「より自然で、より真実なもの」──ヴェルディの演技観
「歌うこと」と「演じること」を両立できる歌手が、いったいどれほどいるだろう?(中略)ドラマの演技に完全に引き込まれて、身体のあらゆる神経を震わせ、演じる役に完全に同化した歌手は、もはや正しい音調を見失ってしまう。
(音楽雑誌『音楽界へのシグナル』のインタビュー[1]より、ヴェルディの言葉)
「歌うこと」と「演じること」の両立――。ヴェルディが投げかけたこの問いは、オペラという芸術の核心を突いている。私たちはしばしば、歌手に「美しく歌うこと」と同時に「心を揺さぶる演技」を求める。しかし、その二つは本当に無理なく両立できるものだろうか。ミュージカルの演者が「ミュージカル俳優 musical theater actor」と呼ばれる一方で、オペラの演者には「オペラ歌手 opera singer」という呼称が定着している。「歌えて、踊れる役者」というイメージが強いミュージカル俳優に比べると、オペラ歌手には、やはりまず「歌手」という印象が先に立つのではないだろうか。
けれども、実際の舞台では、オペラ歌手がただ立って歌うだけという瞬間は殆どない。寝そべりながら、走りながら、あるいは高所に立ちながら歌うことも珍しくないし、近年では映像配信やズームアップによって、繊細な表情の演技も要求されるようになった。さらには、他の舞台芸術ほど厳密ではないにせよ、声だけでなく容姿までもが「その役らしさ」の一部として判断される。オペラ歌手は、「歌手」として評価されながら、同時に「役者」として見られてもいるのだ。
それだけではない。演技や演出の作法、つまりどのような演技が「良い」とされるのか、どのような演出が観客の心を掴むのかは、時代とともに変わってきた。オペラ歌手は、何世紀も前に書かれた作品の様式を守りつつ、同時に、その時代を生きる役者として舞台に立っている。そして演出家や指揮者の指示のもと、プロダクションに合った演技を披露しなければならない。
新しいオペラを作る時、ヴェルディはプロダクション全体を統括する演出家・指揮者でもあった。大抵の場合、台本制作から演出に至るまで全面的に主導権を握っていた彼には、その作品の隅々にまで明確なビジョンがあった。前回紹介した《マクベス》初演時のエピソードは、彼がいささか独裁的な監督であったことを示す格好の例である。しかし同時に、そこには彼の要求に応え、その意図を実現するように努めた歌手の姿も映していた。現場には、自らの作品世界を守ろうとする作曲家と、主体的な役者として舞台を生きようとする歌手たちの、静かなせめぎ合いがあったのだ。
ではヴェルディは、この問題をどのように捉えていたのだろうか? 歌手の自主性と作曲家の統御は、本当に対立するものだったのだろうか。その答えを探るために、まずは19世紀後半の演劇界全体に目を向けてみたい。
散文劇からの影響──「歌う役者」としての歌手たち
19世紀半ばになると、演技に関する理論書や実践的なマニュアルが広く流通するようになった。『百科全書』で有名なディドロ(Denis Diderot, 1713–1784)の『俳優に関する逆説 Paradoxe sur le comédien』(1830) に代表されるように、俳優がどのように役を演じるべきか、を論じる理論書が相次いで出版され、コンスタン・コクラン(Benoît-Constant Coquelin, 1841–1909)やサラ・ベルナール(Sarah Bernhardt, 1844–1923)といった名優たちが自身の技術や思想を書き残した[2]。それまで主として口伝えに継承されてきた舞台上の慣習が、分析と記述の対象となり、知識として体系化されはじめたのである。
散文劇に比べると、オペラの舞台演技に特化して論じた資料はきわめて少ない。これは、歌手の演技が俳優のそれと本質的に異なるものとは見なされていなかったことを示している。実際、グランド・オペラの中心地であったパリ・オペラ座に立つ歌手の多くは、パリ国立音楽・演劇学校(コンセルヴァトワール)で教育を受けていたが、そこでは名優F. タルマ(François-Joseph Talma, 1763–1826)らが朗唱の授業を担当していた。声楽の訓練は、散文劇と地続きの場所で行われていたのだ(Meckli 2014, 14)。
こうした事情はイタリアにも当てはまる。「理論家型のヴェルディ歌手」デッレ゠セーディエは、デビュー前に俳優から朗唱の手ほどきを受けており(Brandenburg 2000, 338)、のちに著した『歌唱と旋律劇芸術の美学 Estetica del canto e dell’arte melodrammatica』にも、散文劇(teatro in prosa)の演技を参照する記述が少なくない。制度上、学校教育が確立していたフランスと、20世紀まで座長制が続いたイタリアとでは演劇界の構造は大きく異なっていたが、オペラ歌手が同時代の俳優たちの演技を参考にしていたことは共通していたと言えるだろう。
残された教則本や批評からは、当時の歌手たちが学んでいた演技――感情を姿勢で示すポーズ、身振りとしてのジェスチャー、そして台詞の朗唱――の多くが、それ以前の時代の慣習を色濃く引き継いでいたことがわかる(Moeckli 2014, 11–40)。他方で、より日常的な話し方に近い朗唱や、型に依らない感情表現へ接近する動きも生まれていた。演劇界に吹き込んだ「自然主義」や「真実主義」といった新しい風は、オペラ界の演出や演技にも、ゆるやかに浸透していったのである。
例えば、19世紀前半の舞台における「演出」のあり方は、今日私たちが理解するものとは大きく異なっていた。フランスのパリ・オペラ座には「総合舞台監督(レジスール)」という役職があったものの、現在の意味での「演出家」という職業が成立するのは19世紀末のことである。舞台稽古を実質的に取り仕切っていたのは、作品の「作者」――すなわち台本作者や作曲家――であり、そこに次第に存在感を増していったのが歌手たちであった。
彼らの中には、単に音楽的注文をつけるにとどまらず、自らの舞台表現を事実上「演出」しようとする者も現れる。その影響は、衣装の選択(19世紀末に至るまで、主役の衣装は歌手の裁量に全面的に委ねられることが多かった)、舞台装置の検討、さらには登場人物のキャラクター造形にまで及んだ。
フランスのメゾ・ソプラノ歌手ポーリーヌ・ヴィアルド゠ガルシア(Pauline Viardot-García, 1821–1910)は、マイアベーア《預言者 La Prophète》(1849)初演に際して楽譜への修正を提案しただけでなく、ロンドンのコヴェント・ガーデンでの公演ではほぼ単独で再演出を行なった。《カルメン Carmen》の有名なアリア「ハバネラ」も、初演者ガリ゠マリエの要求によって何度も書き直されている。本連載でたびたび言及してきたバリトン、ヴィクトール・モレル(Victor Maurel)に至っては、自らの役柄に関してヴェルディに臆せず意見を述べただけでなく、演出ノートの出版まで行なっている。
こうした事例が示すのは、歌手が主体的な舞台芸術家として振る舞っていたという事実である。実際、当時の新聞評には、19世紀後半には歌手たちの演技を詳細に論じ、評価する記事が数多く掲載されている。
しかし、この自律性は作曲家との関係に緊張を生まないわけではなかった。ヴェルディは歌手と演出をめぐってたびたび衝突しており、次のような言葉を残している。
アーティストたちは自分のやり方ではなく、私のやり方で歌わなければならない(中略)ただ1つの意志だけが支配すべきであり、それは私自身の意志である。いささか暴君的に思われるかもしれないが(中略)、作品が一気に生まれるならコンセプトは1つであり、全員がその実現に協力せねばならない。(Henson 2016, 19 ; Della Seta 2013, 259 n.22)
「彼らのやり方ではなく、私のやり方で」というこの言葉は、裏を返せば、それぞれに「自分のやり方」を持つ歌う役者たちが存在していたことの証でもある。
さらにヴェルディは、フランスに倣い、『舞台演出冊子disposizione scenica』を導入した。著作権概念の発展とともに上演の記録が重視されていたパリ・オペラ座では、新作初演の際に、舞台演出に関する情報をまとめた『演出の冊子livrets de mise-en-scène』が作成されていた。ヴェルディはそのシステムをイタリアに持ち込んだのである。ヴェルディ作品の『舞台演出冊子』には、登場人物の立ち位置や動線、身振り、場面転換の指示に至るまでが詳細に記されている。そこには、作曲家であると同時に、舞台全体を設計する演出家としての強い自覚が読み取れる。
では、ヴェルディのいう「私のやり方」とは何だったのか。彼が歌手に求めた演技とは、どのようなものだったのだろうか。そのヒントを、私たちは《オテッロ》初演準備の現場に見ることができる。
「より自然な、より真実である」演技──《オテッロ》(1887)の公開リハーサル
1887年2月5日、ミラノ・スカラ座。初演を目前に控えた《オテッロ》の全体リハーサルで、ヴェルディはピアノの前に座り、鋭い眼差しで舞台を見つめていた。
《オテッロ》は、シェイクスピアの悲劇『オセロー』を原作とする、ヴェルディ晩年の代表作である。彼は生涯に三つのシェイクスピア作品(《マクベス》《オテッロ》《ファルスタッフ》)を手がけ、さらに《リア王》の構想を長年抱き続けていた。当時イタリアでは、シェイクスピア劇の現地語上演がようやく本格化しつつあった。《オテッロ》の初演の1887年は、まさにシェイクスピアが新たな演劇的刺激として受け入れられ始めた時期と重なっている。この作品は個人的嗜好の産物であると同時に、同時代の演劇的関心のただ中にあったと言えるだろう。
この作品に「演劇」としての完成度が強く意識されていたことは、準備過程からも想像できる。出版者のG.リコルディは、初演を歌うキャストたちに、散文劇《オセロー》の上演を観劇させている(Campana 2015, 106)。これは単なる原作の予習ではない。俳優たちの台詞回し、身振り、舞台上での佇まい――そこから具体的な演技のヒントを得ることが期待されていたのである。リハーサルの現場でも、ヴェルディは「歌」と「演技」を切り離さなかった。記録によれば、彼は歌の確認と同時に、「演技を伴った歌唱」を徹底的に求めていた。ある記者はこう書き残している。
ヴェルディは、歌と演技を統合する作業に直ちに取り掛かることを重視し、歌手の師匠であるのと同様、俳優の教師でもあった。彼は最大限の自然さmassima naturalezzaを求め、注意ぶかい眼差しで全ての動きと身振りを観察し、より自然な、より真実であるものを捉えようとしていた。[3]
ここで繰り返されている「自然」という言葉は、当時の演劇論で合言葉のように頻繁に用いられていたキーワードである。さまざまな論客が「自然」な演技を論じていたため、定義は人によって異なる[4]が、ヴェルディの言う「最大限の自然さ」とは、具体的に何を指していたのだろうか。記者は、ヒロインであるデズデーモナ役――ソプラノ歌手パンタレオーニ夫人――に対するヴェルディの極めて具体的な指示を書き留めていた。
最終幕のデズデーモナのアリア「柳の歌」。夫オテッロから不貞の疑いをかけられたデズデーモナは、侍女エミーリアに寝支度を手伝わせながら、自らの悲劇的な運命を暗示する物語を歌う。バルバラという女性の悲恋を語る物語は途中で何度も中断され、エミーリアに対する「髪をすいて」「この指輪を戻しておいて」といった日常的な言葉が挟まれる。この、物語の世界と現実世界の行き来が、バルバラの悲劇にデズデーモナの運命をオーバーラップさせ、幻想的で不安な雰囲気を作り出す。驚くべきことに、ヴェルディが問題にしたのは、歌自体ではなく些細な身振りであった。「この指輪を戻しておいて」とエミーリアに告げる瞬間が、前後の優しげな「語り」から切り離されてしまってはいけない。ヴェルディはこのような指示を出している。
この中断を唐突に見せないようにするために、彼女〔デズデーモナ〕は、自分の指にはめられた指輪にふと気がついた演技をするべきだ。その動きは、彼女が先ほど〔物語を語る中で〕鳥たちが枝から降りてくるのを指し示した時の、優雅な仕草と同じものでなければならない。
ここに、ヴェルディの芝居に対する感覚の鋭さと繊細さがよく表れている。ヴェルディは音楽上の中断が唐突なもの――つまり、「不自然」に映らないよう、演技の流れの中で丁寧な「つなぎ」を作ることを求めたのだ。演技は歌の添え物ではない。音楽を補完し、「音楽劇の演技」として完成させる要素なのである。
一方、オテッロ役を初演したタマーニョは、「大砲テノール」の異名を取る輝かしい高音で知られていたが、演技は決して得意ではなかったという。終幕、自ら短剣で胸を突き、デズデーモナの亡骸の上に倒れ込む場面で、ヴェルディは何度も首を横に振った。ついには自ら手本を示したとも伝えられている。
記者は次のように書いている:
彼〔ヴェルディ〕は1人の偉大な俳優さながらに自らを刺し(もちろん「ふり」として)、デズデーモナの寝台の三段の階段を、まるで本当に死んだ体のように転げ落ちた。居合わせた人々は大いに驚き、一瞬、失神による転落ではないかと感じたほどであった。
「本当に死んだのではないか」と感じさせる迫真性。それがヴェルディの求めた「自然」で「真実」な演技だったのだろうか? さらにヴェルディは、歌についても、次のような指示を残していた:
デズデーモナが無実で殺された事を認めた後、オテッロにはもうどんな気力も残っていない。彼はボロボロで、体力的にも精神的にも疲れ切っている。彼は消え入るような掠れ声でしか歌うことが出来ず、そのように歌うべきだ……[5]
ここでも、ヴェルディが求めているのは、役柄の状況に対して「自然」であり、観客に「真実」のように感じさせる演技である。このあたりの歌い方への要求は、前回(第3回)の内容とピッタリ重なっている。
ここまで読むと、ヴェルディは単により写実的な演技を望んだのだ、と結論づけたくなる。しかし、事はそう単純ではない。ヴェルディが写実的な演技プランを拒絶した記録も残されているからだ。
例えば第1幕、オテッロが初登場する場面である。幕開けからオテッロの登場までは、極度に緊張の張りつめた場面である。キプロス島の島民たちが不安げに嵐の海を見つめる中、オテッロの船団が姿を現す。島民の歓喜と、音楽が頂点に達した瞬間、オテッロが姿を見せる。彼の「喜べ! Esultate!」から始まる第一声は、瞬間的にハイB(男声の最高音域における「シ」の音)に達する勝利宣言であり、英雄の登場というドラマティックな瞬間が音楽によって完璧に演出されている。
だがこの場面について、台本作者ボーイトやイアーゴ役を初演したバリトン、V. モレルは別の提案をしていた。それは、登場したオテッロは、まず出迎えた部下のカッシオらと短く言葉を交わすという案である。写実的に考えれば、その方がずっと「自然」である。しかしヴェルディはその案を退けた。彼はボーイトへの書簡で、次のように理由を述べている:
オテッロに台詞(詩句)が多すぎると、嵐の場面が細切れになってしまう。四行ほど削っても、この場面で失われるものはないし、そうすることで、〔オテッロ役の〕タマーニョのために効果的なフレーズをひとつ作ることができるだろう。(Busch 1988, 217)
この「効果的なフレーズ」は、書簡の続きの中で「喜べ!」から始まる完成版と同じフレーズであることがわかっている。つまりヴェルディは、オテッロが部下たちと言葉を交わすという「リアルさ」よりも、嵐の場面の緊張感が持続すること、そして登場の第一声が「効果的なフレーズ」として響くことを選んだのである。
またヴェルディは、同時代の俳優たちが掲げる「自然」な演技に対しても、共感していたわけではなさそうだ。先に述べたように、リコルディはキャストたちを散文劇《オセロー》の上演に連れて行ったが、ヴェルディはタマーニョが主演俳優G. エマニュエル(Giovanni Emanuel, 1847–1902)の演技に影響を受けることを懸念していた(Campana 2015)。エマニュエルはヴェリズモ(真実主義 verismo)に属する俳優で、抑制的で内省的な表現を身上としていた(Petrini 2016, 287)。だがヴェルディにとってその演技は、「弱々しく」「冷たい」ものに映ったらしい。彼やボーイトが理想のオテッロ像として念頭に置いていたのは、むしろ一世代前の名優E. ロッシ(Ernesto Rossi, 1827–1896)やT. サルヴィーニ(Tommaso Salvini, 1829–1915)である(Campana 2015)。彼らを特徴づけていたのは、心理の細部を写実的に描き出す身振りというよりも「すべての慣習を自らに従属させ、観客を支配する」(Livio 2000, 611)圧倒的なエネルギーであった。
こうした嗜好からも、ヴェルディの言う「自然」が単なる写実と一致していなかったことは明らかであろう。観客をドラマの流れの中へと引き込み、違和感なくその世界に没入させてしまう音楽と演技こそが、彼にとっての「自然」だったのではないだろうか。
「間(ま)」の芸術――音楽に書き込まれた演技
これまで見てきたように、ヴェルディは歌手たちに対して強い意志を表明し、舞台上の振る舞いにまで介入した。しかし彼の要求は、書簡や演出冊子のような文書記録のなかにのみ存在するわけではない。より根本的なレベルで、それは音楽そのものの内部に刻み込まれている。
その巧みさがとりわけ鮮明に現れるのが、「間(ま)」の扱いである。ここでいう「間」とは、単なるテンポの問題ではない。歌――すなわち、オペラにおいては台詞――の合間に生じる無音の瞬間、そして歌手がそれを「沈黙」として演じることを求められる瞬間のことである。
メロディが途切れたとき、歌手は一見、作曲家の統制から自由になるようにも思える。しかし、その沈黙は偶然できた空白ではない。ヴェルディは、そこに至るまでの音楽の流れによって、すでにその沈黙のニュアンスと感情の方向を準備しているからだ。観客は、音が鳴っていないその時間にも、なお音楽の続きを「聴いて」いる。さらにいえば、沈黙を破る歌い出しのタイミングすら、音楽の内部に組み込まれている。ヴェルディは、歌手に自由な演技を与えているようでいて、その自由そのものを設計しているのである。
彼の作品を注意深く見ていくと、沈黙の設計には少なくとも二つの書き方があることに気づく。
ひとつは、オーケストラと歌唱の両方の音楽が停止する、完全な無音の状態である。それが歌手の声によって破られるとき、無音は意味のある「沈黙」となる。《シモン・ボッカネグラ》(1881)の第1幕11場には、その典型的な例が見られる(譜例1)。

譜例1《シモン・ボッカネグラ》第1幕11場における「沈黙」(Verdi 1881, 192(11–12小節))
この場面では、舞台上の人物たちは動きをとめ、幕内に設定された「外」の様子に耳を澄ませる。シモンの「伝令のラッパが鳴っている」という言葉だけが、舞台上の人々と観客に、外の状況を伝える手掛かりとなる。舞台の外の出来事は視覚では示されず、聴覚による想像に委ねられるのである。やがて音は減衰し、ついには完全な無音の小節(譜例中の点線部分)へと至る。シモンが「すべてが静まり返っている」と呟くとき、舞台上の登場人物と観客は、まさに同じ「無音」を共有しているのである[6]。
ここで I-8 および I-10 が「空」の小節として記されていることは重要である。通常、歌手は先行する小節の拍やテンポに従って歌い出しのタイミングを定める。しかしこの場面では、伴奏もなく、テンポを指示するオーケストラ伴奏も存在しない。つまり、歌手は自らの呼吸と判断で「間」を取り、次のフレーズを歌いださなければならない。
トランペットの音が止んだ後の「沈黙」は、初演当時の批評において「深い沈黙 profondo silenzio」と評された[7]。舞台上で能動的に演技できるのは、その瞬間、シモン役の歌手ただ一人である。ヴェルディがあえてこの無音を設けたのは、歌手に即興的な自由な演技を求めたというよりも、その自由が最も効果的に発揮される条件を音楽の内部に整えるためであったと考えられないだろうか。
もうひとつの書き方は、沈黙が完全な無音としてではなく、オーケストラの音楽によって支えられる場合である。こちらも《シモン・ボッカネグラ》の一場面を見てみよう。歌と歌のあいだに短い間奏が挿入されるとき、声そのものは途切れていても、舞台空間から音楽が消えることはない。そこでは沈黙は単なる「空白」ではなく、むしろオーケストラによって形づくられた時間となる。

譜例2《シモン・ボッカネグラ》プロローグ第3場における「沈黙」(Verdi 1881, 8(C-30〜C-32小節))
この場合、台詞(歌)の「間」は、より強く音楽の流れの中に置かれている。和声の緊張、リズムの推進、旋律の上昇や下降が、次に来る言葉の感情の方向をあらかじめ指し示しているからである。歌い出す瞬間も、完全無音の場面のように呼吸だけで決められるわけではない。オーケストラの動きが、そのタイミングを静かに、しかし確実に導く。オーケストラ間奏の音楽によって、歌手は台詞のニュアンスを感じ取り、声の色や言葉の発音の仕方を自然に調整することになるのである。例えば、譜例2の場面は、《シモン・ボッカネグラ》において、主人公シモンが友人から「やらせ」の選挙への加担を打診される場面である。「賛成してくれるか?」という問いかけに対し、彼は即答しない。その沈黙は偶然の逡巡ではなく、オーケストラの弱々しく不安げな和声によって方向づけられている。この響きのあとに、突如として朗々と決然たる声を響かせる選択をする歌手は、あまり多くないだろう。
完全な無音によって歌手に委ねられる「沈黙」と、オーケストラに支えられ方向づけられた「沈黙」。書き方は異なっていても、いずれにおいても共通しているのは、この「沈黙」が偶然に生じているのではないという点である。それは音楽によって周到に準備され、舞台上の時間として設計されたものである。一見すれば、歌手は音楽の外側に出て自由に演技しているように見える。しかし実際には、その自由さえも音楽の内部に包み込まれている。ヴェルディは「音」だけでなく、「無音」をも作曲することによって、歌手の演技をデザインしていたと言えるだろう。そこには、彼が台詞の歌い方や身体的な身振りに求めたのと同じく、ドラマの流れに必然的な、つまり「自然」な演技があらかじめ用意されているのである。
19世紀後半、舞台芸術全体が大きな転換の岐路に立つなかで、オペラ歌手が演出や演技に向き合う姿勢も変わりつつあった。歌手が自ら考え、演じること。ヴェルディの言葉を文字通りに読めば、彼はそれに否定的であったかのようにも見える。
しかし、彼が実際に書き残した音楽を見れば明らかなように、彼はその自由を拒んでいたのではない。むしろ、それを不可欠なものとして求めていた。ただし、その自由は無秩序な即興であってはならない。あらかじめ設計された音楽の内部でこそ、生き生きと「自然」に演じられるべきものだったのである。
そして彼の目指した「自然さ」とは、ドラマの流れと音楽の構造のなかで必然として立ち現れる表現だったのではないだろうか。私たちが「うまい演技」と感じる瞬間もまた、どこかで設計された必然なのかもしれない。
歌うことと演じることは、両立すべきバラバラの課題ではない。ヴェルディにとってその二つは、「音楽の中で」統一されるべきものだったのだ。
[1] “L’opinione di Verdi sul canto” in Signale für die musikalische Welt, 6/1875. 521(Conati 2000, 114)
[2] コクランは『俳優と芸術L'art et le comedien』(1880)や『俳優の技術L'art du comédien』(1887) を著し、サラ・ベルナールは『劇芸術L’art du théâtre』(1923)を残した。
[3] リハーサルに関する記録は、以下の記事より引用。Pesci, Ugo. 1887 “Le prove dell’Otello” (Conati 2000, 210–213)
[4] たとえば、音楽批評家アルチュール・プジャン(Arthur Pougin, 1834–1921)は『劇場と関連芸術の歴史的・絵画的辞典』(1885)の中で、「自然な」演技の美徳を次のように定義している。「自然(Naturel):俳優にとって貴重な資質。演劇は何よりもまず、日常生活における出来事、出来事の推移、感情の正確な反映を提示すべきものである以上、あらゆる過剰、あらゆる誇張は(中略)不快なものとなる。しかしながら、自然さを口実として、俳優の演技が馴れ馴れしさへと堕してはならない。それはしばしば悪趣味の徴にすぎず、最も忌まわしい熱狂と同様に、舞台の本質的な幻想(イリュージョン)を殺してしまうからである。」(Moeckli 2014, 37)
[5] 1886年1月22日の書簡より(Verdi 2010, 16)
[6] A.カンパーナはこの場面が「広場の沈黙」「会議場の沈黙」「劇場の聴衆の沈黙」の3種類の沈黙を内包するとしている。(Campana 2015, 100)
[7] Corriere della Sera, VI.82, 24–25/3/1881,2–3(Verdi 1988, 170)
引用文献
Brandenburg, Daniel. 2000. “Enrico Delle Sedie, la presenza scenica e la cultura vocale dell’ottocento” in Una piacevole estate di San Martino. Studi per Marcello Conati. 337–347.
Busch, Hans. 1988. Verdi’s Otello and Simon Boccanegra (revised version): In letters and documents. Oxford: Clarendon Press.
Campana, Alessandra. 2015. Opera and Modern Spectatorship in Late Nineteenth-Century Italy. Cambridge: Cambridge University Press.
Conati, Marcello. 2000. Verdi: interviste e incontri. Torino: EDT.
Della Seta, Fabrizio. 2013. Not Without Madness: Perspectives on Opera, translated by Mark Weir. Chicago and London: University of Chicago Press.
Henson, Karen. 2016. Opera Acts: Singers and Performance in the Late Nineteenth Century. Cambridge. Cambridge University Press.
Livio, Gigi. 2000. Storia del teatro moderno e contemporaneo: Volume secondo: Il grande teatro borghese Settecento-Ottocento, edited by Roberto Alonge and Guido Davico Bonio. Torino: Giulio Einaudi editore s.p.a.
Meckli, Laura. 2014. “« Nobles dans leurs attitudes, naturels dans leurs gestes », Singers as Actors on the Paris Grand Opéra Stage” in Sänger als Schauspieler: Zur Opernpraxis des 19. Jahrhunderts in Text, Bild und Musik. Schliengen: Edition Argus. 11–40.
Petrini, Armando. 2016. “L’attore italiano dall’Ottocento agli inizi del Novecento” in Storia europea del teatro italiano, a cura di Franco Perrelli. Roma: Carocci editore.
Verdi, Giuseppe. 1881. Simon Boccanegra: melodoramma in un prologo e tre atti. Milano et al: Regio Stabilimento Ricordi (No.47372).
–– 1988. Carteggio Verdi-Ricordi 1880–1881, edited by Pierluigi Petrobelli, Marisa Di Gregorio Casati and Carlo Matteo Mossa. Parma: Istituto Nazionale di Studi Verdiani.
–– 2010. Carteggio Verdi-Ricordi: 1886–1888, edited by Angelo Pompilio and Madina Ricordi. Parma: Istituto Nazionale di Studi Verdiani.


