「生産」ってなんだろう
前回は、ビジネスという表現手段のドレミファソラシドの「ド」にあたる「価値」について考え、その音色をあらためて確かめてみました。
「価値を感じる」「価値を生む」とはどういうことなのか、その手がかりを求めて出会ったラテン語の「力がある(valere)」という「価値(value)」の語源を起点に、〈見る〉〈食べる〉〈取る〉といった、生きるためのさまざまな動詞が「より可能な状態になる」ものを有用であると、人が発見し、区別したときに、世界に「価値」という差異がひとつ刻まれること。共同体のなかでそんな「発見」と「共有」が繰り返され、これまで未価値だったものがどんどん「価値づけ」され、価値化されていくこと。そのような共同体による学習の結晶である「価値」が交換され、この世界の学習量がどんどん増えていくこと。そんなプロセスを一緒に想像してみました。
今回は、次の音である「レ」としての「生産」について。その響きに耳を澄ませることからはじめてみましょう。
「前へ導く」という原型を訪ねる
早速、「生産」という言葉を考える手がかりを『広辞苑』に求めてみると、「人間が自然に働きかけて有用な財やサービスをつくり出すこと、もしくは獲得すること」とあります。そして、「produce(生産)」の語源は、ラテン語の「prōdūcere」。「pro(前)」と 「ducere(導く)」に由来するそうです。
『広辞苑』にある「作り出すこと」には馴染みがあります。一方で、「獲得すること」について、そして、語源にある「前へ導く」という「生産」のイメージはどうでしょうか。ここでひとつ、みなさんと共有したい体験が思い当たります。
ぼくが暮らす京都には「工藝の森」と呼ばれる森があります。京都市内から車で約1時間、右京区京北町にあるその森は、人と自然のあいだにある“つくること”の意味を探求するための森。一般社団法人パースペクティブさんが日々の手入れをなさっています。
「工藝の森」のコンセプトの中心には、「藝」という文字があります。工藝の「藝」の字は、「植物を大地に両手で植え育てる」様子を表す「埶(げい)」という字から生まれました。年月とともに「草木の世話をする」「手を加えて良いものにする」という意味が強化されて「技」を意味するようになり、やがて人をより豊かに育てる「教養」という事柄までを示すようになりました。「工藝の森」を運営するパースペクティブ代表の高室幸子さんは「植えることから始まるモノづくりを通して、自然と人との関係を学びなおす場」として森づくりをしていると言います。「工藝の森」は草木だけでなく、人も育つ。まさに、学校のような森なんです。

学びのフィールドとしてデザインされてる「工藝の森」を歩く
そんな「工藝の森」を高室さんと一緒に歩いていると、「これは硬いから、こんなものに使われてきた木だよ」「これは香りがいいから、こうして使われている木だよ」「これは柔らかいから、こうやって使われてきた木だよ」と次々に教えてくれます。ぼくには、「木」と「木」と「木」で「森」だと見えている景色が、彼女には「杉」「檜」「欅」「栗」「楢」「桐」……と、たくさんの種類の異なる「木」によって構成されている「森」に見えていることに驚きます。区別できる「木」の種類が、ぼくとは桁違い。つまり、学習の度合いによって、世界の見え方が根本的に異なっているのです。

「工藝の森」には様々な樹種が息づいている
彼女たちは森の中で、「桐」のような「用いることができる木(有用な木)」が芽生えているのを見つければ、その周りに生えている現時点では「用いることのない植物」である「草」を取り除き、「桐」に陽が当たるように環境を整えていきます。すると翌年には、その「桐」が大きくなるだけでなく、周囲にいくつかの「桐」が芽生えていることに驚きます。その「桐」が落とす種が大地まで着地し、芽が出る可能性を増やしているわけです。
彼女たちは、作り出していません。彼女たちがしていることは、「発見」し、「区別」し、「次に起こることを予測」し、そのうえで「草木の世話をする」ということです。そのことで、自然の生産力を引き出すことができている。そう、「前へ導く」という「生産」をしているわけです。
ここで『広辞苑』が「獲得すること」も「生産」としている意味もわかります。「生産」とは「人間が自然に働きかけて有用な財やサービスを作り出すこと、もしくは獲得すること」だから、草を取り除くことだって立派な生産であり、原材料も要らなければ、機械や工場などの工業設備も要りません。
前回確認したように、「あの木は硬いから〈叩く〉をより可能にするものだ」「あの木は柔かいから〈巻く〉をより可能にするものだ」というように、生きるための行為が「より可能な状態になる」ものは有用だ、という「発見」と「共有」による組織的な学習のプロセスである「価値づけ」によって他の「木」から「桐」を区別し、さらに「これをこうするとこういうふうになる」とすでに学習しているからこそ、「桐」を「生産」することができています。「栗」も「山椒」も一緒です。
そのようにみると、「生産」もまた、「価値」と連なる学習のプロセスそのものに他なりません。
「工藝の森」という学校のような森の中で、ぼくは「生産」の語源の面影を感じ、その言葉の音色に、これまでにはなかった知的で連続的な優しい響きを確認できたのでした。
「学習の履歴」によって育つ森
この学習のプロセスとしての「生産」の音にもう少し浸ってみようと思います。そこで、グレゴリー・ベイトソンという学者が研究した学習のプロセスを補助線にしてみます。
ベイトソンが研究した学習のプロセスによると、人は常に「知覚」しながら生きています。 工藝の森を歩いたとき、ぼくの網膜は様々な物理的な光の波長を受け取りながら、受け取ると同時に「木」という区別がぼくと世界の関係のなかで立ち上がっています。目の前にある多様な植物についての視覚情報が入ってきていますが、そこにある「杉」とか「檜」といった違いは差異として有効に働かず、一方で「水」でも「空」でもないという差異は有効に働いています。 ぼくのこれまでの学習の履歴が、無意識的にどの差異を有効にするかを方向づけていることがわかります。ベイトソンはこのように、世界と人の関係のなかで、多様にありえる差異の中のひとつが差異として有効になり、区別として立ち上がるプロセスを「知覚」と呼びます。
また、人は「知覚」した区別に基づいて、痛い、嫌だ、怖い、好き、嫌い、良い、悪いなど、その区別が行為にとってどのような意味を持つのか、その意味を定めながら生きています。差異が行為を方向づける意味を帯びるとき、ぼくたちはそれを「判断」と呼びます。
森を歩くぼくにとっての「木」は、これまでのぼくの学習をもとに、ぼくの行為に影響することのない「背景」としての意味を帯びた差異だと「判断」されています。でも例えば、「木」が倒れているのを見かけたとしたらどうなるでしょうか。「木」という区別に与えられている意味が変わり、それにともなってぼくの「判断」は再編されます。「木」はそれまでの「背景」から、「危険」という意味も帯びた行為を方向づける差異へと転換します。
このように、差異がどのような意味を持つかを方向づけている枠組みのことを、ベイトソンは「文脈」と呼びます。そして、この「文脈」自体が変わるプロセスを「学習」と位置付けています。「木」が「危険」という意味も帯びることができたのは、ぼくのなかで「文脈」が変化し、ひとつの「学習」がなされるからだ、というわけです。
では、高室さんから「あの木は硬いから〈叩く〉をより可能にするものだ」「あの木は柔かいから〈巻く〉をより可能にするものだ」と聞いた時はどうでしょうか。その時、ぼくと世界のあいだの「文脈」が揺らぎます。そして「木」という区別のなかに「有用」という意味も帯びた差異も働きはじめています。差異の意味づけが広がり、「判断」の枠組みも組み替えられます。ぼくのなかに「学習」が起きているのです。
さらに、草を取り除くことで桐や大地に陽が当たり、翌年には新しい桐が芽生える可能性が増えるという因果関係に気づいた時、ぼくの中の変化はもう一段深いものになります。ここでは、「桐」に新しい意味が加わるだけではありません。「草」「桐」「陽」「大地」「時間」と区別されたそれぞれの差異が、互いに影響しあう関係として見えはじめるのです。ぼくの中で、差異の意味づけを支える「文脈」が、ひとつ更新されています。
その時ぼくに起きた「学習」には、「知識が増える」という出来事とは違う質があります。
森の中で見る連続する緑の風景は、それまでのぼくにとってはフラットな「背景」でした。けれど、高室さんの言葉や行為に触れながら歩くなかで、その背景に句読点が生まれました。「硬い」「柔らかい」「叩ける」「巻ける」「芽吹く」「育つ」。それまで有効ではなかった差異が、次々に意味を帯びて働きはじめたのです。
世界は変わっていません。 変わったのは、ぼくの「世界の分け方」です。
彼女が区別できる「木」の種類が、ぼくとは桁違いだということにも、彼女の方がぼくより多くの名前を知っているという事実以上の奥行きがあります。彼女は、森全体を「工藝の森」として見るための「文脈」を獲得していたのです。連続する緑を、「有用/無用」「硬い/柔らかい」と瞬時に区別し、意味づけを行っている。「草」を背景としての植物ではなく、「桐を育てるための条件」として再配置している。それは単なる知識の量の問題ではなく、世界を認識するための枠組みそのものが書き換わっている状態です。
もちろん高室さんもまた、彼女一人の経験だけでその「文脈」を獲得できたわけではありません。お世話になってきた林業者の方々や職人さんたちの学習の履歴、手にしてきた書籍や道具たちに内包される学習の履歴など、過去から今日まで連なる無数の学習の履歴の折り重なりのうえで、彼女は「文脈」と出会うことができたわけです。
そして、ぼくもまた「工藝の森」の中で、新たな「文脈」に出会い「学習」が起きました。「生産」という言葉の音色に、これまでにはなかった知的で連続的な優しい響きを感じたのは、工場でモノを作るという産業的な文脈のなかで響いていた「生産」という言葉が、「自然の力を引き出し、世話をし、前へ導くこと」という新たな文脈の中で響き始めたのです。
そう思うと、「工藝の森」という学校のような森は、学校のような森だからこそ「工藝の森」であり続けられるのかもしれません。無数の「学習」の履歴によって、森は緑の集合ではなく、「前へ導く」可能性が編み込まれた「工藝の森」として育まれているのだと思います。
「経済」という学習のプロセス
「工藝の森」での体験をもとに「生産」を学習のプロセスとして捉えてみるなかで、ある言葉に新たな感触を得ました。「経済」についてです。
「工藝の森」での体験の中で、草を取り除くことで桐や大地に陽が当たり、翌年には新しい桐が芽生える可能性が増える、という因果関係に気づいているということは、「これをこうするとこういうふうになる」とすでに学習していること、と書きました。このことは言い換えると、今の状況と今ではない状況に対する関係が差異として働き、その差異が「時間」という意味を帯び、「時間軸」を扱える文脈の中で「過去」や「未来」という概念の形成へもつながってると見ることができます。「時間軸」という文脈があるからこそ起こる「学習」です。
このように、「これをこうするとこういうふうになる」と知っているのは、人だけではありません。人も含めた多くの生きものが、因果関係を理解します。では、人にとって「時間」という区別が、「過去・現在・未来」のような概念となるまでに強く刻まれたのはなぜでしょうか。言い換えると、共同体として「時間」の学習の履歴を重ねたのはなぜか、ということです。
前回、言葉のはじまりに思いを馳せるエピソードとして、目の前で「あれ」「これ」と指差しができない状況になって初めて道具に名前をつけた、という職人さんのお話を紹介しました。目の前のものを指差しで認識し合うことができない伝達を必要とする環境になることで、「名詞」が必要になるという話です。この構造を「時間」で考えてみると、どうなるでしょうか。「これをこうするとこういうふうになる」ということが、目の前で認識し合えないけれど、伝達したい状況。目の前で認識し合えないということは、行為と結果のあいだにいまこの場では共有できない時間を要する因果関係が働く状況です。しかも、共同体として伝達したい事柄。すぐに思い浮かんだのは、狩りをする人を待つという状況です。でもこれは、他の動物にもある状況です。
では、保存はどうでしょうか。食べ物を「採って貯めておいて、後で食べる」という保存を学習することは、強烈に「過去・現在・未来」を必要とします。「時間」のスケールが「過去」と「未来」の両方へと飛躍的に伸びます。地球に起こる季節の周期の中で、「小鳥が多い時期」「芽がたくさんある時期」「動植物が動きにくい時期」など、「食べる」にまつわる状況は周期性を伴いながら共同体における学習を進め、「時間」という概念を強化してきたのだと想像することができます。こうして共同体のなかに「時間」を扱う文脈が育つと、保存・分配・交換にまつわる学習も同時に育つことになります。
ここで、「経済」という言葉と改めて出会ってみます。『広辞苑』には、経済とは「人間の共同生活の基礎をなす、財、サービス、生産、分配、消費の行為と貨幣並びにそれを通じて形成される人と人との社会的関係の総体」とあります。ぼくにはこれが、「共同体が学習の履歴を積み重ね、その知恵を次へ手渡すプロセス」として聞こえます。
この「人間の共同生活の基礎をなすもの」を先ほどの「食べる」と置き換えて読んでみるとどうでしょうか。「食べる」にまつわる様々な学習によって、「時間」も含めて「共同生活の基礎をなす」ものごとを学習し、「食べる」を通じて形成される人と人の関係が世界に「文脈」の網の目を広げ、人の学習環境を豊かにしていったと考えることもできるように思います。そして、このように豊かになった学習環境のベースの上に、農耕がはじまり、経済が今ぼくたちが営む経済活動へとシフトしていったと想像できませんか。「経済」という言葉に、社会的な学習環境の発展のプロセスとしての響きを感じることができたことは、ぼくにとって、ビジネスという演奏そのものの捉え方を変える発見でした。
今回は、「レ」である「生産」という音の響きを確認してみました。その中で「経済」という、鍵盤に並ぶ音というよりも、音楽という営みにあたる大きな言葉の音色にも耳を傾けてみました。次は、「ミ」としての「資源」、そして「ファ」としての「商品」へと続きます。ともに、ビジネスにおいて前提として用いられる言葉であり、「ド(価値)」「レ(生産)」の音を続けて確認してきたからこそ、その隣に続く「ミ(資源)」と「ファ(商品)」の音色もまたよく聴こえるはずです。


