よろこびとあきらめ 1813―1824
けれど、短い春は、僕に涙しかもたらさなかった。
――Friederich Schiller, Resignation, 1786
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時代の寵児――この一八一三年についていえば、それはまさにフェルディナント・リースのためにある言葉だった。その年の春、彼は輝かしい成功の地ストックホルムを去り、北海を渡った。むろん目指すはロンドンである。彼自身が、その前年に手紙で予告したとおりに。
長年に及んだナポレオン戦争は、戦火を免れたこの大都市をも経済的に疲弊させていた。それでも、戦後の成長と繁栄の兆しは、すでに至る所に現れはじめていた。そのひとつが近代型の都市改造である。街の南北をつらぬく美しい大通り、リージェント・ストリートの造成計画は、ちょうどこの一八一三年に議会の承認がおりたばかりだった。新たな文化的団体の結成も盛んであった。フリーメーソンは、それまであった二つの分派を統合して「イングランド連合大ロッジ」を発足させた。音楽家たちは、戦争がもたらした長年の停滞を破るように「ロンドン・フィルハーモニック協会」を創設。また、サロンでは、バイロンの詩集『貴公子ハロルドの巡礼』が空前の大流行となり、大陸を放浪して詩を謳う若き詩人の姿に皆が憧れを寄せた。
これらの時流を舞台背景にして颯爽と登場するだけの器が、この瞬間のリースには備わっていた。なんといっても〝フランス軍に「少なくとも四度」襲われた男〞である! 砲撃をかいくぐって成功を手にしたピアニストというキャラクター。頭上には、スウェーデン王立音楽アカデミー会員の冠。手には、フィルハーモニック協会の重鎮ムツィオ・クレメンティに献呈するためのピアノ協奏曲第三番が、獲物のようにぶらさがっていた。
彼のロンドン来訪を誰よりも喜んだのは、ヨハン・ペーター・ザロモンであった。フィルハーモニック協会の中心人物であり、かつてハイドンをこの地に招聘したことでも知られるこの名プロデューサーは、リースと同じく、ボンの宮廷楽士一族の出身である。ウィーンではベートーヴェン、ペテルブルクではベルンハルト・ロンベルク、そしてロンドンではザロモン――失われた楽園の絆が、またしても彼のキャリアをバックアップしてくれたのだ。ザロモンのプロデュースにより、リースは、ピアニストとしてロンドンの聴衆の前にデビューを果たした。
当時のイギリスは、音楽においては後進国と見なされていたが、音楽家の経済的な成功においてはむしろ要の地であった。出版印税は大陸よりもはるかに高額で、演奏会を開けば莫大な利益が期待できた。それだけに飽き足らず、ピアノ製作業や出版業といった音楽ビジネスを自ら興し、銀行家や商人を巻き込んだマネーゲームに明け暮れる音楽家もいた。リースの天性の冒険心は、いまや演奏旅行を続けることよりも、この富と陰謀に満ちた大都市で音楽生活を送ることにときめきを感じ始めていた。傍から見ればなんとも奇妙な話であるが、戦争が終わり、ようやく安全な旅ができるようになった途端に、彼は定住生活を選んだのである。そうとなればこのタイミングで家庭を持つのも悪くない。一八一四年七月、二十九歳の彼は、十二歳下の美しいロンドン娘、ハリエット・マンジンと挙式した。
それと同時に、リースはこの街での活動基盤として、フィルハーモニック協会への就任を目論んだ。一度は投票で落選したものの、一八一五年の再投票によって、彼はザロモン、クレメンティ、ジョージ・スマートらと並ぶ、この協会の運営陣かつ常任指揮者である「ディレクター」の一員になることができた。かくして、フェルディナント・リースの楽園探しの人生は、大都市ロンドンを舞台に新たな幕を開けた。
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ところが、予想外の出来事が起きる。彼の最大の味方であるザロモンが、時同じくして落馬事故で亡くなってしまうのだ。すでに新興銀行家アブラハム・ゴルトシュミットからの強力な支援を得はじめていたリースであるが、この街の音楽業界のトップに君臨する同郷の盟友がいなくなったのは大打撃だ。協会の構成員の半数はリースと同じ外国人だが、彼らは同志というよりも商売敵である。そこでリースは妙案を思いつく。仲間は、新たに大陸から呼んでくればいいのだ。つまりは音楽家招聘事業である。
ロンドンでの音楽活動にはいくつもの利点がある。最大のメリットは、協会のオーケストラを使って、定期演奏会の枠で新作の交響曲を演奏できることだ。それだけにとどまらず、滞在期間を活用して、出版社と契約を結ぶことも、演奏会を開くことも、桁違いに裕福なパトロンをつかまえることもできる。過去にさかのぼれば、かのヘンデルもハイドンも、この街での音楽活動がきっかけで劇的な出世を遂げているではないか。多くの音楽家にとって旨味のある話に違いない。熟慮の末、彼はふたりの招聘候補者を掲げた。ひとりは気鋭のドイツ人音楽家ルイ・シュポア。そしてもうひとりは、なんと、最愛の師ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンであった。
――ありがたいことに、ふたりとも返事は快諾であった。とはいえ、外国への長期の訪問には準備期間も必要である。招聘状を出してから三年後の一八二〇年初頭、まずはシュポアが半年契約でロンドンにやってきた。同じ年の生まれであり、ベートーヴェンとも知己の関係にあり、熱心なフリーメーソン会員であった彼とリースはすぐさま打ち解けた。リース以上に場数を踏んだ演奏家であったシュポアは、この協会のオーケストラが抱えていた問題をいち早く見抜いた。彼はさっそく、自前の発明品「指揮棒」を携えてリハーサルの場に現れ、団員やディレクターたちを仰天させた。この協会では、ディレクターのうち弦楽器奏者一名が「リーダー」、ピアニスト一名が「アット・ザ・ピアノフォルテ」というポジションに付き、どちらともなく曖昧に演奏を御するという旧時代めいた悪習が根付いていたのだ。彼はピアニストを追い払い、棒を巧みに操ることによって、指揮を一点に統御させようとした。こうすることで演奏に緊張感とメリハリが出る。「幸いにも、私が指揮をする演奏会の当日、朝のリハーサルでピアノの席についていたのはリース氏だった。彼はスコアを手離すことに快く同意して、演奏から完全に手を引いてくれた」「何人かのディレクターたちは止めようとしたが……」「夕方の演奏会では、期待した以上の成果が出た」と、シュポアは自伝に誇らしげに書き残している。いわばドイツ人ふたりが企んだ革命である。
しかし、いかに演奏の質が向上しようとも、外国人に改革の手を入れられることを面白く思わないイギリス人も数多くいた。漂い始めた不穏な空気がとある騒動を誘発する。折しもシュポアの滞在中に、ドイツ人のクラーマーに対して、イギリス人のウィリアム・エアトンが侮蔑的な言葉を放つという事件が発生する。リースはこれに対して憤然と立ち上がり、エアトンに対して辞任要求を突きつけた。ところが、彼は辞任を断固として拒否。少なからぬディレクターが彼に同情を示したのか、別のドイツ人が提案した臨時会議を欠席。これを境に攻守の立場が逆転し、リースの側が辞任状を書かねばならないところまで追い詰められてしまう。最終的にはエアトンが辞任を受け容れたため、リースの首は繋がったが、この騒動によって協会内の、ひいてはロンドンの音楽業界の人間関係は、修復不可能なほどに悪化してしまった。
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もちろん、騒動に責任を感じる義務はなく、またこれによってロンドンでの音楽生活の道が断たれたというわけでもない。リースのピアノや室内楽の作品は依然として人気が高く、ピアノの指導や演奏といった仕事はいくらでもあった。ただ、一八一三年にこの街に足を踏み入れたときに湧き上がった野望と情熱は、いまややるかたない失意に変わり果ててしまった。シュポアは任期を終えて大陸に帰ってしまい、ベートーヴェンは待てど暮らせど来てくれない。聴覚を失い、甥カールの養育に悩まされ、かつ、ときのメッテルニヒ政権と敵対関係にあった巨匠を、ウィーンから遠い島国まで連れ出すのはそう簡単ではなかったのだ。それでも師がまだロンドン訪問の夢を棄てていないことは知っていたが、彼の心が折れるほうが先であった。一八二一年七月、彼は協会にあらためて辞任状を提出し、今度は正式に受理された。
こうした苦境の中で、彼の指がとある詩をなぞって動き始める。「あきらめ(Resignation)」――奇しくも「辞任(Resignation)」との掛詞のようなタイトルを持つその詩は、一七八六年に刊行されたシラーの自主雑誌『ターリア』に掲載された作品である。奇しくも同じ号に、有名な「歓喜に寄す」も並んでいる。「歓喜よ、神々の麗しき霊感よ/ 楽園(エリジウム)の娘よ」――しかし彼の心は、その光に満ちあふれた詩句よりも、美しくも陰鬱とした想念を綴った「あきらめ」の方に強く惹きつけられた。「僕もまた楽園(アルカディア)に生まれたのだ/けれど短い春は、僕に涙しかもたらさなかった」
両者の詩にはいずれも「楽園」という言葉が登場するが、その意味は異なる。「エリジウム」は死後の世界を、「アルカディア」は原初の世界を指す。だとすれば彼が、ウィーン、パリ、ロシア、北欧、そしてロンドンで探し続けてきた楽園とは、後者――父やザロモンやボンの人々が築いた往年の理想郷の似姿――に他ならない。しかし、そんなものが本当にこの世にあるのだろうか?
彼はこの詩を、単なる歌曲にとどめようとは思わなかった。胸中を打ち明けるには、もっと別の形式が必要だ。完成したのは、なんとも新奇なピアノ幻想曲であった。彼は楽譜の随所に注釈のような形で番号を添え、ページの下に対応する詩節を付した。いわばサウンドトラックのように、あるいはのちの交響詩のように、詩の情景をなぞって曲が展開されていくのである。この大作『シラーの「あきらめ」の詩による幻想曲』を、彼はゴルトシュミットの年若い息子に献呈した。
一八一七年にリースがベートーヴェンに招聘状を書いた時、彼は、差出人の住所を、自分の居住地ではなくゴルトシュミットの経営する銀行に設定していた。旧時代の王侯貴族と音楽家の関係と同様に、音楽活動の上でも経済活動の上でも運命共同体のような関係を築いていた彼らであったが、この新興銀行もまた、倒産を予期させる不穏な下り坂に向かいつつあった。この作品は、夢破れた者同士の慰めの曲でもあったのだろうか。リースは、すでにロンドンからの撤退を決断しつつあった。一八二二年末、彼は、戦友シュポアにこう書き送っている。「ドイツに戻りたくてたまらない。穏やかな気持ちでラインに帰るんだ」と。
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しかし、リースがロンドンで得たのはただ失意だけだっただろうか。『「あきらめ」の詩による幻想曲』が出版されたちょうどその年、ベートーヴェンは、『ターリア』のもうひとつの詩――「歓喜に寄す」を、新作の交響曲に入れることを決意した。実は、彼がその交響曲に着手したきっかけは、かつてリースから送られた招聘状にあったのだ。「フィルハーモニック協会のために、大きな交響曲を二曲、書いていただきたいのです」――結果として一曲になってしまったものの、そしてついにロンドン訪問は叶わなかったものの、フェルディナント・リースのロンドンでの十一年間は、シラーのふたつの詩を、ふたつの音楽作品として世に送り出したのである。
(『春秋』2018年1月号)