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言葉の舞台裏 演劇翻訳の悩ましき日常 小田島創志

Fワードはクソ厄介

 

※今回は、刺激の強い単語や表現が飛び交います。お読みの際は、あらかじめご了承ください。

 

 演劇翻訳者の天敵――それはFワードである。もちろん、すぐに翻訳できることもあるし、マンツーマン的に日本語に置き換えなくても、うまく表現できることもある。が、たったこの4文字の1単語が、まったくうまく訳せなくて、うんうん唸ることが多いのだ。しかもこやつ、ing系になって登場しやがることもある――oh, what the f××k――というわけで、今回はこれまで自分がFワードをどう訳したか、もしくはどう訳せなかったか、ご紹介していきたい。

 

 

 そもそもFワード(Fワード(つまりfuckのことで、以下はf××kと伏せ字にします)は、口汚い表現や罵倒表現、卑俗な表現で、いわゆる“swear words”の1つである。公の場での使用がタブー視されており、放送禁止用語だと思えば分かりやすいが、演劇の台詞では、非常によくお目にかかる。ただ、イギリスに限って言うと、1968年9月に演劇の検閲が廃止されるまでは、舞台上での発語が実質的に禁止されていた(と言っても、それ以前から存在していたFワードの使用が公的な場で急速に可視化されたのがちょうどその頃、1960年代以降である)。たとえば、2005年にノーベル文学賞を受賞した劇作家ハロルド・ピンター(1930~2008)の短編戯曲『風景』(Landscape) は、当初1967年に書き上げられていたが、劇中の台詞 “f××k all” (ともう一つ”bugger”) が検閲に引っかかり、上演許可が下りなかった。そのため、当時は舞台よりも規制が緩かったラジオドラマで先に放送されたという経緯がある。ちなみに、Fワードは文脈次第では強調語として使われるので、ポジティヴなニュアンスを強化することもある。だいぶ前、決勝ゴールを決めたとあるサッカー選手が、試合後のBBCのインタビューで、“I’m f××king happy (クッソ嬉しい)” とついうっかり言ってしまい、かなりざわついたことがあった。

 そう、Fワードは「クソ」「クッソ」みたいに訳してうまくいく――ことも多い。問題は、これで解決しないときだ。

 

 

 2019年、国際演劇協会(ITI)のシリーズ企画「紛争地域から生まれた演劇11」のために、ダイアナ・ンナカ・アトゥオナ作『リベリアン・ガール』(Liberian Girl)を翻訳した。この作品は、内戦下にある1992年のリベリアを舞台にしており、主人公の少女マーサは、祖母と逃げる途中で反政府軍に拘束されてしまう。祖母は反政府軍の兵士にどこかへ連れ去られるが、マーサは少年の姿に変装していたために、少年兵“ジャック”として彼等に徴兵される。

 物語の終盤、マーサは仲間の少年兵キラーと仲間割れを起こし格闘するが、その時にシャツが破け、胸を縛っていた紐があらわになる。その紐を見たキラーが言う台詞が “What the f××k is that!?” だ。何も考えないで「クソ、なんだよそれ!?」みたいに訳すのは簡単なのだが、状況をよく整理すると違和感が浮かび上がる。キラーはマーサのことを、ずっと少年 “ジャック”だと思い込んでおり、内戦下の極限状況において衣食住を共にしていた。その“ジャック” の胸にまかれた紐を目にしたとき、すぐ「クソ」と言えるだろうか。「クソ」とも言えない驚きが先に来るのではないだろうか。この段階のキラーはまだ、“ジャック” が少女だとはっきり気づいたわけではなく、謎の紐を目にして理解が追い付かない、といった心理であることが推察される。しかし日本語で「クソ」と先に言ってしまうと、すべて分かっている感じが滲み出てしまうのではないか。そう思い、「クソ」を省くことにした……のだが、結局それに代わる名案が思いつかず、ただの「なんだよそれ!?」とした。日本語では、これでも充分ニュアンスが出るだろう、と祈りつつ……。

 日本語の「クソ」は英語のFワードほど万能戦士ではないかもしれない。第3回「翻訳不可能?な台詞」でもご紹介したレイチェル・デ=レヘイ作『ウエストブリッジ』(The Westbridge)では、冒頭でジャマイカ系の母子が住む家に、“Asian Man” ――この“Asian”を「アジア系の」と訳していいのかいけないのか、はここではさておいて――がやって来て、憎悪に駆られながら中に押し入ろうとする。そのときの台詞が “I will f××king kill you!” だ。このようにFワードは、動詞の手前につくことも多いが、たとえばこういうときに「クソ殺してやる!」が成立するかは、人によって違和感が出るか出ないかギリギリかもしれない。読点を入れて「クソ、殺してやる!」だったら成立するかもしれないが、「クソ」のかかりかた(嫌な言い方ですみません)が変わってくるし、読点によって勢いがそがれてしまう可能性もある。Fワードが動詞の前に置かれる場合は、動詞のニュアンスを強調したり、勢いを出す効果があり、日本語でも先ほどのサッカー選手の「クッソ嬉しい」のように、形容詞の前につくと強調する効果が生まれる。では動詞はどうか。たとえば「あそこクッソ行くけど」という台詞を想像してみてほしい。日本語的には成立している……と思ったそこのあなた、これだと「よく行く」のニュアンスになるので、厳密には動詞を強める働きにはなっていない。“I will f××king kill you!” に話を戻すと、たとえば「クソみたいに殺してやる」だと、意味的には近いかもしれないが、途端にものすごく説明臭(「クソ」の話題で「臭」はまずいか)が出てしまう。そうなるとやはり、「クソ」を捨てる方向性がいい。ちなみに2021年の上演時は単に「殺すぞ!」としていたが、これもやはり、もっといい訳が見つかるかもしれない。

 また、この作品では別の箇所に、“f××king p×××k!(つまりprickのことで、以下は伏せ字にします。とはいえ、あと1回しか出てきません)” という台詞も登場する。そう、Fワードは他の罵詈雑言と合体して相手に殴りかかることもあるのだ。こうなるとさらに厄介で、直訳しても絶対に気持ちのいい罵詈雑言にはならない。日本語はそもそも、英語ほど罵詈雑言のバリエーションが多くない。そのため、相手を罵るときにどうしても不自然になってしまうときがある。

 そう言えば、ロンドンにウエストハム・ユナイテッドというサッカーチームがあり、そのホームスタジアム(当時はアプトン・パーク)に父親と試合を観に行ったことがあるのだが、近くにいたウエストハムのサポーターが、アウェーチームのサポーターに向かって、“f××king p×××k!”と叫んでいた。そして、叫んだ本人がちょっと照れていた。せめて、照れるなよ……。

 

 

 じゃあ結局、Fワードの翻訳で「クソ」は使わないのか、他の訳語を探ることになるのか。実は敢えて、「クソ」を使って翻訳したことがある。2022年に翻訳を担当したサイモン・スティーヴンス作の2人芝居『ハイゼンベルク』は、アイルランド出身で75歳の男性アレックス・プリーストと、アメリカ出身で42歳の女性ジョージー・バーンズがロンドンのセント・パンクラス駅で出会うところから始まる。アレックスはロンドンで肉屋を営み、家族はいない。どちらかと言えば、規則正しい毎日を、素朴に淡々と営んでいるタイプの人間である。しかし、駅で出会った“ただの他人”ジョージーが彼の肉屋に不意に姿を現したところから、二人の不器用な交流が始まっていく。

 サイモン・スティーヴンスの戯曲は全般的にFワードが多いのだが、この2人もFワードをしばしば使う。これまで述べてきたように、通常であれば、訳を工夫しなければ不自然になってしまうのだが、この作品に限って言えば、“そこでFワードを使っていること” を分からせる必要があった。劇の冒頭で、ジョージーは赤の他人のアレックスの首の後ろに、なぜかいきなりキスをするという衝撃の行動に出るのだが、彼女は “キスをされたあなたはきっとこう思ったはずですよね” という、アレックスが言いそうな想定台詞として、“What the f××k are you doing?”(何するんだ)と勝手に“代弁”する。ここのFワード、無視して翻訳することが会話の流れ上絶対に許されない。というのも、この後すぐに彼女は “I’m so sorry for swearing” (罵り言葉を使ってごめんなさい) と謝り、「いつも言っちゃう」「勝手に出てきちゃう」と弁明する。それに対してアレックスは “I like a good swear”(いい悪態は好き) と返す。この一連の会話において、Fワードが重要な役割を果たしているのだ。翻訳した際は“What the f××k are you doing?”を「クソ、何しやがる」と訳した。前述したように、そもそもこれはジョージーが勝手に予想した言葉なので、ある程度クサい翻訳になっても成立する。そしてその後の“I’m so sorry for swearing”は「ごめんなさい、クソとか言って」に、“I like a good swear”「良い感じのクソが好き」と訳した。原文のswear/swearing を敢えて「クソ」を入れて訳したわけだ。

 その後も二人は、Fワードを随所に入れつつ会話していく。その都度可能な限り、「クソ」を交えて翻訳した。たしかに日本語の会話で、あまりクソクソ言いすぎると、「日常会話じゃそんなに言わないだろう」という違和感が出てくる。しかしこの作品では、「その人が言いそうにない不自然さ」を大切にしたいと思う理由があった。それは何か。

 それまで全く接点がなく、年齢も生活環境もかけ離れている二人。その二人が、偶然出会って言葉を交わす。異なる世界にいた相手と、近づいたり離れたりを繰り返し、不器用に交流を育むうえで、冒頭のジョージーが言い放ったFワードは、ある意味コミュニケーションのツールとなったのではないか。ジョージーのFワードに対して“I like a good swear”と返したアレックスは、彼女の世界に近づく手がかりとして、自分のボキャブラリーにないFワードを敢えて言っているような気がしたのだ。たとえば他のシーンで、アレックスがダンスという意外な特技を明かす際に “I’m f××king brilliant” 「クソうまいよ」と言うのだが、その後のト書きに、“she smiles at his swearing” 「彼女は彼の汚い言葉に微笑む」と書いてある。アレックスのFワードがややぎこちなく、それに彼女が微笑み、そこにこの二人ならではの温もりが生まれている。アレックスにとって、普段の自分が使わない言葉。その「不自然さ」「異物感」は、アレックスの台詞において大切にするべきだと判断した。

 一方のジョージーに関しても、「勝手に出ちゃう」と自分では言いつつ、アレックスの前では意識的に使っている感じがした。実際彼女は “I know how happy my swearing makes you”(直訳したら、「私の汚い言葉があなたをハッピーにするのは分かっている」、翻訳では「私がクソって言ったら嬉しいんでしょ」とした)と言っている。アレックスの前で敢えて、自覚的に言っているという点で、アレックスとはまた違う意味でFワードに異物感があるような気がしたのだ。

 一般論では、日本語として不自然な翻訳は避けるべきだ。しかし『ハイゼンベルク』では、異物感を失くして「自然な会話」のみにするのは、むしろ原文から感じる登場人物と台詞の絶妙な距離感を踏みにじってしまうことになると思い、敢えて違和感を残した。まあ、狙いとしてはそうだったのだが、それが明瞭に伝わったかどうか、功を奏したかどうかはまた別の話だし、あくまで私個人の『ハイゼンベルク』論に基づく翻訳であることは強調しておきたい。

 

 

 今回ご紹介した事例以外にも、Fワードを「マジ」「やば」「カス」……等々の言葉で翻訳を試みたこともあり、どう処理したか、あるいは処理を断念したかの苦労話は、たぶん一晩中続けられる(一晩中聞かされる方は「クソ」迷惑かもしれないが)。いずれにしても、どう翻訳するかは原文の解釈に基づき、その解釈の裏打ちが訳文決定の絶対条件である。まあ、解釈したところでうまく翻訳できるかどうかは別問題なので、やはり、Fワードは「クソ」厄介……。

 


 

小田島創志さん翻訳作品 上演情報

❖劇団青年座 第266回公演「ハード・プロブレム」

2026年9月5日(土)~13日(日)
東京都 吉祥寺シアター

作:トム・ストッパード
翻訳:小田島創志
演出:金澤菜乃英

出演
久留飛雄己、 那須凜 、前田聖太、 横堀悦夫 、市橋恵、遠藤好、佐藤祐四、角田萌果、万田千尋 、小田島優月

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著者略歴

  1. 小田島 創志

    1991年生まれ。翻訳家・演劇研究者。武蔵大学、共立女子大学ほか非常勤講師。著書に『ハロルド・ピンター―〈間〉の劇作家』(水声社)、共著に『ジョージ・オーウェル『一九八四年』を読む―ディストピアからポスト・トゥルースまで』(水声社)。舞台翻訳作品に『タージマハルの衛兵』『ブレイキング・ザ・コード』『ドクターズジレンマ』『嵐 THE TEMPEST』『白衛軍―The White Guard』『スリー・キングダムス』など。一川華との共訳作品に、ミュージカル『ケイン&アベル』など。

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