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フェルディナント・リース物語 かげはら史帆

マスケット銃かピアノか 1805―1813


止まれ! いま汝が歩いているのは、帝国の骸の上。
――George Gordon Byron, Childe Harold’s Pilgrimage, 1816

* * *

 いったいなぜ――一八〇五年から一八一三年までの八年弱の月日のなか、フェルディナント・リースは幾度も我が身に問うたに違いない。その間、彼は、あるときはナポレオンの砲撃から逃げ、あるときはナポレオンを先回りするような格好で北欧とロシアを大周遊し、またあるときは二度も徴兵されかかり――つまりは次から次へと命の危険に晒された。その代わりに、彼は当時のピアニストが望みうるすべてを手に入れた。喝采も、収益も、新聞に踊る自分の名も。しかし、むろん、それは結果の話だ。いったいなぜ? 一八〇五年の初冬、ウィーンの北方の枯れ野原を歩いていた彼には、ただ失意しかなかったことだろう。鞄の中には、書きかけの譜とともに、一通の令状が入っていた。

 わずか数ヶ月前には、領地に赴くリヒノフスキー侯爵にお供して、同じ道を意気揚々と旅したばかりだった。師ベートーヴェンに代わって数々の演奏をこなし、ピアニストとしての前途は明るいように思われた。ところが、情況が変わるのは一瞬である! ナポレオンのウィーン入城。そして、フランス軍からの召集令状。国民皆兵の政策が、いまやフランス占領下となってしまったラインラント出身の若者を容赦なく狙ってきたのである。ドイツ人の自分に、フランス軍の兵士になれと? すぐには釈然としない上に、コブレンツの徴兵検査場に行く旅費もない。政情のごたごたで旅券の入手さえままならず、こんな密入国まがいの徒歩旅行をせねばならなくなってしまった。――アウステルリッツの戦いの咆哮を遠雷のように聴きながら、彼は自問自答した。いったいなぜ、かくも自分は不運なのか――と。

 ともあれ、もうひとつの不運が思いがけず彼の命を守った。片目の視力が足りなかったことが幸いして(と、本人はのちに述懐している)、めでたくも徴兵が免除されることになったのである。令状は破棄され、彼は故郷に帰ることを許された。マスケット銃ではなく、四年間の師弟生活が培った自負心を抱えて。

 父のフランツ・アントンも、ベートーヴェンの親友のヴェーゲラーも、出版人のジムロックも、みな喜んで彼を出迎えた。右も左もわからぬ十六歳の少年が、いまや、二十一歳の新進ピアニストとなってウィーンから帰ってきたのである。幕切れは唐突だったにせよ、とにかくも「試練」はぶじ達成されたということだ。ボンの年長者たちは満足げにうなずき合った。彼らの意見は一致していた。そうとなれば、この青年には、相応の褒美――つまり「第二の洗礼」を施さねばならぬ、と。

 帰郷まもないある日。彼らは、若きピアニストを手招きし、ボン町内のまだ真新しい建物に誘い入れた。父の手で目隠しをさせられる前に、彼は察することができただろうか? それが、先ごろこの地に再建されたばかりのフリーメーソン・ロッジであったことを。慮る余地があっただろうか? もしここで「洗礼」を拒んだとしたら、自分の人生はいったいどこへ向かうだろう、と。

* * *

 ――その問いに対する真の答えは、彼の人生の終盤を待たねばならないだろう。確かなのは、リースが従順に入会を受け容れたということと、ジムロックの腹の中ではすでにこの若き「兄弟」を売り出す算段が整っていたということだ。ロッジの一員となった彼には、早速、儀式のための作曲仕事が課せられた。『ボンのロッジのための歌曲「フリーメーソンの祝祭」』がいち早くジムロック社で印刷されたほか、『いざ兄弟よ』、カンタータ『朝』、『聴け、兄弟よ、聴け、マイスターが与えしものを』などの作品が相次いで書かれた。そうした筆ならし、あるいは兄弟としての証文が形作られる過程で、ウィーン滞在時から書き進めていた作品一――ベートーヴェンへの献呈作である二つのピアノ・ソナタ――やいくつかの室内楽作品が、ジムロック社の出版物として陽の目を見ることになった。

 これらの初期作から窺えるのは、ジムロックには、彼の最大の欠点を矯正しようという気などまるでなかったらしいということである。「彼の曲は、ベートーヴェンに似すぎていやしないかね?」――そんな世間からの疑問の声なぞ、この出版人はおよそ意に介さなかったようだ。似ている? 当然のことだ。なにせベートーヴェンもリースもわれわれも、同じ楽園に生まれし「兄弟」なのだから。兄弟の成果を、自分たちの共有資産とみなして何が悪いというのだろう?

 その一方、ウィーンでのデビュー演奏会は、圧倒的な成功体験としてリースの心身に焼き付いていた。ピアノという楽器も、ピアノの演奏技術も、急成長の渦中にある。ベートーヴェン、あるいは他の偉大な先人の作品は、もはや、それのみでは聴衆に受けない。満足な喝采を浴びるためには、相応の改良が必要なのだ。たとえば、はっと耳を奪われるきらびやかなパッセージ。予想を裏切ってあさっての方向に舵を切る転調。そして、向こう見ずなカデンツァ。言い換えれば、ベートーヴェンのアップデート。それが実現できさえすれば、コンサートホールという戦場で闘うことができるだろう。マスケット銃ではなく、ピアノを武器にして。

* * *

 しかし、そんな戦場が一体どこにあるだろう? ナポレオン戦争のおかげで、若きもベテランも、演奏旅行は自粛ムードである。唯一、活路が残されているとすれば――ロシアだ。モスクワでは同世代のジョン・フィールドが、ペテルブルクではベートーヴェンとかつてしのぎを削ったシュタイベルトが活躍しているし、経由地のストックホルムも音楽が盛んな都市である。目指す方向としてはうってつけだ。

 もっとも、その結論に至るまでは数年の歳月が必要だった。彼が最初に夢見たのはフランスでの成功だった。兵士になる代わりに、ピアニストとして乗り込んで一花咲かせてやろうという算段である。一八〇六年、彼はボンを再び離れてパリに赴く。ところが、戦勝ムードに酔いしれるフランスでドイツ人が音楽活動をすることは予想以上に難儀であった。とても音楽では生きていけないと気落ちしていると、現地で知り合ったとある高官が、ロシアでの音楽活動を彼に勧めてくれた。なるほど、音楽の楽園はいまや北の大地にあるのか。そうとなればひとまず、コネクションを作っておくのも悪くない。一八〇八年、彼はパリに見切りをつけ、再びウィーンに向かった。師ベートーヴェンのパトロンの多くは東欧やロシアの出身である。リースは、少年時代に世話になった彼らとまた縁をつなごうと、自作曲を献呈して回り始めた。

 だが、そうこうしている矢先、一八〇九年五月の政変が彼に襲いかかる。またしても、ナポレオンだ! フランス軍が再びウィーンを包囲し――彼にとっては「三度目」の襲来である――しかも今度はオーストリア軍から徴兵された上に、抵抗する暇もなく訓練所に送り込まれてしまった。戦局が一段落ついたおかげでなんとか従軍は免れ、ボンに逃げ帰れはしたものの、万事が危機一髪である。先祖代々の宮廷楽士の職を戦争に奪われたあげく、二つの帝国の召集令状に追い回される羽目に陥るとは! 戦時下においては、若さは諸刃の剣に他ならない。しかし、これ以上、人生を振り回されてなるものか。やはり行くべき旅路は北方しかない。幸いにしてペテルブルクには、かつてボンの宮廷楽士の一員だったチェリストのベルンハルト・ロンベルクが滞在している。それに、フリーメーソンの会員とあれば、この結社が誇る世界規模のネットワークも彼を助けてくれるに違いない。ロシアに行こう。ナポレオンの刃が及ばない最後の楽園の地へ。

* * *

 その目論見は、旅の序盤においては正解であったように見えた。カッセル、ハンブルクを経て、ストックホルムで開いた演奏会は大成功であった。とりわけ同地のドイツ人やフリーメーソン会員の知己を得て、彼はこの見知らぬ異国で、国際的なピアニストとしての第一歩を踏み出すことができた。

 ところが、情況が変わるのは一瞬である! またしても、ナポレオンが彼の行く手を邪魔しにかかったのだ。フランスが発した大陸封鎖令のおかげで、いまやバルト海は、私掠船が暗躍する危険地帯と化していた。一八一一年八月。彼がストックホルムからフィンランド南西部のトゥルクに向けて乗った船が、あろうことかイギリスの私掠船に拉致されてしまい、彼を含む乗客たちは、無人島で数日を明かすことを強要された。その後なんとかペテルブルクに辿り着き、ロンベルクとぶじ再会できたものの、彼とデュオを組んでリガ、ヴィーツェプスク、キエフを巡演し、いざ最終目標のモスクワに向かおうとした矢先に、ナポレオンが冬将軍と戦いを挑みに同地に突入してきたのだ。――なんと人生で「四度目」の襲来である! 一八一二年九月。世界史に名を残す、ナポレオンのロシア遠征であった。モスクワの街が大火で焼け落ちていくさまを呆然と眺めつつ、彼らはやむなく踵を返して、ペテルブルクに退避せざるを得なくなってしまった。

 平和な音楽生活を夢見たからこそはるばる赴いたこの極北の地が、世界でもっとも危険な場所となってしまうとは。例の問いかけがこの時も頭をよぎったことだろう。いったいなぜ、かくも自分は不運なのか――と。しかし、もはや泣き寝入りしている場合ではない。気を緩めたら最後、銃に撃たれるか、銃をかつがされて死ぬのだ。九月二十三日、彼はストックホルムで親しくなったとある出版人に手紙を書く。「自分は、ストックホルムを経てロンドンへ、そしてたぶんアメリカへ行くだろう」――二十七歳のリースは、ペテルブルクの港から、はるか地球の裏側の新世界までをも仰ぎ見ようとしていた。幼少期に戦争によって失った「楽園」を、水平線の果てに探し求めるように。

 演奏旅行に明け暮れたこの数年、彼はおびただしい数の作品を書いた。それはいわば、譜の上に描き起こされた彼の巡礼絵巻である。スウェーデンとロシアのメロディを主題にした曲は十曲近くにのぼり、三つのスウェーデン伝承歌が盛り込まれた『スウェーデンの歌による変奏曲』、ロシア風のロンドが展開されるホ長調のピアノ協奏曲第二番は、旅先のひとびとをとりわけ喜ばせた。旅の相棒のロンベルクとその従兄弟のアンドレアスのためには弦楽四重奏曲(のちの作品六十八)が書かれた。しかし、彼の最大のヒット作として挙げるべきは、一八一二年に書かれたピアノ協奏曲第三番だろう。堂々たる嬰ハ短調の主題にきらびやかな技巧がまぶされたその作品は、彼がウィーンのデビュー演奏会で弾いた、師ベートーヴェンのハ短調のピアノ協奏曲のアップデート版に他ならなかった。

 演奏旅行に出る前の一八〇八年。彼は、パリで書いたピアノ・ソナタに『不運』という意味深長な副題を付けた。一八一三年。もはやその煩悶は過去のものとなっていた。出版人への手紙の言葉どおり、彼はペテルブルクを去り、ストックホルムへ再び渡った。この二度目の来訪は、演奏旅行のクライマックスと呼ぶべき大成功となった。同地の新聞は彼のピアニズムを賞賛し、王立音楽アカデミーの会員に推薦される名誉にもあずかった。同じ頃、ナポレオンはモスクワから敗走し、この英雄の世界征服の夢は徐々に潰えつつあった。ヨーロッパを、そしてひとりの若き音楽家を翻弄した、長い戦争の時代が終わろうとしていた。

 

(『春秋』2017年12月号)

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著者略歴

  1. かげはら史帆

    1982年、東京郊外生まれ。一橋大学大学院言語社会研究科修士課程修了。音楽関連企業に勤めるかたわら、音楽家に関する小説や随筆を手がける。著著『ベートーヴェン捏造 - 名プロデューサーは嘘をつく』(柏書房、2018年)

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