうちに、劇場は聖堂のように静まり返った。作業員たちは1人また1人と仕事を中断すると、階段や足場に腰を下ろして、合唱に耳を傾けていた! 曲が終わると、それまで聴いたこともないほどの拍手と共に、彼らは「ブラボー、マエストロ万歳!」と叫んだ。…… その瞬間、私には自分を待ち受ける将来がはっきりと見えたのだ(Conati 2000, 273)
映画のワンシーンのような語り口は、自他共に認める「劇場人」ヴェルディの真骨頂だ。「作業員たち」が「聖堂のように」静まり返る、という言葉のチョイスは、「行け、我が想いよ」を、大衆の心を震わせる聖なる音楽として印象付ける。この回想が組み込まれたプジャンの伝記はあらゆる言語に訳され、こうしてヴェルディ本人の「お墨付き」エピソードは世界中に広まった。それまでに時間をかけて浸透していた「愛国者」像と、楽曲のイメージが合わさった時、「行け、我が想いよ」の神話が成立したのではないだろうか。
5.「行け、我が想いよ」の普遍性――作曲家ヴェルディの力
ヴェルディの死(1901)から100年以上にわたり「行け、我が想いよ」の神話は、色褪せるどころか広がり続けた。第二次世界大戦時のムッソリーニ政権や、1990年代の北部同盟Lega Nordによる政治的な利用を超えて、現在では、郷土愛・連帯といったより広いイメージと結びついているように思われる。新型コロナ・ウイルスの蔓延時、動画サイトに投稿された多くの合唱プロジェクトがこの歌を採用したこと、そこに世界中からの共感が寄せられたことは、この曲に「神話」が成立し、説得力を持ち続けている最大の理由を端的に示している。要は、楽曲自体の「広まる力」が非常に強いのである。その「広まる力」について、詩の内容と音楽の作りから考えてみたい。
まず、詩の内容で面白いのは、人々を戦いに駆り立てるような勇ましさが無いことだ。処刑の運命を前にした奴隷たちは、希望を失い、決して帰れない故国に想いを馳せている。彼らが願うのは、戦うための力ではなく、「この苦しみに耐える調べ」なのだ。だからこそ、後の場面で指導者ザッカーリアから「臆病な女のように泣いている」と戒められるのである。逆境に苦しむ人々を鼓舞する歌であれば、『第1次十字軍のロンバルド人』の「主よ、故郷の家から」や『マクベス』の「虐げられた祖国よ」の歌詞の方が適しており、実際この2曲はリソルジメントの集会でも歌われていた記録がある。しかし、国家統一後も現在に至るまで親しまれているのは、圧倒的に「行け、我が想いよ」の方である。それは、この曲が、より普遍的なテーマである「郷愁」を歌っているからではないだろうか。国際化が進む社会の中で、今や「帰りたい故郷」は、世界中の人々に共有された心象風景である。感染症の蔓延によって直接的なコミュニケーションが制限された時期には、「行け、我が想いよ 黄金の翼に乗って」の一節が、今までになく胸に響いた人も多かっただろう。
そして、この「誰でも共感できる」詩を歌うために、ヴェルディは最適なメロディを付けた。この曲で最も有名な冒頭の16小節のメロディは、4小節ずつのフレーズが4つで構成されている。すなわち、「行け我が想いよ、黄金の翼に乗って / 行って安らぐのだ 小山の斜面や丘の上で」までの1フレーズを原型(a)として、16小節が「a→a’→b→a/a”」のように構成されている。19世紀前半までのイタリア・オペラで最も好まれたこの形式(7)の利点は、原型となるメロディが、少しずつ形は変えながら繰り返されることによって、「予測可能で、覚えやすい」メロディが作られることである。また、音域・リズム・音型の全てに、歌いやすさの理由がある。まず音域に関しては、斉唱で書かれていることから分かるように、全ての声に歌いやすい中音域で書かれている。次に、リズムは詩の韻律(10音節詩行)が元々持つ、3シラブルごとにアクセントが巡る規則的なリズム(Va, pensiero, sull’ali dorate)に沿って書かれているので歌いやすい。そして、メロディの方向を導く和声進行は、非常にシンプルである。最初の4小節はたった3つの和音に支えられており、歌いにくい跳躍音程もない。誰もが共感できるテーマと、覚えやすく歌いやすいメロディが一体となっていることで、「行け、我が想いよ」は人々の胸中で繰り返し再生され、「私たちの特別な歌」になっていったのではないか。
世界中で進み続ける研究は、新しい情報をもとに、日々歴史の語り直しを行なっている。その只中にいる筆者でさえ、重ねられてきたヴェルディの「イメージ」を否定することができないのは、やはり音楽自体がもつ圧倒的な説得力のせいである。その説得力こそ、「音楽家ヴェルディ」の凄みであり、「神話」を支える大きな柱なのだ。
(1) 1988. Stivender, David. “Conversations with Verdi” in Mascagni: an autobiography compiled, edited and translated from original sources. New York, United States. Pro/Am Music Resources. 124.
(2) ロマン・ロラン著、片山敏彦訳 1938『ベートーヴェンの生涯 全巻合本版』(kindle版、位置情報No. 74)
(3) 2024年9月3日「イタリア・オペラ・アカデミー in東京 vol.4:リッカルド・ムーティによる《アッティラ》作品解説」において。
(4) オーストリア政府の認可を得た公式の新聞。
(5) 1845年4月10日、ヴェルディの義父バレッツィに宛てた手紙(Parker 1997, 48)
(6) アレッサンドロ・マンゾーニの史劇『アデルキ』より(Manzoni 1822, 107)
(7) イタリア・オペラ研究では、リリック・フォームlyric form、もしくは単純にformulaと言う。
参考文献:
Abbiati, Franco. 1959. Giuseppe Verdi, volume terzo. Milano: Ricordi.
Budden, Julian. The operas of Verdi, volume 1–3. New York: Oxford University Press.
Basevi, Abramo. 1859. Studio sulle opere di Giuseppe Verdi. Firenze: Tipografia Tofani.
Burkholder, J. Peter; Donald Jay Grout; Claude V. Palisca. 2014. A History of western music, edition 9. New York; W. W. Norton.
Conati, Marcello. 2000. Verdi: interviste e incontri. Torino: EDT.
Esudier, Marie. "Une viste à Verdi", in La France Musicale, 25/3/1845.
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福島信夫 1966 『ヴェルディ(大音楽家・人と作品;18)』東京:音楽之友社
小畑恒夫 2010 『ヴェルディ(作曲家・人と作品シリーズ)』東京:音楽之友社