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GEIDO試論 熊倉敬聡

GEIDO論の生態学的転回・展開へ(その1)  

  

(論を始めるにあたり、まず、今回の新型コロナウイルスにより貴い命を犠牲にされた方々へ心よりのご冥福をお祈りしたい。また、医療現場で全身全霊を賭して治療にあたられている方々に深い敬意を表したい。)

 私は、この数ヶ月、新型コロナウイルスの脅威がいや増すにつれ、自分の、家族の生(活)、友人を初めとした他者との関係、自分の活動・仕事の在り方などについて、(おそらくは地球上の無数の人々同様)自分なりに感じ、考え、行動をとってきた。その中で、本連載の今後の展開についても、コロナ禍以前の構想通りに進行していくか(最初の構想案は去年の夏抱いた)、それとも現在の深刻化する状況に応答しそれを折り込みつつ再文脈化していくか、特に前回の執筆(二月末)から、今(五月末)こうして書き始めるまで、自分なりに情報を収集し、直接・間接的に関連する文献を読みつつ、そして何よりも自らの生きる直感・直観を信頼しつつ、思いを巡らせてきた。その結果、当初の構想の本質的な方向性は変わらないが、新型コロナウイルスの脅威がその重大な「兆候」の一つであると思われるより全般的な脅威(それをとりあえずは「ガイアの脅威」と呼ぼう)が今後さらに激化するであろう状況において、GEIDOという本論の中核的コンセプトを(すでに前著『藝術2.0』にも伏在していたとはいえ)さらに深く広く生態学的に転回・・・・・・・展開する・・・・必要を強く感じたのだった。

 新型コロナウイルスに関する膨大な情報が地球上を駆け巡るなか、(直接の当事者を除き)どれだけの人が、昨年のオーストラリアの未曾有の山火事、南極での観測史上初の20度超え、ヨーロッパを中心とした酷暑の激化、ヴェネツィアの記録的洪水、グリーンランドの氷床の加速度的融解、そして我が国における台風の激化、大地震の頻発……といった「ガイアの脅威」の数々の現実化・・・、人類の生存をまさに現実的に・・・・脅かし、粉砕しようとするカタストロフィを、自分の心身の深奥で記憶しているだろうか。

 今回のコロナ禍は、多くの人々を犠牲にしながらも、そして国・地域によって進度と広がりに違いをみせながらも、やがては「収束」していくのかもしれない。だが、「ガイアの脅威」は、微生物学的レベルから気象学的レベルに至るまで、あらゆる位相・圏域で、今後続く、いや激化していくだろう。そうした人類史的に危機的な状況のなか、一時的な対症療法にすぎない、日常生活・社会関係の政治的規制をまことしやかに「新生活様式」などと呼称する愚に陥ることなく、「ガイアの脅威=人類の危機」という事態を引き起こしたそもそもの根本要因・システムである、資本主義経済システムが、人類そして生態系に及ぼした甚大なる負荷・被害をいっそう深刻に自覚化しつつ、この「脅威=危機」を乗り越えられるかどうか誰にも定かならずとも、その千載一遇かも知れぬ可能性に賭ける創造性を今こそ発動すべきではないか。一人でも多くの人間が、日々安寧に、この地球上で生きることの悦びを満腔で味わいうるような、そんな真の「新生活様式」を発明する(よすが)に、本論もまた微力ながら貢献できれば幸甚の至りである。

 こうした新たな再分脈化とともに、『GEIDO試論』を続行していきたい。

 

 

ウイルスとの「戦争」?

 

 「われわれは戦争状態にあります」。フランスのマクロン大統領は、3月16日、新型コロナウイルスに関する第二回のテレビ演説で、フランス国民に向けてこう訴えかけた。

 

われわれは戦争状態にあります、公衆衛生上の戦争状態です。確かにわれわれは軍隊と戦っているのでも、他国と戦っているのでもありません。しかし敵はそこにいます。目に見えず、つかみどころもなく、広がっています。総力戦で臨むことがわれわれに求められています。註1

 

 「われわれは戦争状態にあります」、このフレーズを、マクロンは同演説で六度繰り返した。おそらくは弁論術的リズム、インパクトを狙ったであろう、とはいえ…。

 「戦時下の大統領」に自らをなぞらえたトランプ大統領を初めとして、甚大な被害に見舞われ始めた各国首脳は、この時期口々に「戦い」「敵」「総動員体制」などの「戦争」のメタファーを多用し、ウイルスの脅威に挑んでいた。しかし同時に、私は、いかに猛威を奮っているとはいえ、生態系の限りなくミクロで不可視な一要素に対して、人類がこうした気構えしかとれないことに、曰く言い難い違和感を覚えていた。しかも、その違和感は、当時(GEIDOの生態学的転回の観点から参照が必須と思われた)フランスの思想家ブルーノ・ラトゥールの『ガイアに向き合う』註2を繙くにつれ、彼のガイア観――ガイアの脅威に「敵対」する人類、互いの「存在そのものの否定」をかけた「戦争」――に抱いた違和感と、私の中で共鳴していた。

 ドイツの政治学者カール・シュミットの有名な戦争論、「友・敵」理論(「友・敵・闘争という諸概念が現実的な意味をもつのは、それらがとくに、物理的殺りくの現実的可能性とかかわり、そのかかわりをもち続けることによってである。戦争は敵対より生じる。敵対とは、他者の存在そのものの否定だからである。」註3)に深く共感しつつ、ラトゥールは人類とガイアの関係性をこう問う。「人類と、他の存在たち、すなわち『異者』である〔…〕『人間ならざるもの』たちとの戦いを調停しうる、外的で不偏不党の第三者がいないとわかった時、いったい何が起こるのだろうか。」註4

 殺し合いが起きる、と彼は断言する。「いたるところで陣地争いが起こり、根本的に異質な存在たちが互いに互いの『存在そのものを否定』しあうことになる。」註5しかし、ガイアが「脅威」として現れることにも、一種の効用(?)らしきものもある。なぜなら、それが「我々人類をして、自らの滅亡に、有限性に、『存在そのものの否定』に、この地球の一員としてただただ存在することの難しさに、気づかせて・・・・・くれる唯一の手段だから」註6だ。そして、この数多の人にとって「カタストロフィ」と映るものにこそ、ラトゥールは「ごく微かだが希望の源泉」註7を見出すという。

 確かに、ラトゥールには仏教的「縁起」観にも近いネットワーク世界観がある。「ある隣接者は能動的に自らの隣接者に働きかけ、その隣接者と、それに働きかける他のすべての隣接者との相互作用は、作用の波動と呼ぶべきものを形づくる。この作用の波動にはいかなる境界線もなく、さらに重要なことには、いかなる決まった尺度もない。」註8 これら「隣接者」たち、ガイアの「根本的に異質な存在たち」は、このネットワーク、「作用の波動」の中で、互いに「存在そのものを否定」しあう、すなわち殺しあうしかないのか。その「全面戦争」をたとえ局所的にでも避け、人類が「ごくわずかな希望の源泉」から自らの「居住場所」をなんとか見出していくためにも、ラトゥールはまず何よりも「これまでとは違う記述を作りだす・・・・・・・・・・・・・・・」必要があると言う註9

 

要は個々のテレストリアル〔大地的なもの〕の生存を可能にする要素のすべてを悉皆的に探すことだ。それによってそれぞれの要素の等級 (class) に関わる記述を広げていく。あなたは一個のテレストリアルとして誰 (何) を一番大切に思うのか。誰 (何) となら共に暮らしていけるのか。生存のために誰 (何) があなたに依存しているのか。誰 (何) に対して闘いを挑むのか。どうすればすべてのエージェントを、重要性の度合いに応じてランクづけできるのか。註10

 

 確かに、「敵」と「友」を知り、是が非でも生き残るためには、こうした「記述」、作戦図も必要とされよう。しかし、はたして、人類とガイアは、畢竟「戦争」するしかないのか。人類は「生き残る」ために、新型コロナウイルスに続き、「敵」とみなしうるガイアの出来る限り多くの要素、エージェントに「戦い」を挑み、望むらくは殲滅せんことを願うしかないのか。そもそも、そんなことはこの後に及んで可能なのだろうか。

 

「美は一種のウイルスである」

 

 アメリカの思想家ティモシー・モートンが、新型コロナウイルスをめぐって奇異な題のエッセイを書いている。「ウイルスよ、共生に感謝」註11

 モートンは、COVID-19を、我々の時代の「ハイパーオブジェクト」、地球温暖化というハイパーオブジェクト中のハイパーオブジェクトと言い、これは温暖化の「予習」なのか?と問う。そして、彼自身ひどい喘息もちで、睡眠時無呼吸症なので、もしウイルスに感染したら、たぶん死ぬだろう、と不安がる。

 しかしまた、彼は奇妙な喜びも覚えている。ついに環境活動家グレタ・トゥーンベリが休みを取れ、長い間通っていなかった学校にも戻ることができたし、このウイルスのおかげで大気汚染と二酸化炭素排出が激減したし、コロラド州ボルダーの街路では、いつもは極端にシャイで、銃を持った人間たちの圏域には近寄ろうとしないピューマが闊歩していたりするからだ。

 彼はさらに、このウイルスが人間の生活にもたらす両義性、特に「歓待(ホスピタリティ)」の両義性に着目する。Hospitalityの語源であるラテン語hostisは、host(主)、guest(客)、friend(友)、enemy(敵)という現代語の感覚では反意となるような両義性を元々備えていた。だから、「歓待」は、自分の家のドアを殺人者に向けて開く可能性をも宿していた。「僕は死にたくない。このウイルスのせいで誰かに死んでほしくない。でも、僕には『生き生きと生きる(alive)』ことが要するに『生き延びる(survive)』ことと対照的な意味をもつことがわかった。」

 Hospitality(という語)の両義性。確かに今、「友人」に会おうとする時、彼(女)が(その人間性と関わりなく)「敵」、しかも自分の命を奪うかもしれない「敵」でもある蓋然性を捨てきれない。しかも「敵」であるかどうかは目に見えない。だから、想像界と現実界で絶えず「友」と「敵」、親愛なるものと殺人者が表裏を反転しつづけることになってしまい、決定不能な状況、ダブルバインド状況に置かれてしまう。一番安全かつ安心なのは、とりあえず「一時的なことだ」と自らを納得させ、「友/敵」たちと会わないことだ。Aliveよりもsurviveを優先させることだ。しかし、この両義的状況がいつまで続くか、誰にも(おそらくウイルスにも)わからない。ただ自室に蟄居しつづけていてもやるせないので、とりあえず「オンライン」という現代のテクノロジーにすがるしかない……。

 ところで、モートンは、この短いエッセイを、題名以上に奇妙な一節で終える。

 

芸術でも同じことだ。芸術は、意味もない絵具の滴りのためのPRではない。[…] もし美しいものが最大限度を超えれば、あなたの身体の中の臓器は溶け出し、死に至ることだろう。あるいはあなたが美しいものを食べれば、それはまた死に至るだろう。美と共生することは生やさしいことではない。美は死の可能性である――美は脆い。脆さそのものである。

 

美は一種のウイルスである。

 

 この謎めいた一節をどう解釈すべきか。語法が省略的で論理的飛躍が多いため、このままではいたって真意がつかみにくい。幸い、美とウイルスとの関係をより明示的に語っている彼自身の別のテキストがあるので、それを参照しよう。

 その「涙にくれ、異国の畠中に立ちつくした」という、これまた奇妙な題をもつテキストの中で、モートンは、花の美についてこう語っている。

 

美は私に、現象と物の裂け目を経験可能にしてくれる表現をもたらしてくれる。なぜなら私はただこの花が咲くという現象が好きだからなのだが、しかしながら、花を引き裂いて開いても、私が本当に好きであるものを見ることはできない。美をまさにそうであるようにする能動的な構成要素は、花にも私の主観性にも存在しない。花は奇怪な輪である。それは私を私の外へと誘うが、私を私へと連れ戻す。あたかも私には、私ではない何ものかが存在するとでも言うように。このことは、カントにしてみればもちろん厳密に言って正しいのだが、なぜなら私の理性は本当は私ではなく、美の経験はこの私ではないということの証拠だからである。註12

 

 花=美は「奇怪な輪」である。この「輪」とは何だろうか。私は、目の前の花を美しいと感じる。しかし、私が美しいと感じるのは、実は私の中に「私ではない何ものか」、私に花を「美しい」と感じさせる「何ものか」が棲まっているからだ。その「私ではない何ものか」と「私が美しいと感じること」が、極薄い「裂け目」を介してくるくると回転しつづける、その「輪」こそ、美的経験を成り立たせている当のものに他ならない。

 だから、とモートンはつづける。美的経験はウイルスのようなものだ、と。

 

したがって、美的経験は花のようなものでもあるが、言いかえると、それはウィルスのようなものであり、思考をつうじてみずからを増殖させていく奇妙な輪であるということである。そこで美的経験は、宿主に棲みつく寄生物のようにして発展していく。美を感じることは、そこでウィルスにつねにすでに感染していることを認めることである。註13

 

 「私ではない何ものか」、私に美しいと感じさせる「何ものか」が、ちょうどウイルスのように、目に見えない形で、私という「宿主」の内に潜んでいる。私は常にすでにその美=ウイルスに「感染」しているがゆえに、花を、芸術作品を、あるいは恋人を「美しい」と感じる。

 でもなぜ(先の短文の最終節にあったように)、それが「死」でもあるのか。モートンはこう付け足す。

 

プラトンが危惧したように、それが詩を読むことの要点ではないのか。それは、詩を貫いて流れる悪魔的な(すなわち因果的な)エネルギーを再生産することであり、理由もなくアルゴリズムを複製することではないのか。註14

 

 この「涙にくれ、異国の畠中に立ちつくした」というテキストで、モートンが再三述べているように、「私」と「私ではない何ものか」との「奇妙な輪」は、なにも美的経験だけにとどまらない。カントの哲学が明らかにしたように、それは人間の理性一般を成り立たせている条件でもある。だが、モートンはここで、「私ではない何ものか」の中で美的経験こそが「悪魔的なエネルギー」を再生産する、すなわち宿主に取り憑きつつ、宿主を破滅にまでいたらしめる力を孕んでいると見る。「もし美しいものが最大限度を超えれば、あなたの身体の中の臓器は溶け出し、死に至ることだろう。〔…〕美は死の可能性である。」

 それゆえに、「美は一種のウイルス」なのではないか。そう、モートンは問うのである。

 

人間とガイアの新たな共生へ

 

 「ウイルスよ、共生に感謝」。結局、モートンは(新型コロナ)ウイルスに感謝しているのか、それとも、「一種のウイルス」ともいえる「美」に感謝しているのか。それとも、両者になのか。あるいは、宿主=私(人間)に寄生し感染し、死をもたらしうるあらゆる存在になのか。

 「美的経験は〔…〕ウイルスのような・・・もの」である。少なくとも、モートンは、美に関し「ウイルス」をメタファーとして用いている。「芸術でも同じ・・ことだ」。この「同じ」「ような」というメタファー化が介されることにより、私たちはモートンがはたして「共生」を(新型コロナ)ウイルスに感謝しているのか、美に感謝しているのか、決定不能性に陥る。

 しかし、私たち人類は、そしてすべての生命体は、文字通り・・・・、ウイルスにその共生を感謝すべしとでも言いたげな生物学者がいる。福岡伸一である。

 

かくしてウイルスは私たち生命の不可避的な一部であるがゆえに、それを根絶したり撲滅したりすることはできない。私たちはこれまでも、これからもウイルスを受け入れ、共に動的平衡を生きていくしかない。

 

 「ウイルスという存在 生命の進化に不可避的な一部」という短文註15で、福岡は、ウイルスをまず「利他的な存在」と捉える。なぜか。通常、生命の進化において遺伝情報は親から子へと「垂直」方向に伝達される。ところが、ウイルスは、生物=宿主間を(時には種を超えて)「水平」移動することにより、遺伝情報を横断的に伝達して(時には宿主に病気や死をもたらしつつ)生態系全体の動的平衡を促進してきた。

 宿主は「極めて積極的に、ウイルスを招き入れているとさえいえる挙動」すらとると言う。なぜか。なぜなら、ウイルスは元々「宿」に住まっていたが、いつぞや出て行った「家出人」であるから。「ウイルスは構造の単純さゆえ、生命発生の初源から存在したかといえばそうではなく、進化の結果、高等生物が登場したあと、はじめてウイルスは現れた。高等生物の遺伝子の一部が、外部に飛び出したものとして。つまり、ウイルスはもともと私たちのものだった。それが家出し、また、どこかから流れてきた家出人を宿主は優しく迎え入れているのだ。」宿主(host)は、そのように「家出人=ウイルス」を、自らの病、死のリスクを負いながらも招じ入れる=感染する。そして、ウイルスは「旅」の途上で得た未知の「異邦の」情報を携え、「利他的に」ふるまって、生命進化に「変異」をもたらし、動的平衡を促進する。微生物学的hostisの両義性。この両義性こそ、我々生命体の宿命なのではないか。だから、我々はウイルスと「共生」するしか道はないのではないか。「私たちはこれまでも、これからもウイルスを受け入れ、共に動的平衡を生きていくしかない。」と福岡は説く。したがって、我々は、ウイルスにその「共生」を「感謝」すべきなのだろうか。

 

いや、ときにウイルスが病気や死をもたらすことですら利他的な行為といえるかもしれない。病気は免疫システムの動的平衡を揺らし、新しい平衡状態を求めることに役立つ。そして個体の死は、その個体が専有していた生態学的な地位、つまりニッチを、新しい生命に手渡すという、生態系全体の動的平衡を促進する行為である。

 

 福岡はここで、「個体」にしか言及していないが、もちろん「種」に関しても同様のことは言えるだろう。今回のコロナ禍はまさに、福岡が言うように、ウイルスによる「生態系全体の動的平衡を促進する(利他的)行為」なのだろうか。ウイルス学が専門ではない私にはこう自問することしかできない。

 他に私にできることはといえば、モートンのように「美」をウイルスに喩え、その死の可能性との「共生」に「感謝」するのではなく、微生物を含めたガイア全体と、人間は(「戦争」するだけでなく)、如上の生物学的宿命を受け入れつつも、自らが培ってきた「文化」の何がしかを役立てることにより、もう一つ別の・・・・・・「共生」の在り方、共に(「殺しあう」のではなく)“恵みあう”在り方、人間とガイアの新たな共創造(co-creation)の在り方を模索することではないか。その、ごくわずかかもしれない可能性を探ることこそ、本論の要諦と言えよう。

 

 

註1 「マクロン大統領、国民に向けて2回目のテレビ演説」(訳:在日フランス大使館)、https://jp.ambafrance.org/article15565。その後、事態の経過とともに、フランス政府は、新型コロナウイルスとの「戦争状態」から「共生」へと政策を転換する(フィリップ首相による2020年4月28日フランス下院での演説「外出規制緩和に関する国の方針」)。

註2 Bruno Latour, Face à Gaïa, Editions La Découverte, Paris, 2015。

註3 カール・シュミット『政治的なものの概念』、田中浩・原田武雄訳、未来社、1970年、26頁。

註4 Latour, op. cit., p.306(拙訳、以下同様)。

註5 Ibid., p.308。

註6 Ibid., p.316。

註7 Ibid., p.327。

註8 Ibid., p.135。

註9 ブルーノ・ラトゥール『地球に降り立つ』、川村久美子訳、新評論、2019年、144-145頁。

註10 同書、147頁。

註11 Timothy Morton, “Thank Virus for Symbiosis”, https://strp.nl/program/timothy-morton(以下、引用文は拙訳)。

註12 ティモシー・モートン「涙にくれ、異国の畠中に立ちつくした」、小川緑・篠原雅武訳、『現代思想』2015年9月号、Kindle版、位置No.4777-4783。

註13 同書、位置No.4783-4787。

註14 同書、位置No.4787-4789。

註15 「(福岡伸一の動的平衡)ウイルスという存在 生命の進化に不可避的な一部」、『朝日新聞DIGITAL』、2020年4月3日、https://www.asahi.com/articles/DA3S14427771.html

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著者略歴

  1. 熊倉敬聡

    1959年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒、パリ第7大学博士課程修了(文学博士)。芸術文化観光専門職大学教授。元慶應義塾大学教授、元京都造形芸術大学教授。フランス文学 ・思想、特にステファヌ・マラルメの貨幣思想を研究後、コンテンポラリー・アートやダンスに関する研究・批評・実践等を行う。大学を地域・社会へと開く新しい学び場「三田の家」、社会変革の“道場”こと「Impact Hub Kyoto」などの 立ち上げ・運営に携わる。主な著作に『瞑想とギフトエコノミー』(サンガ)、『汎瞑想』、『美学特殊C』、『脱芸術/脱資本主義論』(以上、慶應義塾大学出版会)、『藝術2.0』(春秋社)などがある。http://ourslab.wixsite.com/ours

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