プロローグ
子どものころ、川のそばに住んでいた。
流れの穏やかな幅30メートルほどの幅の浅い川だった。流れをふちどるように川と同じくらいの幅の川原が広がっていた。
川べりの土手の道が通学路だったから、学校帰りや、休みの日にはよく川原で遊んだ。
川にいると、たいてい遊び相手が見つかった。
日によって、それは同級生だったり、となり町の生徒だったりした。
拾った石を川に投げて水切りをすることもあれば、石をひたすら積み重ねて遊んだりもした。
ぼくは水切りが得意じゃなかった。
石が5回跳ねたとか、おれは6回跳ねたと騒ぐ友だちをよそに、かたわらで石を積んでいることが多かった。
同じくらいの大きさの平べったい石を一枚一枚、バランスを取りながら慎重に積み重ねていく。
最初の数枚のうちは、いつも容易に重ねることができた。
石を重ねるごとに、緊張がまし、時間が濃密に凝集していく。
頭の中からよけいなものが追い払われ、むずむずした感覚が首筋を上ってくる。
その感覚を味わいたくて石を重ねていたのかもしれない。
むずかしくなるのは10枚目あたりからだ。
強引になにも考えずに積み重ねていくと、突然、崩れ落ちてしまう。
その日は、13枚まで石を重ねることができた。
石と石はかろうじて微妙なバランスを保っていて、これ以上は1枚も重ねられそうになかった。
そこにさっきまで水切りをやっていたシンがやってきた。
シンは同い年くらいの目鼻立ちのはっきりした少年だった。
ときどき川原にやってきて、ひとりで水切りをしていた。
川向うのとなり町の学校へ通っているという。
シンは水切りが上手だったが、石を投げるのに飽きると、ぼくの真似をして石を積み重ねることがあった。
「すげえじゃん」シンはぼくの重ねた石の塔を見ていった。
「うん」
「まだいけるかも」
「むりだよ」
そういうぼくを尻目に、シンは足元にあった石をつまみあげた。13枚目の石よりも大きくて丸っこい。
「その石じゃ、絶対むりだよ」ぼくはいった。
シンはなにもいわずに、いまにも崩れ落ちそうな13枚の石の塔の真上に、石をつまんだ手を伸ばしてかざすと、そのまま動きをとめた。
「どうしたの」
シンは無言だった。
かすかな風が川面から流れてきた。
まさにそのとき、シンは目を開くと、その石を塔の上に置いた。
「あっ」
崩れるかに思えた瞬間、14個目の石は吸いつくように石積みの上にのって静止した。
「すごい!」
「へへ」シンが得意げに笑った。
「絶対のらないと思ったのに」
「タイミングがあるのさ」
「タイミング?」
「うん、うまくいえないんだけど、いまならのるっていうときがあるんだ。そのタイミングを逃すと、同じようにやってものらない」
「よくわからないな」
「おれも、よくわからないんだけど、水切りがそうなんだ。石がうまく跳ねないときは、しばらく待ってみる。すると、空気にすきまができるときがある」
「すきま?」
「目には見えないんだけど、空気と空気の間に、なにか透明なすきまができて、そこにすうっと道がひらくようなかんじかな」
「へえ」
「その道が消えないうちに、石を投げると、そのすきまを通ってふしぎと石が遠くまで跳ねていく。石を重ねるのにも似たところがある気がしたんだ」
「すきまができるの?」
「うん、一瞬ね」
そういうと、シンはさらにもうひとつ石を手にすると、10秒ほど待って、すっと塔の上にのせた。
石はふたたび吸いつくようにのった。
「すげえ。どうすればいいの?」
「すきまを感じるんだ」
けれども、すきまが現れるというのが、よくわからない。すきまができると、石がのるというのもわからない。
それでも、シンの真似をして、息をひそめて石をのせた。
15個の石でできた塔は一瞬にしてがらがらと崩れた。
「あちゃー」
「すぐにはむずかしいかも」
「どうすればいいの」
「うまくいえないんだけど、すきまが見えるんだ」
「見える?」
「そう。そのすきまにはまると、いろんなものがすうっとつながっていくんだ。なぜかわからないんだけど」
「ふうん」
「こんど、いっしょにやろう」シンは微笑んだ。
シンといっしょに石を積んだら〈すきま〉が見つかるのだろうか。そう思うと、少しわくわくした。川原へ行くたびに、シンの姿を探した。
しかし、その後、シンはなかなか川原に現れなかった。〈すきま〉もあいかわらず見つからなかった。
ほどなくして夏休みになった。夏休みの間も、夏休みが終わってもシンは川原に現れなかった。
夏のおわりを思わせるすずしい風が吹くある日の夕方だった。川原から帰ろうとしたとき、シンがひょっこりと後ろに立っているのに気がついた。
「あれ、いつのまにいたの?」
シンはおだやかに笑っていた。久しぶりだったけれど、「どうしてた?」などとは聞かなかった。
「あれから、すきまを見つけようとしているんだけど、うまくいかないんだ。シンが来るのを待っていたんだ」
シンはなにもいわず、困ったような顔をして笑っていた。
その姿はいまにも消え入りそうに見えた。日が暮れかけていたからかもしれない。
シンがぼくの足元の石に目をやった。
年輪のような模様のある平たい石だった。
なにげなくその石を拾って目を上げると、赤く染まった川面が間近に迫ってきて、その真ん中に光の筋がまっすぐ走っているように見えた。気がついたときには、ぼくは手にした石を川に向かって思いきり放り投げていた。
水切りをするつもりはなかったのに、石は、夕闇を映す穏やかな水面を生きもののように跳ねながら、対岸まで渡っていった。
一瞬あっけにとられたあと、自分がすごいことをしたことに気づいた。
「ウソ、マジかよ! シン、見た?」
ふりむくと、シンはいなかった。
「あれ?」
消え入りそうに見えたシンの姿はほんとうに消えてしまった。
それから数日後、となり町の友人から、シンが引っ越したらしいと聞いた。
シンのお父さんが病気で亡くなり、それからすぐにシンの一家は引っ越してしまったのだという。
「いつ、引っ越したの?」
「夏休みの間だったみたいだよ」
「えっ?」
この前、ここでシンに会ったばかりだよ、という言葉が口をついて出そうになったのをこらえた。
口にしたら、恐いことになりそうな気がした。
あれは、シンじゃなかったんだ。暗かったので、だれか散歩していた人をシンと見まちがえたんだ。そう自分にいい聞かせた。
シンは外国へ行ったらしい、ととなり町の友人がいった。
シンのお母さんは日本語がうまくしゃべれなかったから、きっとお母さんの国へ行ったんだとそいつはいった。
どこの国かはわからなかった。
シンの一家がいなくなったあと、彼らが暮らしていたアパートのベランダにカメが1匹放置されていたらしい、とあとになって聞いた。
「カメ?」
「うん、となり町の親戚がいってた」
シンが飼っていたのかもしれない。お母さんの国には連れていけず置いていかれたのだろうか。
「そのカメ、どうなったの?」
「さあ」
アパートのベランダの片隅でうずくまっているカメの姿が目に浮かんだ。
イヌやネコだったら連れて行ってもらえたかもしれない。カメは、悲しんだりしないのかな。でも、シンは悲しんだだろう、そんな気がした。
それきり、シンのことも、置き去りにされたカメのことも話題にのぼることはなくなったが、あるとき、だれかが、なにかの拍子に「シンはうそつきだったよな」といった。
「あいつ、自分は有名な血筋の出なんだっていってたことがある。小さい頃、誘拐されかけたことがあって、追手を逃れるために逃げ回っているんだって話してた。いまの両親も本当の親じゃなくて、ボディーガードなんだって」
その場にいたみなが笑った。
「じゃ、死んだお父さんていうのも、ボディーガードなんだ」
べつのだれかがバカにするような口ぶりでいった。みながまた笑った。
荒唐無稽な話だと思ったが、シンをからかうような言い草に反発したい気持ちがこみ上げてきた。
でも、なんといえばいいかわからなかった。
そういえば、シンが口にした〈すきま〉というのも、とっさに思いついたうそっぱちかもしれない、とちらっと思った。
だが、そのとき、はたと気づいた。
いや、そうではない。あれはやっぱりシンだった。
あの夕方、川原に現れたのは、たしかにシンだった。
シンは〈すきま〉を通って、あの夕方、川原にやってきた。
そして、シンが〈すきま〉のタイミングを教えてくれたからこそ、石は沈むことなく対岸まで跳ねていった。
シンはうそつきなんかじゃない。
シンはぼくとの約束を覚えてくれていた。
その約束を果たすために、あの日、川原に現れたんだ。
そう考えても、もう恐くなかった。
この世界にはきっと無数の〈すきま〉がある。ただし、その〈すきま〉が開くのはほんのわずかな時間だ。その一瞬に気づいて、すべりこめば、どこへだって行けるし、投げた石が広い川を渡ったり、ありえない高さに積み重なったりすることもある。
すごい発見をした気がしたけれど、このことは、だれにもいわなかった。秋風の吹く夕方、川原でシンに会ったことも。石が対岸まで跳ねていったことも。そして、その記憶はいつしか、からだの奥深くへと沈んでいった。