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フェルディナント・リース物語 かげはら史帆

楽園の揺りかご 1784―1801

 

僕もまた楽園(アルカディア)に生まれたのだ

自然も揺りかごのなかの僕に 歓喜を約束してくれた

――Friedrich Schiller, Resignation, 1786

 

* * *

 

 フランス革命の気配が忍び寄る十八世紀後半。その人物は、ボンの宮廷楽士一家の長子として生まれた。十六歳ではじめてウィーンに渡り、ピアニストとして頭角を現した彼は、やがてフリーランスの作曲家として地位を確立。革命からナポレオン戦争、そしてウィーン体制へという社会的変化の渦中に生き、交響曲、協奏曲、室内楽曲、ピアノ独奏曲、オペラ等を作曲。五十代でその生涯を閉じた。

 ――いうまでもなく、大作曲家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの略歴である。しかし、実は、この略歴にそっくりあてはまる人物がもうひとりいる 。ベートーヴェンの十四年後に生まれ、同様の人生を歩み、彼の十一年後に死んだ音楽家が。しかも彼は、ベートーヴェンの数少ない直弟子のひとりだった。

 こういってしまうと何やら、師への尊敬の念が高じ、その振る舞いをそっくり真似て生きた小人物がいたかのように聞こえるだろう。あるとき、ベートーヴェンの友人のヴァイオリニスト・シュパンツィヒはこう言った。「彼の曲は、ベートーヴェンに似すぎていやしないかね?」この手の評は、彼の二百に及ぶ作品に対して常につきまとっている。しかし、音楽はさておき、人生の方はどうだったか――というと、これが師とは全くかけ離れているのである。先に挙げた無味乾燥なプロフィールなぞ、いっそ吹き飛んでしまうくらいに。師が、耳疾の独房に幽閉され、内省的な葛藤のドラマに生きた主人公であるとするならば、この人物は、それとはおよそ正反対の、肉弾のように陸や海を飛び回る冒険譚の主人公として生きたのである。

 どうやら彼の半生は、同時代人の目から見ても痛快なものであったらしい。“フランス軍に「少なくとも四度」襲われた男”――ある新聞は、彼のことをそのように面白おかしく書き立てた。その「四度」目とは、一八一二年のロシアであった。トルストイが『戦争と平和』で、チャイコフスキーが『序曲 一八一二年』で描写した、あのナポレオンのロシア遠征のまっただ中に、彼はいたのである。いったいなぜ、一介のドイツ人音楽家が、寒風吹きすさぶ北の大地で、わざわざ戦史の目撃者にならねばならなかったのだろうか。遡って「二度」目は、一八〇五年の初冬である。残された手紙や証言から検証するに、どうやら彼は、あの「アウステルリッツの戦い」のほぼ同時期、その戦場からそう遠からぬ東欧の地を、徒歩で何百キロも旅していたのである。いったいなぜ、二十歳そこそこの駆け出しのピアニストが、そんな危険きわまりない行動に及んだのだろうか。目を惹くエピソードはこれだけではない。あるときは所属先の音楽協会に辞任状を叩きつけ、あるときは「自分はアメリカに行くだろう」と大言壮語を手紙に書き綴り、あるときはなんとバルト海で私掠船に拉致される事態にまで陥ったのである。いったいなぜ? 時代のせいか、環境のせいか、もしくは彼自身のせいか?

 師ベートーヴェンが、弟子のそうした行状をどこまで把握していたかはわからない。今日残っているのは、弟子が命からがら手に入れた財や地位や美しい妻を、ただただ無邪気に羨む手紙の数々である。しかし、いかなる物語の主人公にも煩悶はある。肉弾が負うのは名誉の傷ばかりではない。その証拠として、彼は死の前年、こんな言葉を書き残している。「もし父が僕に洗礼を施さなかったとしたら、僕はひとつの国に生きただろう」と。さて、この「洗礼」とはいったい何のことか――その謎こそが、この音楽家の人生を読み解く最初の鍵となる。

 彼の名を、フェルディナント・リースという。

 

* * *

 

 一七八四年十一月二十九日、フェルディナント・リースは、ボンの聖レミギウス教会で「洗礼」を受けた。この教会の洗礼盤に頭を浸したことは、彼が「ケルン大司教選帝侯付き宮廷楽士」の一族として生を受けたことのひとつの証である。リース家、ベートーヴェン家、ジムロック家、ザロモン家。名だたる音楽人を輩出したそれらの家は、みな数世代におよぶ宮廷楽士の家系であり、職人長屋さながらに近隣に住まい、同じ地区教会で洗礼を受けた。

 しかし、教会で洗礼を施すのは、父ではなく聖職者のはずだ。したがってリースが書き残したところの「洗礼」とは、別の何かを示した暗喩だろう。ひとつ明らかなのは、同じ楽士といえども、ベートーヴェンの父には、それを息子に施す能力がなかったということだ。ヨハン・ヴァン・ベートーヴェン――幼き楽聖を苦しめた粗暴な父として語り継がれるこの人物は、見方を変えれば、ヨーロッパに長らくはびこった世襲制の犠牲者であった。世間から尊敬を集める宮廷楽長であった彼の父。才や運を欠きながらも、その跡継ぎを目指さねばならぬ苦しみ。その重荷に耐えきれなかった彼は、アルコールに溺れ、息子ルートヴィヒに虐待まがいの過激な音楽教育を与えた。

 しかし、哀れなヨハンがそれに気づく知性を持ち合わせていなかっただけで、実は、こうした世のひずみを正そうという思潮はすでに生まれ、神聖ローマ帝国の基本指針として、このライン河畔の学芸都市にも流れ着いてきていた。それこそが啓蒙思想である。大学、市庁舎二階の集会所、マダム・コッホのレストラン――開明的なケルン大司教の施策に基づき、町のそこかしこに伝道所が生まれ、ひとびとはルソーやカントの並ぶ書棚の前で、身分にかかわらずそれらを熱く論じ合った。いわばボンは、知と音楽とリベラリズムが一体となって息づく、小さな楽園のような地だったのである。

 その豊穣な空気の中から現れた、ひとりの若きヴァイオリニスト。彼こそが、リースの父、フランツ・アントンであった。彼の幼少期もまた決して平穏なものではない。宮廷楽団の熾烈な競争から脱落し、精神を病んだ父に代わり、彼は十代半ばにして楽士として家を支えねばならなかった。しかし彼には、音楽の才と、与えられた環境を最大限に我がものとする立身の能力があった。その出世はめざましかった。彼は、コンサートマスターから音楽監督へと昇格しただけでなく、啓明会(イルミナティ)や読書協会といった思想団体の主要メンバーとしても名を連ねるに至った。

 このような人物が、長子フェルディナントに施した「洗礼」とは何か。それは、単なる歩兵のごとき一楽士にとどまらず、この楽園にふさわしい知と才と心をあわせ持つ人材として、息子を育て上げることに他ならなかった。幼い彼にチェロを教えたベルンハルト・ロンベルク。あるいは、家族ぐるみで親しく交友したジムロック家。彼をとりまく大人たちは、みな父の同志であり、聖書よりもシラーの詩を諳んじることをこよなく愛する人々であった。彼は、まるで乳を飲むような自然さで、そうした人びとの精神を吸収して育っていった。父の虐待の手から逃れて家を飛び出した先で、ようやく楽園と出会ったベートーヴェンとは、近いようでまったく異なる生い立ちであったといえるだろう。

 

* * *

 

 「私たちは互いに兄弟のように愛し合っています」――あるとき、ジムロックはこう言った。反逆とも暴力ともかけ離れた、ある種の従順さのなかに、彼ら「兄弟」のリベラリズムはあった。だからこそ、君主に仕えながら革命を支持するのは、彼らにとって決して矛盾したことではなかった。一七八九年のバスティーユ襲撃のニュースを聞いて、彼らは喜んだ。ブルボン家に対するフランスの民衆の反旗は、彼らにとって、ハプスブルク家に抱かれた自分たちの楽園を肯定するものに他ならなかったからだ。彼らは、隣国の混乱に期待をかけながら、シラーの自主雑誌『ラインのターリア』を愛読する暮らしを続けた。「歓喜に寄す」の詩が世界を満たし、ヨーロッパ全土が「君主の兄弟となる」時代がまもなくやってくる。誰もが、そう信じて疑わなかったのだ。

 しかし彼らの夢は、一七九四年に砕かれる。革命が彼らの思惑を超えて暴走を始めたのだ。フランス王と王妃の首を斬った後も、フランス軍の勢いは止まることなく、ついにこのラインラントの町にまで血の雨を降らせてきたのである。

 それこそが、リースが遭遇した「一度目のフランス軍の襲来」であった。

 

* * *

 

 楽園はあっけなく崩壊した。ボンの町も宮廷も、フランス軍の支配下に置かれ、選帝侯はラインラントを追われ、「兄弟」たちは職を失ってしまった。ベートーヴェンのピアノの師ネーフェも、チェロの名手ロンベルクも、他の地元の仲間たちも、食い扶持を求めて泣く泣くボンを去っていった。

 悲しみとあきらめの念に包まれた街のなかで、最もうまく人生の舵取りをしたのがジムロックだった。いち早くフランス側におもねり、ホルン奏者から楽譜出版業者へ転身を果たしたのである。フランツ・アントン・リースは、成功とはいえないまでも辛うじて持ちこたえた。郊外に買った農地が多少の収入源として機能したおかげで、ボンで暮らしていける目処が立ったのだ。だが、我が身よりも気がかりなのは、子どもたち――特に長子フェルディナントの将来である。いまや楽園の揺りかごは砕かれた。そうとなれば、この城壁の外で身を立てるための第二の洗礼が必要ではないか。悩み抜いた末に、フランツ・アントンの脳裏に、ある考えが閃いた。ウィーンにいるベートーヴェンのもとに息子を送り出してはどうか、と。

 すでにベートーヴェンは、フランス軍の占領直前の一七九二年にボンを脱出していた。ロンドンからの帰路にあったハイドンが、彼の才能に目を付けてウィーンに呼び寄せたのだ。翻る三色旗を馬車の窓の果てに仰ぎながら、父なるラインに別れを告げたベートーヴェンは、人生で二度目となるウィーンに足を踏み入れ、いまやこの地で第一線のピアニストとして活躍していた。父は亡くなり、ふたりの弟も兄を追ってウィーンへ居を移したため、すでにボンからベートーヴェン家は消滅していた。

 いっぽう、この物語の主人公のフェルディナント・リースは、ベートーヴェンがはじめてウィーンに旅した年齢と同じ十六歳に達していた。そして彼と同様にピアノを志す少年になっていた。だが、ベートーヴェンがボンを去った当時とは、すでに全く状況が変わってしまっていた。宮廷はなくなり、旅する若者を支援できるパトロンはもはやいなかった。

 

* * *

 

 父が息子に工面してやれた旅費は片道分に満たないものだった。金は途中のミュンヘンでほとんど尽きた。見知らぬ地で、彼は写譜の仕事をして日銭を稼ぎ、自力でウィーンまでの追加の旅費を蓄えねばならなかった。だが、この人生最初の試練の日々のなかで、少年の心にある変化が生じる。不安や心細さに取って代わる新たな精神――困難な冒険に立ち向かう昂奮が、胸の内から芽を吹きはじめたのである。手のひらに落ちてくるわずかな小銭に希望を託しながら、フェルディナント・リースの人生の物語が、船出のときを迎えようとしていた。

 

(『春秋』2017年10月号)

 

 

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著者略歴

  1. かげはら史帆

    1982年、東京郊外生まれ。一橋大学大学院言語社会研究科修士課程修了。音楽関連企業に勤めるかたわら、音楽家に関する小説や随筆を手がける。著著『ベートーヴェン捏造 - 名プロデューサーは嘘をつく』(柏書房、2018年)

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