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GEIDO試論 熊倉敬聡

「小さな地球」、あるいは里山の再創造――林良樹の挑戦

  

University of Creativity

 

 大手広告代理店、博報堂が、おそらくは消費資本主義の一翼を担う自分たちのビジネスの在り方を改めて問い直し、企業の新しい社会的、さらには文明史的役割を創出するために、とりわけ人類の「創造性」にフォーカスした研究教育機関「University of Creativity」(以下UoCと略)を昨年9月に設立した。私は、その準備段階からコンセプトやシラバス作成の相談に乗り、開学後は「Ferment」という一種のゼミのようなものを担当することになった。

 UoCは、「あたらしい世界制作の方法」を、文明の「三つの潮流」の合流点から探究していこうとする。一つ目の潮流は、人工知能、ビッグデータ、IoTなどのテクノロジーの加速度的発展の渦中にあって、人類は、それらが不得意とするであろうCreativityにこそ、活路を見出していかなくてはならないという流れ。二つ目は、企業が「非連続成長」を求め始めるようになったことで、ビジネスの争点が「生産管理」から「価値創造」へと転換しつつあるという流れ。三つ目は、日本という島国が歴史的に培ってきた文明システムの特異性が、これからの人類の文明を作り出す上で起爆力を秘めているという流れ。これら三つの文明史的潮流が合流し、「あたらしい世界」を制作するCreativityを涵養するラボラトリーが、UoCなのに他ならない。ただし、そのCreativityは、西洋近代の文明的パラダイムが好んだような知的・文化的エリートたちが占有する類のそれではなく、すべての人間が本来有しているはずのCreativityであり、それをUoCはなるべく多くの人に発見・表現してもらえるよう、学びの仕組みをデザインした。①「創造性の衝突と出会い」を発生させる “Mandala” は、「新しい世界制作のために、越領域の才能が出会う『創造知の根っこ』」である。②「創造性の研究と発酵」の場である “Ferment” は、「学者とデザイナーと企業開発者と、専門領域ごとに研究と企画を深める」。③「創造性の社会実装」を目指す “Play” は、「産官学民を超えて、新しい世界をプロトタイプする実験&実装」の場である。この三つの学び・研究のプロセスが、10個のフィールドで展開していく。①創造力の基礎研究、②人工知能・ビッグデータ・IoTとつくる創造力、③ニューエコノミーを生む創造力、④新しい都市と地方を生む創造力、⑤ニュー・メディアを生む創造力、⑥持続可能な社会を生む創造力、⑦新しい教育を生む創造力、⑧社会彫刻としてのガストロノミー、⑨ポストコロナソサエティをつくる創造性、⑩「創造性社会」におけるクリエイティブ産業。私は、この中で「持続可能な社会を生む創造力」のフィールドにおけるFermentを、博報堂の近藤ヒデノリと共に企画し、実行に移していった註1

 

「小さな地球」あるいは「生命芸術」

 

 新型コロナウィルスの動向を見極めつつ、なんとか9月始動に漕ぎつけ、初回、拙著『藝術2.0』をActive Book Dialogueという読書法註2で輪読し、このFermentの知的・感覚的共通基盤・問題意識を確認しあった後、千葉県鴨川市で「小さな地球」プロジェクトを繰り広げている林良樹をゲストに迎え、現地で一泊二日の合宿形式でフィールドワークを行なった。

林良樹

 参加者が、林の活動拠点である古民家「ゆうぎつか」に集合した後、彼の活動の舞台である天水棚田、炭焼き小屋、棚田オフィス&ウッドデッキなどを巡る。彼自身が、千年に及ぶ「いのちの彫刻」と名づける里山の素晴らしい光景が広がる。見学後、古民家に戻り、林のプレゼンをスライドとともに聴く。彼がここ、鴨川に辿り着くまでの「旅」については、後に譲ろう。

  

 ちょうど世紀の変わり目、21年前、林は「旅」の末、鴨川に至りつく。鴨川は、都心からも車で90分ほど、山にも海にも恵まれた田舎。人口は現在32000人程度だが、毎年300人ずつ減少し、日本の他の田舎同様、多くの課題(人口減少・少子高齢化、少ない後継者、増える耕作放棄地、荒れる里山、猪・鹿・猿の被害、廃校と空き家など)を抱えている。

 彼は、この鴨川に住み着き、まず2002年、地域通貨「あわマネー」を10名で始める。この「あわマネー」によりモノやサービスを交換し助け合いながら、ネットワーク型コミュニティを作っていった。(2018年には170世帯のべ300名が参加するコミュニティにまで成長した。)こうして、参加者の多くは、「消費者」から「生産者」へと変化し、小さな農を己れのライフスタイルにするまでに至る。そして、彼らが「生産」するモノやサービスをやりとりするコミュニティ・マーケット&カフェとして「awanova」が誕生し、「オーガニック、地元産、フェアトレード、手づくり、量り売り」を謳い文句に新月の日に賑わう。さらに林は、持続可能な地域づくりのためにNPO法人うずを設立し、ローカルから「うず」を広げるための活動を開始する。現地の長老たちから炭焼きその他の伝統文化を受け継ぎ、その知恵と技術を『里山の教科書』に纏める。

 

 しかし、林は単に里山を「閉じた」コミュニティにしたいわけではない。先述の様々な課題が少子高齢化や後継者不足などで現地の人間たちだけでは解決できないこともあり、長老たちなどの地域住民、林などの新住民、そして首都圏に暮らす都市住民をつなげ、棚田を維持する「釜沼北棚田オーナー制度」を立ち上げる。そうして都市と地方、首都圏と田舎の交流が始まり、関係人口が増えていき、さらにはその中から移住者や二地域居住者が出てくる。こうして限界集落であった釜沼には、年間千人もの人が訪れ、百人に一人の割合で移住ないし二地域居住を望む者が現れてくる。移住者は「日本人」だけではない。アメリカ、イギリス、フランス、カナダ、オーストラリアなどから、この地の魅力に引きつけられ、移住してくる者も年々増えている。

 この、血縁地縁に依らないコミュニティ――林は現代版「(ゆい)」とも言う――の「うず」は、個人だけを巻き込んでいくのではない。良品計画(地元の生産物を扱うショップ、レストラン、開発工房など)や寺田本家(棚田でとれた米で自然酒をつくる)といった企業、東京工業大学塚本由晴研究室を初めとした大学、そして林自身市の「まちづくり委員」となり行政と(2018年〜20年)、それぞれ連携し、「足元の宝」を活用しながら、この土地ならではの新しい商品、新しい学び、新しいまちづくりに挑んでいる。

 

 そうして、資本主義的「成長」から循環型社会の「成熟」への転換モデルを、この「小さな」里山から発信する。暮らしと社会に「小さな地球」を実現していく。そこでは、老若男女を問わず、一人一人が表現者・創造者、これからの「アーティスト」であり、地球とともに「生命芸術」を創っていく。

 私がこうして、キーワードだけを並べ立てていくとしごく味気ないものに思えるかもしれないが、林はこうした言葉を、独特の、確信に満ちた、詩的説得力を込めながら、が、淡々と語ってくれた。その語り口は、内容とともに、聴く者たちに静かな感動を与えた。

 林は、こうして、合宿の参加者である我々に、人々が1000年かけて作り、そしてこれからの1000年をかけて受け継ぎ、作り直していかなくてはならない「いのちの彫刻」としての里山について語ってくれた。

 

里山への第四のアプローチ

 

 ところで、「里山」について日本人が語るとき、その語りが暗黙裡に従う構造やイデオロギー、すなわち「里山言説」について「環境人文学」という視座から様々な研究者が論述し討議する『里山という物語――環境人文学の対話』という論文・鼎談集がある註3。その編者の一人、結城正美は、その「里山言説の地勢学」註4において、里山にアプローチする三つの言説のタイプを分類し分析している。①外から見る言説、②内から見る言説、③異なる視点に揺さぶられながら見る言説。そして、この三つのタイプの言説をそれぞれ一人の芸術家のそれに代表させている。

 まず、第一の「外から見る」言説は、そもそも日本で里山ブームを引き起こした火付け役と見られる写真家今森光彦が、里山を写す・映す、その表象の仕方に代表される。結城によれば、里山ブームは、バブル経済の崩壊に呼応するかのように始まった。今森の『里山物語』(1995年)を初めとした、里山をテーマとした一連の写真集、そしてとりわけ今村が撮影監督も務めたNHKハイビジョンの里山シリーズ(初回『里山――人と自然がともに生きる』が1998年)が、日本に一大里山ブームを起こすのに貢献した。

 結城によれば、今村の里山表象には、次のような特徴がある。里山に生息する生き物、昆虫、魚、植物などの、普通人間の知覚では捉えがたい生態が、撮影技術を駆使してドラマティックに表現され、その驚異(ワンダー)に満ちた世界が、読者・視聴者を魅了する一方、登場する人間は極めて限定され、人と人との社会的関係が映されることはまずない。今村のカメラは、里山をあくまで外部から捉え、「ランドスケープ」として表象し、人間たちが現実に生活する共同体の内部へと入り込むことがほとんどない。その里山表象・言説はだから、里山を「〈日本の原風景〉として懐古的ないしロマン主義的にとらえるまなざしを助長する」ことになりかねない。

 第二の、里山を「内から見る」言説は、大牟羅良に代表される。大牟羅は、第二次世界大戦への出征から帰還後、故郷岩手で行商する傍ら、雑誌『岩手の保健』の編集に携わり、世に出した『ものいわぬ農民』で、農村を単なる調査対象ではなく、日常の具体的な生活が営まれている場として捉えていった。彼は、外部者(=彼自身)による農村の捉え方と、内部に生活する者たちの視点とを絶えず比較しつつ、その差異を際立たせることによって、里山を牧歌的な「ランドスケープ」と見る表象の仕方に揺さぶりをかけるのである。

 第三の「異なる視点に揺さぶられながら見る」言説は、小説家田口ランディのそれに代表される。田口は、1986年、チェルノブイリ原発事故で放射能汚染されたベラルーシ共和国のある村での滞在に基づき、エッセイ「核の時代の希望」を発表。ついで、東日本大震災後、福島第一原発事故をめぐる小説集『ゾーンにて』註5を出版する。

 田口の「ゾーン」、すなわち警戒区域を描く描写には、里山が「牧歌的」に描かれるとともに、そこに突如として「放射能汚染」や「放射線量」という言葉が侵入してくる。それは、「瑞々しい」里山の風景が、人間には知覚されえない「放射能」に覆われている不気味な現実を読者に突きつける。その「放射能汚染」で「どこでもない場所」になってしまった里山に、しかし、帰還し、再定住を試みようとする人々がいる。だが、彼らにとって、その「場所」はもはやかつての「故郷」ではなく「別のリアリティ」をもってしまった場所なのである。その「どこでもない場所」で、彼らは、それぞれに固有なリアリティのバランス(例えば私はキノコを食べるが、彼女は食べない、など。田口は「掟」と表現する。)を求めて、各々の生活を営み直そうとする。したがって、田口にとって「ゾーン」とは、畢竟「異なる価値観の抗争と交渉が繰り広げられる場」註6に他ならず、その抗争と交渉の提示=「新しいリアリティ」の模索そのものが、放射能汚染を一面的にリスクとしか捉えない主流の価値観への抵抗となる。そう、結城は考えるのである。

 この結城による、里山への三つの異なったアプローチないし言説。これに比したとき、林のそれはどのように見えてくるのだろうか。彼もまた、里山について「物語る」。そして、確かに、彼の語りにもまた、結城を含めたこの論集の論者たちが里山表象・言説の「懐古主義的」で「ロマン主義的」な、あるいは「(自己)オリエンタリズム的」とまで言うイデオロギーに憑かれたステレオタイプ的表現(「日本の原風景」、「自然と人間の共生」など)が見られることも否定できない。だが、たとえ彼がそのような表現を使うにせよ、それらの言葉は、例えばある種のマスメディアや広告が「里山」を新たな「消費」の対象として作り出すような安易な表象の仕方なのではない。彼が、それらの言葉を発する時には、彼に固有の、彼にしか醸せない、特異な思想的・実存的倍音が伴うのである。確かに、その倍音は、彼の発言をライブで聴くときにしか感じられないものかもしれない。しかしなぜ、彼の言葉には(たとえ一見紋切り型にみえたとしても)こうした特異な倍音が伴うのか。それは、彼が、結城の挙げる三つのアプローチとは異なる、いわば第四のアプローチを里山に試みているからだ。それは、元々「外部」にいた人間が単に「見る」のではなく、里山の「内部」に住み込み、里山を「内部」から生きながら、それを彼独自の感性と知性で作り直そうとしているからだ。単に懐古的に「原風景」に回帰するのではなく、この地に生きてきた人々が千年かけて作り上げてきた文化・知恵・技術を学んだ上で、それを次の千年にむけて新たな「生命芸術」として再創造しようとしているからだ。その命の鼓動と、創造への熱情が、彼の言葉に独特な倍音をもたらすのだろう。

 

鴨川という、この・・「里山」

 

 私は先に、合宿の参加者への林のプレゼン内容を紹介する際、意図的に、彼が鴨川に辿り着くまでの「旅」を省いた。なぜか。それは、彼が、地球上でのこの・・地に住み着くのに、「旅」、すなわちどこにも住まず、ここからかしこへと絶えず移動し続けることが、決定的に重要だったからだ。

 彼は、鴨川にたどり着くまで、約9年もの間、地球の上を文字通り彷徨い歩いた。その「ロングジャーニー」のきっかけとなったのも、また一つの旅だった。彼は、アメリカ合衆国サウスダコタ州にある先住民スー族のリザーベーション(居留地)の中を旅していた。そして、そこで、彼のその後の人生=旅を決定づける運命的な一言と出会う。彼自身の言葉を引用しよう。

 

僕がお世話になったリトルスカイのお母さんは極貧にもかかわらず、彼女の澄んだ美しい瞳は常に遠くを見つめ、高い誇りに満ちていました。僕はその姿に圧倒され、なんて堂々と生きているのだろうと感動しました。
彼らは自分たちのことをアメリカ人とは言わず、「アイム スー(私はスーです)」と言いました。
スー族にとって、「スー」とは「人」を意味します。
日本人とかアメリカ人とかいう概念ではなく、地球に生きる1人の尊厳ある存在として、「私は地球に生きる人」ですと言った気がしました。
そして、彼らは「ミタクエ・オヤシン」(わたしたちは、すべてのものとつながっている)という高い精神文化を持っていました。自然界とコミュニケーションし、1本の木を切るのに7世代先の子どもたちのことまで考えると言います。
僕は初めて訪れたスー族の土地に、なぜかなつかしさを感じました。
そして、同時に自分のことが恥ずかしくなりました。
その時、僕は自分のことを「地球に生きる人」と、誇りを持って言うことが出来ませんでした。
この破壊的な世界で、どうやって生きたらいいのか僕にはわかりませんでした。僕はまさに「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」の問いに答えられず、僕にはアイデンティティがありませんでした。
それから様々な国を旅して、9年後に辿り着いた場所が日本の里山だったのです。註7

 

 「私は地球に生きる人」。

 ところで、「旅」とは何だろうか。私は、第8回で、「風土」について考察した。そこで、日本の「風土」論の嚆矢である和辻哲郎の『風土』をまずは取り上げた。和辻が「風土」を “発明” したのは、まさに彼が「旅」をしたから、日本という土着的風土から外へと旅立ち、異なる様々な風土(彼が後に『風土』で三つの類型として分類することになる)を横断しながら、船で大海原を渡っていく、そうした脱「風土」化としての旅を体験したからこそだった。

 林の「旅」もまた、徹底した脱「風土」化だった。9年にも及ぶ、脱「風土」化の連続だった。その決定的なきっかけが、「私は地球に生きる人」という一言、つまり、究極的かつ根源的な脱「風土」化=「地球」を生きる人から発せられた一言だった。

 そうして、自分が生きる「地球」を求め、林は「旅」に出た。そしてついに、鴨川にたどり着いた。この時、彼にとって「鴨川」は、もはや全く土着的な「風土」ではなかっただろう。それはむしろ、彼が「地球」を感じる、「地球」を生きることのできる、ここしかない・・・・・・・ “特異な” 場だったのではないか。その場こそを、彼はあえて「里山」と呼ぼうとしたのではないか。だから、彼にとって、この・・「里山」とは、全く「日本の原風景」や「懐かしいふるさと」ではない。そうしたステレオタイプを突き抜け、先に地球が、さらには宇宙が見え、それを生きることのできる特別な場所なのだ。

 

脱風土化と原風土化の交歓

 

 ところで、私は、和辻の「風土」論に続いて、(ジル・クレマンの「新しい庭」論を経由しつつ)、和辻からも影響を受けたオギュスタン・ベルクの「風土学 (mésologie)」を検討した。そこで、ベルクにとっての「風土」がまず、「r=S/P」、すなわち「r(réalité=現実)は、P(Prédicat=述語)としてのS(Sujet=主語)である」として見出され、さらに「r=S-I-P」、すなわち「rは、I(Interprète=解釈者)にとってのS/Pである」として、二つのステップを踏んで見出されていったことを確認した。そして、ベルクにとって、歴代のI=解釈者が次々と新たなS-I-Pとして作り出していく風土の連鎖(彼はそれを「通態化 (trajection)」と呼ぶ)とは、Iの主体性がますます風土=環世界に浸透していく過程、すなわち人間の風土=環世界がよりいっそう「人間」らしく、犬の風土=環世界がよりいっそう「犬」らしく…、なっていく過程であることも確認した。

 その、ベルクの通態化としての「進化」に対して、私は、少なくとも人間においては、「進化=通態化」を逆行=遡行する過程、すなわち脱通態化の過程もありうるのではないかと問い質した。その脱通態化こそ、瞑想やある種の芸術・芸能(例えば一遍の踊躍念仏)が探究する過程、ドゥルーズとガタリ風に言えば、動物や植物、さらには分子状態に「生成変化」する過程なのではないかと問うた。

 林もまた、この里山にあって、ベルクの言う通態化としての「風土」を感じる、あるいは作るというより、この脱通態化――通態化をどんどんと遡行し、動物、植物、さらには分子に生成変化し、「すべてのいのちはつながっている」、まさに「地球」を感じ、生きているのではないか註8。日々の農作業のうちに、あるいはその合間の憩いの時に、あるいはそこで収穫した米が麹菌とともに醸される時に、あるいは棚田に轟く和太鼓が天地を揺るがす時に(彼は和太鼓集団TAWOOと「太鼓の里」を作ろうとしている)、彼は「風土」を貫通し、「地球」に、「宇宙」につながっているのではないだろうか。

 

ドドーンと、棚田のウッドデッキで打たれた和太鼓のサウンドは里山全体へ響き渡りました。
そのヴァイブレーションは、森と大地と空と僕らを共振させました。
20代の頃、インドを旅していた時にバラナシで出会った旅人は「これは、ぜひ読んだほうがいい」と言って渡してくれたのは、アメリカの伝説的なロックバンドであるグレイトフル・デッドのドラマーのミッキー・ハートが書いた「ドラムマジック ~リズム宇宙への旅~」という本でした。
その本には、 "古代から太鼓は人と神をつなぐ媒体であり、そのサウンドは心身を浄化し、生きる活力を与える魔法の力を持っている" と書かれていました。
TAWOOの太鼓は、まさにドラムマジックでした。

〔…〕

僕は素人ですがTAWOOにいざなわれるままに、バチを握って大きな太鼓を打っていると、ドラム音の宇宙に引きこまれていきました。
やがて、みんなの音は一つになり、時には嵐のようにうなり、時には水のように流れ、時には子どものように遊び、太鼓は僕らの魂を解放していきました。註9

 

 その、里山における脱通態化に、林も含め、「旅」をしてきた者たち、数々の脱「風土」化を経てきた者たちが加わってくる。「旅」の途上、様々な風土から採集してきた脱「風土」的断片たちを持ち寄り、やりとりし、混ぜあい、しかも時には、そのいたって脱風土的な、脱土着的なものたちが、ここにしか・・・・・なかった・・・・、しかし忘れられかけていたものをも呼び覚ましさえする。林が語る「盆踊り」はまさに、そうした脱風土化と原風土化の交歓の場だ。

 

丁度、この日はawanova、里山デザインファクトリー、コヅカ・アートフェスの3団体の共催で夕方から盆踊り祭りも開催されました。
ラテン、サンバ、ロック、ファンク、レゲエ、ジャズ、民謡など多様な音楽をMIXさせたグルーブ感のある新しい盆踊りを生バンドで演奏する「イマジン盆踊り部」を鎌倉から3年前に招いたのが始まりで、昨年から里山デザインファクトリーを運営するアメリカ人の友人クリスもサックス奏者としてメンバーに加わり、この盆踊り祭りを大いに盛り上げています。
そして、この盆踊りに触発され、なんと途絶えていたこの地域の「大山音頭」も50年ぶりに復活したのです。大山地区でかつて踊られていた盆踊りが録音されたカセットテープが発見され、その踊りを憶えているご婦人を先生に毎月大山公民館で練習し、この日はその成果を会場で披露してくれました。註10

 

 林が言う「生きた彫刻」としての里山、「生命芸術」としての里山とは、里山のステレオタイプどころか、この脱風土化と原風土化が奇跡的に交わり、生み出す、地球上の“特異場”なのではないか。ここに・・・しかない・・・・、けれども ・・・・「地球」 ・・ そのもの・・・・

 

 

 * * *

 

 前著『藝術2.0』で企てた、(Contemporary)Art(そして資本主義)以降の、人類の創造性の行方を探し求める旅――その「旅」のとりあえずの逗留地であった「GEIDO」という概念・実践をさらに概念的に際立たせ、実践的に広がりを持たせるために、私は、この約一年半、新たな旅を敢行してきた。

 概念的には、鶴見俊輔の限界芸術論、柳宗悦の民藝論に寄り添わせつつも、GEIDOがいかなる実存的・思想的行道において袂を分かつかを闡明した。さらには、「人類学機械」(ジョルジョ・アガンベン)としての(マルティン・ハイデガーの)「哲学」、和辻哲郎やオギュスタン・ベルクの風土論ないし風土学、九鬼周造の「いき」、「偶然」をめぐる形而上的官能など、魅力的な係留地に身を寄せつつ、そこでGEIDOの概念的特異性をいっそう鮮やかに見極めようと問答してきた。

 そうした、少なくとも私にとっては目眩くような思想的光景を巡りわたる道すがら、じわじわと、まさにこれからの人類の創造性を蝕んでいくかもしれない、生態学的脅威が押し寄せてきた。「新型コロナウイルス」ことCOVID-19である。私は、その限りなくミクロで不可視の、しかしグローバルに蔓延しつつある脅威に、他の無数の人々同様、怯えつつ、私のGEIDOを探し求める旅が大きな「転向」を迫られていることを察知した。そして、GEIDO論を(元々潜行していたとはいえ)大きく「生態学的に転向」したのだった。

 そうして「転向」しつつ、GEIDOをさらに概念的に実践的に豊かなものにするため、その可能性を「性愛」、「経済」という(一見GEIDOと無関係に見えないこともない)領野に探索していった。

 しまいには、千葉県・鴨川のある里山にまで辿り着き、そこでまさにGEIDOを体現している(と少なくとも私にはみえる)「生命芸術」、「小さな地球」の、しかし壮大な実験に強く共振したのだった。

 

 私はこれから、この一年半に渡った連載を単行本化するため、この「旅」を振り返り、総括を加えつつ、私にとって、そして人類にとって、GEIDOとはいかなる意味をもち、可能性を宿しているかを改めて考えてみたい。もしかすると、この「旅」には、私自身、書きながら、気づいていなかった、隠れた「意味」、「可能性」が潜んでいるのかもしれない。

 

 

註1 University of Creativityならびに私が担当するFermentのより詳しい内容は、以下を参照されたい。https://uoc.world

註2 この読書法の詳細は、以下を参照されたい。http://www.abd-abd.com

註3 結城正美・黒田智編『里山という物語――環境人文学の対話』、勉誠出版、2017年。

註4 結城正美「里山言説の地勢学」、同書、3-35頁。

註5 田口ランディ『ゾーンにて』、文藝春秋、2013年。

註6 結城、前掲書、31頁。

註7 林良樹「連載ブログ 千葉・鴨川――里山という『いのちの彫刻』:この星の反対側から来た人々(2014年11月26日)」(2021年1月28日閲覧)

註8 「毎年、お受けしている良品計画さんの新入社員研修でも稲作を行っていますが、素足で重粘土質の深い田んぼにムニュリと足を踏み入れると、歓声が上がります。『うお~!』『キャ~!』その時、僕は大きな声でこう伝えます。『みんな、地球にEARTH(接地)してー!』すると、里山に笑い声が響きます。柔らかい泥の感触には『宇宙の情報』が詰まっていて、素足で田んぼに入ることでこの情報を頭ではなく、五感を通して全存在で受信します。」(林、同ブログ「地球にEARTHする(2018年6月13日)」(2021年1月28日閲覧))

註9 林、同ブログ「天は雲の上にあるのではなく(2018年12月12日)」(2021年1月28日閲覧)

註10 林、同ブログ「多様性のある里山コミュニティ(2018年8月15日)」(2021年1月28日閲覧)

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著者略歴

  1. 熊倉敬聡

    1959年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒、パリ第7大学博士課程修了(文学博士)。芸術文化観光専門職大学教授。元慶應義塾大学教授、元京都造形芸術大学教授。フランス文学 ・思想、特にステファヌ・マラルメの貨幣思想を研究後、コンテンポラリー・アートやダンスに関する研究・批評・実践等を行う。大学を地域・社会へと開く新しい学び場「三田の家」、社会変革の“道場”こと「Impact Hub Kyoto」などの 立ち上げ・運営に携わる。主な著作に『瞑想とギフトエコノミー』(サンガ)、『汎瞑想』、『美学特殊C』、『脱芸術/脱資本主義論』(以上、慶應義塾大学出版会)、『藝術2.0』(春秋社)などがある。http://ourslab.wixsite.com/ours

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