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スカートの裾を投げて――女性シンガーソングライターとポストフェミニズム 星川彩

とがらせた歌声の先に

はじめに

 2017年、大学二年の春。わたしは所属していた軽音サークルをクビになった。理由はあまりに生々しすぎて、ここには絶対に書けないのだが、わたしが誰かを傷つけたことは確かであり、追い出された部室棟を眺めながら「サークルにもクビの概念ってあるんだなあ」とぼんやり考えた。

 この判決には多少なりとも不満を感じていたが、クビになったおかげで、学生証を教室のカードリーダーにピッとやって出席の履歴だけを残し(ちなみにこの手口を弊学の学生は「ピ逃げ」と呼ぶ)終日部室に篭りきり、という生活には終止符が打たれた。倍以上に跳ね上がったGPAは、わたしに「大学院」という新しい選択肢を示してくれた。

 さて、わたしが在学していた大学には複数の軽音サークルがあり、それらはコピーするバンドの音楽ジャンルや、バンドの知名度によって線引きされていた。流行りの邦ロックをコピーするサークルもあれば、パンクやメタルなどの激しい演奏を好むサークルもあり、ジャズやビックバンドを専門とするサークルもあった。

 わたしが所属していたのはそのどれでもない、アンダーグラウンドなバンドのコピーに注力しているサークルであった。コピーしたいバンドを部員に提案しても「シャバい(冴えない、つまらない等の意)から」という大変理不尽な理由で却下されることもしばしば起きた。しかしサークルに所属していたたった一年の間に、この理不尽でマッチョな基準が体に染みついてしまい、今でもわたしはこの呪いを抱え続けている。

 とはいえ、この一年で得たものも少なくない。現在のわたしの音楽の趣味は、ほとんどこの時期に形づくられたのだ。先輩や同期たちはお勧めのバンドやアーティストを惜しげもなく教えてくれたし、それぞれの音楽のつながりや系譜を意識して聴く習慣ができたのも、この頃だった。皆が大学生活というモラトリアムを意識的に満喫するなかで、わたしはあるシンガーソングライターの作品を生活のBGMとして繰り返し聴くようになる。それがカネコアヤノだった。

 カネコアヤノは、ソロプロジェクト「カネコアヤノ」とバンド「kanekoayano」の両形態で活動を展開するシンガーソングライターである。近年のソロプロジェクトでは、バックバンドを従えたオリジナルアルバムに加え、同一の収録曲を弾き語りのみで再録した「ひとりでに」シリーズも継続的に発表してきた。「バンドか弾き語りか」という編成の違いによって、同じ楽曲の中でも異なる歌声が立ち上がる様子は、聴いていて本当に興味深い。

 カネコアヤノの魅力はなんといっても、あの声である。彼女の声は縦にすうっと伸びていくときもあれば、歪なかたちで厚みをもたせるように、横へと伸びていくときもある。その生々しい歌声は、怠惰で生活感のないわたしのモラトリアムに、かえって現実味を与えてくれる気がした。それに彼女の歌い方を真似して歌うのは、とても楽しかった。

 カネコアヤノのこれまでの活動や作品を時系列に眺めていくと、その歌声に変化が訪れたのも、まさに2017年頃であったように思う。特に2017年にリリースされた《とがる》からは、現在のカネコの特徴ともいえる、あの力強い発声への移行過程をまざまざと聴き取ることができる。

 けれども、これは単なる「歌声の変化」にとどまらないのではないか、というのが筆者の見立てである。歌声は、それを発する身体と結びついたものとして聴かれる過程で、ジェンダー化された期待を背負う場合があるからだ。

 本連載の第一回でも述べたように、女性の歌い手やその歌声は、しばしば「かわいい」という美的評価を受ける。けれどもこの「かわいい」という、一見すると無垢でポジティヴな美的評価は、時に歌い手を困惑させることがある――それは自らの作品や歌声が、特定のジェンダー化されたイメージへと回収されてしまうことへの戸惑いなのかもしれない。

 《とがる》はそうした歌声と身体の結びつきを考えるうえでも、きわめて示唆的な作品である。そこで今回は、今日までさまざまな演奏スタイルや音楽ジャンルを横断しながら作品を制作してきたカネコアヤノの歌声を改めてたどることで、女性シンガーソングライターの歌声にどんな身体性が期待され、そして彼女自身が、それにどのような応答を試みてきたのかを、改めて考えてみたい。

 

声を研ぎ澄ます、ということ

 《とがる》は2017年に発売されたEP『ひかれあい』に収録されており、カネコ曰く、自身の音楽活動が「シーズン2」へと移行した時期の楽曲である。もちろんスタジオ版の音源も素晴らしいのだが、ここではカネコアヤノ/kanekoayanoの公式YouTubeにアップロードされている《とがる》のライブ映像を観てみたい。

 完全生音ライブと銘打つこのライブは、マイクやアンプを一切使用しない、いわゆる「アンプラグド」の演奏によって構成されていた。長いロングヘアとギターのヘッドにぶらさげた鈴を、ゆらゆらと揺らしながら歌うカネコの姿。だが筆者にとって最も印象的だったのは、アンプラグドならではの音量差——ダイナミクスである。

 音楽におけるダイナミクスとは、音量の強弱やその変化をあらわす用語だ。カネコは強めのストロークでオープンコードをかき鳴らしながら、徐々に声量をあげてゆき、次第にその声をまっすぐ前に飛ばすようになってゆく。このように、声を遠くへ飛ばすようなカネコの歌い方は、《とがる》の歌詞とも深く繋がっている。

だれかが想いを燃やす 恋もキスもたのしい
わたしの花は枯れない 一生枯れさせない

今夜も月がきれい それだけでしあわせ
あなたの花は枯れない 一生枯れさせない

かわる! かわる!
かわってく景色を 受け入れろ
(カネコアヤノ《とがる》より引用)

曲の序盤では、各小節の終わりがしばしば「イ」の音で締められているのに対し、カネコが特に強く発声している箇所はア段の音に集中している。上で引用した歌詞を見てみると、サビで繰り返される「かわる!」の部分でも「か」と「わ」が特に強調されているのがわかる。このような「ア」の音を強調する歌い方は、曲が進むごとに強度を増してゆき、曲の終盤で頂点を迎える。

 またこの楽曲の興味深い点のひとつとして、「わたし」と「おれたち」という二つの一人称が併用されていることも挙げておきたい。楽曲前半での「わたし」は、親密な感情や日常的な幸福を語る主体としてあらわれているのに対し、曲後半では「熟した果実だ」「わかるだろ」といった、やや断定的で荒々しい「おれたち」の口ぶりへと変貌するのだ。

 もちろん、一人称の違いのみで主体のジェンダーを断定することはできないが、 ——「わたし」と「おれ」はそれぞれ異なるジェンダーをあらわす人称としてしばしば理解されてきた。つまり《とがる》には、一人の歌い手の声のなかに「わたし」と「おれたち」という複数のジェンダーが同居しているのである。

 ア段の母音を強調して声を前方へと放つ歌い方もまた、この主体の複数性と連動している。《とがる》は単に強く大きな声で歌えばよい、という曲ではない。そこからは複数の——まるでひとつのジェンダーに対応する、ひとつの身体へと回収されることを拒むような——声が聞こえてくるのである。

 

来世ではなく、現世の歌声へ

 わたしたちはそうした「複数の声」を、カネコのインタビューからもうかがい知ることができる。2012年に自主制作アルバム『印税生活』を発表後、本格的にライブ活動を開始したカネコは、翌2013年にキティエンターテイメントからデビューを果たしている。自主制作盤発売から年後の2014年5月に発売されたアルバム『来世はアイドル』のキャッチコピーは、「今、一番生まれる時代を間違えた女」。このタイトルは「もし自分が小学生だったらハロー!プロジェクトのオーディションを受ける」[カネコ,2016]という思いが部分的に反映されたものであるという。

 『来世はアイドル』には《はっぴいえんどを聴かせておくれよ》をはじめ、1970年代のフォークやロックからの影響を感じさせる楽曲が多数収録されている。おそらくこのコピーは、そうしたカネコの音楽的志向をユーモラスに表現したものだろう。とはいえここには、なんだか「古い音楽が好きな若い女の子」というキャラクターを強調する意図が透けて見えるような気がするのだが、私だけだろうか。

 だがこの時期からカネコは、ライブハウスで何度も人前に立ち、歌い続けるなかで、自らの歌声を探りあててゆく。彼女は『来世はアイドル』に際したインタビューにおいて、自らの歌声の変化を次のように語っている。

まだ人前でライヴをやる以前に作ったんですよ。“人前で歌うとか恥ずかしくて無理無理!”みたいな(笑)。そういう時に作ったから声とか死にそうなくらいヘロヘロで(笑)。でも、ライヴハウスとかで歌っていくうちに発声が変わって、自分は“ワー!”って歌う人だったことに気付いて。お客さんにも“思ってたより男らしく歌いますね”と言われました。『印税生活』というミニアルバムは柔らかい感じだとは思うんですけど、ライヴを観ると力強かった、みたいな[カネコ,2014]。

つまりカネコの歌声は「人前で歌う」という、独自の経験の積み重ねを通じて育まれたものだったのだ。カネコはそれを「ヘロヘロ」から「ワー!」への変化として捉えているが、観客がそれを「思ってたより男らしい」と評価した点は興味深い。「ワー!」という歌声が「男らしい」というジェンダー化された形容へと、ごく自然に読み替えられているからである。

 「男らしい」という感想は観客による一つの解釈にすぎないし、一見すると力強い歌声への賛辞に聞こえるかもしれない。だがこの観客の意見が、歌声を「男らしい/女らしい」という、ジェンダーに基づいた尺度によって理解する営みであることはたしかだ。それではカネコアヤノは、このようなジェンダー化された尺度を、どのように理解してきたのだろうか?

 

自己表現と自己主張

 「らしさ」の尺度というのは、女性ミュージシャンの活動には特について回るものである。2017年に公開されたOTOTOYの記事「【ガチ検証】カネコアヤノのライヴを高校卒業したての女子インターンに見せてみた」では「今年3月で高校を卒業する女性インターンのYさん」による、カネコアヤノの演奏の感想が以下のように語られている。ここではカネコの演奏に対する感想が、女性シンガーソングライターに対するイメージの裏返しとして表出している。

正直、女性シンガー・ソングライターの人の歌詞って、「なにそれ? うるせえよ」みたいのあるじゃないですか? そんなこと歌う?  みたいな歌詞もあるじゃないですか。(カネコさんは)それもないし、メンヘラっぽくもなくて聴きやすかったです。すごくよかった。〔引用者注:「女性シンガー・ソングライターは自己主張が激しいみたいなイメージがあるの?」という質問に対し〕そうなんですよねー。もちろん、そういうライヴを見ていてハマる人はハマるけど、私は痛いわーみたいに思っちゃう。(カネコさんには)それがなくて、すごくよかったです。

このY氏の感想からは、いくつかの点が見出せる。Y氏はまず、カネコアヤノが彼女にとっての「女性シンガーソングライター」像から乖離している点を評価している。Y氏のもつ女性シンガーソングライター像は、自身の内面を吐露するような作品によって印象付けられているように思われるのだが、Y氏は明らかに「自己主張が激しい」女性シンガーの存在に対して疑問を抱いている。

 このように、シンガーソングライターの作品や活動は、しばしば歌い手自身の考えや感情と結び付けられて理解されることが多い。音楽学者のルパート・ティルは、シンガーソングライターの作品と歌い手の内面性について、次のように指摘している。

〔引用者註:シンガーソングライターは〕自分自身や自分の経験、感情について歌っていると見なされることが多く、自分の歌が自分自身についてのことであるかのように、自分自身を表現しているかのように、少なからず見なされるのだ[Till, 2016,292、訳は引用者による]。

女性シンガーソングライターに対する「メンヘラっぽい」「痛い」という評価の背景には、ティルが指摘した「自分の歌が自分自身についてのことであるかのように見なされる」という要素が影響していると考えられる。だが、その一方で興味深いのは、内面の吐露に由来する「痛さ」を、女性のシンガーソングライターに固有の特徴として理解しているように読める点だ。

 とはいえ当のカネコアヤノは、自身の作品や歌唱が、女性という枠組みの中から語られることに対して、明確に異議を唱えている。『ひかれあい』発売時のインタビューでは、そのことを端的に示す場面がみられる。少し長いが、参照してみたい。

うーん……制作したものに対して、「かわいい」って言われるのはちょっと抵抗があって。「かわいい」より「かっこいい」って思われたいんです。小さいときからそういうところがあって、一時期スカートが履けなくなったり、女の子でいるのが超嫌だった時期もあって。制作したものに対して男と女で比べられるのがすごく嫌で、「かわいい」って言われると、舐められてると思っちゃう。別にワンピースは好きだし、髪も伸ばしてるし、「しなやかに歌いたい」って思うんですけど、創作としての評価に男女は関係ないじゃんって感じていて。特に音楽はそうみられることが多い気がして……「女だからって絶対負けたくない!」って思うんです。これから先はそれも素直に受け入れた方がいいのかもしれないけど、今はまだそう思えないんですよね。

この発言からうかがえるのは、カネコアヤノが「かわいい」という形容そのものではなく、作品が「女性」というジェンダーと結びつけて評価されることに、強い違和感を抱いている……ということではないだろうか。カネコは「創作としての評価に男女は関係ない」と述べ、自身の音楽をジェンダーから切り離して受け止められることを望んでいる。また「特に音楽はそうみられることが多い」という言葉からは、音楽実践が他の芸術領域よりもジェンダー化された視線のもとで受容される傾向にある、という彼女自身の認識もうかがえよう。

 カネコアヤノは、今日の女性シンガーソングライター像から逸脱した存在、というよりも、それをめぐる葛藤を可視化する存在であるように思われる。彼女の歌声は「かわいい」「男らしい」といったジェンダー化された評価にさらされながらも、それらのどちらに回収されることをも拒んでいる。その意味でも彼女の歌声は、現代の女性シンガーソングライターを取り巻くジェンダー規範を考えるための、重要な手がかりを与えてくれる気がするのだ。

 

「かわいさ」の先にあるもの

 さて本連載では、これまで女性シンガーソングライターたちが直面する「かわいさ」について、少しずつ角度を変えながら考えてきた。彼女たちの容姿や声、楽曲について下される「かわいい」という評価は、時に音楽表現の「何か」を見えなくしてしまうものとして、抵抗の対象になってきた。

 とはいえ、ステージ上の誰かの姿に思わず目を奪われたり、歌声に身体ごと引き寄せられるような感覚を覚えたりすることは、ごくごく自然な、そして素晴らしい音楽体験の一部である。その抗いがたい吸引力や切実さは、時に性愛にまつわるボキャブラリーを借りて、わたしたちの口をついて出てくることもあるだろう。わたしもそのような経験をしたことが何度もある。

 だからわたしは、誰かに対して「かわいい」という評価を下すべきではない、とは思わない。「かわいい」をはじめとする、誰かを評価する言葉たちが、わたしたちの何から生まれたものなのか。それらがわたしたちに何を見せ、何を見えなくしてしまうのか。

 もちろん答えはひとつではないだろう。ただカネコアヤノの声について考えるとき、なんだかどんな形容詞も力を失ってしまうように感じられる瞬間がある。単純な形容詞に回収されない余白に耳をすませること。そんな聴取のありかたを、彼女の声は教えてくれるのだ。

 

参考文献

Till, Rupert, 2016,  “Singer-songwriter authenticity, the unconscious and emotions(feat. Adele’s ‘Someone Like You’). In Williams, Katherine and Justin A. Williams(Ed.), The Cambridge Companion to the Singer-Songwriter(291-304), NY: Cambridge University Press.

金子厚武,2017年「カネコアヤノが見せた尖った横顔 かわいいと言って舐めないで」[2026/08/17閲覧]

すぐおわアドタイ出張所,2016年「22歳シンガーソングライター、キャッチコピーは『今、一番生まれる時代を間違えた女』(ゲスト:カネコアヤノさん)【前編】」[2026/08/17閲覧]

西澤裕郎,2017年「【ガチ検証】カネコアヤノのライヴを高校卒業したての女子インターンに見せてみた」[2026/08/17閲覧]

福アニー,2014年「女性SSW・カネコアヤノの初全国流通盤『来世はアイドル』が本日発売!」[2026/08/17閲覧]

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著者略歴

  1. 星川彩

    1998年福島県いわき市生まれ。大阪大学大学院博士後期課程芸術学専攻音楽学研究室所属。専門はポピュラー音楽研究、ジェンダー論。主な論文に「音楽評論における女性シンガーソングライターとジェンダーロール ――「自作自演」と「自己表現」の言説を手がかりに」(『阪大音楽学報』第21号,2025年)、「欲望のまなざしに歌う――女性シンガーソングライター(SSW)のジェンダーポリティクス」(『阪大音楽学報』第20号,2024年)、「フォークゲリラと歌う声――身体のコントロールによる政治」(『ポピュラー音楽研究』第26号、2022年)など。東京都内のライブハウスを中心に、「星川あや」名義でシンガーソングライターとしても活動中。

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