師の使命、師弟の試練 1801―1805
この門外漢をふたりとも、試練の寺院に連れて行け。
Emanuel Schikaneder, Die Zauberflöte, 1791
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「ベートーヴェンは手紙を読むとこう言った。『いまはお父上に返信を差し上げることはできないが、どうか君から書き伝えてほしい。私の母が亡くなった時のことは決して忘れてはいない、と』」(『ベートーヴェンに関する覚書』より)
どうやら賢明なフランツ・アントン・リースは、息子にその過去を教えていなかったらしい。かつて、家庭崩壊の危機に瀕したベートーヴェン家を、彼がひそかに陰で支えていたことを。ベートーヴェン本人がその恩義を覚えていてくれたのは幸いであった。おまけに、ベートーヴェンの親友のヴェーゲラーも、すでに手紙で、フェルディナントの弟子入りの伺いを立ててくれている。祈るような思いで、十六歳の少年は、目の前の三十歳のピアニストの口がもういちど開くのを待った。この際、動機は父への義理でも構いやしない。門下に入れてもらわなければ、もう人生に後がないのだ。
しかし実は、少年が知らなかった「過去」はそれだけではなかった。懐かしい筆跡の紹介状と、目の前の少年を見比べながら、ベートーヴェンの脳裏にはもうひとつの記憶が去来していたに違いない。遡ること十一年前。彼は、リースの父やヴェーゲラーが名を連ねるボンの読書協会から、とある作品の作曲を託された。『皇帝ヨーゼフ二世の死を悼むカンタータ』――表向きは、神聖ローマ帝国皇帝への追悼曲。しかしその実態は、啓蒙思想の死を嘆く狂乱の歌。つまりはそういうことだ。彼らからの依頼は、常に思想的な動機を伴ってやってくる。作品であれ、人であれ。
リース家の息子を、弟子として受け容れること。
それはベートーヴェンにとって、「兄弟」から託された、ある種の秘教的な使命だった。
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「ベートーヴェンは最初の数日ですぐに、私が使い物になると見込んだ」(『覚書』)――リースはそう回想する。興味深いのは、その「使い物」というのが、必ずしも音楽の才能の話ではなかったという点だ。四年におよぶ師弟生活の最初の記憶は、ピアノのレッスンではなく、師の演奏会の準備にかかわる雑用であった。ベートーヴェンは、その「最初の数日」で、この少年が、明るい気質で、そこそこ機転も利き、手荒に扱っても耐えられそうな性格であることを理解した。かくして彼の腹は決まった。獅子にも喩えられた気鋭の音楽家は、いまや、小動物じみたきょろりとした眼の少年を傍らに連れて、ウィーンの町じゅうを闊歩するようになる。気晴らしの食事にも、楽想を書き留めるための散歩にも、自身の演奏会やリハーサルにも――そしてパトロンたちの邸宅にも! 少年はさぞ驚いたに違いない。故郷ではフランス軍によって破壊されてしまった富と文化が、この神聖ローマ帝国の心臓の地では、まだ生き延びており、若きアーティストたちの懐にそれなりの潤いをもたらしていたのだから。しかも師のベートーヴェンは、彼らのサロンでもっとも人気を誇る音楽家だった。
もちろん、ウィーンにあったのは旧態依然とした貴族文化ばかりではない。音楽出版業やピアノ製作業といった新時代の音楽ビジネスも、市民階級の中から続々と誕生しつつあった。ベートーヴェンは、これらの業者と手を組み、新たな収入源を開拓している真っ最中だった。裁判さえ辞さぬ手強さで出版社と交渉し、ピアノ製作者には楽器の改善点を指摘し、若い彼らは共に切磋琢磨する関係を築きつつあった。
ベートーヴェンが弟子に見せてやったのは、そうした転換期の音楽業界であった。見せるだけにとどまらず、彼は少年の腕をぐいと引っ張ると、その渦中に乱暴に放り込んだ。サロンでの小さな演奏仕事を彼に分け与え、出版譜の校正を手伝わせ、自作の編曲作業を代行させた。肝心のピアノのレッスンに関しては、あいにく相当なむらがあった。リース自身は「彼の性格とは相反して、きわめて忍耐強かった」と書いているが、実際には、偏執的に同じくだりを弾かせ続けることもあれば、おしゃべりを挟んでレッスンを脱線させることもあり、自分の仕事に気を取られてろくに聴いていないことも稀ではなかったようだ。その代わりにリースは、師の演奏や作曲の現場に、空気さながらいくらでも居座ることが許された。あるときなどは、散歩に同行した結果、「熱情ソナタ」の誕生の瞬間を目撃する幸運にも与したのである。
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戦争で息の根を止められた町からやってきた少年にとっては、ありとあらゆる出来事が、刺激と昂奮と苦闘に満ちた試練であった。しかし若者の常というべきか、彼は自分自身で思うよりも、実際にはずっと周りの年長者たちに守られていた。ベートーヴェンはいつも彼の経済状況を気にかけてくれていた。貴族の多くはリベラリストで、彼にとっては最もなじみ深いタイプの大人たちだった。現存するリースの最初期の手紙は、ボンの出版人ジムロックに宛てられている。「ベートーヴェンは僕のためにとても尽力してくれています」こんな言葉が添えられた初々しい手紙は、近況を交えながら、やがて師の作品の出版交渉へと移っていく。それはビジネスの実習であるとともに、ボンの大人たちにとっては、リース家の息子の成長報告でもあった。同門のチェルニーは、リースをベートーヴェンの親戚であると後年まで勘違いしていた。そんな誤解を抱かせるほどに、彼に対する「試練」は、手厚い保護のもとに成り立っていたのだ。
一方、年長者には年長者の思惑違いがある。若者は、そうそう望むとおりには育ってくれない。師弟生活を送るなか、ベートーヴェンとリースは、何度も諍いを起こした。激しやすいベートーヴェンにとって、弟や友人との喧嘩は日常茶飯事であったが、この師弟間に関していえば、明らかにリースの側に過失の大半があった。
あるときは、ブロウネ伯爵の演奏会で、師の曲だけでは飽き足らずに自作の行進曲を勝手に演奏して、ひと悶着を起こしてしまった。またあるときは、師の門外不出の新作をリヒノフスキー侯爵のリクエストに応じて弾いてしまい、ベートーヴェンはかなり長い間そのことを許さなかった。『覚書』にはこの手の失敗談がいくつも綴られている。若気の至りといえばそれまでの話だ。しかし、フェルディナント・リースのその後の人生あるいは作品を見渡すと、こうした数々の出来事はむしろ彼の性格の本質的な部分に端を発していたといわざるを得ない。彼は父から、あるいは郷里の人びとの精神から、温厚な人柄や愛嬌の良さ、そして与えられた環境を我がものとして受け容れる従順さを受け継いだ。しかしながら、ひとたび予想外の好機や危機――誰かにおだてられたり、逆にけなされたり、あるいは荒波やら絶壁やらといった波乱の予感が目の前に現れると、気分が浮き立つのをどうにも止められない。日頃の聞き分けの良さはどこへやら、命綱さえも捨て置いて、崖の上をまっしぐらに駆け出してしまうのである。ひとたび足を踏み外せば、谷底に転げ落ちてしまうにもかかわらず。
「どんな音楽も、本当に正しく、本当に厳しく評価しようとする者たちだけが、優れた理解者なのだ」ベートーヴェンはリースにそう訓戒する。彼はのちにチェルニーにも言った。「作曲者というものは、作品を書いた通りに演奏してほしいものだ」と。それは難聴を患い、いずれ自作のピアノ演奏もままならなくなるだろうという予感を抱いた彼にとっては痛切な悲願であり、同時に、演奏家を作曲家の意志に隷属させようとする近代的なエゴイズムのあらわれでもあった。
しかしベートーヴェンは――少なくともリースに対しては――最終的にその欲望を手離したように見える。それは、使命の終着点とは何か、という問題に、彼自身が真摯に向き合った結果でもあった。「楽園の揺りかご」から生まれた最後の赤子に、適切な試練を与え、彼らの魂を継ぐ音楽家として育て上げること。それこそが、ベートーヴェンが「兄弟」から託された使命であった。しかし何をもってその完遂と見做すかは、あくまでも彼と弟子自身が決めねばならない。その意味において、師の使命とは弟子の試練であり、また弟子の試練とは師の試練に他ならなかった。そして試練の最大の瞬間は、非常に劇的なタイミングでやってきた。一八〇四年のことである。
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ベートーヴェンは、十九歳のリースに、自身のピアノ協奏曲第三番の再演を任せた。事実上のコンサート・デビューである。この作品の第一楽章には、ピアニストに自由な独奏が託されるカデンツァがあった。彼は、弟子の書いてきたカデンツァをチェックし、おおむね満足したものの、とある演奏難度の高いきらびやかな一節については「冒険的」過ぎると見做して、本番で弾くことを禁じてしまった。
その場でこそ師に反論しなかったものの、リースは、その一節を易しくすることに内心では納得しきれないまま、演奏会の当日を迎えた。熱気に満ちた観客席。師の指揮するオーケストラが奏でる宿命的なハ短調のトゥッティ。はじめてのコンサートホールの舞台。緊張と高揚。それらが渾然一体となり、土壇場に至って彼を突き動かした。またしても彼の本性が――冒険を好む性質が目覚めてしまったのである。身を躍らせて、彼はその試練の道へと疾走した。他ならぬ師の手を振りほどいて。
「易しい方のカデンツァを選んだら負けだと思った。難しい方のカデンツァを弾き始めると、ベートーヴェンは椅子ごと激しくびくりとした。しかしそこを成功させると、ベートーヴェンは喜びいさんで叫んだ。『ブラヴォー!』」(『覚書』)
それこそが、師弟が最大の試練を乗り越えた瞬間であった。「この叫び声が全聴衆を熱狂させ、同時に自分は芸術家としての地位を得たのだ」と、リースは振り返る。『一般音楽新聞』も、彼のデビュー演奏を賞賛した。「レガートによる表情豊かな演奏ぶりと、大きな難所をたやすくこなす並外れた技能と正確さ」と。
演奏会のあと、ベートーヴェンはリースにこう言った。「しかし君は我が強いな!」と。この台詞には、当時の「ピアノ出身の音楽家」が誰しもキャリアの中途で直面した葛藤がひそんでいる。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンという音楽家が、世界各地を巡演するコンサート・ピアニストではなく、ウィーンに定住し作曲を営む音楽人生を最終的に選んだのは、単に聴覚の悪化や政情不安の問題だけが理由だっただろうか?
リースはこう言う。「彼は自作自演をとてもいやがった」「ピアノ協奏曲や他の作品の演奏は私に任せ、指揮と即興演奏だけを望んだ」と。チェルニーは言う。「ベートーヴェンの作品は受けがよくなかった」と。のちの時代にショパンは言う。「みなの息づかいに胸が苦しくなり、好奇に満ちた目に体が硬直してしまう」と。コンサートホールは戦場だ。勝たねば、いかなる喝采も名誉も得られない。そして、勝つには勝つための胆力が要る。それはベートーヴェンが人生あるいは作曲の上で必要とした「我の強さ」とはまた毛色の違う資質であった――向こう見ず、と言い換えてもよい。あたかも、地平線を埋め尽くす敵陣を見渡しながらマスケット銃を構えて立つ、たったひとりの戦士のように。
(『春秋』2017年11月号)