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事業表現考——組織的表現としてのビジネスの技法 桜井肖典/増村江利子(聞き書き)

「資源」と「商品」ってなんだろう

 ビジネスという営みを、「価値の共有を通じて意味の形成を図る、文化的な行為である」と捉えてみたいという提案からはじまった本連載では、ビジネスのドレミファソラシドの音色をあらためて味わってみようと、これまでに「ド(価値)」「レ(生産)」と、順番に耳を澄ませてきました。

〈見る〉〈食べる〉〈取る〉といった生きるためのさまざまな動詞が「より可能な状態になる」ものを有用であると、人が発見し、区別し、共有する。そのような学習が繰り返されるなかで、ある差異が「価値づけ」され、世界に「価値」が生まれる。「これをこうするとこういうふうになる」という関係も同じような過程を経て差異として「価値づけ」され、ぼくたちが「生産」と呼ぶ行為も可能になる。そんな学習を重ねてゆく知的で連続的なプロセスとして、「価値」と「生産」を確かめてきました。

 今回は「ミ」としての「資源」、「ファ」としての「商品」を考えてみたいと思います。

 

「資源」をめぐる文脈

「資源がない」という言葉を耳にすることがあります。資源に乏しい国、資源のない地域、資源の限られた組織。ぼくはその言葉を聞くたびに、どのようにして資源が「ある」「ない」と判断しているのだろうと疑問に思ってきました。例えば、日本という国は、石油の埋蔵量という観点 基準から見れば資源の「ない」国になりますが、水を基準にすれば資源の「ある」国になります。

「資源」という言葉と主体との関係についても、不思議さを感じます。トマトソースのパスタをつくろうとして冷蔵庫を開けたけれど、トマトがなかった。そんな時、ぼくたちは「材料がない」「素材がない」とは言っても、「資源がない」とは言いません。しかし、同じトマトでも、イタリアという国や熊本という県、あるいはデルモンテのような企業にとっては、それは材料や素材ではなく「資源」の有無として語られることになりそうです。

 また、ある時代から「資源」と呼ばれるようになるものがあることも、興味深い点です。ある時代には石炭が、別の時代には石油が、そして現在ではデータや関係性までもが「資源」と呼ばれるようになりました。人類の歴史を振り返ると、このように「資源」という言葉が指し示す対象は、時代によって変わることにも気づきます。

 こうして考えてみると、資源とは「これは資源です」「これは資源ではありません」とあらかじめ名札がついているようなものではなく、どうやらぼくたちと事物との文脈によって決まるもののようです。

 

「資源」とは、あるものではなく、なるもの

 例えば、石油という「資源」について考えてみます。

 石油は古代から利用されてきました。紀元前から船の防水や道路舗装に使われ、シュメールやバビロニアでは建築や医療にも用いられていたといいます。また日本書紀には「越国、燃ゆる土燃ゆる水を献ず」と、臭い水を意味する「草生水(くそうず)」と呼ばれていた原油を天皇に献上した記述があります。かつて人々は、地表ににじみ出るこの黒い液体を、防水、接着、灯火など多用途の素材として価値づけしていたことが伺えます。石油は存在していましたが、石油をどのように使うかについての学習は、まだ限定的だったのです。

 転機は、1859年に訪れました。エドウィン・ドレークさんという米国の元鉄道車掌が、石油採掘を目的に蒸気機関を用いて井戸を掘り、地下約21メートルの深さで原油を掘り当てました。以降、石油を大量に採取できるようになると、人々の石油に対する見方が変化していきます。まず灯油としての利用が広がり、石油は照明を支える存在として価値づけられました。そして内燃機関の発展により、石油は移動を可能にする燃料として位置づけられます。自動車、航空、化学工業と、石油は文明の基盤としての意味を帯びていき、「資源」となりました。

 こうして振り返ってみると、石油が「資源」となったのは、石油そのものが変わったからではありません。人類の石油をめぐる学習が深まり、「これをこうするとこういうふうになる」という学習が重なり続けた結果として、石油が「資源」として立ち上がったと捉えることができます。

 変わったのは物質ではなく、その物質をめぐる人類の学習の厚み。だとすれば、「資源」になるのは物質だけではないのかもしれません。

 そこでもうひとつ、物質ではないものについても考えてみましょう。例えば、「データ」です。

 今日では、データはしばしば「資源」と呼ばれます。顧客データ、データ活用、データ管理。データを資源として扱う言葉は、ビジネスの現場でも日常的に使われています。しかし、データが「資源」として語られるようになったのは、ごく最近のことです。

 紀元前四千年紀のウルク(メソポタミア南部で繁栄した世界最古の都市のひとつ)では、羊や穀物の数量を粘土板に刻み、葦の筆記具で印を押して共有していました。帳簿、日誌、統計、地図。記録の形式は変わりながらも、そこには膨大な情報が蓄積されてきました。しかし、それらはあくまで「記録」としての意味合いが強く、データをどのように使うかについての学習は、まだ限定的で、必ずしも「資源」として認識されていたわけではなさそうです。

 やがて20世紀に入り、コンピュータの登場によって状況が変わりはじめます。計算や集計のために大量のデータを扱うことが可能になり、データは処理の対象としての意味を帯びるようになります。そして、1960年代以降データベース技術が発展すると、データは蓄積され、検索され、組み合わせられる対象にもなりました。

 インターネットの普及が、もうひとつの転機となりました。世界中でデータが生成され、共有され、流通するようになり、データはそれぞれの共同体の内部にとどまるものではなく、社会全体に広がる存在となっていきます。2000年代になると、ECや検索エンジン、SNSが発展。人々の行動データが大規模に蓄積されるようになります。購買や検索、閲覧履歴といったデータから「これをこうするとこうなる」という関係が次々と見出され、データは未来を予測し、行為を方向づけるものとしても価値づけられていきました。

 近年では機械学習やAIの発展によって、データはさらに新しい意味を帯びるようになっています。機械学習やAIの発展です。画像認識や音声認識、翻訳や生成といった技術は、膨大なデータの学習によって可能になります。現在では、データは新しい知識や表現を生み出す基盤としての意味を帯びるようになりました。

 こうして振り返ってみると、データもまた石油と同じように、最初から「資源」だったわけではありません。技術や実践、共有の仕組みが発展し、「これをこうするとこういうふうになる」という関係が社会的に学習された結果として、「資源」として立ち上がったと捉えることができます。

 このように「資源」とは、有形か無形かに関わらず、学習の深まりの中で立ち上がるものであることがわかります。共同体による学習の厚みによって、「資源」になる。共同体による学習のプロセスとしての「価値」や「生産」と地続きの視点から捉えると、「資源」とは「価値づけの履歴」のようにも見えてきます。未価値だったものが、発見と共有を通じて価値づけられ、その結果として「資源」が立ち上がるわけです。

 最初から世界に「資源」があるわけではなく、学習の過程の中で立ち上がるものとして「資源」を捉えると、「資源がある」「資源がない」という言葉の響きも少し変わって聞こえてきます。

 雑草が薬草になり、廃材が素材になり、川が水力になり、道具が文化財になる。その転換は、対象をめぐる見え方の変化であり、積み重ねられてきた学習の履歴が別の意味として読み解かれることによって起こります。資源を探し当てたのではなく、資源となるように学習を積み重ねてきた成果です。

「資源」は、ぼくたちの学習を通じて「資源」になる。そう捉えてみると、ぼくたちの足元には、資源として見えていない無数の可能性が眠っているようにも思えてきます。まだ学習の厚みが足りないだけで、ぼくたちに「資源がない」ということはないのかもしれません。

 

動的な「資源」とブリコラージュ

 もう一つ、「資源」という言葉をめぐって考えを深めるなかで出会えたことがあります。それは、レヴィ゠ストロースが提示した「ブリコラージュ」という考え方です。

 ブリコラージュとは、いま手元にある材料や道具を用い、ありあわせのものでつくることです。壊れた椅子の脚を棚の支柱にする。使われなくなった布を縫い直して別のものに仕立てる。余った食材を組み合わせて新しい料理をつくる。そこには、最初から用意された正解はありません。あるのは、過去から積み重なってきた素材や道具の使い方の履歴を手がかりに、別の可能性を見出し、新たな文脈へと編み直していく態度です。

 レヴィ゠ストロースは、このような態度でつくる人を「ブリコルール」と呼び、目的から逆算して素材を揃える「エンジニア」と対比させました。ブリコルールは、過去の履歴が刻まれた素材や道具が持つ潜在的な有用性に着目し、新しい可能性を見出します。そこにある素材は、別の目的でつくられた断片であり、過去の文脈の名残でもあります。しかし、それらが別の文脈の中で読み替えられたとき、積み重なってきた学習の履歴が、別の意味を帯びはじめます。

 雑草が薬草になり、廃材が素材になり、川が水力になり、道具が文化財になる。対象が突然変わったわけではありません。その対象の背後に積み重なってきた学習の履歴が、別の文脈の中で読み替えられたのです。

 ここで、「資源」という言葉の語源を辿ってみると、興味深いことに気づきます。

 英語の「resource」は、ラテン語の「resurgere」に由来します。 「re(再び)」と「surgere(立ち上がる、湧き出る)」という語が組み合わさった言葉です。つまり「resource」とは、「再び立ち上がるもの」「もう一度、湧き出てくるもの」という意味を内包した言葉です。

 この語源は、ブリコラージュが示している営みと、驚くほどよく響き合っているように思います。

 新しい「資源」を探し当てるのではなく、すでに重なっている学習の履歴の中から、別の可能性がもう一度立ち上がる。学習の重なりの中から、繰り返し立ち上がってくるものとして「資源」を考えることができるのです。

 ある時の「資源」が、かたちを変えて、もう一度別の「資源」として立ち上がる。それが繰り返される。そう考えてみると、ぼくたちはこの地球という青い球体のなかで、ブリコラージュを続けてきて、これからも続けていく、とても創造的な営みに生きているように思えてきます。

 

「商品」という学習の結節点

 このように、繰り返し立ち上がる「資源」。それは、別の見方をすれば、価値づけの履歴であり、学習の運動です。

 そして、その学習の運動を加速させるもの、ぼくはそれが「ファ」にあたる「商品」だと思っています。

「資源」が価値づけの履歴であり、学習の運動であるとするならば、「商品」とは、その学習の履歴が一時的に編まれ、他者と共有可能なかたちとして束ねられた姿です。それは学習の運動の中に節点をつくり、その流れをさらに加速させます。

 これまでに見てきたように、ある人や共同体が、世界の中にある差異に気づき、「これをこうするとこういうふうになる」という関係を発見し、それを繰り返し確かめ、他者と共有していく。その過程で、共同体としての学習は少しずつ積み重なり、やがて再現可能なかたちとして整えられていきます。そのようにして編まれ、束ねられた学習が、あるかたちをなした時、「商品やサービス」が生まれます。それは、いわば「学習のパッケージ」であり、「学習の結晶」と呼ぶことができると思います。

 ぼくたちが価値を感じるものにお金を払うということは、その背後にある学習の厚みに触れ、「力がある」と感じ、それを自分のものとして引き受けることでもあります。「学習の結晶」を手にするということは、そこに凝縮された学習の履歴を丸ごと譲り受けることに他なりません。ゆえに「商品やサービス」とは、ぼくたちの「できる」を増やすための、学習の入口として機能するのです。

 例えば、包丁を買う場面を想像してみましょう。

 人は、鋼(はがね)の塊が欲しいわけではありません。食材をより鮮やかに、より速く〈切る〉ことが可能になる。その〈切る〉という動詞が「より可能な状態になる」という新しい可能性を手に入れるために、包丁を手に取ります。その包丁の背後には、鋼という素材の選び方、鍛え方、研ぎ方、形状の工夫といった、長い時間をかけて積み重ねられてきた膨大な学習の蓄積があります。「商品」とは、その膨大な学習を、一つのかたちとして束ね、他の共同体でも使えるようにしたものです。

 だからこそ、「商品」を手にするということは、自分ではまだ学習していないことを、一足飛びに手に入れることでもあります。「商品」は、学習の時間を圧縮し、他者の経験を自分の可能性として引き受けるための媒体なのです。

 ある共同体によって重ねられ、束ねられた学習が「商品」となり、それが別の共同体の新たな学習の入り口となる。この「商品」を通じて「できる」が広がり、学習の蓄積の差を媒介にして交換が起こる。その連鎖の中で、「資源」をめぐる運動はさらに更新されていきます。

 例えば、北海道には昆布の扱いに関する学習の積み重ねがあり、鹿児島には鰹節に関する学習の積み重ねがあります。それぞれの土地で育まれてきた学習の蓄積が異なるからこそ、互いに価値を感じ、それに応じて学習の束が編まれ、交換が生まれます。もし同じものが同じように扱えるのであれば、そこに交換は生まれません。仮に、これまで採れなかった昆布が鹿児島で育つようになったとしても、それを食べ物として扱う学習の厚みがなければ、それはすぐには「商品」になりません。逆に北海道で鰹が採れたとしてもそうでしょう。「商品」とは、積み重ねられてきた学習の差異が可視化されたものでもあるのです。

 

みんなが「できる」ようになる「コモディティ」化

 自分にはない学習の蓄積を相手が持っている。そこに力を感じ、自分の動詞をより可能な状態にするものだと認識し、それを手に入れたいと願う。その願いに応じる過程で、学習の結晶化がより高度に進んでいく。そして、学習の結晶である「商品」が広く共有され、誰もが「できる」ようになった時、「商品」はいわゆる「コモディティ」へと変わっていきます。かつて限られた人や組織だけが扱うことができた学習の蓄積が、社会全体に共有され、誰もが扱えるようになる。それは、学習がある人や共同体の内部に留まらず、社会の基盤へと変わったことを意味しています。「コモディティ」化とは、人類全体の学習の水準がひとつ上がったということでもあります。そのようにして新たな基盤となった学習の蓄積の上に、ぼくたちはさらに別の学習を重ねていくことができる。

 ビジネスの世界では、「他社との差異がなくなること」や「価格競争に陥ること」として、「コモディティ」化はネガティブに語られがちです。けれども、学習という視点から見れば、それはむしろ祝福すべき出来事のようにも思えてきます。

 この動詞をより可能な状態にする「商品」の普及と、「コモディティ」化という学習水準の向上は、歴史の中で幾度となく繰り返されてきました。そして、GM(ゼネラルモーターズ)以降スタイリングという概念が持ち込まれ、今では、生きるための動詞だけでなくかわいい〉や〈気持ちが和らぐといった心の機微を取り扱う形容詞的な領域にまで学習が重ねられてきました。

 このように、ビジネスとは、組織的に学習を重ねていく営みです。人が価値を感じるのは、学習の蓄積に対してです。その学習の蓄積を、「商品」というかたちにして社会と共有すること。それがビジネスという営みです。顧客側から見れば、自身の動詞がより可能な状態になる可能性を買っているということになります。

 ビジネスという営みにおいて、ぼくたちはどこに市場があるのかと探しがちです。でも、学習という観点に立てば、自分たちは他より何を深く学習しているだろうか、と問いの向きが変わります。将来の展望を考える際も、自分たちは何を学習すべきなのだろうか、と問うことになります。私たちにとって何が学習可能で、人より上手く学習できることは何なのか。それが新たな「資源」の獲得につながり、文化的な意味での独自の立ち位置を形成していきます。「商品やサービス」とは、その組織が世界と関わりながら重ねてきた学習の蓄積を、ひとつのかたちにして他者へ手渡し、社会に新たな学習を、新たな「できる」を広げていくこと。そう考えてみると、ビジネスという営みは、学習という創造的知性を総動員して世界の可能性をひらいていく、知的で、文化的な営みだと思えてきます。 

 今回も、ビジネスという営みのドレミファソラシドとして、ぼくたちが日常的にビジネスの現場で用いている言葉である「資源(ミ)」と「商品(ファ)」という言葉の音色に耳を澄ませてみました。次回は、「商品(ファ)」の音の隣で、その音を受け取る「顧客(ソ)」、そして「市場(ラ)」について考えてみたいと思います。

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著者略歴

  1. 桜井肖典

    構想家。一般社団法人リリース共同代表。『Community Based Economy Journal - 美しい経済の風景をめぐる旅の記録 -』編集長。1977年生まれ。2000年よりデザインコンサルティング会社を経営。2012年より「未来が歓迎するビジネス」の経営手法をともにつくるデザイン組織として、京都にてRELEASE;を始動。経済と文化の循環に着目し、企業や自治体とともに、ビジネスそのもののつくり方から経営のかたちを編集・デザインする実践を重ね、領域横断的に美しい営みをつくり続ける。

  2. 増村江利子(聞き書き)

    編集家。NPO法人グリーンズ共同代表/編集長。『Community Based Economy Journal -美しい経済の風景をめぐる旅の記録-』副編集長。執筆、編集、デザイン、プロデュース、地域活動。長野にて暮らしをつくることを立脚点に、さまざまな領域を横断しながら、社会から新しい価値を見出し、自分の言葉で届ける。ミニマリスト。竹でつくったトイレットペーパーの定期便「BambooRoll」、「竹でつくった猫砂」を共同創業。「Forbes JAPAN 地球で輝く女性100人」に選出(2018年)。環境再生医。

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