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チョンキンマンションのボスは知っている――香港のアングラ経済と日本の未来 小川さやか

昼間のビジネス、夜のビジネス

 今回は、表稼業と裏稼業がどのようにリンクしながら、香港のタンザニア人たちの社会的世界を築いているかを紹介する。

 「収監された」衣類の交易人

  マバヤ(現在43歳)は、第4回にも登場したが、私と出会った2017年1月に人生最大のピンチを迎えていた。

 彼は、タンザニア北西部のマラ州の州都ムソマ市出身である。彼の兄は、同市で革靴や靴の材料となる皮を商う店を構えており、マバヤも高校を卒業してから兄の店を手伝っていた。兄が急逝したので、大人になったマバヤが店を引き継ぐことになった。彼は、ナイロビに革靴を買いつけに行くようになり、仕入れを通じてナイロビ市の商店街に「兄の知り合いではない」友人が数多くできた。

 そのうちの一人のケニア人と意気投合し、2002年にナイロビ市において電化製品店を共同経営することになった。この時の開店資金の大部分は、マバヤが父から相続した牛を売却してこしらえたが、ワーキングパーミットの関係で店の名義は、ケニア人の友人となっていた。

 マバヤが仕入れ担当となり、アラブ首長国連邦のドバイ市へと電化製品を買付けにでかけた。彼はドバイとケニアを7年間、頻繁に往復した後、ドバイの電化製品の多くは中国や香港からの輸入品であることに気づく。それなら直接的に香港や中国に渡航したら、もっと安く買えるのではないかと考えたマバヤは、共同経営者の友人と相談して2009年に香港・中国への渡航を決意する。

 香港では、深水埗(Sham Shui Po)の電化製品街で中古家電を購入し、コンテナでケニアのモンバサ港に向けて輸出していた。ビジネスは順調であったが、しばらくして共同経営者のケニア人がマバヤの長期不在中に、ナイロビの店舗の商品と売り上げを横領していることに気づく。友人を問い詰めた結果、横領を認めたため、売り上げを折半して彼とのビジネスをやめた。

 その後にマバヤは、ナイロビ市からタンザニアの首座都市ダルエスサラーム市に引っ越し、同市で衣料品店を開く。運営資金が少なくなったので、電化製品よりも単価の安い衣料品を商うことにしたのである。ただし、香港からの衣料品の輸入は競争相手が多く、また流行を追い続けるのも難しく、結局多くの在庫を抱えることになった。

 再起を決意したマバヤは、2011年ごろから新しいビジネスチャンスを探しにタイ、インドネシア、シンガポールを放浪した。マバヤは、タイがもっとも生活環境が良かったと語る。タイ人はみな親切で、バンコクで販売されていた衣料品は、中国のものより質が良かった。マバヤは、現地の工場主にサンプルとして衣料品を持ち込み、同様のものを500枚、1000枚単位で注文したりしていた。しかし次第に東南アジア諸国にもタンザニア人交易人が数多く買いつけにやってくるようになった。

 マバヤは2016年8月にふたたび香港に渡航し、電化製品など他の商材へを扱うことでビジネスの転換を模索することとした。ところが、11月にオーバーステイで逮捕され、香港の刑務所に収監されてしまう。すでに述べたように、タンザニア人は香港に3ヶ月間ビザなしで滞在できるが、マバヤは中国にいったん出て、香港に再入国を果たすことでこの期間を延長しようと試みた。10月に広州市に出かけ、深圳経由で香港に再入境しようと試みたところ、長期滞在目的がばれて入境できなかった。何度かトライして香港に入境を果たしたものの、11月にマバヤはオーバーステイで逮捕されることとなったのだ。

 私が彼と出会った2016年1月末、彼はまさに刑務所から出てきたばかりだった。チョンキンマンションの安宿の宿泊料は彼から連絡を受けた仲間がキャンセルするまでの数日間、滞納状態となっており、彼の衣服等の荷物はその支払いを終えるまで返却してもらえないことになった。

 文字通りの無一文になったマバヤは、カラマたちに支援を求めた。カラマは彼を自分の部屋に泊め、カンパを集めて衣服などの荷物を取り戻してあげたが、当時の彼は、第4回で説明した通り、その日たまたま懐に余裕のあるタンザニア人を見つけ、昼食や夕食を奢ってもらうのを待つ生活だった。タンザニアに残してきた妻と二人の子どもの生活や店の経営などの心配をしながら、彼は一日でも早く母国へと帰りつくことを願っていた。

 2週間ほどして彼は、100香港ドルの激安ケータイを購入し、タンザニアの家族と連絡を取りながら帰国のための費用を集めはじめた。運の良いことに、帰りの航空チケットは350米ドルの変更手数料を払えば、使えることがわかった。ただマバヤが収監されていた3ヶ月の間に家族の生活も逼迫しており、彼が無事に帰国するのはそれから3ヶ月後の4月初旬になった。現在、彼は母国で、中国・香港で培った経験を生かして中国系を中心に外国人のアテンド業をしながら、香港へとふたたび舞い戻る資金を貯めている。

 さて、上述したマバヤのように彼らが香港で直面する危機のひとつは、滞在と労働をめぐる資格の問題である。「難民」としての認定も完璧ではなく、不法労働をしていることがばれると逮捕されたり、取り消されることもある。こうした不安定な在留資格を解決する方法のひとつは、現地女性との「結婚」である。

 「ペーパー・ワイフ」と「ペーパー・ハズバンド」

 カラマに限らず、香港在住のタンザニア人男性には、複数の恋人や妻がいる者が多くいる。その背景のひとつには、彼らの多くがダルエスサラーム市やザンジバル島などを出身とするイスラーム教徒であり、複数の妻を持つことが宗教的に認められていること、アフリカ諸国では一夫多妻制が文化的に広く許容されていることがある。香港の交易人やブローカーたちは前回に述べたシュワのような成功者から上記のマバヤのような困窮者まで多様ではあるが、母国の平均的な男性に比べると豊かであり、本人の希望だけでなく、社会的にも複数の女性を扶養することが期待されている――家族や親族からもう一人妻をもらうように薦められたり、女性自身が豊かな男性の第二夫人になることを希望したりするのだ。

 もうひとつの重要な背景は、上述したとおり、香港・中国のアフリカ系男性の中には、香港人や中国人女性との結婚を通じて、香港・中国の在留資格を得ることを企図している者が多いからである。現地女性と結婚すれば、香港や中国で店を開いたり、会社を興したりして、母国の友人や親戚を合法的に呼び寄せることができる。妻や妻の親族を貿易パートナーにして自身は母国で商売する選択肢もある。そうした「利益」が期待できなくても、マバヤのような事態に陥ることを心配しなくて済むし、妻に日々の生活支援をしてもらうこともできる。

 実際、彼らは、レストランやホテルで働く女性から仕入先の商店の娘まで積極的に現地女性を口説いており、香港の繁華街に毎晩のようにナンパに繰り出していく。婚姻に至るか否かは別として、ナンパの成功率もそこそこ悪くない。彼らの多くは少なくとも口説いている最中は気前がよく物腰がソフトで、多様な人生経験を生かしたウィットにあふれる会話で楽しませてくれる――彼ら自身が誇らしげに語るように身体的な魅力もあるのかもしれない。

 私が知り合った香港在住のタンザニア人にも、中国系の女性と結婚したり、子どもをもうけた者が複数いる。ただし、中国系の妻とは別に母国に正式に結婚した妻がいる者も少なからず存在する。どちらの女性にも他に妻がいることを告白し、平等に扶養している者(中国にも回族などイスラーム教徒の女性がいるので、そのような相手と結婚したり、また結婚にあたり女性がイスラーム教に改宗する場合もある)もいれば、中国系の妻には母国の妻がいることを内緒にしている者もいる。あるタンザニア人の男性は、共同経営者の香港人の妻に黙って流通会社の利益の大半を母国の家庭に送金していると語った。このような香港や中国で在留資格を得ることを目的とした便宜的な結婚相手を「ペーパー・ワイフ」「ペーパー・ハズバンド」と彼らは言う。

 カラマたちは日常的に「ペーパー・ワイフ」の話題で盛り上がり、私に「香港のアフリカ人とセックスしてはだめだよ。子どもさえできたら、こっちのものだと思っている野郎ばっかりだからな」と忠告する。私が忠告を聞き流すと、「ペーパー・ワイフには年齢も見た目も関係ないぜ」と何気に失礼な台詞をさらっと言われる。

 ただし、現地の女性たちが常にアフリカ系の男性に騙されているとは限らない。中国出身の貧しい女性が豊かなアフリカ系男性に「契約結婚」を持ちかけることもある。チョンキンマンションのいつものパキスタン料理店で雑談していると、顔なじみのアリが、仲間のオミー(仮名)の中国出身の妻をいかに嫌っているかについて話はじめた。アリたちは、彼女がオミーと結婚したのは生活(カネ)のためであり、アフリカ系の彼らを見下していると主張する。彼女は結婚してから数年経過するのに故郷の親族にオミーを紹介したことがなく、タンザニア人たちの集まりにも来たことがないそうだ。それどころかアリたちが彼女と道ですれ違った時などに英語や中国語で挨拶しても、無視されるという。二人は別居しており愛情もないそうだが、オミーは香港に滞在し続けるために離婚をしたがらず、それを知っている妻は無心の電話を頻繁にかけてくる――拒否すると「離婚だ」と脅されるらしい――。

 中国系の女性はアフリカ系に差別感情をもっていると主張する者たちは、口説くなら他のアジア系女性だと語る。香港に出稼ぎにきたインドネシア人女性と結婚しているタンザニア人も複数いる。彼女たちは主に香港の家庭で家政婦として働いたり、レストランの料理人やホテルの清掃業者として働く。例えば、以前に登場した天然石ブローカーのショマリは、インドネシア人の女性との間に子どもをもうけ、香港のインターナショナルスクールに通わせている。家庭内の言語は英語であり、妻は広東語が話せるらしいが、「浮気を恐れて教えてくれない」とぼやいていた(その後、2017年に離婚した)。タンザニア香港組合の現組合長のイッサもインドネシア人の女性と結婚し女児がいる。イッサが借りている2LDKのアパートは錦田(Kam Tin)にあり、同地で買い付ける中古車ブローカーに間借りさせたり、交易人を泊めたりしている。タンザニア料理を作ってもてなしてくれるイッサの妻は多くのタンザニア人たちから慕われているが、イッサにも母国に妻と子どもたちがいる。

 ただし以上で述べた「外国人女性」との婚姻は人生設計のひとつであるが、容易には実現しない。より身近な「便宜的」恋愛や結婚の相手としては、香港で主に売春をして稼いでいる同胞の女性たちのほうが重要だ。彼女たちは、「ペーパー・ワイフ」ではなく、「シュガー・マミー」「スポンサー」と呼ばれ、彼女たちに支援されている男性は「キベンテン」と呼ばれる。彼らの関係性を述べる前に、香港在住のタンザニア人女性が主な仕事場とする香港のナイトライフについて説明したい。

 香港のナイトライフ

 カラマたちの昼夜逆転生活は部分的には、彼らがビデオコールしたりSNSをしたりする家族や友人、多くの顧客のいるタンザニアと香港のあいだに、時差が5時間あることに起因する。香港の深夜1時から4時は、母国の人々が仕事を終えてくつろぐ夜9時から0時にあたるのだ。だが部分的には、香港のアフリカ人たちのもうひとつの仕事が、香港島の不夜城ともいえる中環(Central)や湾仔(Wanchai)の夜の街を舞台にしているからである。

 私も時々、カラマたちと一緒に中環や湾仔に出かける。香港の金融街・オフィス街でもある中環は、ビジネスマンや観光客、最先端の若者たちが楽しめる「垢抜けた」「クール」な雰囲気のクラブやバーが多いのに対して、湾仔は、フィリピン人歌手が洋楽のライブ演奏をするクラブやトップレスバーなど「何だか懐かしい」「アットホーム」な雰囲気の遊び場が多い。タンザニア人たちは、純粋に遊びに行くならば、湾仔のほうが圧倒的に好きなようだ。

 中環の駅を降りて坂道を北上すると、バーやクラブが立ち並ぶ、蘭桂坊(Lan Kwai Fong)に出る。2018年9月のある日、私はカラマに誘われて蘭桂坊に繰り出した。カラマは、馴染みのバーでいかつい体系のナイジェリア人のガードマンの男性と親しげに挨拶し、通路にはみ出した喫煙席に案内してもらう――香港では屋内での喫煙は基本的に禁止されている――。彼は着席するや否や自撮動画を撮影しはじめ、私は暇をもてあましながら、道行く人々を眺める。上機嫌で歌を歌いながら歩いていく若者の群れや、道端にしゃがみこんでビールを飲んでいる観光客たち、せかせかと歩くビジネスマンに、肩を抱いて歩く恋人たち。その合間をセクシーな装いの多様な人種・国籍の女性たちが闊歩する。警官が来ると、女性たちはさっと路地裏に引っ込んだり、誰かと待ち合わせをしているふりをする。香港には、個人の売春を取り締まる法律はなく、「141」(通称「ピンポンマンション」)などの有名な風俗もあるが、組織的な売春や客引きは禁止されている。

 路上の人間観察にも飽きた頃、カラマが「ほらあそこ、ファトゥマ(仮名)たちがハンティングの最中だ」と教えてくれる。きょろきょろとあたりを見渡す私に、カラマは「彼女たちの化粧スキルといったら、素顔をみたら裸足で逃げ出すくらいの完璧さだ」と笑いながら、彼女たちの名前を大声で呼ぶ。地下にあるクラブの入り口付近に立っていたファトゥマとシャロン(仮名)とソフィア(仮名)の3人が手を振り返してくれる。彼女たちは、クラブの入場料や酒代を自腹で払うことはせず、路上で客を待ち構える。カラマは「こっちへ来い」と手招きしたが、彼女たちはそれを無視して反対方向へと駆け出していった。

 カラマは「彼女たちはいまドルしか見えていない」とニヤニヤしながら、「ほら、狩りが始まった」と合図する。3人は、クラブから出てきた白人の中年男性に声をかけていた。だが、その男性は、離れて立っていたアフリカ系女性に「ハイ、ベイビー」と一声かけ、肩を抱き寄せて近くに止まっていたタクシーの車内に連れ込 んだ。カラマは、「あちゃー失敗した。3人もいると警戒されるんだ。狩りは一人でやらなきゃ」と訳知り顔で解説する。

 カラマと一緒に中環や湾仔に出かけると、アフリカ系女性に頻繁に声をかけられる。一度、彼に「カラマは彼女たちを買わないの?」と聞いたことがある。カラマは「あっはっはっはっ」と大きな声で笑った後に「金なんて払わなくても寄ってくるのに、わざわざ買うやつがいるか。俺が彼女たちをここに連れてきたヤクザなんだぜ」と言った。一瞬、カラマは女衒もしていたのかと驚いたが、それは勘違いだったようで、彼は単にチョンキンマンションに「売春」目的でやってきた女性たちを中環や湾仔まで道案内したり、香港での生活の相談に乗ってあげたりしているとのことだ。

 確かに彼女たちの中には、カラマを見つけると「ババ(パパ)」と呼びながら嬉しそうに駆け寄ってきて、「ちょっと聞いてよ」と身の上話や困りごとの相談をはじめる者がいる。カラマは、「この子は俺の一番のお気に入りのベイビーだ。美人だろう」と毎回ちがう女性たちを同じ表現で紹介する。相談内容は、嫌な顧客の話から彼氏や夫との関係、他の売春婦との仲違い、家族との不和、警察や入管管理局とのトラブルなどいろいろだが、「レディ・ボス」との関係について語る女性が多い。

 元々は交易人だったり交易人の恋人や妻として香港に来たりした女性などもいるが、第3回でも触れた通り、香港で売春をして富を得た女性=レディ・ボスが母国の女性にチケット代や当座の生活費、衣装代などを貸し与えて呼び寄せる「チェーン・マイグレーション」でやってきた者が多い。たいていは母国でも売春やそれに近い仕事をしており、友人女性に香港に誘われたり、突然に富裕化した知人女性を羨ましく思ったといった理由で本人が希望してやって来る。ただ「借金+α」を返済するまでの生活は大変であり、完済するまでパスポートを取り上げられるケースもある。湾仔で出会ったケニア人女性は、1万5,000米ドルを支払うまでパスポートを返してもらえないが、商売がうまくいかずレディ・ボスへの返済が滞っており、昼間にできるような副業がないかとカラマに相談していた。

 アフリカ系売春婦の主たるターゲットは、3つに大別される。最も良い客は、3つ星以上のホテルに宿泊している豊かな白人観光客や商談等で訪れた白人のビジネスマンである。彼らは豪勢に奢ってくれたり、プレゼントを買ってくれたりし、後腐れもない。話がまとまると彼らが宿泊しているホテルに同行して商売をするが、性行為を望まず、ただ一緒に朝まで飲んだり踊ったりすることを求められることもある。

 次に望ましい客は、香港支社に駐在したり、現地で会社を経営したりしている豊かな白人ビジネスマンである。妻がいたり会社の同僚の目を気にしたりする者が多いために彼らの自宅には行かず、時間制のホテルに部屋を取る。常連客になる者もいるが、特殊なプレイを要求されることもある。

 最後に、中東系などの他の外国人である。ファトゥマたちは「私たちは人種を選ばない」と語るが、白人以外の客には「さっさと行為してさっさと帰る」タイプが多く、一緒に酒を飲んだり贈り物をくれたりという客は少ないという。中国系の男性はアフリカ系を好まないようで、彼女たちも客にならないと諦めている。

 ただ、売春婦たちが最初のタイプの白人客を好む理由は、他にもある。香港に限ったことでもアフリカ系に限ったことでもないが、売春婦の中には強盗を働く者もおり、隙だらけで金を盗っても足がつきにくい観光客は良いカモだからである。詳しくは書けないが、彼女たちと遊ぶためにATMでお金を引き落とす姿や食事等の支払いの様子がいつの間にか近くで張っている仲間にスマホで撮影され、ホテルで寝ている間に恐ろしい額が引き落とされていたり、金券などの購入に使われたりしているといった事態が起きることもある。女性たちが盗んだカードの引き落としや、時計やパソコンなどの現金化には、彼女たちのパートナーである男性たちも暗躍する。

 香港の夜の街では、男性たちも多様なチャンスを狙っている。クラブやバーには、ガードマンや黒服として働く者や遊びにきた者たちのほかに、白人観光客相手に性的なサービスをしてお金を稼ぐアフリカ系男性たち、ドラッグの売買や詐欺、スリを生業にしている者たちも混じっている。彼らも昼間には、交易やブローカー業などの別の稼業がある。

 2018年3月に院生を伴って香港調査した際にも、アフリカ系の女性たちに話を聞きたいという院生の希望で、カラマとともに湾仔の繁華街に出かけた。途中のコンビニで飲み物を買っていると、チョンキンマンションでたまに見かけるタンザニア人男性たちに遭遇した。彼らに挨拶をして、近くの路上でこれからどこに行くかを相談していると、突然カラマが女性の院生を抱き寄せた。驚いて「ちょっと、私の学生に何するのよ」と文句を言うと、彼は小声で「あっちをみろ」と目配せした。彼の視線を追ったが、その時には何を指しているのかがわからなかった。

 カラマが「もう行くぞ」と歩き出したので、先ほどの不審な行動は何だったのかと尋ねると、「なんだ、見ていなかったのか」とため息をつかれた。「怖がらせてしまうから、学生には言うなよ」と釘を刺しつつ(即効でばらしたが)、先ほど挨拶した男性たちがナンパする振りをして白人女性のハンドバックから財布を抜き取っていたことを教えてくれた。カラマは、私の院生が少し離れた所に立っていたので自身の連れであることをアピールして、スリのターゲットから外そうと試みたようだ。カラマは「あいつらはショーを台無しにした(俺の連れの前で良いイメージを壊した)」と憤慨しながら、「みんながこうじゃない。ごく一部の人間が人生に焦っているだけなんだ」と念を押した。

 シュガー・マミーとキベンテン

 強盗やスリを働くかどうかは別として、売春を生業とするアフリカ系女性たちには、前回紹介したスマホ交易人のシュワに匹敵するほどの稼ぎを得ている者がいる。カラマは、「白人たちは酔っ払うと正気を失う(wamepotea akili)」と言うが、酔った勢いで1万香港ドル(約1,275米ドル)もの大金を彼女たちに渡す者も少なくないらしい。彼女たちは売春で得た稼ぎを男性ブローカーと同様に、中古車や家電製品、化粧品、アクセサリー等の輸出業や母国での事業に投資し、さらに増やしていく。

 前述したファトゥマは40代半ばの女性であり(化粧をすると30代前半にみえる)、香港での売春で稼ぎ出した利益で、母国に豪邸を3軒建て、トラック2台とバス3台を走らせ、雑貨店と家電製品店を開店させている。30代前半のシャロンも豪邸2軒を所有し、1万1,000香港ドル(約1,400米ドル)のブランド靴を履いており、まだ20代半ばのソフィアも、毎日、フェイシャル・エステに通えるほどの稼ぎを得ている。かつてレディ・ボスだった女性は現在では、タンザニア、ケニア、ウガンダの各主要都市に支店をもつ化粧品会社の社長として、母国では誰もが知っている有名人となっている。

 実のところ、香港に来た直後やビジネスに失敗して不安定な状態に置かれた男性ブローカーたちの生活を支えているのは彼女たち売春婦である。男性ブローカーたちは「彼女たちは、俺たちの数倍は稼いでいる」と語るし、香港タンザニア組合主催のパーティの大半も彼女たちによる出資で開催されている。2018年9月にカラマは、タンザニア女性が誕生日に香港湾のディナークルーズを計画していると語った。誕生日を迎える彼女自身が、一人当たりクルーズ代600香港ドル(約76米ドル)、飲食費2,000香港ドル(約255米ドル)のチケットつきの招待状を10人の男性に贈ったそうだ――希望者が多いので20人に増やす可能性もあるという。贈られた男性は全員白いスーツを着てパーティに花を添えることになっており、カラマは「俺も選ばれたぜ」と浮かれていた。

 また彼女たちは、特定のタンザニア人男性(=キベンテン)のシュガー・マミー/スポンサーとして、彼らがTRUSTをはじめとするSNSで喧伝する自撮写真で着用したブランド品を買い与えたり、ビジネスの資本を出資/補填したり、日々の生活費を支援してもいる。

 シュガー・マミーとキベンテンの関係性を描写するのは難しい。第3回に登場したレナードは、「自分の彼女が売春するのをどうしたら許せるのか、僕にはぜんぜん分からないよ。それとも彼らが彼女たちを働かせている元締めなのか」と語っていたが、彼らの関係は「女性を風俗で働かせて物理的・精神的な暴力を使ってカネを巻きあげる」タイプのヒモ男性とヒモつき女性の関係とは異なる。

 詳しくは院生の小田英里がガーナを対象にシュガー・マミーの研究をしているのでその成果を待ちたいが、彼らの関係性は、金品と性行為の交換を目的とする「援助交際transactional sex」にも、恋人や夫婦にも、ビジネスパートナーにも、さらには助けあう家族のようにもみえる、曖昧なものである。

 ファトゥマは、7歳年下のザビール(仮名)とチョンキンマンション近くにアパートを借りて「難民」として暮らしている。2人は「ご飯を食べに来い」とよく誘ってくれる。彼らのアパートを訪ねると、その日にうまく稼げなかった男性たちが食事にありつくために集まっている。

 彼女たちは名目上は「故郷の料理を懐かしむ会」としつつ、ある種の生存保障の仕組みを担っている――実際にはチャーハンや焼きそばも出てくる。マバヤもチョンキンマンションのレストランで誰にも会えなかった時には、ファトゥマたち売春婦のなかの誰かの家に駆け込んでいた。また衣服の修繕や病気の看病を頼んだり子どもを預けたりと、多くの男性たちは母親や妻のように彼女たちを頼っている。こうしたサービスに金銭が支払われることはなく、ファトゥマたちが男性の手を必要とする事態――輸出品の運搬など――に活躍するといった緩やかな互酬性で動いている。

 彼女と暮らすザビールはいつも強烈な香水の匂いを漂わせている、中性的な雰囲気の男性である。彼はダルエスサラーム市出身であり、中等教育終了後は白人観光客に性的サービス込みのガイドをする「ビーチボーイ」をしていた。当時から海外への憧れが強く、白人女性から貢いでもらった費用でドバイに渡り、数年間、電化製品等のブローカー業をした後に香港にやってきた。昼間はカラマと同じく交易人のアテンドをしたり、中古車や電化製品の輸出業をしている。ファトゥマともども裏稼業の噂は多いが、詮索しないことにしている。

 2017年2月にダルエスサラーム市のシンザ地区にある実家に訪問した際、彼の母親は、ザビールがいかに孝行息子であるかを滔々と語った。母と姉と従弟と従妹、ザビールの2人の娘が暮らす彼の実家は、同月に訪問した他の香港在住のタンザニア人たちの実家と比べてずいぶんと庶民的であったが、ザビールが贈った電化製品であふれていた。

 彼の父親は小さい頃に亡くなっており、母親によると、彼はドバイで商売をしていた頃から姉や従弟・従妹たちの学費を送金し、彼らが成長すると美容院や雑貨店の開店資金を送金し、家族の生活を一人で背負ってきた。現在は、ファトゥマとの間に生まれた子どもをイギリスの学校に入れるため、学費を稼いでいるという。母国の銀行には、帰国後に店を開く資金として5万米ドル以上の貯金がある。母親は、ザビールはお人好しで、すでに3万米ドル以上を友人たちに騙し取られており、香港で悪い人々に騙されないかをいつも心配していると語る。

 ファトゥマは時々カラマにザビールと別れたいと相談していたが、ザビールは「正式に結婚しようと思っている」と語ったり「結婚式には日本から駆けつけてくれるか」と私に尋ねたりしていた。心のうちはわからない。ただ当時の彼は「不眠」を訴えて家に引きこもっており、仕事をほとんどしていなかった。騙されてこしらえた借金はファトゥマに返済してもらった。アパートの賃貸料も同胞男性に毎日ご馳走する費用もファトゥマの稼ぎで賄われており、ザビールがファトゥマと別れるのは実質的に困難にみえた。

 シャロンにもキベンテンがいた。2016年12月、路地でカラマたちと雑談していると、突然、高級ブランドの鞄を大事そうに抱えた女性に「ねえ、リップクリームを持っていたら貸して」とスワヒリ語で声をかけられた。リップクリームを渡しながら「素敵な鞄だね」と褒めると、彼女はボーイフレンドに買ってもらったと説明した。値段を聞いて仰天し、「彼氏はお金持ちだねぇ。私はそんなに高価な物をもらったことはないわ」と感想を漏らすと、シャロンは「じゃあ、私が何か買ってあげる」とこともなげに言った。何が欲しいのかと尋ねる彼女に面食らって「高価なプレゼントはもらえない」と断ると、「じゃあ、ご飯を奢ってあげる」と言うので鶏肉料理を食べに出かけた。そこで彼女のいうボーイフレンドは白人の顧客で、「彼氏」は私が先ほどまで雑談していた天然石ブローカーのブラウン(仮名)とわかり、私は複雑な気持ちになった。

 彼女と出かける少し前、私はブラウンから交際している3人の女性の話を聞いていた。彼は、1人目をスペイン人の「スポンサー」、2人目をタンザニア人の「スポンサー」と呼び、3人目のケニアに居住する女性だけを「妻」だと語った。そして妻との間に生まれたばかりの女の子の写真を見せながら、「子どもの顔をみるとどんな困難があっても気力が沸いてくる」とはにかんだ。また別の日に彼はタンザニア人の彼女が嫉妬ぶかく、「妻に子どもが生まれてから、ますます神経質になった。ちょっと前までは子猫だったのが、いまはジャガーだ」と嘆きながら、彼女に引っかかれたという傷を見せ、「あいつとはそろそろ別れようと思う」と語った。その彼女=スポンサーこそシャロンだったのだ。

 ブラウンはもともと衣類の交易をするために中国に渡航し、資本を失った後に香港で天然石のブローカー業を始めたが、常々衣類の交易を再開したいと語る。「目を肥やすため」「研究のため」と言って頻繁にブランド品店に出かけ、「俺自身が流行の最先端にいないと顧客がつかない」と語りながら、服を新調する。だが、そ れらの高価なスニーカーや衣類は2人のスポンサーに買い与えられたものだ。

 2018年9月にシャロンからブラウンとは別れ、新しい彼氏ができたと聞いた。カラマはシャロンの新しい恋人もキベンテンと呼んだ。彼女たちは、「男たちは勝手だ。成功したら、その成功が誰のおかげかをすっかり忘れ、より良い女を手に入れようとする」という。だが、彼女たちも常に「ペーパー・ハズバンド」を含めてより良い男を探している。そして彼女たちを必要とする男はいつもいる。カラマたちは「女たちは、成功するのを待てずに良い男を取り逃がす」という。そうやって香港では、浮き沈みの激しい昼間の仕事と危うい夜の仕事がともにまわっていく。

 

 

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著者略歴

  1. 小川さやか

    1978年愛知県生まれ。専門は文化人類学、アフリカ研究。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程単位取得退学。博士(地域研究)。日本学術振興会特別研究員、国立民族学博物館研究戦略センター機関研究員、同センター助教を経て、2013年より立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。著書に、『都市を生きぬくための狡知』(サントリー学芸賞受賞)、『「その日暮らし」の人類学』がある。

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