「顧客」と「市場」ってなんだろう
この連載では、ビジネスという営みの基本音を順番に確かめてきました。人が何かに「力がある」と感じ、それが発見され、共有されるなかで「ド(価値)」が生まれること。そうした価値をめぐる学習の積み重ねが、「レ(生産)」と呼ばれる行為を成り立たせていること。その学習の厚みが「ミ(資源)」を立ち上がらせ、さらに他者へ共有可能なかたちに束ねられたものが「ファ(商品)」であること。前回まで耳を澄ませてきたのは、共同体による学習の履歴がどのようにかたちをなしていくのか、という話でした。
今回は視点を移して、そのようにして学習の結晶となった「ファ(商品)」の音と出会う側から考えてみたいと思います。
前回ぼくは、「商品」とは「学習の運動の中に節点をつくり、その流れをさらに加速させる」と書きました。今回は、その節点の向こう側へと歩みを進め、「ソ(顧客)」と「ラ(市場)」という音の響きを聴いてみようと思います。
「客」が生まれる場所
ぼくたちは日常のなかで、よく「お客さん」という言い方をします。屋根や家屋を表す「宀」と、「足を止める」や「いたる」の意を成り立ちに持つ「各」から成る「客」という字を用いて、店に来た人、場を訪れた人をそう呼んでいます。
その「客」という字に、「顧」という字が足されてはじめて、「顧客」になります。
普段は意識せずに使っている「客」と「顧客」。ぼくはこの二つの言葉をあらためて並べてみたとき、そのあいだには、小さくない違いがあるように感じます。今回はまずその違いを考えてみたいと思います。
人と「商品」が出会う最初の場面を想像してみることから始めてみます。
前回、「商品」とは、共同体による学習の履歴がひとつのかたちに束ねられたものだと書きました。そうだとすると、人と「商品」が出会う最初の場面とは、他者の学習の厚みと、自分のまだ足りていない学習の厚みとが、はじめて接する瞬間とも言えます。そのため、「商品」に触れた瞬間から、その「価値」のすべてを理解しているわけではありません。けれど、説明が間に合うより先に、手や目といった身体が反応してしまう。「力がある」と感じてしまう。その受け取りから、人と「商品」との出会いが始まります。
例えば、初代iPhoneとの出会いは、そのことをよく示していたように思います。2007年1月の発表の場では、それは「電話」であり、「インターネット」であり、「iPod」でもあるものとして語られました。いま振り返れば、Apple社が用いた「電話の再発明」という言葉以上の新しい学習の結晶が、ぼくたちの目の前に現れた瞬間でした。iPhoneを表す言葉はまだ定まっていなかった。だからApple社は、ぼくたちが既に学習している言葉を仮置きしながら、社会の学習が追いつくのを待っていた、ということでもあったのだと思います。そのような状況で、ぼくも含めて初めてiPhoneに触れた人は、そこに「電話」でもなく、「インターネット」でもなく、「iPod」でもない、それ以上の何かを感じ、手を伸ばした。すでに知っている言葉では収まりきらないものに対して、身を乗り出した。学習の結節点としての「商品」の前で、理解より先に、感覚のほうがはたらき始めたのだと思います。
ここで興味深いのは、手を伸ばしたぼくは、この段階ではまだ、その「商品」がもたらす便利さも、豊かさも、生活をどう変えるのかも、はっきりとはわかっていないことです。背景にある技術の連なりも理解してもいない。自分の暮らしの中に位置づけてもいない。けれど、ぼくはiPhoneを手にした。前回の「包丁を買う場面」も、第1回の「裏返しに着ている」と母に言われたComme des Garçonsのシャツも、食材を鮮やかに切れる理由をまだ説明できなくても、縫い目が表に出ていることの意味をまだ言えなくても、手を伸ばし、それを手にしていました。これらは同じ運動の別の場面なのだと思います。
前回ぼくは、「商品」とは、「できる」を増やす学習の入口である、とも書きました。その入口の前に人が立った時、その扉は「わかる」より先に開かれ、新たな学習へと迎え入れられる。「宀(家屋)」へ「足を止める・いたる(各)」という成り立ちを持つ「客」は、そのようにして生まれると捉えることができます。
「客」が「顧客」になるとき
では、「顧客」はどのように捉えることができるのでしょうか。
「客」という言葉と違い、「顧客」という言葉には「顧」という字があります。「顧」という字からは、かえりみること、ふりかえること、思いを巡らすこと、気にかける、という働きが感じられます。そこには「客」だけのときにはなかった、気持ちや注意の向け方があることがわかります。この心の向け方を企業の側から捉えたときには、「思いを巡らせ気にかける客=お得意の客」という意味が宿り、ビジネスの世界で普段から耳にする「顧客」と呼ぶようになったのだと思います。でもここでは、その心を向ける主体を学習の入口を通過した「客」の側で捉えてみたいと思います。「客」に「顧」という字がつくのは、どのようなときなのかという視点です。
先ほどの初代iPhoneを手にしたぼくは、そのときに「スマートフォン」という言葉を知っていたわけではありません。むしろ、ぼくも含めて多くの人は、しばらくそれを「新しい電話」として持ち歩き始めた。そして、使い続けるうちに、その意味を自分の中で更新していったのではないでしょうか。それは電話というより、カメラであり、音楽プレイヤーであり、地図であり、メモであり、と「新しい電話」とは違う「意味」を発見していった。同じ「商品」を手にしていても、そこに見出す「意味」は人それぞれに開かれながら、時が経つにつれて、人と人のつながり方そのものをも変える道具になっていった。「商品」そのものではなく、それをめぐるその人の生活の中で、その人にとっての「意味」が育まれた。そこには、つくり手が差し出した学習の束と、使い手が生きるなかで重ねる解釈と実践とが、重なり合う時間があります。
ここに、前回までとは違う風景が見えてきたように感じます。
前回までの言葉で言えば、「商品」とは、学習の結晶であるとともに、学習の入口です。その入口に招かれた「客」は、その生活の中で、それぞれに学習を始めるのです。「商品」をつくった側が束ねた学習と、それを紐解く側が暮らしの中で育てる学習。その二つが重なるところに、「商品」の「意味」が立ち上がる。「客」の使い方、感じ方、思い返し方によって、前回まで見てきた「価値」だけでなく、さまざまな「意味」も育っていく。「商品」の「意味」は、そこで初めて厚みを持ちはじめます。そのとき「客」は、「価値」を受け取る人では収まらない、「意味」をともにつくる「顧客」となるのだと思います。
経験の中で、商品の意味がともにつくられる
ここで、この風景を別の角度から照らしてみたいと思います。
ひとつ目の照明は、アメリカの哲学者ジョン・デューイの考えです。デューイは、『経験としての芸術』のなかで、経験はただ起きるものではなく、ひとつのまとまりとして結ばれてはじめて、深い「意味」を持つと考えました。ぼくたちの経験はたえず続いているけれど、そのすべてが同じように心に残るわけではない。ぼくたちの毎日は経験で満ちているけれど、そのなかには、一つのまとまりを持つ経験がある、と。始まりがあり、展開があり、そのあいだを貫く質がある、そんな独自の統一性が与えられた経験がある、と。あとから振り返ると、そのような輪郭を持って区別できる経験を、彼は「一つの経験(an experience)」と呼び、その他の「日常的経験(ordinary experience)」と区別しました。
またデューイは、経験は「為すことと被ること(doing and undergoing)」という能動と受容の相互作用のサイクルのなかで成り立つものと考えました。こちらが何かを試み、その結果として何かを受け取る。その受け取ったものが、また次の行為を変えていく。対象に対するその人の能動的プロセスを経て、経験はひとつのまとまりを持ち始める、と。そして、芸術作品を、完成した物としてだけではなく、人がそれに触れ、味わい、受け取りながら成立していく「一つの経験(an experience)」として捉えました。受け取る側もまた、目の前のものをただ受け入れているのではなく、自分の感覚や記憶を通して、その経験をつくっている。つくることと受け取ることは、切り分けられた別々の行為ではなく、「一つの経験(an experience)」の両側にあるものだという見方を示しました。
この見方を「商品」と「客」との出会い、そして「顧客」になるまでの時間に引き寄せてみると、これまでに見てきたことがさらにはっきりします。「商品」とは、手にした瞬間に「意味」が定まるものではなく、使い、迷い、慣れ、思い返すなかで、「一つの経験(an experience)」として結ばれ、「意味」が定まるものであると考えることができます。
初代iPhoneも、買った瞬間にその「意味」がすべてわかったわけではありません。電話として持ち歩き、写真を撮り、地図を見て、音楽を聴き、メモを取り、少しずつそれが自分にとってどのような「意味」を持つものかが定まってきた。その積み重ねを通して、iPhoneは「新しい電話」ではなく、別の「意味」となっていったはずです。
もうひとつ、別の角度からも照らしてみます。
ふたつ目の照明は、フランスの批評家であるロラン・バルトの考えです。バルトは、テクストを読むということを、作者の意図を受け取ることとは考えませんでした。むしろ彼は、『S/Z』のなかで、読み手をテクストの「消費者」ではなく「生産者」と捉えることを大切にしました。そこで区別されたのが、「読めるテクスト(lisible)」と「書けるテクスト(scriptible)」です。前者は、すでに読み方が整えられていて、受け取ることが中心になるもの。後者は、読む人自身がそこへ参与し、「意味」の生成に関わっていかなければ立ち上がらないものです。
バルトの考えを手がかりに「商品」と「客」、そして「顧客」のことを考えてみると、「商品」にも「読める商品(lisible)」と「書ける商品(scriptible)」がある、という視座を得ることができます。ある「商品」は、すでに使い方が社会のなかでほぼ整っていて、その「意味」も社会のなかで共有されている。けれど別の「商品」は、使う人がその使い方そのものを育てながら、「意味」を社会のなかで広げていく。そこでは、「商品」は「価値」のまとまりであるだけでなく、「意味」を育てる入口としても働きます。そして「客」は、「価値」の受け手というより、「意味」の書き手に近い存在になります。
ぼくには、「顧客」という言葉には、このような能動性が含まれているように思えます。気にかけ、思い返し、商品を使いながら、自分の生活の中でその「意味」を生成し、更新していく「客」。つくり手が差し出した学習の束を、自ら解き、編み直し、「意味」をつくりだす「客」。「商品」を購入した「客」が、「意味」をつくるプロセスに参与する「意味の共創者」となったとき、ぼくたちは
その「客」を「顧客」と呼ぶようになるのではないでしょうか。
「誰もまだわからない」と「みんなもうわかっている」のあいだ
このように学習の運動のなかで「商品」と「客」、そして「顧客」という言葉を捉えてみると、「市場」という言葉からも、これまでとは違った響きが聴こえてきます。
一般的には、「市場」とは売り手と買い手による取引の場だと理解されています。けれど、これまでの考えの延長線では、「市場」はそれだけでは言い表せないように感じられます。売り買いが行われる場であるとともに、異なる学習の蓄積が出会い、「価値」が交換され、「意味」の共有が進んでいく場でもある。「市場」とは、ある学習が社会全体へと共有されていく、その途中に生まれるコミュニケーションの場のようにも見えてきます。
「市場」では、「商品」だけが動いているのではありません。理解が動く。言い換えが動く。比喩が動く。驚きが動く。戸惑いが動く。使ってみた人の話が動く。そうしたやりとりのなかで、「これは何なのか」「どう使うものなのか」「どのように暮らしを変えるのか」という理解も少しずつ共有されていきます。売買とともに、「意味」が広がり、理解が広がり、学習が広がる。そのようにして、一部の人にしかわかっていなかったことが、少しずつ共通のものになっていきます。
すると「市場」は、「誰もまだわからない」と「みんなもうわかっている」のあいだに生まれるのだと気づきます。前者だけでは、交換はまだ起きません。後者だけでは、交換はもう起きません。むしろ、理解が揺れているから「市場」になる。「意味」がまだ安定していないから、「顧客」の言葉や使い方が重要になる。「市場」がもっとも「市場」らしくなるのは、まだ十分には共有されていない学習が、社会のなかで少しずつ共通のものになっていく、その途中なのだと思います。
「communication」が生む、市場の質
「誰もまだわからない」と「みんなもうわかっている」のあいだに生まれるコミュニケーションの場として、「市場」が見え始めると、次はその「コミュニケーション」とは、そもそもどのような働きをもつ言葉なのか、も気になり始めます。
ここであらためて「communication」という言葉の成り立ちを辿ってみたいと思います。すると、その由来にラテン語の「communis(共有の、共通の)」という言葉と出会います。そこから「共有する」「共通のものとする」「分け与える」「知らせる」「結びつく、参加する」といった多面的な意味をもつ動詞「communicare」が生まれ、名詞「communicatio(共有すること、分け合うこと、交わり)」が派生したそうです。「伝達」や「意思疎通」と訳されることが多いこの言葉の中心には、「共有する」という行為によって、「共通のもの」という状態を目指す働きがあることがわかります。先述のデューイは、この語源的構造をふまえ、「コミュニケーションとは、経験が共通の財産となるまで、経験を分かち合う過程である。」と表現しています 。
「市場」もまた、そのような働きによって成り立っているように思います。学習を「共有する」という能動的な行為によって、学習を「共通のもの」にしていく過程であると。まだ一部の「客」にしかわからない「商品」の「価値」に、「顧客」の経験によって「意味」が与えられ、その「意味」を他者と共有することで、共同体のなかに共通のものが増えていく。共同体のなかに共通のものが増えると、「価値」や「意味」はさらに共有することが容易になる。そのようにして、「誰もまだわからない」が「みんなもうわかっている」に変わっていく。
その過程をもう少し近くに寄って見てみます。
林檎のことを考えてみましょう。林檎には、本来いろいろな違いがあります。大きさ、重さ、色つや。これらの違いは、多くの人にとってすぐわかる。けれど、口に入れた瞬間の香り、噛んだ時の歯ごたえ、誰とどんな場で食べると嬉しいのか、といった違いは、そう簡単には共有することができません。共通のものが少ないからです。それを共通のものにするためには、もう少し時間が必要で、言葉が必要で、「意味」の往復が必要だからです。一方で近年、甘さという違いは、数値という共通のもののうえで、共有することができるようになりました。
このように「市場」は、共通のものにしやすい「商品」から先に運んでいくようになっています。一方で、まだ十分には言葉を持っていない「価値」や、ある共同体の中でだけ細やかに育ってきた「意味」は、往来しにくい。「市場」がコミュニケーションの場である以上、そのような働きを持つものだとわかります。
この働きに注目すると、「市場」には質の違いを生み出すことができることに気づきます。
すでにある共通のものを重視することで、共有しやすくなります。すると短い期間で広がる。大きく広がる。そんな「市場」が生まれやすくなります。一方で、共通するものを時間をかけて育むことを重視することで、すぐにはわかりにくいものまで共有することができるようになります。そんな長い時間をかけて育つ「市場」を、ぼくは「深い市場」と呼んでみたいと思います。
「市場」の奥にあった、別の「市場」
そこで思い出すのが、料理人の中東篤志さんとご一緒した京都にある錦市場での時間です。
中東さんは、京都の料理一家に育ちながら、一度アメリカでバスフィッシングに身を置き、環境から生態を読み解くような思考を身につけたあと、あらためて料理へ戻った人です。 One Rice One Soup社の代表として、その土地その土地の環境に適応しながら、日本食を次の時代へどう手渡していけるかを考え続けている料理人でもあります。

京都・錦市場を中東さんと歩くとたくさんのお店の方から声をかけられる
その中東さんと、朝の錦市場へ行きました。観光客の方がちらほら歩き始めるくらいの時間帯で、多くの店のシャッターはまだ閉まっている。そんな静かな「市場」を一緒に歩くと、そのなかに、中東さんが迷いなくシャッターをくぐり、奥へ入っていく店がいくつもあります。そして、そこにはすでに別の「市場」が動いていました。
とりわけ印象に残ったのは、魚屋さんでの光景です。生け簀には鱧が並び、それぞれの上に有名店の名札が置かれていました。「この鱧は、○○屋へ」「あの鱧は、○○料亭へ」と、すでに区別されている。そこで「料理人さんが毎日、見に来られるんですか?」と魚屋さんに尋ねると「それぞれの好みがわかるから、今日入ってきたものを見て、電話でお伝えするだけだよ」という答えが返ってきました。波が荒いところで獲れた脂の少ない鱧は、あの店が好むだろう。こちらの脂の乗った鱧は、この店が好むだろう。そういう見立てを持って、ご案内しているのだと。そこで、「それぞれの好みを知るために、それぞれのお店に何度も食べに行かれたんですか?」と尋ねると、返ってきたのは「ダメだったら怒られるんだよ」という言葉でした。良かったときは何も言われない。けれど、違ったときには連絡が来る。良い魚が入ったかどうかだけではなく、その魚がどの店の料理に合うか、どの店がどんな質を好むか、その見立ての精度がやりとりされている。しかも、それは続けることを前提にした関係の中で鍛えられていたのです。
ここには、これまで見てきた「客」と「顧客」の違いが、別のかたちで表れているように思います。
錦市場は、いつも多くの観光客で賑わう「市場」です。たくさんの人が「市場」を訪れ、珍しいものがある、活気がある、美味しそうだと感じながら通り過ぎる。そんなたくさんの「客」が行き交う「市場」です。
一方で、「顧客」が行き交う「市場」でもあります。「顧客」が行き交うとき、「市場」は深くなっていきます。どんな鱧がよいのか、どんな季節感がその店らしいのか、どの程度の脂がその料理に合うのか。そうした違いは、誰にでも共通のものではありません。すぐに共有することもできません。やりとりを続けるなかで共通のものになっていきます。やがて「美味しさ」というとても個人的な「意味」までもが行き交う「市場」になっていきます。中東さんのような「顧客」が行き交うとき、「市場」は学習する場となり、「深い市場」になるわけです。
今回は、「客」と「顧客」という言葉の違いから始まり、「市場」という言葉の見え方まで、ゆっくりと視点を移しながら、ビジネスという営みのドレミファソラシドの「ソ(顧客)」と「ラ(市場)」の音色を確認してきました。学習の運動が、共同体から共同体へと広がっていく。その風景のなかを歩いてみました。
そして学習の運動は、遠く距離を超えて続いていきます。長く世代を超えて続いていきます。
次に考えてみたいのは、その「続く」ということです。「シ」の音には「資本」の、音階が上がった「ド」の音には「会社」の、それぞれの音が響いています。


