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GEIDO試論 熊倉敬聡

GEIDO論の生態学的転回・展開へ(その2)

 

人類は「日本人」として生き延びる?

 

 人類と新型コロナウイルスとの「戦争」(マクロン仏大統領初めとした各国首脳)、人類とガイアの「戦争」(ブルーノ・ラトゥール)。この、人間と「人間ならざるもの」(通常「自然」と呼ばれるもの)との関係性を「戦争」と形容するしかない気構えに、私は曰く言い難い違和感を覚える、ということから、私は前回の論を書き起こしていった。

 しかしどうやら、この人間と自然との「戦争」は、新型コロナウイルスやガイアの脅威に直面した現在の人間たちに固有な捉え方ではなく、少なくとも「西洋」世界においては古代より歴史を貫通し現代でも最重要な「政治闘争」らしいのだ。「現代の文化にあって、あらゆる他の闘争を左右するような決定的な政治闘争こそ、人間の動物性と人間性のあいだの闘争である。すなわち、西洋の政治学は、その起源からして同時に、生政治学なのである。」註1

 イタリアの思想家ジョルジョ・アガンベンは『開かれ――人間と動物』において、この西洋世界にあって決定的に重要な「政治闘争」について、アリストテレスからハイデガーまで追跡しつつ、その政治学的・存在論的意義を描き出している。(我々は、この著作の全体的論旨からいって、「動物」を「自然」の換喩と捉えて不都合はなかろう。)

 しかし、彼がまず最初に注目するのは、人間の「頭」をめぐる二つの謎めいた形象、「動物人」と「無頭人」――頭が動物として描かれている人間と、頭のない裸体の人間である。

 ミラノのアンブロジアーナ図書館に保管されている13世紀のヘブライ語聖書。そこに描かれている細密画の一つは、最後の審判の日における義人たちのメシア的宴を表しているが、彼らの頭がなぜか鷲や牛や獅子などの頭部になっているのである。人類の歴史を締めくくる時に臨んで、完全な人間性を体現するはずの義人たちの頭部がなぜ動物として描かれているのか。その謎にとりあえず答えぬまま、アガンベンは次の形象に移行する。

 パリの国立図書館である日、ジョルジュ・バタイユは、動物の頭部をもつアルコンというグノーシス派の低次霊的存在たちを刻み付けた沈み彫りに衝撃を受ける。そしてその6年後、その名も『アセファル(無頭人)』という雑誌を創刊し、その表紙をアンドレ・マッソン描くところの、頭のない裸体の人間像で飾る。が、同誌の3−4月号では、同じ裸の人物が今度は牡牛のいかめしい頭部を抱えている。アガンベンは、この「頭」をめぐる“揺らぎ”に、当時のバタイユが抱えていたある思想的・実存的アポリアの証言を見る。

 バタイユと、その(ヘーゲル哲学の)「師」アレクサンドル・コジェーヴ。その一筋縄でいかぬ(少なくとも前者にとっては)捻れた師弟関係の内に、アガンベンはアポリアの淵源を探る。

 バタイユは、コジェーヴのヘーゲルについての講義に出席していた。その講義の中心テーマの一つが、歴史の終焉、そして歴史以後の世界で人間と自然が呈する姿の問題であった。コジェーヴは、(その有名な講義への注釈で)歴史の終焉において〈人間〉は消滅するが、その「消滅」は生物学的終末を意味するのではなく、〈人間〉が〈自然〉と一致する「動物」として生きつづけることを意味すると言う。その「動物的」な生とは、あらゆる〈人間〉的〈活動〉の終焉後、「それ以外のものすべて、いいかえれば、芸術、愛、遊びなど、要するに人間を幸福・・にするものすべては、際限なく継続していくのである。」註2

 この人間が動物となって生き延びるという「残余」について、バタイユは思想的・実存的に合点がいかなかった。彼が「哄笑」や「恍惚」や「奢侈」などに求めた「死を前にしての歓喜」は、至高なる「無頭性」であり、断じて動物的なものではなかった。

 彼はコジェーヴに宛てた書簡の中で、自らを「用途なき否定性」と定義し、その「私の生である開いた傷口――はそれ自体で、閉じたヘーゲル体系への反駁となっている」註3と記す。

 バタイユにとって、歴史・人間の終焉以後、生きつづける「残余」は「用途なき否定性」としてであり、その仄暗いエピローグの中で、至高性を体現する賢人たちは、動物の頭部をもつのではなく、あくまで「無頭人(アセファル)」なのである。

 コジェーヴはその後、研究教育活動の傍ら、フランス政府高官となり、外交交渉などのため、世界各地を旅する。そしてアメリカ流の生活様式の中に、「歴史以後(ポストストリコ)の時代に特有の生活類型」、すなわち人間の動物性への回帰を目の当たりにする註4

 さらにコジェーヴは、1959年に日本に旅行したことにより、歴史以後の人類の在り方・生き方にさらに興味深い見方をもつようになる。

 彼によれば、歴史以後の日本の文明は、アメリカ合衆国のそれとは正反対の道を歩んだ。「日本においては、『自然的』もしくは『動物的』な所与を否定するさまざまな規律を、生のままの〈スノビスム〉が生み出していた」。日本人は、完全に「形式化された・・・・・・価値」「『人間的』な内容をまるで欠いた価値」に基づいて、現に生きている。彼らは、この「純粋なスノビスムによって、まったく無償の自殺に踏み切ること」さえできるのだ註5。そして、歴史以後の時代は、西洋人が「日本化する」過程となる。人類は今後「日本人」として生き延びることにより、決定的な絶滅を免れるだろう。

 このコジェーヴの予見が当たっているかどうか。そもそも、コジェーヴは「日本的スノビスム」で何を意味しようとしたのか。

 アガンベンは、「人間」は、「『人間化した』動物性とその動物性のなかで受肉する人間性」とがたえず切断しあう「弁証法的緊張の場」だと言う。言い換えれば、「人間が否定的活動をつうじて自己自身の動物性を支配し、必要とあれば、それを破壊することによってのみ、人間は人間的たりうるのである。」註6

 この、自らの内なる動物性=自然との「戦争」としての「人間」。(またもや「戦争」だ。)そして、その「人間」=歴史の終焉。この展望の中で、はたしてコジェーヴの予見(人類の「日本人」化)は、いかなる意味を持つのか。アガンベンは、この著で答えを見出せるのだろうか。結論を先取りすれば、アガンベンは、答えを見出せないどころか、あたかも問いそのものを忘れたかのように、この著を終えてしまうだろう。

 以上の、「動物人」と「無頭人」、そしてそれらの内に歴史の終焉以後の人類の生の在り処を問うコジェーヴとバタイユの捻れた師弟関係をめぐる「プロローグ」を終えた後、アガンベンは、「人間」を作り出す「弁証法的緊張の場」、すなわち彼言うところの「人類学機械」が(少なくとも「西洋」の)知的歴史においてどのように作動してきたかを、アリストテレス、トマス・アクィナスから、リンネを経て、ユクスキュルの「環世界」論に至るまで考察していく。そして、ユクスキュルに大いに触発され、改めて現存在の根本構造を動物に対して位置づけ直そうとしたハイデガーにおいて、人類学機械がどのように存在論的に、そして政治学的に作動するかを詳細にみていく。

 

人間の「開かれ」

 

 アガンベンは、ハイデガーの中で「人類学機械」がどのように作動し、「人間創世」が行われるか、すなわち「人間」の世界が「開かれる」かを、特に『形而上学の根本概念』という講義録の読解を通して明らかにしていく。

 この(ユクスキュルの環世界論の影響を色濃く帯びた)講義におけるハイデガーの焦眉の課題とは、「動物の『世界の窮乏(Weltarmut)』と『世界を形成する(weltbildend)』人間との関係を通じて、現存在(ダーザイン)という根本構造そのものを動物に対して位置づけることなのであり、そうすることで、人間の登場とともに生物のうちに現われる開示(アペルトゥーラ)の根源と意味を探究すること」註7である。

 動物の「世界の窮乏」とは、いかなる事態か。それは、動物の「放心」、すなわち動物とその「抑止解除するもの」との関係を規定する、動物に固有な存在様態である註8。例えばユクスキュルの有名なダニの例をとろう。視覚も聴覚も味覚もないダニは、いかにして、木の枝で獲物(哺乳動物)を待ち伏せ、その上に落下し、生き血を吸うに至るのか。ダニの環世界を構成する要素(ユクスキュルのいう「意味の担い手」ないし「知覚標識の担い手」、ハイデガーのいう「抑止解除するもの」)は三つしかない。(1)哺乳類の汗に含まれる酪酸の匂い。(2)哺乳類の血液と同じ37度の温度。(3) 哺乳類に特有な体皮の類型。この三つの要素以外のものは、ダニの環世界には存在していない。その「世界の窮乏」の中で、ダニはひたすら、たまたま哺乳動物が通りかかるのを「待つ」。そして、知覚標識を感受するや否や抑止は解除され、あわよくば獲物の上に落下するのである。知覚標識に抑止解除されたダニは、「〜に夢中になっている」あるいは「放心している」、とハイデガーは表現する。この「夢中」になり「放心」している時、ダニは「〜」に関係し、ある種の「開示性」を示しているが、それは「露顕なき開示」、すなわち「〜」はある種の仕方で「開かれて」いるが、(人間に対するように)存在者として・・・「露顕して」はいない、と説く註9

 もちろん、この「世界の窮乏」「放心」は、ダニに特殊なものではなく、動物全般に固有な存在様態である。ただし、各々の動物の環世界は、その動物に特有な要素、「抑止解除するもの」で構成されている。

 ところで、ハイデガーによれば(ここが彼の人類学機械のいわば原動機だ)この動物の「放心」と、人間の倦怠、なかんずく「深き倦怠」は、「酷似」していると言う。「深き倦怠」とは何か。それには二つの構造的契機がある。一つ目は、空無への放置。ハイデガーは、片田舎の駅で長時間列車に待ちくたびれるときの、うんざりするような退屈を例にとる。このやるせない空虚な時間に何が起きているのか。この空虚の中で、諸事物は存在しているが、「われわれに差し出されるべき何ものをももっていない」にもかかわらず、「われわれは、われわれを退屈させるものに釘づけにされ足止めされてしまう」註10。倦怠において、人間=現存在は、「全体としての存在者」、しかし同時に「全体において拒まれて」もいる存在者に直面し、引き渡されている註11。この「露顕されざるもののうちに曝される」という点において、動物の「放心」と人間の「倦怠」は「酷似」する、とハイデガー/アガンベンは主張する。

 「深き倦怠」の第二の構造的契機は、「宙づりのままに保持されてある」ことである。倦怠においては、現存在はあらゆる可能性を宿しているが、その可能性は不活性のまま滞留している。特定の具体的な可能性すべてを宙づりにする中で、根源的な可能態が露わになっている。が、それは、あらゆる可能性が宙づりになっているがゆえに、否定の可能態、「無能性」とも言いえる註12

 結局、倦怠のうちで問題となっているのは、「人類創世、つまり生きた人間が現−存在〔そこに−あること〕となること」に他ならない。人間の「世界」が「開かれる」ことに他ならない。そしてこの「世界」の「開かれ」は、畢竟、「無化」である、とハイデガー/アガンベンは述べる。「存在は、その根源以来、無に横切られており、開かれは元をただせば無化なのである。というのも、世界が人間に対して開かれるのは、生物とその抑止解除するものとの関係を遮断し無化するかぎりにおいてだからである。」註13

 したがって、動物の「放心」と人間の「倦怠」との「酷似」は、所詮「酷似」に過ぎないだろう。ハイデガー自身言うように、「両者のあいだには、いかなる媒介によっても乗り越えられない深淵が横たわっている」註14と言わざるをえない。それどころか、人間は、自らの「世界」を「開く」ために、動物たちとの関係を遮断し無化し、そして動物たちを含めた「大地」と闘わなくてはならない・・・・・・・・・・だろう。こうして我々は、この講義録における人間と動物の関係から、『芸術作品の根源』における「世界」と「大地」との「闘争」へと送られる。

 芸術作品は、「〈自己の内に自己を閉ざすもの〉としての大地を、〔世界の〕開かれのうちにもたらす」。世界と大地は、開示と閉塞として、「相反する対立〔…〕ひとつの闘争」であるが、それらはまた分割しえないものであり、非隠匿性と隠匿性の弁証法を形作り、それこそがハイデガーにおいて「真理」という存在論的パラダイムを構成するとともに、「闘争」として根源的な政治的・・・パラダイムをも構成するのである註15

 人類学機械は、ハイデガーの中でこのように作動し、人間の世界を「創世」していた、とアガンベンは見る。そして、その機械は、限りなく緻密な存在論的機械であると同時に、限りなく峻厳な政治的機械でもあった。アガンベンによれば、ハイデガーは結局「人類学機械が、人間と動物、開かれと開かれざるものとのあいだの闘争をたえず裁決し再編することによって、ひとつの人民にとっての歴史や命運をいまだなお生み出すことができると信じた最後の人物」註16であり、最後の哲学者であった。

 

地中海的・弁証法的無為

 

 そして、この著の「エピローグ」。主要登場人物は、ベンヤミンとティツィアーノ。

 アガンベンによれば、人間と自然との関係において、ベンヤミンは、人類学機械を全く念頭においていない、と言う。ベンヤミンにあって、自然は至福の原型であり、己れ自身へと送り返された自然、「救出された夜」だと言う。そして、その「夜=至福」は、「おそらくわれわれがまだ呼ぶべき名をもっていない動物でも人間でもないようなもの」、すなわち性的充足のうちに見出される、とベンヤミン/アガンベンは捉える註17

 さらにアガンベンは、ティツィアーノの『ニュンフと牧童』における、二人の「絡み合いつつも離れた」特異な関係を取り上げ、(ここでもベンヤミンの「救われた夜」同様)彼らが「動物的でも人間的でもない新たな至福の生」を享受し、「自然と智慧、隠蔽と露顕の彼岸にある、ひとつの至高の段階」へと到達しようとしていると言う。そして彼らは、性的充足のうちに「完全に無活動となった人間本性」たる「無為」に思いを凝らすと言う註18

 すぐれて「地中海的」とでも形容したくなるような快楽主義的な生/性の技法=無技。歴史の終焉以後、人類はこのどこまでも享楽主義的な無為のうちに生き延びていくのだろうか。最後にアガンベンは、人類学機械とは異なる弁証法を作動させ、「人間」と「動物」をともに止揚する「大いなる無知」に、人類の救いなき救いを希求する。

 

われわれの人間概念を左右する機械を機能させないようにするということは〔…〕人間と動物を――人間のうちで分割する断絶(イアト)を見せてやることなのであり、この空虚に身を曝すこと、つまり、宙づりの宙づり、人間と動物の無為(シャバト)に身を曝すことにほかならない。〔…〕

アンブロジアーナ図書館の細密画に描かれた、動物の頭部をもつ義人たちが呈していたのは、人間と動物の関係の新たな傾向ではない。むしろそれは、人間と動物のいずれをも存在外へと存在せしめ、本来的に救うことのできない存在のうちで救済を果たす「大いなる無知」の形象なのである。註19

 

 地中海的弁証法(?)の無為にして無知。――これが、コジェーヴの問い(歴史の終焉以後人類は「日本的スノビスム」を生きるのか?)への、アガンベンの間接的な答えなのだろうか。「エピローグ」において、アガンベンはこの問いを呼び起こさぬまま論を終えてしまうがゆえに、我々にはその真意を知る由もない。

 しかし我々は、アガンベンとは別様に、コジェーヴの問いをあえて真に受けて、その問いをさらに深めていきたい。その問いが、我々の言うGEIDOといかに交錯するのか否かを見極めていきたい。

 

脱「哲学」、脱「人間」化としての瞑想

 

 人間と自然。「戦う」、「やるかやられるか」以外に、どんな関係が可能なのだろうか。

 我々は、瞑想に、その答えへのヒントを見出せるだろう。(なお、ここでの瞑想には「坐禅」も含む。)

 瞑想とは何だろうか。通常人が抱くであろう峻厳で神秘的なイメージとは裏腹に、それはいたってシンプルな行い、いや行いとも言えないような行いである。瞑想とは、単に「今ここに在る」ことを感じつづけることである。こう言うとすぐに以下のような反論が来よう。「でも、人はいつだって今ここにいるじゃないですか。」でも、本当にそうだろうか。あなたは「今ここに在る」ことを本当に感じつづけているだろうか。例えば、何かを考えてはいないだろうか。何かを思いだしてはいないだろうか。何かを案じてはいないだろうか。スマホやパソコンで何かを見てはいないだろうか。誰かと何かについてお喋りしてはいないだろうか。これらの「何か」はすべて「今ここにはない」何か、過去へと未来へと、あるいは言葉やメディアの向こう側にある何か。その「今ここにない何か」へと、私たちの心・意識はたえず逸らされている。「今ここ」を立ち去り、あらぬ何かへと移送されてしまっている。が、私たちは通常その「立ち去り」「移送」をそれとして気づかず、あたかも「今ここに」いるかのように錯覚している。瞑想は、その心・意識の「立ち去り」「移送」が起こらないよう、たいていはごく単純な作法・技を用いて(呼吸に集中する、一点に集中するなど)、「今ここ」を感じつづけられるようにする営みである。

 そんなごくシンプルな行いとも言えない行いだが、実際行ってみると、かなり難しい。呼吸に集中し、今ここを感じつづけようと思っても、心はいつの間にかふらふらと今ここにはない「何か」へと逸らされている。何かを思い出したり、案じたり、雑念が沸き、あるいは眠気が襲う。でも、ある種の導きを受けると、徐々に「逸らし」「移送」が減り、今ここを感じつづけることに集中できるようになっていく。

 こんな瞑想を、先のアガンベン/ハイデガー的人類学機械の文脈に差し戻してみよう。先に私たちは、「深き倦怠」において問題となっているのは、人間の「世界」が「開かれ」ること、「人類創世、つまり生きた人間が現−存在〔そこに−あること〕となること」とみた。瞑想もまた、この「現−存在」、「今ここに在る」ことから出発する。しかし、出発点は同じでも、哲学と瞑想とでは、進む方向が真逆なのだ。

 哲学は、「今ここに在る」ことから出発し、その「世界」の「開かれ」がいかなる構造で成り立ち、いかなる次序で展開していくか、その諸契機を弁別し、「思考」する。それに対し、瞑想は、「今ここに在る」ことから出発するが、「思考」しない。「今ここに在る」ことについて「思考」し、その構造的諸契機を弁別していくこと自体が、「今ここに在る」ことからの「逸らし」「移送」と捉え、他の想念・雑念同様、心の夾雑物としてそこからむしろ心を解くことを狙う。「今ここに在る」ことについて「思考」するのではなく、「今ここに在る」ことそのものをひたすら感じつづけることに徹するのである。

 前著『藝術2.0』で、私は「藝術家2.0」ないし「GEIDO-KA」の一人として禅僧藤田一照を取り上げ、その坐禅の原理性と革命性について論じた。藤田は、その坐禅論『現代坐禅講義』をなんとパスカルの『パンセ』からの引用で始めていた。「人間の不幸というものは、みなただ一つのこと、すなわち、部屋の中に静かに休んでいられないことから起こる」註20

 そして藤田は、「部屋の中に安静にしていること」を「くつろぐ」という言葉で置き換え、今度はイギリスの詩人ジョン・キーツの「ネガティブ・ケイパビリティ(Negative Capability)」という、逆説的な響きをもつ造語をもちだし、「くつろぎ力」とは、「わたしが〜する」という積極的・能動的力ではなく、「〜をやめる、しない」という消極的・受動的力ではないかと述べていた。そして坐禅は、純粋なネガティブ・ケイパビリティ、「くつろぎの純粋なかたち」であると明言し、しかも、それは元々道元が説いていた坐禅の精髄(「安楽の法門」「帰家穏坐」)ですらあると説いていた。

 ナガティブ・ケイパビリティ。この語は、アガンベン/ハイデガーの人類学機械のある部位に共鳴しないだろうか。そう、先に論じた「無能性」である。

 

 「深き倦怠」の第二の構造的契機は、「宙づりのままに保持されてある」ことである。倦怠においては、現存在はあらゆる可能性を宿しているが、その可能性は不活性のまま滞留している。特定の具体的な可能性すべてを宙づりにする中で、根源的な可能態が露わになっている。が、それは、あらゆる可能性が宙づりになっているがゆえに、否定の可能態、「無能性」とも言いえる。

 

 あらゆる可能性がそこから展開し、人間の「世界」が形作られていくであろう、根源的可能態=無能性。「純粋なくつろぎのかたち」、純粋なネガティブ・ケイパビリティである坐禅・瞑想は、しかし、その可能性への展開へと「開かれ」つづけていくのではなく、逆にその無能性=ネガティブ・ケイパビリティの内に留まりつづける。「今ここに在る」「開かれ」の内にひたすら留まりつづけ、「開かれ」がそれ自体のうちに深まり、深まるとともに「開かれ」が徐々にその内へと閉じられ、その閉じられの向こうから今度は今まで頑なに閉じていたもの、隠蔽性・閉塞としての「大地=自然」が開き始め、湧き出てきて、その圧倒的押し寄せがやがて閉じられゆく「開かれ」を飲み込んでしまう。〈自己の内に自己を閉ざすもの〉としての「大地」に対して(「闘争」して)「開かれ」る「世界」が「人間」だとすれば(そしてそれを「思考」するのが「哲学」だとすれば)、瞑想はだから、脱「人間」化、脱「人類学機械」、脱「哲学」であり、「大地」への「自然」への「動物」への変成(へんじょう)なること・・・・に他ならない。

 

仏の行は、尽大地とおなじくおこなひ、尽衆生ともにおこなふ。もし尽一切にあらぬは、いまだ仏の行にてはなし。

(『正法眼蔵 唯仏与仏』)

 

 仏の行としての坐禅は、だから大地の尽くと、生きとし生けるものの尽くと「おなじく」「ともに」行われる。それは、尽一切になること・・・・、神羅万象の縁起の尽くを廻る生命エネルギー=気の波動となることである。

 自然に、対し、抗し、闘争し、思考する時、それは「大地」、〈自己の内に自己を閉ざすもの〉、絶対的な閉塞としての「大地」としてしか現れないだろう。しかし、「思考」するのではなく、それと「おなじく」「ともに」おこなう時、すなわち瞑想する時、それは、絶対的閉塞どころか、生命の喧騒で満ち満ちたもの、無数の生き物たちの環世界が不協和なまま交響するものとして「開かれる」。その尽一切の開かれのうちに「やすらぎ」つづけることこそ、瞑想の真髄に他ならない。

 

苺を瞑想する

 

私は、前々回、鶴見俊輔の「限界芸術」論の批判的読解の一環として、「食べる瞑想」、「苺のメディテーション」を取り上げた。「食べる」という、鶴見によれば、(限界)芸術などの狭義の美的経験ではないが、少なくとも広義の美的経験ではある行為が、瞑想という行いの仕様によっては、狭義の美的経験すら超えて、一つの感性的、いや存在論的出来事にすらなりえることを語った。

 私たちが、日常、苺を食べる時大概、苺を食べているようでいながら、実は「赤い」「かわいい」「甘酸っぱい」「ショートケーキ」などの先験的意味づけ・価値付与の凝集体、一つの文化的記号として「消費」しているにすぎない。(それはもちろん苺に限らず、未知の食べ物以外の大方の食べ物について言えよう。)瞑想状態に入り、食べると、その「消費」的「現実」が崩れ、もう一つの“現実”がまざまざと現出してくることに驚愕する。その驚愕を、私は、学生たちに一つの「学び」として提供していた。

 私たちは、また、ハイデガー/アガンベンにならって、「大地」の一部として、存在者として、苺を「思考」、「哲学」することもできる。その時、苺は、他の「大地」の諸存在者同様、「思考」による「世界」の「開かれ」に対して、頑なに閉じたものとして、〈自己の内に自己を閉ざすもの〉として、隠蔽性としてしか、自らを現さないだろう。

 しかし、私たちは、苺を「思考」するだけでなく、「瞑想」することもできる。苺を食べることそのものを瞑想することもできる。

 庭の畑から苺を一粒取ってくる。白い小さな皿に載せる。しばし目を閉じ、心身を落ち着ける。目を開き、目の前の苺を手に取る。鼻に近づけ、香りを嗅ぐ。かすかに爽やかな甘い香りが鼻腔に染みる。少し離して、つぶさに見る。全体にほんのりと赤みを帯びているが、先端部はまだ仄白い。へたのやや薄茶がかった緑色とのコントラストが鮮やかだ。おもむろに口の中に入れ、果肉に歯を立て、半分ほど噛み切る。途端、いとも芳しい汁が口内に沁み渡り、無数の細胞が歓喜する。が、噛み始めると、粒がぶちぶちと無粋な響きで割って入る。しかし、芳しい潤いは、それをも包み込むように、口の中いっぱいに、喉のうちへと、そして終いには胃の中へと、沁み渡っていく…。

 苺を瞑想する時、私は苺に「なる」。瞑想の中で、苺はかくも「開かれ」、押し寄せ、心身に沁み渡り、文字通り私の一部と「なる」。私は、苺の命に恵まれる。生かされる。太陽の光が、雨水が、空気が、土が、土や空気の中にいる微生物たちが、辺りを飛び交う虫や鳥たちが、そして、苗を植えた私が、共に働きあって、共演して、育んだ、一粒の苺。その恵みに助けられ、培われ、今ここに私は在る、生きる。尽大地、尽衆生、尽一切の縁起に生かされて、生きる。

 人間と自然、世界と大地は、闘いあうだけでなく、生かし生かされあうこともできるのだ。

 

GEIDO論の生態学的転回・展開へ

 

 生かし生かされあうのは、もちろん苺と私だけではない。例えば、発酵食品。私は、『藝術2.0』において、発酵デザイナー小倉ヒラクの『発酵文化人類学』註21から様々な啓示を受けつつ、藝術2.0の秘鑰を探索した。

 小倉は、人類学者クロード・レヴィ=ストロースの有名な二分法「冷たい社会」と「熱い社会」を発酵学的に変奏しつつ、現今の醸造家たちのクリエィティヴな挑戦を、「冷たいクリエーション」(先祖伝来の発酵文化)の「熱いクリエーション」(現代的感性とテクノロジー)による再デザイン化、あるいは「オーガニック軸」に沿って原点回帰しつつも、同時に「イノベーション軸」に未来的可能性を開花させるような、いわば「冷たく」も「熱い」逆説的なクリエーションと、捉えていた。

 さらに彼は、私が試みたインタビューの中で、「熱いクリエーション」による再デザイン化を可能にするのは、醸造家たちが蔵している「OSとしてのアート」なのではないかと示唆した。彼自身はそれ以上含意を詳らかにしなかったが、私はそれを受け、以下のように推察した。「OSとしてのアート」とは(彼の行論からいって)もちろんいわゆる欧米のArt、ましてやその日本的翻案の「アート」という言説のことではなく、それとは全く異質な何か、なのではないか。醸造家たちの発言から推すと、おそらくは彼らがバブル時代以降摂取してきた多種多様なポストモダンでデジタルな文化と、ある時点でその飽和に嫌気がさし、バックパック一つで地球のあちこちをさまよい歩き体験・狩猟採集した文化的・感性的断片との、奇妙な混成体ではなかったろうか。その混成体、その人独自の「小さな物語」を、小倉はとりあえず「OSとしてのアート」と呼んだのではないか。そして、その「OS」と言いつつも、各自の内で特異に書き換えられていく「小さな物語」が、どこぞのローカルな「冷たい」発酵文化、そして微生物たちの蠢きと出会い、その人、その地ならではの「サムシング・スペシャル」な発酵食を共に創りだしていく。その「冷たく」も「熱い」クリエーションの逆説的弁証法こそ、藝術2.0の秘鑰、少なくともその一つであると、私は確信したのだった。

 藝術家2.0たちは、こうして、めくるめく表象や記号の眩暈に満ち満ちた「浮世」に飽き、各々独自の(外的・内的な)旅に出た。やがて、運命に導かれるように、ある冷たいクリエーションに出会う。瞑想であったり、発酵であったり、あるいは工芸、茶道であったりするだろう。彼(女)たちは、修業・修行に打ち込む。先人たちが代々築き上げ磨き上げてきた「型」を倣い・習い、己れの心身に馴染ませ、沁み渡らせる。そうしてついには、その業・行の「原点」、ゼロポイントにまで赴き、その極点で、満腔を開き、大地の、生き物たちの声を聴き、対話し、環世界たちの気配・息遣いを感じとるまでに、自らを澄ましあげる。だが、彼(女)らは、ただ坐り、ただ味噌を作り、ただ木を削り、ただ茶を点てることに満足しない。彼(女)らは、そこに、意識的・無意識的に自らのこれまでの人生・旅で採集し編集し培ってきた独自の熱いクリエーションの「OS=型」、そしてそれを駆動する感性・技をも導き入れ、冷たいクリエーションの型を「破り」、「再デザイン」し、生き物たちとの対話を特異な形で豊かにし、ここにしかない環世界たちと、ここにしかいない私との一期一会によって、「サムシング・スペシャル」な坐禅、味噌、桶、茶を、共に創っていくだろう。

 『藝術2.0』において、藝術家2.0たち、「いびつなV」たち、GEIDO-KAたちは、各々招じあい、歓待しあって、「いびつな○」を形作りながら、何か神々しいもの――しかし、決して特定の「神」へと物神化されない何か――の到来を、共に待ち、祝っていた。私たちは今や、この歓待を、いびつな○を、さらに明瞭に、「人間ならざるもの」たちへと、ガイアへと開いていかなくてはならない。人間たちの「環世界」を、尽衆生、尽大地の環世界たちへと開いていかなくてはならない。GEIDOを生態学的に転回・展開していかなくてはならない。

 もちろん、歓待hostisは「両義的」だ。時には、招かれざる客――主人に病いや死をもたらすかもしれぬ客をも招じ入れてしまうかもしれぬ。微生物たちの働きは、発酵の代わりに腐敗を生み、ガイアは種々なる恵みの代わりに、激烈な台風や大地震、あるいは灼熱、パンデミックとなって、文字通り主人たちに襲いかかるかもしれぬ。

 だからいっそう、私たちは、ガイアと「戦う」だけではなく、それと共に生き、生かされる術を発明していかなくてはならない。その「術」を、私たちは改めてGEIDOと呼ぼう。「人間=歴史の終焉」以後、さらに人類が生きていくとすれば、ガイアの中で「くつろいで」生きていけるとすれば、それは「スノビスム」によってではなく、この術=GEIDOを究めることによってであろう。

 コジェーヴの中でも作動していた「人類学機械」は、おそらくガイアとの「闘争」以外の「内容」を知らなかったがゆえに、ガイアに「なること」に長けていた日本文化の“もう一つの内容”がそれとして一切感知できず、日本人たちが、「『人間的』な内容をすべて失った価値」、「すっかり形式化された価値」、すなわち「生のままのスノビスム」に基づいて生きているようにしか見えなかったのだ。

 

註1  ジョルジョ・アガンベン『開かれ――人間と動物』、岡田温司・多賀健太郎訳、平凡社ライブラリー、2011年、138頁。

註2  同書、18頁。

註3  同書、21頁。

註4  同書、26頁。

註5  同書、27頁。

註6  同書、30頁。

註7  同書、86頁。

註8  同書、90頁。

註9  同書、93-97頁。

註10 同書、114頁。

註11 同書、116頁。

註12 同書、117-121頁。

註13 同書、121-125頁。

註14 同書、110頁。

註15 同書、128-130頁。

註16 同書、132頁。

註17 同書、140-145頁。

註18 同書、151頁。

註19 同書、158-159頁。

註20 藤田一照『現代坐禅講義』、俊成出版社、2012年、12頁。

註21 小倉ヒラク『発酵文化人類学』、木楽舎、2017年。

 

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著者略歴

  1. 熊倉敬聡

    1959年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒、パリ第7大学博士課程修了(文学博士)。芸術文化観光専門職大学教授。元慶應義塾大学教授、元京都造形芸術大学教授。フランス文学 ・思想、特にステファヌ・マラルメの貨幣思想を研究後、コンテンポラリー・アートやダンスに関する研究・批評・実践等を行う。大学を地域・社会へと開く新しい学び場「三田の家」、社会変革の“道場”こと「Impact Hub Kyoto」などの 立ち上げ・運営に携わる。主な著作に『瞑想とギフトエコノミー』(サンガ)、『汎瞑想』、『美学特殊C』、『脱芸術/脱資本主義論』(以上、慶應義塾大学出版会)、『藝術2.0』(春秋社)などがある。http://ourslab.wixsite.com/ours

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