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“ちゃらんぽらん”でしたたかなゲノムたち──生命進化を語る 五條堀孝

生命進化における「変異」

コロナ禍で気づいたこと

 『新型コロナワクチンとウイルス変異株』(2021年7月)を刊行して3ヶ月あまり。2021年10月11日時点で、新型コロナワクチンの1回目の接種率は73.6%、2回目まで終了している人は64.3%と、日本も欧米並みの接種率にいよいよ到達してきました。一時25,000人を超えた国内の新規感染者数もわずか369人と急減しています。第5波で見られた感染拡大のうねりは収まったものの、それがワクチン接種率の増加によるのか、長期にわたる緊急事態宣言下での人流の抑制の成果なのか、単なる感染動態の力学の一様相なのか、その明確な解答はないままです。

 その中でも私たちなりに新型コロナについて様々に体感し、それらを通じて互いに共有できていることが幾つかあると思われます。例えばワクチンを接種することにより、ある程度の「感染予防」やかなりの程度の「発症予防、重症化予防」の効力が働いていること、変異株のうち接種したワクチンの効かない変異株の出現がもっとも怖いことなど。とくに第5波で医療の逼迫や自宅療養のさなか死に至るケースが問題となり、深刻な状況であっただけに、そうした境遇が身に起こったらどうしようという恐怖心と、再び同じような事態を繰り返してはいけないという強い戒めから、変異に対する関心は共通して高まっているものと思われます。 

 本連載では、新型コロナウイルスの変異株の動態やワクチンおよび治療薬の状況について継続的に追究するとともに、「生命体にとっての変異とはどのようなものか」や「ゲノムとは何か」など、生命の本質に関する重要な考え方を読者の皆さんとともに共有していきたいと考えます。そうすることで、少しでもコロナ禍による不安や疑問を払拭しウイルス感染防止に繋がる意識を高めるだけでなく生命科学の原点である「生命進化とは何か」という本質についての理解にも繋がるものと思うのです。

生命進化における変異

 それでは、生命進化における「変異」の本来性について見ていきましょう。

 人類を含む生物集団がどういう遺伝的な構成で成り立っているかを研究する学問分野に、「Population Genetics」といわれるものがあります。これは1950年代に欧米で体系化され、当時国立遺伝学研究所の木村資生博士が「集団遺伝学」と提唱したことで日本においても発展してきました。ここでは「変異」について明確に位置づけられています。私たちの遺伝情報の基本であるDNAやRNA、それは生命体のなかで遺伝情報を次世代に繋げる役目を担っている生体高分子であることから、その生体高分子上に起こったいかなる変化も「変異」とされます。

 具体的には、それらは「塩基」と呼ばれる化合物が長く鎖のように重合した生体内の高分子です。DNAは、A(アデニン)、T(チミン)、G(グアニン)、C(シトシン)というわずか4種類の塩基から成り、人のDNAは約30億個の塩基の長い配列が染色体ごとに分断されて存在しています。新型コロナウイルスはSARS-CoV-2という正式名称を持ちますが、このウイルスの遺伝情報はRNAで、4種類の塩基のうちTがU(ウラシル)に代わっただけのやはり長い鎖の生体高分子です。ただ、このウイルスのRNAは、わずか約3万個の塩基から成り立っています。したがって、人であれウイルスであれ、遺伝情報の生体高分子において、ある塩基が他の塩基に置き換わったり(塩基置換)、それらの一部が欠落したり逆に付加されたり(欠失/付加)すると、それらは、突然変異つまり「変異」となります。さらには、もっと大きな構造上の変化もあり得ますが、これらも「変異」とみなされるのです。

  現在のワクチンのほとんどが、新型コロナウイルス粒子の表面にあるスパイク・タンパク質をターゲットに人の体内で免疫細胞を活性化したり抗体を増産したりするように設計されています。このため、塩基置換などの突然変異がこのスパイク・タンパク質に相当する遺伝子に起きた場合、これらのワクチンが効かなくなる危険性の高い変異株の出現につながるということです。さらに、このタンパク質は人の細胞にウイルスが侵入するときの最初の手がかりとなるので、この遺伝子に起こった突然変異は、感染性がより高い変異株になる可能性を含んでいるともいえます。最近、話題の「デルタ株」は、感染性が高まった突然変異が生じたとして、その典型といえるのです。

生命の多様性と変異の役割

 突然変異はある頻度で常に生じているので、その突然変異のお陰で逆に感染力を低下させたり、ウイルスの生存に不利に働く変異も起きていることを忘れてはなりません。ウイルスは変異を起こすことでウイルス集団に多様性をもたらし、変異株同士の生存競争を繰り返しながら生き延びようとしているのです。

 私たちの人間集団においても全く同じことが言えます。突然変異によって集団内の多様性が増し環境に変化が生じると、その変異のうちのどれかが新たな環境に適応して生き延びていこうと頑張るのです。それゆえ、人類集団は絶滅せずに現在まで永らえてきたのです。つまり新型コロナで私たちが怯える「変異」株の本質は、私たちの気持ちとは裏腹に、生命が生存競争によって生き延びていこうとするとき、集団としての遺伝的な多様性を保持することによって、いかなる環境変化にも適応できるようにするための生命進化上のもっとも重要な基盤的な存在だったのです。

  もし私たちが個人としていっさい区別のつかない同一のクローンだったら、どうでしょう。どのような環境の変化にも適応できずに、すぐに絶滅してしまっていたにちがいありません。ここには、コロナ禍で私たちが感じる以上の重要な教訓が隠されているのです。変異によって、個々が異なる。それによって生命体が集団として絶滅を防ぎ、未来に向かって生き抜いていく。そのことから、自然に見えてくる共有すべきテーマ、それは「みんな異なるから、異なる相手を尊重しよう」ということではないでしょうか。これは生命科学の本質を理解することによって自然に浮かび上がってくる重要なメッセージであり、人類共通の教訓です。

  新型コロナに打ち勝ち人類は力強く生き延びていかねばなりませんが、生物多様性の重要性も全く同様の生命進化の本質的な議論から来ているので、その普遍的な価値は正当な生命観や世界観を共有する上でも欠かせないものと考えます。

 

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著者略歴

  1. 五條堀 孝

    1979年九州大学大学院理学研究科修了。理学博士。
    現在、アブドラ国王科学技術大学特別栄誉教授(サウジアラビア)、国立遺伝学研究所名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、早稲田大学ナノ・ライフ創新研究機構招聘研究教授、(財)遺伝学普及会代表理事、(財)マリンオープンイノベーション機構研究所長など多数を併任。日本遺伝学会会長、日本進化学会会長などを務め、現在(社)富士箱根伊豆国際学会会長、DNA鑑定学会理事長。2006年全米芸術科学アカデミー外国人名誉会員、2007年ローマ教皇庁科学アカデミー会員、2009年紫綬褒章、2013年世界科学アカデミー外国人会員、2015年欧州分子生物学機構外国人会員など分子進化や進化遺伝学の研究が高く評価され受賞。

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